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日本史の勉強している

中国や韓国との歴史認識の相違が問題になっているので、「正しい歴史」を勉強しようと思った。

新古今和歌集

2012-11-13 14:33:28 | Weblog
 1.名 義
 古今集の正統を継承し、かつ和歌の新時代を創造する意をこめている。
 
 2.選 者
 後鳥羽院親裁のもとに源道具・藤原有家・定家・家隆・雅経が選ぶ。寂蓮は途中没したため選者に数えない。
 
 3.成 立
 建仁元年(1201)11月3日宣下。元久二年(1205)3月26日竟宴(終功の宴)、一まず成立。更に切継(歌の削除、補入)が続き、承元四年(1210)9月ごろ完了。後鳥羽院は隠岐遷幸後、約四百首を除いて精選し隠岐本を作る。
 
 4.歌数・歌体
 本により異なる。流布本で1981首。切出し(削除)歌を含まぬ本では1978首。すべて短歌。

 5.組 織
 20巻。春(上下)・夏・秋(上下)・冬・賀・哀傷・離別・羇旅・恋(1~5)・雑(上中下)・神祗・釈教の部を立てる。配列には、四季の推移、歌題、歌風の変遷を微妙にからみあわせ、物語の進行、絵巻の展開を思わせる。首尾に藤原良経の仮名序、藤原親経の真名序を付けている。
 
 6.時代・歌人
 「万葉集に入れる歌はこれを除かず、古今よりこの方七代の集に入れる歌をばこれを載することなし」と序に言っている。記名作者396人。

 7.万葉歌人の歌
 約60首。人麻呂23首、家持11首、赤人7首。ただし万葉集にみえる歌は真作かどうか不明。真作にしても「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」のように、当世好みの形で採られている。
 
 8.七代集歌人の歌
 約1080首。時代が下るに従い歌人の数が多くなる。貫之32首、和泉式部25首、西行94首で集中最多、式子内親王49首。菅原道真の歌12首を入集しているのが特異。
 
 9・当代歌人の歌
 宣下当時生存者の歌約740首。慈円92首、良経79首と九条家歌人が上位を占め、俊成72首、以下定家・家隆・寂蓮・後鳥羽院と続く。
 
 10.史的意義
 源平争乱、武家政権樹立、混迷の世に、俊成門下の俊才たちは現実を拒否し、ひたすら超現実の美を追求する。その人々が、延喜天満の治を慕い、王政復古を志す後鳥羽院の歌壇に結集し、余情妖艶の美を実現する。言語の表現機能を超越した彼らの象徴的手法は歌道の異端である。異端なればこそ万葉、古今に比肩する高峰たりえたとも言えよう。新古今風は主流たる二条派でなく、京極、冷泉派に受け継がれ、有心連歌、能楽など中世文化に広い影響力をもち、近代の浪漫主義、象徴主義にまで及んでいる。     おわり


 

古今和歌集

2012-10-30 13:52:08 | Weblog
 1.名 義
 古い歌と今の世の歌を集めるの意味。
 
 2.選 者
  紀友則(完成を待たず没)・紀貫之・大河内躬恒・壬生忠岑。
 
 3.成 立
 醍醐天皇の勅により続万葉集と称す未組織の本ができ、再度の勅に拠り二○巻に編成して改称。仮名序にいう延喜五年(905)四月十八日(真名序には十五日)が奉勅の日か奉覧の日か説が分かれる。日本紀略には十五日に「撰進」したとある。その後も、補足修訂されて延喜一三、四年(912・4)ごろに最終的な完成を見た、と言われる。
 
 4.歌数・歌体
 歌数は本により異なる。定家本で1100首。長歌5首、旋頭歌4首、その他はすべて短歌。
 
 5.組 織
 二○巻。春(上下)・夏・秋(上下)・冬・賀・離別・羇旅・物名・恋(1~5)・哀傷・雑(上下)・雑体・大歌所御歌に分類する。この部立は後の撰集の範となる。歌の排列には季節の推移や類題を勘案する。巻頭に仮名序(紀貫之)、巻尾に真名序(紀淑望)を付する。
 
