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日本史の勉強している

中国や韓国との歴史認識の相違が問題になっているので、「正しい歴史」を勉強しようと思った。

近松門左衛門の文学

2013-04-14 10:06:40 | Weblog
 1.浄瑠璃の大成者
 近松門左衛門は、室町時代に始まった古浄瑠璃を新しい舞台芸能として大成、歌舞伎にも足跡を遺した。
 2.時代物から出発
 近松は越前(福井)の武家に生まれた。青年期を京で過ごし、広く古典や俳諧の素養を身に付けた。作家としての彼は、31歳の年に書いた『世継曾我』、2年後に『出世景清』など過去の時代や外国に素材・背景を採り、歴史上の英雄や女人を登場させる「時代物」にまず非凡な手腕を見せた。彼は、過去の人物を自らの生きる江戸時代によみがえらせ、武士の精神や美しい人情、あるいは義理に縛られた苦しい生き方などを生々しく描いて観客に人気を博した。
 3.世話物の大反響
 元禄16年、たまたま大阪に起こった若い男女の情死事件をすばやく取り上げたのが『曽根崎心中』で、これが「世話物」の第一作となった。世話物と言うのは、当時の民衆の姿をそのまま舞台に再現する形をとるもので、観客の反響もひときわ大きかった。この時、近松はすでに50の坂を越えていたが、予想を上回る反響に励まされてますます旺盛な創作活動を繰り広げていた。
 4.虚実皮膜の理論
 近松は、人物の性格描写や心理描写に力を入れた。男と女、親と子が愛情を貫こうとしながら封建的な道徳や金銭の壁にはばまれて身を破る悲劇、それをまさにそうありそうな事ーーー虚構の真実として描いた。その演劇論は穂積以貫『難波土産』に「虚実皮膜の論」として伝えられている。
 5.出世景清
 (1)時代浄瑠璃。従来のきわめて叙事的であった幸若舞曲『景清』などから、史劇的な作品に脱却したもの。これより以前の浄瑠璃を古浄瑠璃と呼んで区別し、浄瑠璃史上に新しい時期を画した作品とされている。
 (2)内 容
 平家の遺臣悪七兵衛景清は、主家の仇を報じようと畠山重忠をねらうが失敗する。愛人阿古屋の訴えで妻や舅が捕えられ拷問を受ける。そこで景清は自首して出、阿古屋は景清の面前で二児を刺しとともに自害する。景清も首を討たれるが、清水観音の身代わりによって助かり、両眼をえぐって日向の国に下る。
 6.曽根崎心中
 (1)世話浄瑠璃。大阪の曽根崎天神の森で男女の心中事件があり、これを題材にしたもの。歌舞伎で上演されていたものを浄瑠璃に仕組んだ。世話物の地位を確立した作品である。空前の大当たりをとり、自信を深めた近松は24編の世話物を書くことになった。
 (2)内 容
 伯父の営む醤油商平野屋の手代徳兵衛は、天満屋の遊女お初と深く愛し合う仲であった。主人の妻の姪との結婚話を断ったことから、すでに徳兵衛継母が受け取っていた持参金を返さなければならないことになる。徳兵衛はようやくの思いで金を用意したが、友人九平治の甘言にのせられてその金をだまし取られ、しかもみなの面前でひどいはずかしめを受ける。徳兵衛は死を決意し、お初もこれに深く同情して、二人は曽根崎天神の森で心中する。     つづく

井原西鶴の文学(つづき)

