【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」⑲
私の住んでいるマンションのコミュニティ棟で「作品展」があった。住民が日頃楽しんでいる趣味のもの、絵画、書、写真、手芸品などを持ち寄って展示されるのだ。私も布遊びのような作品を数点出した。針を持つようになったのは、いつからだったのか。紆余曲折を経て来たことを思い出してみる。
私は中学生時代の家庭科の時間が嫌いであった。男子は工作系のものを作っていたようだが、女子には調理の他に裁縫があった。手縫いの基本の「運針」では、針の持ち方・運び方、縫い方から始まる。指ぬきを、右手中指の第一関節と第二関節の間にはめる。次いで右手の親指と人差し指で糸を通した針を持ち、針の頭をこの指ぬきに当て、指を上下に動かしながら縫い進む。布は左手で上下に動かしていく。
まぁ、この一連の動作の難しいこと! 針目は大きかったり、小さかったり、縫い終わりをみると蛇行していて、目も当てられない。自分の不器用さを嫌というほど思い知らされる。授業の制作課題としてエプロンや浴衣があったが、宿題として持ち帰るので、もっぱら義姉に手伝ってもらっていた。
こうした背景があるので、娘時代にはほとんどの人がする「花嫁修業」と言っていたが、洋裁・和裁の習い事などには手を出さなかった。お茶やお花の稽古事にも、もちろん通おうとも思っていなかった。兄に世話になっている自分は、「一刻も早く家から出なければ」という思いだけで会社の寮生活を送っていた。
寮には男子も女子もいたが、当番制で女子が炊事係の手伝いをし、日曜日には必ずカレーを作った。寮に隣接したところに社長の家があり、洗濯や掃除を、仕事に入る前にする。当時は、結婚前に礼儀作法や家事見習いをすることを「行儀見習い」と言っていたが、特に不満に思うこともなく、たんたんと寮母さんには注意を受けながら行ってきた。
何となく年齢順になって結婚をしたが、普通の家事仕事には困ることもなかった。しかし子供が少し大きくなってくると、子供服が気になってくる。婦人雑誌の子供服の作り方が載っているのを見ると、俄然作りたくなった。
まず挑戦したのは私のフェルト化したセーターを、付録の型紙に合わせてじょきじょきと切り、長男のロンパース(上着とズボンが一緒になった小児服)を作ったことだ。大胆なことが出来たのは洋裁を知らないからこその行動である。
夫のワイシャツからは夏用のものも作ったり、スモックを作ったり。長女が生まれると本を参考にしての子供服作りはより楽しさが増して、端切れでワンピースや、ジャンパースカートを作った。ポケットに刺繍をするなど、自分なりのオリジナルも入れては悦に入ってもいた。子供用のセーターやコートを毛糸で編むこともした。既成のものを買う余裕がなかったのが第一理由だったが、子供が小さいうちは、手作りで充分可愛いと思っていたし、子供から不満を言われることもなかった。
我が家の生活環境も、子供の成長や夫の転勤に伴って、大きく変わっていった。平成3年(1991)4月、今の住まいに引っ越してきた。夫は都心に開通したばかりの北総線を利用して通勤。息子は社会人となっていて、電車が嫌いで成田まで車で通勤。娘は留学からそのまま、アメリカで会社勤めに。
私は引っ越し荷物が収まると、何かしらの習い事がしたくなった。最初は、ガス会社が開いていた料理教室へ行った。次いで、駅前センターで募集していたパッチワークの講座に興味が沸いた。「パッチワーク」とは、小布を寄せ集め、はぎ合わせること。そのはぎ合わせたものを表地として、キルト芯(薄い綿)と、裏地の三枚を重ねて、細かく丁寧に刺縫い(キルティング)する。こうしたものでバッグやクッションやベッドカバーを作る。
ヨーロッパでは、絹や艶のある木綿でベッドカバーなどを作ったりした。日本ではアメリカン・パッチワークが主流で、アメリカ新大陸に移住した人達が、衣服が傷んだときに端切れや使い古しの布の再生法として応用されていた、その流れのようである。講座では、三角や四角の小布をつなぎ合わせて作るパターンから教わる。まず初歩的なものからで、四角の布だけで作るナインブロックというパターンから挑戦。キルティングの針目を揃えるのに苦労するが、色合わせによって個性が出て面白い。
私はミシンを使って子供の服を作ることはあったが、カリキュラムに沿って小物を作っていくことが、どんどん楽しくなっていった。パターンも驚くほど数があり、この道の奥の深さを感じると講座だけでは物足りなくなった。先生は松戸で教室を開いていることを知り、そちらに通うようになった。