 6.時代・歌人
 「万葉集にいらぬ古き歌」(序)から当世まで、記名作者127人。
 (1)[第一期:読人しらず時代] 中心は平城朝から仁明朝(802~50)。漢詩文全盛の時期で、小野篁・藤原関雄ら少数を除いて作者不明。読人しらず約450首の大部分はこの期のもの。万葉集に接続する古風を伝えるが、用語は新しい。
 (2)[第二期:六歌仙時代] 文徳朝から光孝朝(850-87)。摂関政治の初期にあたり、後宮を中心に和歌が復興し、平仮名の発達がこれを助ける。六歌仙のほかに在原行平・藤原敏行らが活躍。優美な素材を技巧的に歌うが、感情の表出はなお率直である。
 (3)[第三期:選者時代] 宇多・醍醐朝。唐文化の模倣を脱し、歌合が盛んに催される。選者をはじめ伊勢・素性・藤原興風・坂上是則・清原深養父ら名士が輩出される。生の表現を避け、趣向を凝らし技巧を駆使して優雅艶麗の世界を観念的に創出し、古今風を完成する。

 7.史的意義
 「古今」と称しながら、和歌を本格的な文芸として完成させた「今」に重点をおき、美の典型を示した集。漢詩文と和歌とが交替したと単純に考えるべきでなく、漢詩全盛を通過し、それを摂取して和歌が完成したのである。勅撰和歌集の第一として尊敬され、長く詠歌の規範であり指標であった。子規以来軽視されがちなのは、上代偏重の国学や外来の写実主義の影響によるものである。         おわり

今昔物語集

2012-10-17 14:49:06 | Weblog
 1.編 者
 散逸した『宇治大納言物語』の編者である源隆国説はほぼ否定され、京都あるいは奈良周辺の大寺の僧とする説などもあるが、未詳。
 2.成 立
 未詳。出典の一つとされる『弘讃法華伝』の日本伝来の年代や所収説話の内容から、保安元年(1120)以後、保元の乱(1156)以前と推定される。

 3.内容・構成
 三一巻(巻八・一八・二一は欠巻)。『三宝感応要略録』『孝子伝』『弘賛法華伝』や『日本霊異記』『法華験記』『三宝絵』『俊頼髄脳』『注好選』等、中国・日本の仏教書・説話集などに依拠し、一千有余の説話を収録。
 構成は、天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)の三部に分けて、それぞれに仏教説話と世俗説話が整然と分類配置され、更に内容的に強い結びつきを持った説話が二話ずつ連続するといういわゆる(二話一類様式)によって配列されている。また、当時の日本人にとってのほぼ全世界である天竺・震旦・本朝の各部において、仏教説話を先に、世俗説話を後に配置したこと、仏教説話が全体の六割以上を占めていることなどから、編者は仏教に比重を置きつつも仏法と王法とが補完し合う世界全体を描こうとしたと言えるであろう、と思う。
 仏教説話では、仏教の伝播と三宝(仏・法・僧)の霊験などが具体的に記されている。世俗説話は、特に巻二二~三一の本朝世俗部において、王朝貴族文学には全く見られなかったような武士説話(巻二五)・霊鬼説話(巻二七)・滑稽話(巻二八)・悪行説話(巻二九)などが、芥川龍之助の言う「美しい生々しさ」を持った生き生きとした表現力によって描写され、話材は時間的にも空間的にも注目すべき広がりを持っている。

 4.文 章
 自立語を漢字で書き、用言の語尾や付属語を片仮名で小書きする漢文訓読体で、すべての説話を「今ハ昔」で始め、「トナム語り伝へタルトヤ」で終わる点や、不明な固有名詞を空白のままにしておく点にも特徴がある。『宇治捨遺物語』等との共通説話が相当あり、散逸した『宇治大納言物語』との何らかの関係が想定される。
 5.影響・流布
 厳密な意味では未完成な作品であり、成立後も流布せず、近世に刊本が出るまでは、他の作品への直接的な影響はなかったと言ってよい。

