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名馬生食(いけずき) 【連載】腹ふくるるわざ㊺

2023-02-07 05:30:53 | 【連載】腹ふくるるわざ

【連載】腹ふくるるわざ㊺

名馬生食(いけずき)

桑原玉樹(まちづくり家) 

 

 

 

"元祖勝ち馬"を祀る天神八幡神社

 白井市に大日(おおひ又はだいにち)神社という神社がある。名前の通り天照大神を祀っている。この神社内に境内社として天神八幡神社がある。
「源平時代の〝元祖勝ち馬〟名馬生食(いけずき)を祭る神社」というのがうたい文句だ。「天神さま」の菅原道真のほか、名馬「生食」を祀る。往時の里人が「この馬の強さは桁外れ。八幡様のお使いに違いない」と信じ、その馬を「八幡」と呼んだためらしい。
 神社の由緒書きには次のように記載されている。

〈生食を祀る八幡神社は由緒不詳で延宝5年(1677年)9月15日に七次村字八幡(現根字八幡)へ移され、菅原道真を祀る天神社と合祀されて天神八幡神社となりました。さらに大正2年(1913年)10月22日には大日神社に合祀され、現在地に移されています。〉

▲白井の天神八幡神社


名馬「生食」とは

 名馬「生食」とは何だろう? 名馬「生食」と書いたのぼり旗の字面だけ見て「馬刺し」と勘違いしそうだが、ウィキペディアにはこう書いてある(一部修正)。

〈生食(いけずき[いけづき]、異字:生唼、池月、生月、生喰)は、平安末期の日本にて軍馬として活躍した名馬の名。源頼朝に献上された名馬であるが、後に頼朝は佐々木高綱にこれを与えた。宇治川の戦いでは生食を駆る佐々木高綱が、同じく名馬の磨墨(するすみ、磨墨)を与えられた梶原景季と先陣争い(宇治川の先陣争い)を演じ、栄誉を勝ち取っている。生食は生き物をも食らうほどの猛々しさ、池月は池に映る月に由来する異字と考えられる。〉

 白井とのゆかりについては、八幡天神神社の由緒書きに、次のように記載されている。

〈生食は東葛飾郡深井村(現柏市正連寺付近)にある小袋付近で産まれたと伝えられています。出生地の深井村から房州峰岡(現鴨川市~南房総市付近)まで駆けまわり、途中七次新田字野中清水(現冨士の八幡神社付近)にも立ち寄りました。姿を見た里人は八幡様の使いと信じ、馬の名を「八幡」と呼び、八幡が水を飲んだ溜池を「八幡溜」(JRA競馬学校近く)と呼びました。〉

 南房総の峰岡には今も昔も牧場がある。しかし柏からここまでの距離は100㎞超。駆け巡ったとは信じられない。白井までなら10~15km。生食の散歩コースにしても結構な距離がある。


▲名馬「生食(いけずき)」と白井


八幡溜と野馬除土手
 
 生食は八幡溜で水を飲んだという。競馬学校の裏だ。現在も土手と堀が残り、土手と堀は野馬除土手(のまよけどて)と呼ばれている。牧の馬が逃げ出さないように築かれたものだ。17世紀から維持管理されてきたと考えられており、今は白井市指定文化財の標柱が建っている。


▲八幡溜


生食ゆかりの呼塚交差点

 生食の産地については東北から九州まで、日本の各地に伝承がある。しかし千葉県民としては柏の産駒と信じたい。柏にある「呼塚」交差点。車を運転する人ならご存じだろう。国道16号と国道6号の交差する渋滞ポイントとして有名だ。 生食はこの近くで生まれ育ったとされる。生食と仲良しの若者が野馬を「ホ~イ、ホ~イ」と呼んだ丘は「呼塚」と名付けられた。近年、16号線沿いで大型玩具店の建設工事の際に塚状の遺構2基が発見されたというが、これが「呼塚」ではないかとも言われている。