2013-03-27 13:49:43 | Weblog
 3.西鶴諸国ばなし
 (1)浮世草子・雑話物
 五巻35章、内題に「近年諸国咄 大下馬」とあるが、大下馬とは、『宇治拾遺物語』で宇治大納言隆国が往来する旅人を留めてその話を聞き書きしたという故事に倣ったものという。
 (2)内 容
 序文に「「世間の広きこと国々を見めぐりてはなしの種をもとめぬ。熊野の奥には湯の中にひれふる魚あり。筑前の国には一つをさし荷ひの(しなければならぬほどの)大蕪あり。」などと書かれているが、北は奥州から西は九州まで、文字通り全国各地の珍聞・奇談・伝説などを集めた短編物語集である。
 4.好色五人女
 (1)浮世草子・好色物
 五巻。当時、実際にあった五組の恋愛事件を素材としてまとめた五編の短編物語から成る。ここで西鶴は遊里を舞台にしたこれまでの好色物とは異なって、娘や人妻の恋愛をとりあげている。
 (2)内 容
 第一話は姫路但馬屋の娘お夏と手代清十郎の恋で、駆け落ちの途中逮らえられて男は殺され女は発狂し、のち尼になるというもの。第二話は人妻おせん、第三話はおさんのそれぞれ不義と悲劇的な末路を描いている。第四話は恋しい相手に逢いたい一心から放火した八百屋お七、第五話はおまんの物語である。第五話だけはおまんの親が男との仲を許して巨額の富を贈るというめでたい結末になっている。
 5.武家義理物語
 (1)浮世草子・武家物
 六巻。『武道伝来記』なでとともの、町人であった西鶴がその眼で武士の世界を見つめ、武士気質を描きだした作品の一つである。歌舞伎の世界にも武道物が発生した時期に当たる。
 (2)内 容
 まことに武士道を生き抜く武士の姿を描こうとしたものだ、と序文に在り、時代・地域もかなり広がりを持っている。川に落としたわずか10文の小銭を捜せるなど義理を重んじた青砥藤綱の逸話、遠国へ旅立つ若者の供をした神崎式部が同役の子息を大井川の出水で失い、自分の子だけが助かったのでは〈一分が立たぬ)と自害させた話など、町人の眼には奇異に映る武士の生きざまが描かれている。
 6.日本永代蔵
 (1)浮世草子・町人物
 近世初期に富を築いた多くの町人の例をあげた作品で(副題に「大福新長者教」)、町人物の第一作となった。町人のあるべき姿を示そうとしたものと考えられるが、西鶴の透徹した写実的な描写の力は、尋常の手段では富み得ぬ現実をリアルに描き出す働きをしている。
 (2)内 容
 大阪北浜市場の筒落米を掃き集めて小銭を蓄え、人に貸して利を得、巨万に富を築いた寡婦の話、江戸駿河町で呉服の現金商いをして繁盛した男の話、万事に手堅く節約を守る商人が近所の若者に倹約を話と実行の両面で教えた話など30話から成るが、中に金は得ても狂乱して死んだとか、零落した町人の話もいくつかある。
 7.世間胸算用
 (1)浮世草子・町人物
 五巻20話から成る短編集であるが、流通経済が発達し、商業資本主義のもとでもはや牧歌的な致富譚は望みようもない重苦しい現実のもとに生きる庶民ーーー町人の姿が活写されている。
 (2)内 容
 副題に「大晦日は一日千金」とある通り、この短編集はすべて大晦日の設定になっている。現在と異なって、売買の勘定をすべて決済する大晦日は、売り手にとっても買い手にとってもこの一日をどう乗り切るかという悪戦苦闘の攻防の日であった。売掛を取り立てようとする側と、何とかこの日を逃れようとする者たちが知恵をしぼり秘術を尽くすさまが息詰まるように描かれている。        おわり

井原西鶴の文学

2013-03-10 14:23:02 | Weblog
 1.浮世草子の創始者(1643~1693年)
  井原西鶴は、世相・人情をいきいきと描く浮世草子の創始者で、近松・芭蕉と並ぶ「元禄三文豪」の一人。
 (1)初めは俳諧から
  西鶴は大阪の裕福な町家に生まれたと言う。早くから俳諧を学び、貞門から清新な作風の談林の俳諧に転じた。自由奔放な談林の俳諧は彼自身の生活感情とそのまま重なって、創作意欲を掻き立てられた。やがて彼は一昼夜に23500句を一人で作るという、「矢数俳諧」の記録を樹立する。一時間に約1000句、3秒から4秒の間に一句のペースを24時間持続するというのはまさに超人的で、体力はもちろん、目まぐるしい着想の噴出がこの記録を可能にしたのである。この才能は、浮世草子の世界でも遺憾なく発揮されることになる。
 (2)「好色物」の世界
  大阪の町人の社会に生きた西鶴は、同じ町人の眼で人間模様を見詰めてきた。その多彩な出来事を俳諧的連想・連環にとって散文に描いたのが、浮世草子である。第一作『好色一代男』の大きな反響に力を得た彼は、男女の愛欲の世界における本能の肯定、現実に直面しての人間のさまざまな姿を「好色物」の諸作品に描いていった。
 (3)「町人物」の世界
  やがて西鶴は、町人の世界の核心をなす金銭と、それを巡る人と人との葛藤を正面に据えた「町人物」を大成するに至る。彼はそこに、富や繁栄への願望をあらわにして生きる町人たちの姿に共感を示すとともに、その世界の非情な厳しさをも迫力のある筆づかいで描くことに成功している。

