日本史の勉強している

中国や韓国との歴史認識の相違が問題になっているので、「正しい歴史」を勉強しようと思った。

仏典の源流 - 原始仏教

2008-09-24 16:58:51 | Weblog
 私が勉強した「仏典の源流」の中から、感想や先生の講評などをもう少し発表しと思います。そのリポートの中の一問です。
 問題:「原始仏教の教えを学んでの感想を200字以内でまとめてください。」というものでした。
1.私の感想
 日本の仏教が大乗仏教であり、インドで成立した大乗仏教と中期ころまでの密教が、中央アジア・中国・韓国を経て日本に伝えられたもので、日本に来るまでに、そして日本に来てからも、様々な変容を受けたものであることを学びました。その中で、①仏教の重要な考え方の一つである、一切のものは因縁によって、すなわち直接的な原因(因)と間接的な原因(縁)とによって起こり「現在あるものに依存している関係にある」(袖振り合うも多生の縁)ということ。②キリスト教の考え方の違いなどを再認識いたしました。
2.講評
 仏教をその源流からの一滴から考えますと、沢山の発見があります。今まで仏教と思っていたことがひっくり返ることもあるかもしれません。しかし源流を理解するならば、誤ることはありませんね。また仏典の学習は知識を身につけることは勿論ですが学ぶことによってご自身の生活を豊かにしてくれるものなのです。物質的な欲はひとつ叶うとまた次にと果てがありません。けれど精神的な喜び、穏やかな心、明るく生きる心などは不思議なことに求めるほどに満たされるのです。
 
 という言葉をいただき、仏教の考え方や思想などを学んだことにより、現代を理解するのに役立っていると思うし、残されたこれからの人生を「明るく・楽しく・元気よく」生きて行きたいと思っている。    おわり
 

密教ー(後期大乗仏教)

2008-09-05 16:55:20 | Weblog
3.密教的生き方
 真言密教ではあらゆるものに、それなりの存在意義を認めます。そこで、あるがままに個々を認め合うことで、それらすべてを包含する大きな世界が現出してることに気づきます。その一大宇宙世界を専門用語でマンダラとよんでいるのですが、それを図画に描いて具体的に表現します。それがお寺の本堂などで見かける金剛界と胎蔵界の両部曼茶羅です。両部曼茶羅にはたくさんの仏や菩薩、明王や天部などが描かれています。
 空海は、人の心は本来清浄なもので、それは実は仏の心そのものであるというのです。ところが我々は貪りや瞋りや癡かさなどの煩悩によって、心の清浄性が曇ってしまっています。くもった心の人を凡夫といいます。われわれは自分の心を振り返って、本来清浄な様を見とどける努力をしなければいけません。それを専門的に如実知自心といいます。
 それには三蜜加持ということを常に心がける必要があります。われわれは日常、身体と言葉と心の活動を通して生活していますが、それを身口意の三業といいます。それはとかくすると自己中心、我利我利亡者になった自分を軸とする行為(業)の連続ですので、それではいつまでたっても如実知自心ができません。つまり煩悩に迷ったままに暮らしていることになります。ところで仏も、身体と言葉と心により活動を行っていますが、それを三蜜といいます。そこで我々は、われわれの行為たる三業を仏の三蜜に合一させる、相応をさせることで、仏と一体となりうるというのです。それを三蜜瑜伽といい、また三蜜加持といいます。
 仏は宇宙の真理、法そのものなのですから、仏と一体になるということは成仏する(さとる)という表現に同じです。そういうわけで、われわれの行為が仏の三蜜に瑜伽(とけこむ)した状態は、もはや我イコール仏です。空海の説くところの即身成仏はそれをいいます。もっともわれわれの心は、本来清浄であるという観点からすれば、本来的にすでに我々は即身成仏しているといっていいでしょう。ただ、煩悩にけがされているため、そのことに気づかずに暮らしているのです。
 人間の欲望はすなわち煩悩ですから、顕教の教えでは欲望はもっぱらおさえこみ制御すべきものと考えられがちでした。しかし密教では、欲望は消し去るものでなく、むしろ積極的に肯定して、そのエネルギーを成仏への原動力に切り替えさせようとします。すなわち、生きている限り人間には欲望があります。逆に言えば欲望があることを生きているといっていいでしょう。だから実は、欲望そのものは、本来的に善とか悪とかの価値判断がなされない性格のものと考えられています。まさにそこには空という性格が認められます。その意味において欲望は本来清浄なのですから、その存在は積極的に肯定されていいわけです。真言宗の僧がなにかにつけて日常読誦する『理趣経』には、欲望は清浄であること、そしてそれは菩薩の位であるとも説かれています。
 以上みてきたように、密教ではあらゆる物の存在価値を認め、一見成仏にさしさわりがあるかと思われる欲望(煩悩)までをも前向きに肯定して、成仏(さとり)に生かしていこうとしています。そこに密教の基本的な生き方があると言えるのではないでしょうか。また密教は人生肯定主義の宗教ともいえるのです。 おわり
 
 これで仏典の勉強は終わりにします。   !ありがとう・合掌!