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日本史の勉強している

中国や韓国との歴史認識の相違が問題になっているので、「正しい歴史」を勉強しようと思った。

平家物語と方丈記

2012-09-11 13:53:57 | Weblog
 1.平家物語
 (1)作者・成立
 未詳。『徒然草』二二六段に、後鳥羽院の時代(1183~1221)、信濃前司行長が『平家物語』を作り、盲目の琵琶法師生仏に語らせたと書かれているが、注目すべき説が、作者についても、葉室時長説、吉田資経説など多数あるものの確定しがたい。
 なお、琵琶法師の巨匠覚一によって応安四年(1371)に完成された覚一本(語り本・一二巻と灌頂巻)が一般的にはよく知られているが、古くは三巻本であったとか、『治承物語』(六巻)を別称とする説もあり、四部合戦状本(一二巻)・源平闘諍録(一部が現存)・延慶本(六巻一二冊)・長門本(二○巻)・源平盛衰記(四八巻)・屋代本(一二巻)など、様々な諸本をもつ軍記物語である。
 (2)内 容
 歴史的には、天承二年(1132・本文は「天承元年」)平忠盛(清盛の父)昇殿から、建久一○年(1199)の六代(清盛の曾孫)処刑までが対象だが、物語の中心は、平氏の上昇期よりも、清盛が太政大臣となった仁安二年(1167)から、壇ノ浦での平家滅亡の元歴二年(1185)頃までの約二○年間である。そして、平家繁栄になく祇王・子督らの女性哀話、反平家の動きを見せた俊寛らへの過酷な処罰、以仁王の挙兵と宇治での敗退、平家を都から掃討しながら同族の頼朝に滅ぼされる木曾義仲、源義経の勇猛な合戦譚などが物語を展開させ、覚一本では、我が子(安徳天皇)を失った建礼門院の出家と死とを最後に描く。謡曲や浄瑠璃など後代の文学にも大きな影響を与えた。
 
 2.方丈記
 (1)書 名
 作品の中で「広サハワゾカニ方丈、高サハ七尺ガウチ也」と説明される日野(都の東南)の草庵で書かれたことに拠る。
 (2)作者・成立
 出家した鴨長明(蓮胤と称した)によって、建歴二年(1212)に書かれた随筆。一巻。
 (3)内 容
 前半は、作者の体験した都の生活のはかなさが、五大災厄(安元三年の大火、治承四年の大風、同年の福原還都、養和元年から寿永元年へと続いた飢饉、元暦二年の大地震)などの描写とともに記されている。そこには、京都の三分の一が灰燼に帰した大火事とか、母親の死を知らずにその身体にすがりつく幼児の姿など、天災地変の具体的な記述を通じて、〈無常の世)に住む人間の悲劇が、平安時代から鎌倉時代へと続く動乱期を背景にして展開されている。
 後半は、まず自分自身の家系・住環境について述べ、続いて五○歳を過ぎて出家遁世し住んだ大原山のこと、更に日野に移り方丈の庵を築いての閑寂な生活が、仏道への心の傾斜を見せつつ描かれている。
 (4)文 体
 文章は、対句表現などを使った簡明で流麗な和漢混交文であり、作品構想の点で、慶滋保胤の『池亭記』に拠るところが大きいという。     おわり