 2.好色一代男
 (1)浮世草子・好色物
  談林派俳諧の師・西山宗因の死を契機に、西鶴が小説に転じた最初の作品で、8巻54章から成る。作者にとって新しい創作活動の出発となったばかりでなく、従来の啓蒙的・教訓的な仮名草子から現実的な浮世草子の世界を開拓した点からも文学史上特筆すべき作品。
 (2)内 容
  上方の大金持ちの息子世之介は7歳にして恋を知り、少年時代から腰元・姉妹・遊女・人妻などに戯れ、恋文を送ったり交渉を持ったりする。19歳になって江戸の支店の支配人を務めるが、江戸での乱行が親に聞こえて勘当される。その後は諸国を放浪して色道修業を重ね、34歳になって父の死とともに遺産を相続し、以後20数年、京・大阪・江戸の遊里を舞台に好色生活を送り、60歳になって心の通じる7人の友人を誘い、好色丸という船で伊豆の国から女護島に船出する。      つづく
 

主要日記・紀行解説(つづき)

2013-02-27 14:10:32 | Weblog
 6.弁内侍日記
 (1)作 者 : 後深草院内侍(藤原信実女)
 (2)成 立 : 建長四年(1252)ごろと言われる。
 (3)内 容 : 二巻。作者は後深草天皇に仕えていた折に経験した宮中行事の記録。後宮の陽気さもうかがえる。

 7.中務内侍日記
 (1)作 者 : 伏見院中務内侍(藤原永経女)。
 (2)成 立 : 鎌倉中期の正応五年(1292)ごろと言われる。
 (3)内 容 : 一巻。弘安三年伏見院に宮仕えをしてから、13年間に体験した宮廷の公事を、的確な筆致でしるす。

 8.とはずがたり
 (1)作 者 : 後深草院二条(中院雅忠女)。
 (2)成 立 : 鎌倉後期の徳治元年(1306)ごろと言われる。
 (3)内 容 : 五巻。前半は、後深草院からの寵愛、初恋の人(雪の月)らとの恋愛を、後半は出家後の旅の見聞などを記した日記。
 
 9.海道記
 (1)作 者 : 未詳。
 (2)成 立 : 鎌倉前期の貞応二年(1223)ごろ。
 (3)内 容 : 一巻。貞応2年4月、遁世した作者が、京都をたち出でて、鎌倉に入り(15日間の旅)、約10日間鎌倉に滞在し、再び帰京する間の紀行文。東海道の様子を和漢混交文体でしるし、漢文調の四六駢儷体による対句などを随所に用いている。神仙思想や仏教的人生観がうかがわれる。

 10.東関紀行
 (1)作 者 : 未詳。
 (2)成 立 : 仁治三年(1242)ごろと言われる。
 (3)一巻。京のほとりに住んでいた人が、仁治三年八月、急用のため都を出で立ち鎌倉に下り、10月23日、鎌倉を立ち帰路つくまでの記事。海道での見聞や鎌倉での様子を主として記す。文章は流暢な和漢混交文体で、対句・和漢の故事・和歌などを含む。和漢混交文の典型。道行文の先駆的作品。

 11.十六夜日記
 (1)書 名 : 『いさよいの日記』とも言う。
 (2)作 者 : 阿仏尼。
 (3)成 立 : 鎌倉中期の弘安五年(1282)ごろと言われる。
 (4)内 容 : 一巻。夫藤原為家の没後、我が子為相と先妻の子為氏との間に起こった領地(播磨国細川庄)の訴訟のために京都を出立して下る日記的紀行文。旅行前の記事(孝行のことから書き始め、夫為家の遺書・歌道の家柄・領地などにふれ、我が子のために、関東下向する事情を述べ、5人の子供との離別の情に及んでいる)と旅日記と鎌倉滞在記の三部から成る。旅中、都の人とかわした手紙や和歌が挿入されている。全体に子を思う母の情が溢れ、歌道を憂える誠心にみちている。擬古文で、多分に女性的・感傷的な筆致である。    おわり

