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日本史の勉強している

中国や韓国との歴史認識の相違が問題になっているので、「正しい歴史」を勉強しようと思った。

漢詩名作(社会)

2012-06-09 13:50:19 | Weblog
  石壕吏[盛唐] 杜甫         石壕の吏                   石壕村の役人

①暮 投 石 壕 邨      ①暮れに 石壕の邨に投ず       ①日暮れに石壕村に泊まった。

②有 吏 夜 捉 人      ②吏有り 夜 人を捉ふ         ②そこへ、夜なかに役人が人をとらえにやって来た。

③老 翁 踰 牆 走      ③老翁 牆を踰えて走り         ③おじいさんは、垣根をこえて走って逃げ、

④老 婦 出 門 看      ④老婦 門を出でて看る         ④おばあさんは、門から出て役人に応対している。

⑤吏 呼 一 何 怒      ⑤吏の呼ぶこと 一に何ぞ怒れる    ⑤役人の呼ぶ声の、なんと怒り狂っていることか。

⑥婦 啼 一 何 苦      ⑥婦の啼くこと 一に何ぞ苦だしき   ⑥おばあさんの泣き声の、なんとはげしいことか。

⑦聴 婦 前 致 詞      ⑦婦の前みて 詞を致すを聴くに    ⑦おばあさんが役人の前に出て申し上げることばを聞くと、
⑧三 男 鄴 城 戍      ⑧三男 鄴城に戍る           ⑧「むすこが三人おりますが、みんな鄴城に戦いに行って守っています。
⑨一 男 附 書 至      ⑨一男 書を附して至れるに      ⑨その中のひとりから、人にことづけた手紙が来ましたが、それによると、
⑩二 男 新 戦 死      ⑩二男は 新たに戦死すると      ⑩ふとりのむすこはつい最近、戦死してしまったとのことです。
⑪存 者 且 偸 生      ⑪存する者は 且く生を偸むも     ⑪生きているむすこだって、ちょっとの間かりそめに生きているだけのことでありますし、
⑫死 者 長 已 牟      ⑫死する者は 長へに已みぬ      ⑫死んでしまったふたりのむすこは、もう永久にすべてが終わってしまったのです。
⑬室 中 更 無 人      ⑬室中 更に人無く           ⑬わたしの家には、もう男に人はおりません。

⑭惟 有 遅々下 孫      ⑭惟だ 乳下の孫有るのみ       ⑭ただ、お乳にぶらさがって離れない孫がいるだけです。
⑮有 孫 母 末 去      ⑮孫有りて 母の末だ去らざるも    ⑮その孫がいるので、母親はまだ自分の実家に帰れないでおりますが、
⑯出 入 無 完 裙      ⑯出入に 完裙無し           ⑯外出するのにも、満足なスカートさえありません。

⑰老 嫗 力 雖 衰      ⑰老嫗 力衰ふと雖も          ⑰この年老いたばばあの私は、すっかり弱ってしまいましたが、
⑱請 従 吏 夜 帰      ⑱請ふ 吏に従ひて夜帰せん      ⑱どうか、お役人のあなたさまに連れられて、今夜にでも戦地に行きましょう。
⑲急 応 河 陽 役      ⑲急に 河陽の役に応ぜば       ⑲すぐにでも河陽の軍隊に行きましたなら、

⑳猶 得 備 晨 炊      ⑳猶ほ 晨炊に備ふるを得んと     ⑳これでもまだ、「朝のごはんたきぐらいの仕事の役には立つでしょう。」と。
   (杜工部集・五言古詩)                                       つづく
 
   

漢詩名作(人生2)

2012-05-22 14:41:55 | Weblog
 1.秋浦歌 [盛唐] 李白         秋浦の歌                  秋浦の歌

①白 髪 三 千 丈        ①白髪 三千丈            ①鏡に照らしてわが姿を見れば、白髪は三千丈もあろうかと思われるほどに長い。
②縁 愁 似 箇 長        ②愁ひに縁りて 箇くの似く長し   ②つもりつもった愁いのために、こんなにも長くのびたのだ。
③不 知 明 鏡 裏        ③知らず 明鏡の裏         ③澄んだ鏡に中にうつるこの姿をみるにつけても、

