
【新連載】藤原雄介のちょっと寄り道①
真夜中のチンチェ
マドリード(スペイン)
1973年10月のある日、午前2時、脇腹の刺すような突然の痒みで飛び起き、ベッドサイドの明かりを点けた。右脇腹に赤い点が2つ浮いている。
ここは、マドリードの旧市街中心部のマヨール広場の裏通り。18世紀後半の建物にあるPension Murciaという安下宿だ。私の部屋は、パティオに面した6畳ほどの小部屋で、薄暗く、ギシギシと音をたてる木製の階段を上った3階にある。
私は、マドリード・コンプルテンセ大学に通う貧乏留学生。キャバレーのトランペット吹き、エレベータの修理工、ノーベル文学賞を目指している売れない詩人、警察官、右手の手首がない失業者などユニークな住人達と楽しく暮らしていた。
毎夜、安ワインで酔っ払って深い眠りに落ちるころ、ソレは音もなくやってくる。痒みを感じると電光石火、ランプを点け、シーツをはねのけ、枕を持ち上げる。何もない、何もいない。しかし、肌には、新たな2つの赤い点が。いったい、何なんだ、これは! 説明しようのない怒りがこみあげてくる。絶対に正体を突き止めてやる。そう固く誓う。
数日後、いつものように激しい痒みで飛び起き、ついに見つけた。枕の上をもそもそと移動する体長5mmほどの赤黒い虫。私の血でパンパンに膨れあがっているので動きは鈍い。捕まえて、親指と人差し指で捻りつぶす。ブチっと血が噴き出し、いやな匂いが広がる。敵の正体が分かり、やっつけることができたことで妙な高揚感に包まれた。
ベッドにもぐりこんでも目は冴えわたっている。灯りは点けたままだ。次の襲撃に備え、作戦を思い巡らせる。ベッドサイドテーブルに、マッチ、水を張ったグラス、それにローソクを立てた小皿を用意した。真夜中の戦いが始まった瞬間だった。迎撃態勢を整え、示現流の極意の如く、気配を感じたら一撃必殺の心構えで、虫の気配に全神経を集中する。
来た! シーツを蹴り上げ、枕を持ち上げる。いた、2匹! 素早く手でつまみ、グラスに放り込む。まずは、水責めの刑。十分溺れさせてから、ローソクに火を点け、奴らをピンセットでつまみ上げ、狂気の笑みを浮かべながら火炙りの刑に処する。形容しようのない厭な匂いが立ち昇る。そこで、ふと、我に返った。正気を失っている。なにやってるんだ、オレ…。
翌朝、セニョーラ(ペンションの女主人ピラルおばさん)に、セーターをまくり上げて赤い点がいくつも星座のように並ぶ脇腹や背中と虫の死骸を見せて、言った。
「ここ何日か、何かに身体中刺されて眠れなかった。夜中に捕まえたら、こんなやつ。何、これ?」
「オー、チンチェ!」
ピラルおばさんは、小さな声を上げ、あまり驚いた様子もなく、両手をワシワシと開いたり閉じたりしながら悪戯っぽい目でオレを見上げる。何だ、チンチェって? 早速、辞書を引く。chinches de cama=南京虫、トコジラミ!!!
「ジュスケ、心配ない。必ずチンチェをやっつけてあげるから!」
私の名前は、雄介。ローマ字でYusukeだが、スペイン語読みでは、ユウスケではなくジュスケになってしまう。
彼女は、シーツ、枕、ベッドマットを総て取り去って日光消毒してくれた。そしてベッドのスプリング全体に殺虫剤を噴霧した。これで、安心して眠れると思ったが、敵はしぶとかった。その夜も、激しい襲撃を受け、痒みと痛みで眠れなかった。
翌日、無言でセーターをまくり、ピラルおばさんに脇腹の新しい咬み跡を見せた。彼女は、口を大きく開けて息を呑んで言った。
「オー、神様! ジュスケ、今度は絶対にチンチェをやっつけてあげる。任せなさい!」
シーツ、枕、ベッドマットの日光消毒、ここまでは昨日と同じだ。新しい作戦は、思いがけないものだった。ピラルおばさんは、ガスバーナーを持ってきて、ベッドのスプリングを端から端までを真っ赤になるまで焼いた。更に、何か所もある漆喰壁の割れ目にも火炎放射を浴びせる。日本の家なら間違いなく火事だ。唖然と眺めていた私の頭に浮かんだのは、意外な単語だった。
「石の文化!」
スペイン文化は、Sol y sombra(光と影)の瞭然たる狭間で人間と雄牛が生死を賭けて戦う闘牛に象徴されるように、中間、中庸、曖昧を許さない側面がある。漠然と感じていた彼我の文化・感受性の違いの根源を直感的に悟ったような気がした。
その夜から、チンチェは出なくなり、安らかな夜が戻ってきた。
翌朝、正気を取り戻した私は、ベッドサイドテーブルの水責め、火炙り道具を撤去し、ベランダのプランターから切り取ったゼラニウムを1本飾った。
▲ロンドン駐在時代、40年ぶりに下宿を訪れた筆者
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、NHK俳句通信講座講師を務める夫人と白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。