主要日記・紀行解説

2013-02-11 14:04:29 | Weblog
 1.和泉式部日記
 (1)書 名 : 「和泉式部物語」とも言う。
 (2)作 者 : 和泉式部。
 (3)成 立 : 平安中期の寛弘四年(1007)のころか。
 (4)内 容 : 一冊。和泉式部が、愛されていた為尊親王との死別後、その弟宮の帥宮敦道親王(冷泉天皇の第四皇子)と知り合い、新しい愛情を抱く。やがて10か月の恋愛の後、周囲の冷たい目にも耐えて、親王の屋敷へと伴われて行く。長保五年(1003)四月から翌寛弘元年(1004)正月までの、二人の緊張した心の動きを和歌をまじえて書かれている。全体的に、自己に第三人称を使い、恋愛物語風にまとめている。

 2.紫式部日記
 (1)作 者 : 紫式部。
 (2)成 立 : 寛弘七年(1010)ごろか。
 (3)内 容 : 一巻。夫の死後、式部が仕えていた中宮彰子(上東門院)が、一条天皇の第二皇子(後一条天皇)を出産する寛弘五年九月からの宮廷の儀式や風俗などを日記に記す。消息文もそえられ、作者の人物評(斎宮の中将・和泉式部・赤染衛門・清少納言などについて)や、処世訓・芸術観がうかがえる。他律的な宮仕えの記事が中心であるが、その奥には自己の真の意義を問う文学的な内省がにじんでいる。

 3.讃岐典侍日記
 (1)作 者 : 讃岐典侍(藤原長子)。
 (2)成 立 : 天仁二年(1109)ごろか。
 (3)内 容 : 二巻。上巻は、嘉承二年(1107)6月20日から7月19日までの記事で、堀河天皇の発病より一か月にわたる作者の熱心な看病と崩御の有様を書いたもの。下巻は、同年10月から天仁元年(1108)12月に至る一年余の記事で、幼帝鳥羽天皇に仕えながら亡き堀河天皇を追慕する心情を記したもの。敬愛する天皇に仕えた作者が、その看病・死を、悲痛な思いと人間的な愛情をこめて直視した日記。

 4.建礼門院右京大夫集
 (1)作 者 : 建礼門院右京大夫。
 (2)成 立 : 貞永元年(1232)か。
 (3)内 容 : 一巻。追想記。特に、愛する平資盛(新三位中将・壇ノ浦で戦死)に対する思慕が全体を貫いている。361首の和歌をも収めている         つづく      

歴史物語(史書)・軍記物語

2013-01-27 14:21:19 | Weblog
 1.栄花物語
 (1)作 者 : 正編は赤染衛門、続編は出羽弁とする説が有力だが、未詳。
 (2)成 立 : 正編(30巻)は長元年間(1028~37)、続編(10)は寛治6年(1092)2月以降間もないころか。
 (3)内 容 : 40巻。宇多天皇から堀河天皇まで15代約200年間の歴史を編年体で記す。藤原道長の栄華を中心に、宮廷貴族の生活が仮名書きで詳しく描かれている。『源氏物語』の影響を受けた先駆的な歴史物語として、『大鏡』その他の鏡物体史書の源泉。

 2.今  鏡
 (1)作 者 : 未詳。藤原為経(寂超)か。
 (2)成 立 : 嘉応二年(1170)説が有力。
 (3)内 容 : 10巻。『大鏡』の設定を受け継ぎ、長谷寺詣での途中に出会った老女の昔語りと言う形式で、後一条天皇の万寿二年(1025)から高倉天皇の嘉応二年まで約150年間の歴史を紀伝体で記した。