教材に使う布・USAコットンが沢山あって売られている。今までの講座で作る物の布は、先生がセットしたものを使用していたが、ここでは色合わせなどは自分で考えることになった。先に作った布が余っているので、それに色合わせをして考えても、決してOKが出ない。先生からの色よい返事をもらうためには、毎回新しく布を買い求めねばならなかった。
無駄な布がどんどん増えていく。それでも教室の先輩たちの作品を見ると、追いつきたいとの思いで頑張っていた。数あるパターンのサンプル作り、小物敷、大小のタペストリーの数々、一番大きな作品は何といってもベッドカバーを作ったことだ。
制作に夢中になると、買い物も知り合いと立ち話になるのを避け、そそくさと済ませる。家での主な制作作業は家事・雑用が終わった夜の9時頃から、「さぁ私の自由時間!」となり、2時、3時までになることもざらであった。教室でのある日のおしゃべりで、私がゴルフも麻雀も経験者だと知ると、先生は遊び仲間を探していたらしく、早速にお誘いがかかった。
あと2人は銀行員の奥さんたちで、教室の生徒ではない。南米に赴任していたとのことで、現地ではお手伝いさんに、家事も子育ても手伝ってもらっていた、という優雅な人たちだ。どうやら私以外は、娘時代の過ごし方も、夫がエリート街道をまっしぐらに進んで来たことも、共通していた。
遊びは楽しいけれど、やはり問題が起きてくる。ゴルフの腕前は4人とも似たり寄ったりだ。いいショットが出れば単純な私はつい、大声ではないが、声を出して喜ぶ。それに対して先生から「うるさい!」と睨まれてしまう。麻雀も然りで、負けると途端に機嫌が悪くなる。上手な人たちならともかく、私たちのレベルでは配牌が良ければ、大抵はそれで勝負がついてしまう。ゴルフや麻雀をすればすぐに人柄が分かるというが……。
びっくりする事態が起きた。それはこの教室で、初級・中級・上級と階級を作って免状取得制度が作られ、昇級ごとの費用も提示されたことだ。お茶やお花では、そんな制度があるようだが、手芸の世界では聞いたことがなかった。私は趣味で楽しみたいのであって、いまさら初級に戻って順番に階級を上げて行こうとは思えなくなった。これが最初のパッチワーク・キルトからの挫折体験である。
しばらくすると、ニュータウンの自宅で、リバティの生地を使ってパッチワークを教えている人がいることを知った。「リバティ」とは、ロンドン・リバティ百貨店の生地で、タナローン(上質な綿の生地)を使っている。薄くて肌触りも良く、愛らしく優美な花柄が特徴でもある。教えている人は、都内にある教室で習ってきたことを、そのまま私たちに伝授してくれる、という方法であった。
出来上がる作品も、今までとは打って変わった風情のものになる。そこへは友人と一緒に通い始め、このリバティの生地にすっかり魅了されてしまった。新柄が出たとか売り出しの広告を見ると、これを扱っている浅草橋のお店に、足しげく通ったものだ。まさに麻薬に取りつかれたような、とでも言おうか。
しかし、先生をしてくれていた人は、近くに出来た企業でパート働きを始めたとのこと。寝耳に水のことであった。ショックではあったが、この生地を使った作品の本も出ていることで、二回目の挫折感はそれほどではなかった。
娘のところにはタペストリーを、自分用にはスカートや、ひざ掛けを作った。バザーに出した小型のポーチは、思いがけず評判が良くて買ってくださる方が続出。自分の作品が売れたことに驚きと喜びを始めて味わった。ポーチを幾つも作って、お世話になった人や友達に差し上げることも嬉しかった。
次いで私が興味を持ち始めたのは、市の広報で知った和服からのリメーク教室であった。船橋カントリーに行く手前にある薬王寺の奥さんが先生で、福祉センターに教室があるが、不便な所なので車使用は不可欠となる。義姉から着なくなったからと、着物を譲り受けている。なで肩の私は着物を着るのが好きであったが、近頃では着て出かけるところも無くなってしまい、持て余している。
着物をほどき、洗って、アイロンをかけて、と、手間がかかる。洋裁の基礎がないので苦労するが、ベストやブラウス、ジャンバースカートと、愛着のあった着物から、気軽に着られるものが出来るのは嬉しいことだ。
この先生は、洋裁、編み物、吊るし飾り、ブローチやストラップの小物、パッチワーク、ビーズ細工、染め物、何でも出来て、特にカリキュラムを作らず、何でも教えを請えば、受け答えのできる頼もしい人だ。私より5歳ほど若く、お人柄は極めて優しいのも魅力である。私が通うようになって、もう12年以上になるが、生徒はすっかり入れ替わり、いつの間にか一番の高齢者になってしまった。
今では夜なべも全く出来なくなり、作品の仕上げは滞りがちとなっている。パッチワークに取りつかれた頃のような、あの馬力はすっかりなくなったが、手元に残る作品に愛着と懐かしさを思い出す。運針で習った針の進め方は今も出来ないが、それでも我流のやり方で針を持ち、様々な布に囲まれて自由に遊んでいる。