 5.源頼義、馬盗人を射殺したること(巻25・12)
 「夜半ばかりに、雨のまざれに馬盗人入り来たれり。・・・(源頼信は)起きけるままに衣を引き壺折りて、胡箙をかき負ひて、厩に走り行きて、自ら馬を引き出だして、あやしの鞍のありけるを置きて、それに乗りてただ独り・・・追ひて行く。(さらに子の頼義も父と同じように馬盗人を追った。)」。             おわり

土佐日記と更級日記

2012-09-30 10:33:48 | Weblog
 1.土佐日記
 (1)成 立
 延長八年(930)以来土佐守であった紀貫之が、後任者に事務を引き継いで、承平四年(934)一二月二一日国府を出発、船旅を続け、翌五年二月十六日帰京。その後間もなく、男子官人が持っていた具注暦に書き込んでおいた天候・動静・和歌などをもとに、承平五年に出筆したと言われる。
 (2)作 者
 紀貫之は貞観十四年(872)ごろから天慶八年(945)ごろに活躍した平安前期の歌人で、漢詩文にもすぐれていた。官人としては詔勅の起草などに当たる小内記・大内記を勤めた。『古今集』撰進の中心となり、仮名序を出筆するなど、仮名文学の成立に寄与した。
 (3)主題・内容
 土佐守という公的な立場を離れ、私的な立場で自分の心情を綴り、亡児への追憶の記、人に見せぬことを建前とする独語的な叙述、女性の立場で仮名文による率直な旅の感想日記、歌論的な和歌批判、社会風刺などが見える。そして五五日間の船旅の経験を一日の記事をも省略せず、虚実を取り混ぜ記した紀行の日記。
 (4)特 色
 従来の漢文体の日記に対し、仮名文の日記文学を創造し、散文本位の写実性のある人間像、特に心理分析や描写が従来にない特色がある。

 2.更級日記
 (1)作 者
 菅原孝標女。父の孝標は菅原道真の子孫、兄定義は大学頭・文章博士、母の姉は『蜻蛉日記』の作者(藤原道綱母)という文学的環境で成長した。
 (2)成 立
 康平三年(1062)ごろ
 (3)書 名
もと『さらしなのき』とも。『さらしな』の書名の由来は諸説あるが、巻末で「月もいででやみに暮れたるをばすてにとてこよひたづね来づらむ」と詠んでいるのは、「わがこころ慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」(古今集巻十七)をふまえていようし、また、夫俊通の任地信濃のこともあり、かつ、その夫に死別、孤独に打ち捨てられた作者自身を「をばすて」と観じ、その縁をふくんで『さらしな』と名づけたのであろう、と言われる。
 (4)内 容
 一巻。作者十三歳から五十三歳までの生活や心境が回顧的に観照されている。娘時代の、『源氏物語』や様々な物語の世界を夢見る浪漫的心境が、宮仕え・結婚・二児の母親など人生の厳しさを経て現実的な心境に目覚め、信仰生活に傾き、やがて夫の死による孤独のうちに、浄土思想にすがっていく、清純な魂の遍歴の日記である、と言います。             おわり