 3.水 鏡 
 (1)作 者 ; 未詳。中山忠親説が有力。
 (2)成 立 : 平安末期か鎌倉初期。
 (3)内 容 : 三巻。『扶桑略記』より抜粋した神武天皇から仁明天皇まで約1500年間の歴史を、仮名書き編年体で記す。『大鏡』に倣い、長谷寺で老尼が修行者を通じて葛城山の仙人から話を聞くという形式。
 
 4.増 鏡 
 (1)作 者 : 未詳。二条良基説が有力。
 (2)成 立 : 応安(1368~75)から永和二年(1376)か。
 (3)内 容 : 17巻。19巻・20巻の増補本もある。嵯峨の清涼寺で老尼が回想談をするという形式で、治承四年(1180)の後鳥羽院の誕生から、元弘三年(1333)の後醍醐天皇の隠岐島より京都への還幸まで約150年間の歴史を、編年体で記す。多数の和歌をちりばめつつ、『源氏物語』風の優雅な表現によって、王朝貴族生活の雅びの世界の再現を意図した。

 5.保元物語
 (1)作 者 : 未詳。古来、葉室時長・中原師梁・源喩僧正ら諸説あるが確証なし。
 (2)成 立 : 鎌倉時代初期から中期か。
 (3)内 容 : 三巻。保元の乱(1156)の顛末を和漢混交文で記した軍記物語。崇徳院と後白河天皇との皇位継承をめぐる対立が、摂関家の藤原忠道・頼長兄弟の相克と重なり、源為義・平忠正と源義朝・平清盛という武士階級の合戦を引き起こし、天皇方が勝つ。崇徳院の讃岐配流、為義らの斬首、超人的戦いぶりを見せた源為朝の伊豆配流に至る記述が展開される。

 6.平治物語
 (1)作 者 : 未詳。『保元』と同一作者説あり。
 (2)成 立 : 鎌倉時代初期から中期か。
 (3)内 容 : 三巻。平治の乱(1159)の顛末を和漢混交文で記す。後白河院側近の信西と対立する藤原信頼は、平清盛に不満を持つ源義朝と共に挙兵したが、待賢門・六波羅の合戦で破れ、二人とも死ぬ。源義平と平重盛という若武者二人の一騎打ち場面が有名。

 7.太平記
 (1)作 者 : 小島法師とも言われているが、未詳。
 (2)成 立 : 未詳。現存する40巻本の成立は、応安3~4年(1370~71)ごろか。
 (3)内 容 : 40巻(古い形の本は巻22を欠く)。第一部(巻1~11)は、後醍醐天皇の討幕計画から元弘三年(1333)の北条氏滅亡まで。第二部(巻12~21)は、建武新政の失敗、足利尊氏の離反、楠木正成の戦死、後醍醐天皇の死まで。第三部(巻22~40)は、足利政権の内部抗争を経て、貞治六年(1367)幼将軍義満を補佐する細川頼之の執事就任まで。50余年にわたる全国的な戦乱(南北朝の動乱)を、故事説話などを引用しつつ、叙事的・批判的に描いた軍記物語。漢文訓読調の華麗な和漢混交文で書かれている。          おわり

三大歌風の比較(つづき)

2013-01-10 13:58:22 | Weblog
  修 辞 技 巧
 1.万 葉 集
 (1)「七五調」で、短歌は「二句切れ」、「四句切れ」が多く、重厚な調べである。後期には七五調も現れる。歌謡の名残をとどめ、音楽的効果を狙った同音同語の反復もある。
 (2)素朴な「枕詞、序詞」を多用。ほかに掛詞、比喩、対句(長歌で)を使用。
 (3)率直に表現するため、「断言的」な句切れが多い。終助詞による終止、詠嘆「も」「かも」を多用。

 2.古 今 集
 (1)「七五調」で、「三句切れ」が多く、流暢な調べとなる。
 (2)掛詞、縁語の使用が多い。それらが観念的な連想を生み、虚実あるいは主従二様のイメージを交錯させ、纏綿たる情緒を楽しませる。掛詞がさらに進んでことばの遊戯となったものが物名であり、それで一巻をなす。ほかに枕詞、序詞、比喩、擬人法などを用いる。
 (3)理知的に屈折した表現をとるため、「推量、疑問、反語」による句切れが多い。助動詞による終止が目立つ。詠嘆の終助詞は「かな」を用いる。