④何 処 得 秋 霜        ④何れの処にか 秋霜を得たるを   ④この秋の霜のような白髪は、いったいどこからやってきたのだろうか。
    (唐詩選・五言絶句)

 2.曲 江 [盛唐] 杜甫         曲 江                   曲江(のほとり)にて

①朝 回 日 日 典 春 衣    ①朝より回りて 日日春衣を典し   ①朝廷の勤務からさがってくると、毎日毎日春の衣服を質に入れて、
②毎 日 江 頭 尽 酔 帰    ②毎日 江頭に酔を尽くして帰る   ②曲江のほとりで酒を飲み、酔ってから帰る。

③酒 債 尋 常 行 処 有    ③酒債は尋常 行く処に有り     ③酒の借金は普段行くところ、どこにでもあるものなのだ。
④人 生 七 十 古 来 稀    ④人生七十 古来稀なり       ④そんなことより、人生は短く、七十まで生きた者はこれまでめったにいない、せめて生きている間、酒でも飲もうではないか。
⑤穿 花 蛺 蝶 深 深 見    ⑤花を穿つ蛺蝶 深深として見え   ⑤花の間に蜜を吸うあげはちょうは、奥深いところに見え、
⑥点 水 蜻 蜓 款 款 飛    ⑥水に点ずる蜻蜓 款款として飛ぶ  ⑥水面に尾をつけているとんぼは、ゆるやかに飛ぶ。

⑦伝 語 風 光 共 流 転    ⑦風光に伝語す 共に流転して    ⑦風光に伝えよう、わたしとともに、流れていこう、そして、
⑧暫 時 相 賞 莫 相 違    ⑧暫時相賞して 相違ふこと莫れと  ⑧しばらくの間お互いに賞して、互いにそむきあうことのないようにしょう、と。
     (杜工部集・七言律詩)                                      つづく 

  

漢詩名作(人生)

2012-05-09 14:24:02 | Weblog
 1.代 悲 白 頭 翁[初唐] 劉希夷   白頭を悲しむ翁に代はる        白髪頭を悲しむ老人に代わって