平家物語と方丈記

2012-09-11 13:53:57 | Weblog
 1.平家物語
 (1)作者・成立
 未詳。『徒然草』二二六段に、後鳥羽院の時代(1183~1221)、信濃前司行長が『平家物語』を作り、盲目の琵琶法師生仏に語らせたと書かれているが、注目すべき説が、作者についても、葉室時長説、吉田資経説など多数あるものの確定しがたい。
 なお、琵琶法師の巨匠覚一によって応安四年(1371)に完成された覚一本(語り本・一二巻と灌頂巻)が一般的にはよく知られているが、古くは三巻本であったとか、『治承物語』(六巻)を別称とする説もあり、四部合戦状本(一二巻)・源平闘諍録(一部が現存)・延慶本(六巻一二冊)・長門本(二○巻)・源平盛衰記(四八巻)・屋代本(一二巻)など、様々な諸本をもつ軍記物語である。
 (2)内 容
 歴史的には、天承二年(1132・本文は「天承元年」)平忠盛(清盛の父)昇殿から、建久一○年(1199)の六代(清盛の曾孫)処刑までが対象だが、物語の中心は、平氏の上昇期よりも、清盛が太政大臣となった仁安二年(1167)から、壇ノ浦での平家滅亡の元歴二年(1185)頃までの約二○年間である。そして、平家繁栄になく祇王・子督らの女性哀話、反平家の動きを見せた俊寛らへの過酷な処罰、以仁王の挙兵と宇治での敗退、平家を都から掃討しながら同族の頼朝に滅ぼされる木曾義仲、源義経の勇猛な合戦譚などが物語を展開させ、覚一本では、我が子(安徳天皇)を失った建礼門院の出家と死とを最後に描く。謡曲や浄瑠璃など後代の文学にも大きな影響を与えた。
 
 2.方丈記
 (1)書 名
 作品の中で「広サハワゾカニ方丈、高サハ七尺ガウチ也」と説明される日野(都の東南)の草庵で書かれたことに拠る。
 (2)作者・成立
 出家した鴨長明(蓮胤と称した)によって、建歴二年(1212)に書かれた随筆。一巻。
 (3)内 容
 前半は、作者の体験した都の生活のはかなさが、五大災厄(安元三年の大火、治承四年の大風、同年の福原還都、養和元年から寿永元年へと続いた飢饉、元暦二年の大地震)などの描写とともに記されている。そこには、京都の三分の一が灰燼に帰した大火事とか、母親の死を知らずにその身体にすがりつく幼児の姿など、天災地変の具体的な記述を通じて、〈無常の世)に住む人間の悲劇が、平安時代から鎌倉時代へと続く動乱期を背景にして展開されている。
 後半は、まず自分自身の家系・住環境について述べ、続いて五○歳を過ぎて出家遁世し住んだ大原山のこと、更に日野に移り方丈の庵を築いての閑寂な生活が、仏道への心の傾斜を見せつつ描かれている。
 (4)文 体
 文章は、対句表現などを使った簡明で流麗な和漢混交文であり、作品構想の点で、慶滋保胤の『池亭記』に拠るところが大きいという。     おわり

古事記と日本書紀

2012-08-30 14:31:52 | Weblog
 1.古 事 記
 (1).編 者
 序文によると、天武天皇に命じられて稗田阿礼が誦習した『帝皇日継』(天皇の系譜)『先代旧辞』(古い言い伝え)の未完成本を、天武天皇没後の和銅四年(711)九月十八日、元明天皇の勅命で、太安万侶が整理・筆録した。
 (2).成 立
 勅命を受けた太安万侶が、和銅五年(712)一月二八日に献上した。
 (3).内 容
 [上巻] 天地が開けた時、高天原に出現した三柱の神の記述から始まる。伊邪那岐命(男神)・伊邪那美命(女神)の結婚と国生み・神々の誕生、伊邪那美命の死後、伊邪那岐命左目から天照大御神、右目から月読命、鼻から須佐之男命が誕生。須佐之男命の乱暴により天照大御神が天石屋戸に隠れ、暗黒になるが、天宇受売命・天手力男神らの活躍で天照大御神は石屋戸から現れ光明が戻る。以下、須佐之男命の八俣大蛇退治、大国主神の物語、天孫(邇邇芸命)の高千穂への降臨物語、海幸彦・山幸彦兄弟の争いの話などが続く。
 [中巻] 神武天皇の高千穂よりの東征談から応神天皇記まで。三輪山伝説や、倭建命の西征(女装して熊曾建を討ち、出雲建を謀殺)と東征、能煩野で望郷歌を残して白鳥となって飛翔する話、神功皇后の新羅遠征の話などを収める。
 [下巻] 仁徳記から、多彩な逸話を含む雄略記を経て、推古記まで、神話的天皇像が、儒教的な聖天子象へと変化して、人代の物語となる。
 (4).成立事情と史的意義
 壬申の乱(672)の勝利者天武天皇は、国家建設事業の一つとして、諸氏族が伝えている天皇の系譜と古い言い伝えとを整理して、その誤りを正すことを基本方針に、天皇の系譜を中心とする歴史の記述を計画した。元明天皇はそれを引き継ぎ、平城還都後の修史事業として『古事記』を編纂させたが、純然たる史書と言うより古代人の豊かな想像力に基づいて創造された、神と人との世界を物語る優れた文学でもある。表現面でも、漢字を用いつつも、様々な工夫がなされ、逸話・伝承や、多くの歌謡なども含み、文学・古代史研究の重要な文献と言える。