 3.新 古 今 集
 (1)「七五調」で、「三句切れ」が多く、また「初句切れ」も目立つ。
 (2)掛詞、縁語、比喩はかなり用いられるが、枕詞、序詞の使用は著しく減少する。古歌の句を借用しただけにとどまる単純な本歌取りは古今集にもみられるが、新古今集では高度な表現技術にまで磨かれ、物語的な情趣を醸し出す象徴の手法として用いられる。
 (3)「体言止め」を多く用いる。万葉集約160首、古今集約50首に対し、新古今集で約460首ある。すなわち、文末を言い切ってしまわぬ形で余情を感じさせる。
                                                      おわり
 
 
 
 

三大歌風の比較

2012-12-29 14:02:12 | Weblog
  作歌態度と詠風
 1.万 葉 集
 (1)歌を呪術とする意識が残り、対象にはたらきかける積極的な勢いが、「力強く荘重な調べ」となる。
  ○千万の軍なりとも言挙せず取りて来ぬべき男とぞ念ふ         高橋虫麻呂
 
 (2)実感を抑えず飾らず大胆「率直に表現」する。簡明にして力強く、賀茂真淵は『ますらをぶり』という。
  ○吾が背子はものな念ひそ事しあらば火にも水にも吾がなけなくに    安倍女郎

 (3)日常生活そのままではないにしても、現実の体験に即して歌うことが多く、「具体的、写実的」で印象鮮明。
  ○あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ち渡る        人麻呂歌集

 (4)用語、題材についてすでに雅俗を分かつ意識が生じているが、なお生活に密着したものが比較的に多く、「素朴、清新」の感をもって訴えかける。時に粗野。
  ○憶良らは今は罷らむ子哭くらむそれその母も吾を持つらむぞ      山上憶良

 2.古 今 集
 (1)宗教や政治を離れ、歌それ自体が目的となり、「洗練された表現」により美の典型をひたすら追求する。
  ○桜花さきにけらしな足引の山のかひよりみゆる白雪          紀 貫之

 (2)感情を生のままですびて表わすことを避け、「屈折した表現」をとる。その婉曲さが優美繊細の効果を生む。
  ○五月待つ花 橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする          読人しらず

 (3)日常の体験から遊離した花鳥風月や恋・無常など、情趣化された世界を機知に富んだ「趣向や見立て」により表現する。理知がまさり、時に観念の遊戯に陥る。
  ○ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなえに水くくるとは      在原業平

 (4)優雅の基準にかなう題材をみやびやかなことばで詠ずるため、「流麗」であるが、単調に陥る弊がある。
  ○つれづれのながめにまさる涙河袖のみぬれてあふよしもなし      藤原敏行

 3.新 古 今 集
 (1)乱世の現実を忌避し、王朝に憧れる浪漫的な気分が支配し、唯美的、芸術至上主義的」な立場に立つ。
  ○またや見む交野のみ野の桜狩り花の雪散る春のあけぼの        藤原俊成

 (2)世俗的な感情を拒否し、『もののあわれ』という伝統的な感覚を「象徴的な手法」により縹渺とただよわせる。幽玄余情の様式を完成するが、時に晦渋に陥る。
  ○見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ         藤原定家

 (3)客観的具象的な世界を浪漫的な心象風景に再構成し、現実を超えた「絵画」あるいは「物語」のごとき世界をつくる。
  ○かへり来ぬ昔を今とおもひ寝の夢の枕に匂ふたちばな         式子内親王

 (4)選び抜かれた素材を言語の論理性を超えた技巧によって表現し、「幽玄妖艶」の美、有心の理念を追求する。
  ○風かよふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢         俊成女
                                                   おわり

   

新古今時代の歌人

2012-12-09 14:07:32 | Weblog
 1.西 行(1118~90)
 俗名佐藤憲清などとも言われた。鳥羽院の北面の武士で左兵衛尉となるが、23歳で出家。同時に詠歌活動に入る。高野山に住し、陸奥・讃岐に旅するが、俗界とも関わる。河内の弘川寺で入寂。その生涯は伝統化され、謡曲・物語などに描かれる。
 
