風格があって落ち着いた佇まい
成巽閣(せいそんかく)は、金沢の兼六園の南端にある清楚な屋敷である。100万石大名・前田家が残した唯一の御殿で、かつてあった壮麗ながらも謎多き竹沢御殿の面影を今に伝える一画でもある。
前田家12代・斉広(なりなが)は、今の兼六園の7割の敷地を占め、建坪4,000坪の壮大な「竹沢御殿」を1822(文政5)年に完成させた。「兼六園」の名はこの時、その壮大さに因んで、寛政の改革で知られる元老中・松平定信によって名付けられたものだ。
斉広はしかし、御殿完成直後の1824(文政7)年にこの世を去っている。斉広は様々な藩政改革を試みたものの挫折し、次第に能にふけるようになったという。竹沢御殿は能を楽しむために日本トップクラスの金沢の工芸技術の粋を集めた意匠が施されており、もし現存していれば幕末に再建された京都御所・紫宸殿に匹敵するような美の殿堂であったことは想像に難くない。
斉広を継いだのは嫡男の斉泰(なりやす)で、幕末の動乱と正面から向き合った(実質的に)最後の藩主だ。加賀藩は最大の大名ではあったが、討幕と明治維新には影が薄い。斉泰も藩政の近代化に取り組んだが、結果として薩長土肥ほどに明治新政府内で発言力を持つことはできなかった。
斉泰は竹沢御殿の取り壊しを命じる。完成後十数年しかたっていない壮麗な御殿を取り壊した理由は定かではない。あたかも豊臣秀吉が聚楽第を取り壊したように、知られざる悲劇があったように思えてならない。政権にとってのマイナスイメージの象徴として払拭したかったのだろうか、壮麗であったがゆえに謎を秘めた御殿である。
成巽閣は、1863(文久3)年に斉泰が嫡母・眞龍院(斉広の正室)の隠居所として、残されていた竹沢御殿の遺構を移築して建てたものだ。その設えは、最新の西洋文化を和の空間に上手に取り入れており、明治期の和風建築の先駆けのような趣がある。江戸時代の建築としては実にデザインが斬新に見える。
1階の「松の間」は、隣接する「謁見の間」で来客と合う際の主人の休息の間として使われていた。主人・眞龍院は公家の鷹司家の出身であり、気品と落ち着きを同時に感じさせる空間に設えられている。障子には、当時は超高級品だったオランダのガラス細工「ギヤマン」が、王朝文化を感じさせるデザインでさりげなくはめ込まれており、実に優美だ
2階の「書見の間(群青の間)」は、天井の群青と壁の紫が観る者に強い印象を残す。色のインパクトが絶妙な緊張感を醸し出している。“書を見る間”というネーミングはとても奥が深い。
東京大学の著名な赤門は、斉泰が11代将軍徳川家斉の娘・溶姫を正室に迎えるために造られた「御守殿門」である。将軍家から正室を迎えるのは、大名家のブランドとしては栄誉の極みではある。しかし現実には、輿入れのためにわざわざ門を造るほど“結納費”は巨額であり、有力大名家は必ずしも将軍家からの輿入れを歓迎していなかったようだ。
とはいえ、加賀百万石にはそれを実現できる財力があった。だからこそ竹沢御殿や成巽閣を創れたのだ。その結果、かけがえのない文化が金沢に今も伝えられている。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさんある。ぜひ会いに行こう。
街の中心であり続けた城の歴史をたどる決定版
成巽閣
原則休館日:水曜日