 2.日本書紀
 (1).編 者
 舎人親王が勅命を受けて責任編集したものであるが、太安万侶ら、少なくとも数人の手が加わったと思われる。
 (2).成 立
 養老四年(720)五月二一日撰上(『続日本紀』の記事による)
 (3).内 容
 三○巻。系図一巻は伝わらない。『二本紀』とも。巻一・二は神代の記事。巻三の神武天皇から巻三○の持統天皇までが編年体の人皇紀で、天皇の名号・即位の経過・在位中の事績・山陵などの記録、伝説や逸話、諸氏に伝えられた資料、地方の物語や地名伝説、詔勅、朝廷の公的記録、個人が編成した私的記録、寺院縁起、百済・中国から渡来した史料などから成り、「一書日」として多数の異伝をを列挙する。文章は歌謡など一部の表記を除いて純粋な漢文体。
 (4).史的意義
 天武天皇の国史編纂計画が基となり、外国への強い意識と、天皇を中心とした中央集権国家確立のための理論的・精神的支柱とする目的で、約四○年かかって編纂された日本最初の官撰歴史書。古代史研究の資料として価値が高く、また国文学・国語学研究の面からも、貴重な資料である。            おわり
 

伊勢物語

2012-08-18 14:25:25 | Weblog
 1.書 名
 平安時代には「伊勢物語」「在五が物語」「在五中将の物語」などの名称があったらしいが、『伊勢物語』が通常の名称で、他は在五中将(在原業平)を特に意識してつけた異称か。由来には諸説あるが、初冠本(現行本)第六九段の伊勢斎宮の話を中心にして読まれたのによるか。一説に、狩使本(散逸)の冒頭の段が、伊勢斎宮の話であったことによるか、ともいう。

 2.作 者
 未詳。根幹部分の作者は、京に住む男の歌人で、在原氏と関係の深い人か。他の段の作者は未詳。

 3.成 立
 一人の作者によって一時期にすべての段が作られたのではなく、古い部分(根幹部分)は「古今集」撰進の延喜五年(905)のころ、新しい部分は天暦(947~57)のころより後か。また、100段ほどの根幹部分は、天慶元年(938)ごろに作られたとする説もある。
 
 4.構 成
 初冠本『伊勢物語』は一般に125段からなる。「男」の元服の段で始まり、終焉(臨終)の段で終わる、「男」の一代記風にまとめられている
 各段は一首以上の和歌を核とした歌物語であるが、二条后(高子)・東下り・伊勢斎宮・惟喬親王などの話は小さな群をなす。多くは「昔、男ありけり」で始まり、「男」は在原業平を暗示する。業平の事実と虚構が入り交じっている。

 5.内 容
 125段のうち約三分の二の段は男女の愛情、残りは肉親の情・主従の情・友情・旅情などを描き、全般的に愛の真実を求める人々の姿が青春の哀愁と人生の憂愁を伴って描かれる。一貫する精神は、平安貴族が理想とした「みやび」である。「みやび」は「里び」「鄙び」に対応する語で、優美な生活のゆとりの中から、自然ににじみでる品格、洗練された風雅を言う。