 2.式子内親王(?~1201)
 後白河天皇の皇女。少女期を賀茂斎院として過ごし、病により退く。和歌は俊成に学ぶが、歌壇に交わらず、孤独憂愁の半生から滲み出た繊細な叙情歌が多い。定家との恋の伝説がある。
 
 3.藤原俊成(1114~1204)
 正三位非参議皇太后宮大夫に至る。崇徳院歌壇に登場するが、保元の乱後雌伏。63歳重病により出家、法名釈阿。これより旺盛な活動を示す。勅により『千載集』を撰し、新古今時代の新進を育て、多くの歌合の判者となり、『古来風体抄』などの歌学書を執筆する。
 
 4.後鳥羽院(1180~1239)
 平家都落ち(寿永2年・1183年)の後、4歳で践祚。19歳で譲位、院政に移る。以後歌道に執心して歌壇を統領し、連歌にも心を寄せ、蹴鞠・管絃・水練などにも長じた。これは現実逃避でなく、王政復古への執心と両輪をなす。承久の乱に敗れて隠岐に遷され、配所に崩ずる。

 5.藤原定家(1162~1241)
 俊成の次男。極官は権中納言。青年期、九条良経の歌壇に活躍。新義非拠達磨歌と謗られながら新風を完成。後鳥羽院に歌才を認められ、新古今集選者の一人となるが、後に傍若無人として院に疎んじられる。老年期には新勅撰集を撰し、歌論・歌学の著述、源氏物語など古典の書写校合の励んだ。

 6.源 実朝(1192~1219)
 頼朝の次男。鎌倉幕府三代将軍・右大臣。兄頼家の子公暁に殺される。京都に関心を寄せ、定家の指導を受け、万葉集に親しみ、『金槐集』を自撰する。                 おわり

古今和歌集序と古今集の歌人

2012-11-27 14:41:06 | Weblog
 1.古今和歌集序
 (1)作 者 : 仮名序は紀貫之。真名序は紀淑望とされる。
 (2)成 立 : 真名序によれば延喜五年(905)四月・仮名序は後になる、という。
 
 2.古今集の歌人
 (1)小野小町
 生没年不詳。九世紀中ごろの人か・感情切実な恋の歌が多い。出自閲歴不明のまま伝説化され、絶世の美女で晩年は零落漂泊したと伝えられる。

 (2)遍 照
 (816~90)。俗名良岑宗貞。仁明天皇の寵を得、出家。創建した寺を勅願寺として元慶寺と号し、僧正に任ずるなど、政権との結びつき強く、『大和物語』中の遍昭像とはいささか異なる。

 (2)藤原敏行
 (?~901)。右兵衛督に至る。『寛平御時后宮歌合』などに出詠。理知的でしかも叙情性の濃い歌を詠む。能書家としても知られる。
 
 (3)紀 友則
 (?~905頃)。古今集選者の最年長。完成を待たず延喜五年頃没した、という。貫之の従兄。官は小内記に至る。歌いぶりは穏健重厚で雅趣に富む。

 (4)素 性
 生没年不詳。延喜九年(909)以降没。遍昭の子。左近衛将監であったが出家。宇多上皇の御幸に召されて歌を献する。詠みぶりは機知あって軽妙。

 (5)伊 勢
 生没年不詳。宇多天皇の女御温子に仕え、天皇の寵を承ける。三代集の女流歌人の第一人者。『伊勢集』に恋多き半生が歌物語風に語られている。
 
 (6)凡河内躬恒
 生没年不詳。小国の掾という卑官ながら、各歌合に出詠、屏風歌を詠み、古今集の撰集に参加。貫之と並ぶ歌人で、当代・後世に重んぜられている。

 (7)紀貫之
 貞観十四年(872)ごろから天慶八年(945)ごろに活躍した平安前期の歌人で、漢詩文にも優れていた。官人としては詔勅の起草などに当たる小内記・大内記を勤めた。『古今集』撰進の中心となり、その仮名序を執筆するなど、仮名文学の成立に寄与した。

 (8)在原業平
 (825~80)。阿保親王の五男で、行平の弟、妻は紀有常の娘。『古今集』の代表的歌人で、六歌仙の一人。右馬頭・蔵人頭などを歴任し、官位の上では余り恵まれなかったが、容姿端麗な風流人であった。        おわり