①洛 陽 城 東 桃 李 花    ①洛陽城東 桃李の花        ①洛陽の町の東に咲きほこる桃や李の花、

②飛 来 飛 去 落 誰 家    ②飛び来たり飛び去りて 誰が家にか ②その花は春の嵐にあおられて空を飛び交い、一体、誰のところに舞い落ちてゆくのだろうか。

③洛 陽 女 児 惜 顔 色    ③洛陽の女児は 顔色を惜しみ    ③洛陽の娘たちは美しい容貌の衰えていくのを気にかけ、

④行 逢 落 花 長 嘆 息    ④行 落花に逢ひて 長嘆息す    ④道すがら散りゆく花を見て、(わが容色の衰える行く末を思いやり、)深く嘆息をつく。

⑤今 年 花 落 顔 色 改    ⑤今年 花落ちて 顔色 改まり   ⑤今年花が散って、これとともに人の容色も衰え改まり、

⑥明 年 花 開 復 誰 在    ⑥明年 花開きて 復た誰か在る   ⑥来年また咲いたときには、さて、誰がこの世に生きていて、それを見られるのか。

⑦己 見 松 柏 摧 為 薪    ⑦己に見る 松柏の摧かれて薪と為るを⑦千年変わらぬ常緑を誇る松柏の木々が、伐りくだかれて薪となるのをわたしは見たし、

⑧更 聞 桑 田 変 成 海    ⑧更に聞く 桑田の変じて海と成るを ⑧さらにまた、桑畑が大海原に変わるという話も聞いた。

⑨古 人 無 復 洛 城 東    ⑨古人 復た洛城の東に無く     ⑨昔の人はこの洛城の東の春景色をふたたび見ることはないが、

⑩今 人 還 対 落 花 風    ⑩今人 還た対す 落花の風     ⑩今の人もやはり昔の人と同じように、花を咲き散らす無常の風に向かい合っている。

⑪年 年 歳 歳 花 相 似    ⑪年年歳歳 花相似たり       ⑪毎年毎年花は同じように咲くが、

⑫歳 歳 年 年 人 不 同    ⑫歳歳年年 人同じからず      ⑫それを見る人は毎年同じではない。

⑬寄 言 全 盛 紅 顔 子    ⑬言を寄す全盛の紅顔子       ⑬言づてをしたい、今を盛りの若者よ、

⑭応 憐 半 死 白 頭 翁    ⑭応に憐むべし 半死の白頭翁    ⑭死にかけているこの白髪の老人を気の毒に思ってやってくれと。
⑮此 翁 白 頭 真 可 憐    ⑮此の翁の 白頭 真に憐むべし   ⑮この爺めの白髪頭、まことにあわれと思し召せ。
⑯伊 昔 紅 顔 美 少 年    ⑯伊れ 昔は 紅顔の美少年     ⑯わたしとて昔は紅顔の美少年。

⑰公 子 王 孫 芳 樹 下    ⑰公子王孫 芳樹の下        ⑰公子や王孫の仲間に入って、かぐわしい花の樹の下で酒盛りをし、
⑱清 歌 妙 舞 落 花 前    ⑱清歌妙舞す 落花の前       ⑱散りかかる花を前にして、清らかに歌い、美しく舞ったものでございます。
⑲光 祿 池 台 開 錦 繡    ⑲光祿の池台に 錦繡を開き     ⑲光禄大夫さまの池殿のような立派な邸宅で、錦や刺繡をほどこした幔幕を張って遊び、
⑳将 軍 楼 閣 画 神 仙    ⑳将軍の楼閣に 神仙を画く     ⑳神仙の像を描いてあったという、あの跋扈将軍さまの楼閣にも似た立派な高殿で、楽しみにふけったこともありました。
     (唐詩選・七言古詩)                                      つづく
    

漢詩名作(自然2)

2012-04-24 14:11:20 | Weblog
 1.望 廬 山 瀑 布  [盛唐] 李白     廬山の瀑布を望む            廬山の滝を遠望して

①日 照 香 炉 生 紫 紫 烟    ①日は香炉を照らして 紫烟 生ず     ①日光が香炉峰を照らして、紫色のもやが立ちこめている。
②遥 看 瀑 布 挂 長 川      ②遥かに看る 瀑布の長川を挂くるを    ②(峰のあたりを)遥かに眺めやると、ちょうど滝が長い川を立て掛けた(ように流れ落ちている)のが見える。
③飛 流 直 下 三 千 尺      ③飛流 直下 三千 尺           ③勢いよく飛び下る流れは、まっすぐに三千尺もあり、
④疑 是 銀 河 落 九 天      ④疑ふらくは是れ 銀河の九天より落つるかち ④まるで天の川が大空から流れ落ちてきたのではないかと思われるほどだ。
    (李太白集・七言絶句)

 2.江 南 春 [晩唐] 杜牧         江南の春                    江南の春景色

①千 里 鶯 啼 緑 映 紅      ①千里 鶯啼いて 緑 紅 に映ず     ①見はるかす春景色、この江南の地の至るところで鶯が啼き、木々の緑と花の紅とが照り映える。
②水 村 山 郭 酒 旗 風      ②水村 山郭 酒旗の風          ②水辺の村、山際のまちには、酒屋の青いのぼりがはためいている。
③南 朝 四 百 八 十 寺      ③南朝 四百八十寺            ③南朝時代には、四百八十もあったといわれる寺々の、
④多 少 楼 台 烟 雨 中      ④多少の楼台 烟雨の中          ④その高々とそびえる多くの建物が、ぼんやりとけむる雨の中に遠く望まれる。
     [三体詩・七言絶句]