 6.文学的価値
 歌物語の最初の作品。業平の事実と虚構を織り交ぜ、「男」の「みやび」に生きる姿を簡潔な文章の間に叙情的に描く。作者の優れた個性と構成力・表現力は、「宇津保物語」「源氏物語」に多くの影響を与えた。

 7.在原業平(825~80)
 阿保親王の五男で、行平の弟、妻は紀有常の娘。「古今集」の代表的歌人で、六歌仙の一人。右馬頭・蔵人頭などを歴任し、官位の上では余り恵まれなかったが、容姿端麗な風流人であった。

 8.その他
 (1)九段には、三河の国八橋
 「橋を八つ渡せるによりて・・・・その沢のはとりの木の陰に下りえて、乾飯食ひけり。」(尾形光琳集・八橋図)
 (2)同じく九段で、駿河の国宇津の山
 「道はいと暗う細きに、つた、かへでは茂り、もの心細く、すずろなる目を見ることと思ふに、修行者会ひたり、(上に笈を背負った修行者。)」(深江芦舟筆・蔦の細道図屏風)
 (3)二三段には、筒井の恋
 「むかし、えなかわたらひしける人の子ども、井のもとにいでて遊びけるを、・・・・」(小林古径筆・筒井筒図)         おわり 

竹取物語

2012-07-25 15:11:18 | Weblog
 1.書 名
 「源氏物語」に「物語の出て来はじめの祖なる竹取の翁」(絵合)とあり、本来は「竹取の翁(の物語)」か。
 2.作 者
 未詳。文体・用語・思想傾向などからみて、男性の知識人で、斎部氏と関係の深い人という説が強い。
 3.成 立
 貞観八年(866)から延喜十年(910)までの、900年前後か。
 
4.梗 概
 竹取の翁が、竹の中から三寸ばかりのかわいい子供をえて、大事に育てているうちに、三月ばかりで美しい女に成長し、「なよ竹のかぐや姫」と名をつけた。姫を得てから翁の家は急に富み栄え、姫の評判も国中に広がった。多くの男たちの中で、特に5人の貴公子が熱心に求婚した。姫はそれぞれに難題を与え、求婚の申し出を退けた。最後に帝が求婚された。間もなく八月十五夜、月から姫を迎えにやってきた。帝の命令を受けた二千人の者が弓矢で戦おうとするが、おびえたようになって身も心も働かない。そのうちに姫は飛ぶ車に乗せられ、帝に不死の薬の壺をさし上げるように言い残して、地上から天上へ帰って行った。
 
5.内 容
 「かぐや姫の生い立ち」「貴公子たちと帝の求婚」「かぐや姫の昇天」に大別できる。竹取物語・羽衣伝説や鶴女房の民話などに素材を仰ぎ、仏典・漢籍の知識を加え、仏教的因果観・神仙思想の影響を受けている。五人の貴公子は、『日本書紀』『続日本紀』などにみえる実在人物だが、『竹取物語』では貞観期の世相を風刺している。近年、チベットの『斑竹姑娘』という説話が『竹取物語』の原型かと注目されたが、大正ごろ日本から輸入されたものという説もある。
 
6.主 題
 物語の中心は六人の妻争いか、かぐや姫の昇天かで説が分かれる。だが、羽衣昇天説話の影響を重視するなら物語の中心はかぐや姫の昇天にあるとみられ、主題は天上界と人間界とを対照し、有限な人間界の愛の悲哀であるとみることができる。
 
7.文学的価値
 初めての物語文学。「かたりごと」の流れをくむ伝奇的性格と、五人の貴公子の求婚譚のような写実的性格とを結合させ、理想と現実、美の世界と醜の世界とを対照的に配置し、摂関政治に対する批判も取り入れ、新しい物語文学を創造している。                         おわり

漢詩名作(社会3)

