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赤い液体の後に硬い水牛の肉 【連載】呑んで喰って、また呑んで㊸

2020-04-29 10:02:29 | 【連載】呑んで喰って、また呑んで

【連載】呑んで喰って、また呑んで㊸

赤い液体の後に硬い水牛の肉

●タイ・カンボジア国境

山本徳造 (本ブログ編集人)  

 

  これは石か!?  それが噛んだ瞬間の感想だった。苦痛の表情を浮かべる私とは対照的に、大きなテントで夕食の食卓を囲むカンボジア人たちは、せっせとその肉辺を口に運ぶ。食卓の上でロウソクの炎がゆらゆらと揺れている。
 この恐ろしく硬い肉を決死の覚悟で呑み込もうか、それとも吐き出そうか。私の心も、ゆらゆらと揺れていた。ええい! 吞み込んじゃえ!!! 肉片が窮屈そうに喉を通過する。うーっ、痛い。喉が潰れるのではないか。それどころか、死をも覚悟したくらいだ。
「セ・ボン!」
 フランス語はほとんどできないので、私の知っている単語を適当に並べて、隣に座るマダムにその料理を称賛した。もちろんお世辞、いや真っ赤なウソである。マダムは優雅に微笑んだ。
 タイ・カンボジア国境の難民キャンプだった。と言っても、UNHCR(国連高等難民弁務官事務所)が運営するキャンプではない。難民のグループが勝手に住みついた難民村である。私が訪れたのは、その中でもっとも大きな難民村だった。
 その日の朝、私は国境の街、アランヤプラテートの宿からタクシーでカンボジア国境まで向かう。着いたとき、私はタクシーの運転手に、
「2時間経ったら迎えに来てよ。それ以上経って戻って来なかったら、帰っていいよ」
 と言い残し、タクシー代を手渡した。
 こうして私はカンボジア領に足を踏み入れたのである。
 何時間かかるか分からないが、行くだけ行ってってみよう。噂に聞く難民村を取材するためである。往く手はジャングルではなく、ところどころに草が生える荒野だった。1時間も歩くと、全身が汗びっしょり。地雷原があると忠告されていたが、不思議と恐怖は感じない。

 そのとき、約50メートル前方に大きな荷物を背負って歩く集団が見えた。その数、20人ばかり。多分、スマグラー(密輸品の運び屋)だろう。この連中についていけば、間違いなく難民村にたどり着ける。そう思った私は小走りで連中に追いついた。ボスらしき男に尋ねた。
「クメール(カンボジア)人の村に行くのか?」
「ああ、そうだ」
「一緒に行ってもいいか?」
「ああ、いいよ」
 そんなわけで、彼らと行動を共にすることに。安全な道を知っているので、「地雷を踏んでサヨウナラ」にはならないだろう。
 難民村にたどり着いたのは、それから約1時間後のことだった。粗末なテントや竹で作ったバラックやらがひしめいている。やっと来れたという安堵からか、喉がカラカラであることに気づく。
 ちょうど難民村の入口付近で大きなバケツから何かをアルミのひしゃくで汲み、みんなに配っている男がいた。私にも手招きして「吞め」と言う。よく見ると、赤い液体である。

 普段なら気持ち悪いと思うだろうが、脱水症状の限界に来ていたのだろう、そのときは液体なら何でもよかった。ひしゃくから一気に呑み干す。砂糖水を赤く染めたのだろう。五臓六腑(いやあ、古い表現だなあ)に瞬く間に染み渡った。もう一杯飲む。そして、またもう一杯。ようやく落ち着いた。
 しばらくして、いかにも教養がありそうな中年男性がフランス語で話しかけてきた。フランス語が分からないと言うと、男は片言の英語に切り替える。なんでもこの難民村の責任者らしい。責任者と言っても、名目だけだろう。実際は、ポル・ポト派と闘っていたクメール・セレイ(自由クメール)が中心の武装集団が難民村を仕切っているのだ。すぐに取材にかかりたいが、疲れていた。疲れた取材は明日にしよう。
「私たちのテントで夕食をぜひ」
 もう夕暮れ時だった。腹も減った。面白い話が聞けるだろう。断ることもない。
 こうして冒頭の夕食会が始まったのである。出席者は難民村の責任者とその夫人、そして側近たちが2、3人いただろうか。40代前半と思われるマダムは上品そのもの。残念なことに、フランス語ばかりで、英語は片言もできない。このときばかりは、フランス語をもっと勉強しておくべきだったと後悔することしきり。
 石のように硬い肉は、畑仕事用の水牛だった。どおりで硬いはずだ。後は訳の分からない雑草のような野菜が。ご飯も少々。もちろん、ワインもビールもない。下水の臭いがする水だけだ。

 夕食会が終わった後、。夕食に側近が私を寝床へ案内した。なんとジャングルの木と木の間に吊ったビニール製のハンモックがその夜の寝床である。ハンモックに仰向けになると、夜空におびただしい数の星が。幻想的な光景に身震いする。
 翌日、一通り取材を終え、いざ帰ろうとしたのだが、交通手段がないことに気づいた。はて、どうしようか。そう思い悩んでいたところに、黒塗りの乗用車が通りかかった。私が車のドアをノックすると、サングラスの男が窓から首を出した。タイ人だったので、アランヤプラテートまで乗せてくれないかと頼むと、快く承諾してくれた。

  車中で話を聞くと、彼はタイ陸軍の情報将校で、難民村でポル・ポト派の情報を収集しに来たのだという。彼のお陰で、無事にホテルに戻って来られた。問題はその後である。
 夕食を終え、ホテルのベッドで横になっていると、吐き気がしてきた。同時に下腹に激痛が。ベットの上でのたうち回った。意識も朦朧とする。これは夢かうつつか。

 結局、私はホテルの自室で2日間も死線をさまようことに。地獄のような日々だった。ビールを呑む気なんか、とてもとても。はて、食中毒の原因は何だったのか。赤い液体なのか、それとも石のような水牛の肉だったのか。今もって不明のままである。


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