▲呼塚と呼塚交差点


小金牧
 
 生食が生まれたとされる柏はどんな土地だろう。
 小金牧についてはご存じの方も多いだろう。慶長年間(1595〜1615)に設置され、明治維新で廃止されるまで存続した。
 江戸時代後期では、高田台牧・上野牧・中野牧・下野牧・印西牧の五牧からなり、北総台地西側にあった。
 中野牧は、現在の柏市・松戸市・鎌ヶ谷市・白井市・船橋市域に及び、八代将軍徳川吉宗による鹿狩り以降、歴代将軍の鹿狩りの場となったことや、「御放馬囲い」と呼ぶ将軍家等の乗用馬の飼育施設が設けられる等、小金五牧で最も重要視されていた。
 白井市冨士周辺も中野牧に属していた。野生の馬は、年に一度の「野馬捕り」で捕らえられ、幕府に献上されたり、農耕馬用として庶民に払い下げられたりした。

 しかし生食はもっと前の時代だ。実は下総地域は古くから下総牧と呼ばれ、軍馬育成の地だった。なんと文武天皇(在位697~707年)が発した「諸国に令し牧地を定め牛馬を放ち…」とする令が、当地域での馬の飼育の始まりともいうから驚いた。
 鹿島神宮・香取神宮との歴史的地理的関係ともあわせ、起源は「蝦夷」征伐時の前線への軍馬の供給にさかのぼるらしい。生食もこのような牧で生まれ育ち、源頼朝に献上された馬だ。


▲小金牧と白井周辺の遺構


宇治川の先陣争い(元祖「勝ち馬」)


 高校時代、古文は苦手だったが平家物語は別格。「宇治川の先陣争い」のくだりなど七五調の軽やかな文章が魅力的だった。

 平家が都落ちした後、木曽義仲が京に入ったものの、田舎者で傍若無人の振る舞いばかり。これを嫌った後白河法皇は源頼朝に軍派遣を要請した。鎌倉勢(範頼、義経)と義仲軍、源氏同士の合戦となったのである。宇治川の戦いだ。
 時は寿永3(1184)年1月も下旬、宇治川の北側に陣取る義仲勢はわずか400騎、対する義経軍ははるかに多い2万5000騎。
 雪解けで増水した宇治川の水面には白波が立ち、波が逆巻き、川霧が深く立ち込める夜明けのこと、血気にはやる義経軍の勇将、梶原源太景季は「磨墨(するすみ)」に、佐々木四郎高綱は「生食」に跨り、激しく先陣を争った。2頭の馬は頼朝から賜ったいずれ劣らぬ名馬だ。

 梶原景季が先行するが、「腹帯が緩んで見えますぞ」という佐々木高綱の言葉に騙され、あわてて腹帯を締める間に、高綱はさっと宇治川の急流に馬を乗り入れた。
 景季は「たばかられたか」とすぐさまザンブと川に馬を乗り入れ「佐々木殿、不覚めさるな。川底には大網が張ってある」と功名をあげんとする高綱に注意した。
 高綱は馬の足に引っかかった大網を太刀で切りさばきながら進み、一直線に流れを渡りきって敵陣に一番乗り。「宇多天皇の九代の後胤、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱。宇治川の先陣ぞや~!」と大音声で名乗りをあげた。
 こうして生食は「元祖“勝ち馬”」となった。


▲宇治川の先陣争い


宇治橋の先陣争い(ホッケー部)

 私が学生時代にホッケーをやっていたことは先のブログでも紹介したが、毎年8月に国立大学6校の定期戦が行われている。昭和43(1968)年は宇治の京大グランドが開催地で、我がチームは宇治橋のたもとの旅館に合宿した。
 誰が言い出したか「先陣争いやろうぜ!」。受験勉強が得意だったメンバーばかりだから平家物語は知っている。「え~っ? 川を泳ぐつもりか?」。「橋を走ろうぜ!」。私は前日まで公務員試験。橋の構造計算は何とかできるようになったが、体力はガタ落ち。順位は覚えていない。

 

 

【桑原玉樹(くわはら たまき)さんのプロフィール】

昭和21(1946)年、熊本県生まれ。父親の転勤に伴って小学校7校、中学校3校を転々。東京大学工学部都市工学科卒業。日本住宅公団(現(独)UR都市機構)入社、都市開発やニュータウン開発に携わり、途中2年間JICA専門家としてマレーシアのクランバレー計画事務局に派遣される。関西学研都市事業本部長を最後に公団を退職後、㈱千葉ニュータウンセンターに。常務取締役・専務取締役・熱事業本部長などを歴任し、平成24(2012)年に退職。現在、印西市まちづくりファンド運営委員、社会福祉法人皐仁会評議員。


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