2012-07-10 14:53:31 | Weblog
 1.売炭翁 [中唐]白居易(つづき)    売炭翁                  炭売りのじいさん

⑱宮 使 駆 将 惜 不 得    ⑱宮使駆り将て 惜しみ得ず     ⑱宮廷の使者が駆り立てて持って行くので、惜しんでもどうにもならない。
⑲半 疋 紅 綃 一 丈 綾    ⑲半疋の紅綃 一丈の綾       ⑲わずか二丈の綃と一丈の綾を、
⑳繋 向 牛 頭 充 炭 直    ⑳牛頭に繋けて 炭の直に充つ    ⑳炭の代金として、牛の頭に投げかけられただけであった。
       (全唐詩・七言古詩)

 *白居易と「売炭翁」
 白居易(772~846)は、左拾遺8政治の得失を論ずる諫官)の官であって、時の政治を痛烈に批判する「新楽府」五十首を作った。これらは、遠くは、中国最古の詩歌集「詩経」の風刺の精神に基づき、近くは先人杜甫(712~770)の「兵車行」「哀江頭」「石壕吏」などの社会批判の詩に学んだものである。
 「売炭翁」はそのうちの第五十二首で、作者はこの詩に「宮市に苦しむなり」という自注をつけている。「宮市」とは、宮廷に必要な物資を一般から集めて設けられた宮廷内の市場である。宦官係官とし、数百人の実働部隊がおり、長安市中にくり出しては、必要な物資があると「宮市! 宮市!」と連呼して、略奪同様に庶民から召し上げたという。詩の第十四句の「黄衣使者」は、この宦官を指している。
 当時庶民の怨嗟の的となっていたそのありさまを、作者はここに平易なことばでみごとに活写しているのである。

 2.過零丁洋 [南宋]文天祥         零丁洋を過ぐ               零丁洋に通りかかって
①辛 苦 遭 逢 起 一 経    ①辛苦の遭逢は 一経より起こる   ①(この)つらい苦しみに出あうという私の運命は、経書を学んで(科挙に応じたとき)から始まった。
②干 戈 落 落 四 周 星    ②干戈落落たり 四周星       ②(思えば)戦場をあわただしくかけまわっているうちに、早くの四年の歳月が流れた。
③山 河 破 砕 風 抛 絮    ③山河破砕して 風 絮を抛げうち  ③(祖国の)山河(国土)は破壊され、(ちょうど)風が柳絮を吹き散らす(ようなありさまで)、
④身 世 飄 揺 雨 打 萍    ④身世飄揺して 雨 萍を打つ    ④わが身一代の、(戦乱の世に)さすらうさまは、雨が浮き草を打つようだ。
⑤皇 恐 灘 頭 説 皇 恐    ⑤皇恐灘頭 皇恐を説き       ⑤(すでに)皇恐灘のほとりでは(その名のような)大きな(国家滅亡の)恐れについて説き、
⑥零 丁 洋 裏 嘆 零 丁    ⑥零丁洋裏 零丁を嘆く       ⑥(今また)零丁洋では、(その名のように)身の落ちぶれたことを嘆くばかりである。
⑦人 生 自 古 誰 無 死    ⑦人生 古より 誰か死無からん   ⑦人の一生において、昔からだれが死をまぬがれ得たであろうか。
⑧留 取 丹 心 照 汗 青    ⑧丹心を留取して 汗青を照らさん  ⑧(どうせ死ぬ身であるならば)まごころだけはこの世にとどめ伝えて、長く歴史に残したいものだ。
     文山先生全集・七言律詩)

 *文天祥と「零丁洋を過ぐ」の詩
 文天祥(1236~1282)は、眉目秀麗の偉丈夫で、二十歳にして科挙に首席で合格した秀才であった。西暦1275年、元の世祖忽必裂が、南宋の都臨安に泊った時には、宰相として元の大軍と戦い、捕えられて脱走、転戦すること四年におよんだ。詩の前半四句には、その間の事情が詠われている。
 後半四句は、「皇恐灘」と「零丁洋」との二つの地名を歌いこみつつ、烈々たる祖国愛を述べたもので、後の獄中での作「正気の歌」とともに、わが国の幕末の志士たちにも大きな影響を与えた。
 なお、作者は、1278年再び元軍に捕えられ、忽必裂にその人物を惜しまれつつ、帰順をこばみ続けること三年余り、大都(今の北京)の獄中で刑死した。              おわり
  
 


漢詩名作(社会2)

2012-06-22 14:22:20 | Weblog
 1.売炭翁 [中唐] 白居易        売炭翁                     炭売りのじいさん

①売 炭 翁              ①売炭翁                     ①炭売りのじいさんは、
②伐 薪 焼 炭 南 山 中    ②薪を伐り炭を焼く 南山の中         ②終南山の中でまきを切って炭を焼く。

③満 面 塵 灰 煙 火 色    ③満面の塵灰 煙火の色            ③顔じゅうほこりだらけで、すすけた色をしており、
④両 鬢 蒼 蒼 十 指 黒    ④両鬢蒼蒼として 十指黒し          ④両側の鬢の毛には白髪がまじり、両手の指はまっくろ。
⑤売 炭 得 銭 何 所 営    ⑤炭を売りて 銭を得る 何の営む所      ⑤炭を売り銭を手に入れて何を求めるのかと言えば、
⑥身 上 衣 裳 口 中 食    ⑥身上の衣裳 口中の食            ⑥身にまとう衣裳、口に入れる食料。

⑦可 憐 身 上 衣 正 単    ⑦憐むべし 身上 衣 正に単なる       ⑦ああ、身にまとうのは(冬だというのに)ひとえの着物、
⑧心 憂 炭 賤 願 天 寒    ⑧心に炭の賤きを憂へ 天の寒からんことを願ふ ⑧(それでも)炭の値段が安いのを悲しんで、もっと寒くなってほしいと願っている。
⑨夜 来 城 外 一 尺 雪    ⑨夜来城外 一尺の雪             ⑨(その願い通りに)昨夜から長安のあたりには一尺の雪がつもり、
⑩暁 駕 炭 車 輾 冰 轍    ⑩暁に炭車に駕して 冰轍を輾く        ⑩じいさんは朝早く牛に炭車を引かせ、凍った道に車をきしませて、炭売りにでかけた。
⑪牛 困 人 飢 日 己 高    ⑪牛は困れ 人は飢え 日已に高し       ⑪(悪路のため)牛もじいさんも飢え疲れ、日も高くのぼったころ、
⑫市 南 門 外 泥 中 歇    ⑫市の南門の外 泥中に歇む          ⑫やっと町の南門の外にたどりつき、ぬかるみの中で休むことにした。
⑬翩 翩 両 騎 来 是 誰    ⑬翩翩たる両騎 来たるは是れ誰ぞ       ⑬そこへ飛ぶようにあらわれた二頭の馬、はて誰がお乗りやら。
⑭黄 衣 使 者 白 衫 児    ⑭黄衣の使者 白衫の児            ⑭それは黄衣の使者と白衣の従者。

⑮手 把 文 書 口 称 勅    ⑮手に文書を把り 口に勅と称す        ⑮手に公文書を持ち、口では「勅命であるぞ」と言い立て、
⑯廻 車 叱 牛 牽 向 北    ⑯車を廻らし牛を叱して 牽きて北に向かはしむ ⑯車の方向を変え牛を追って、北の(宮市の)方へと引きつれた。
⑰一 車 炭 重 千 余 斤    ⑰一車の炭の重さ 千余斤           ⑰車に積んだ炭の重さは千余斤もあるのに、

⑱宮 使 駆 将 惜 不 得    ⑱宮使駆り将て 惜しみ得ず          ⑱宮廷の使者が駆り立てて持って行くので、惜しんでもどうにもならない。

     (全唐詩・七言古詩)                                      おわり