 3.春 夜 [北宋] 蘇軾           春 夜                       春の夜

①春 宵 一 刻 直 千 金      ①春宵 一刻 直 千金          ①春の宵のひとときは、千金の価値がある。
②花 有 清 香 月 有 陰      ②花に清香有り 月に陰あり        ②花はすがすがしい香りにつつまれ、月はおぼろにかげって光もやわらか。
③歌 管 楼 台 声 細 細      ③歌管 楼台 声 細細          ③にぎやかな歌や管弦の音が響いていた高殿も、すっかり騒ぎがしずまって、
④鞦 韆 院 落 夜 沈 沈      ④鞦韆 院落 夜 沈沈          ④ぶらんこのある中庭に、夜が静かにふけてゆく。
   [蘇東坡集続集・七言絶句)                                          おわり


 

漢詩名作(自然)

2012-04-12 14:08:38 | Weblog
 1.飲 酒 二十首 其五 [東晋]東潜  飲酒 二十首 其の五  酒を飲みながら 二十首 其の五

①結 廬 在 人 境   ①廬を結んで 人境に在り   ①いおりを構えて人里に(住んで)いるが、

②而 無 車 馬 喧   ②而も 車馬の喧しき無し   ②しかしここには訪問客の車馬の騒がしさはない。

③問 君 何 能 爾   ③君に問ふ 何ぞ能く爾ると  ③君にたずねる、どうしてそのようなことができるのかと

④心 遠 地 自 偏   ④心遠ければ 地自ら偏なり  ④心が遠く(俗界を)離れているので、(住む)土地も自然とへん
                                    ぴな場所になるのだ(と答えよう)。
⑤采 菊 東 籬 下   ⑤菊を采る 東籬の下      ⑤菊の花を、家の東のまがきのあたりに手折りつつ

⑥悠 然 見 南 山   ⑥悠然として 南山を見る    ⑥ゆったりとくつろいだ気持ちで、南の山の(廬山のゆったりと
                                    した)姿を眺めやる。
⑦山 気 日 夕 佳   ⑦山気 日夕に佳なり      ⑦山のたたずまいは夕暮れに(特に)すばらしく、

⑧飛 鳥 相 与 還   ⑧飛鳥 相与に還る       ⑧飛ぶ鳥は、つれだって(山のねぐらに)帰って行く。

⑨此 中 有 真 意   ⑨此の中に 真意有り      ⑨此の中にこそ、この世の真実(ともいうべきおもむき)がある。
                             
⑩欲 弁 己 忘 言   ⑩弁ぜんと欲して己に言を忘る ⑩(だが)それを説明するとすると、もはや表現すべきことばを
                                    忘れてしまうのだ。
 
 2.鹿 柴 [盛唐]王維   鹿 柴                  鹿 柴

①空 山 不 見 人   ①空山 人を見ず           ①ひっそりとした山には、人影も見えない。

②但 聞 人 語 響   ②但だ 人語の響きを聞くのみ   ②ただ人の話し声だけが、どこからか響いてくる。

③返 景 入 深 林   ③返景 深林に入り          ③夕日がこの深い林にさしこんできて、

④復 照 青 苔 上   ④復た 青苔の上を照らす      ④また、青々とした苔の上を照らしている。

   (唐詩選・五言絶句)                       つづく            

漢文を読む人のために

2012-03-10 14:14:51 | Weblog
 1.漢文読解の基礎
 元来、固有の文学を持たなかった我が国の祖先たちは、漢籍の伝来以降、それを学ぶ方法として、言語の構造を異にする中国の文章、すなわち漢文を、そのまま日本語に置き換えながら訳読したのです。これが訓読であります。
 この訓読によって、漢籍を巧みに読解し、広くその内容を摂氏して、我が国の言語、文学、思想をいっそう豊かにし、我が国の文化を形成する上に大きな役割を果たして来ました。漢文が我が国の古典として尊重されるゆえんはここに在ります。
 次の詩は、安禄山の乱によって、史と至徳二年(757)の春、賊軍に捕らわれの身となっていた杜甫(712~770、時に46歳)が、都の春を眺めつつ、家族を思い国を憂えて詠った「春望」と題する作品である。この詩を読みながら、漢文読解の基礎事項を整理してみましょう。

国 破 山 河 在 ー 国 破れて 山河 在り       [訳]都は戦乱に荒れ果て、山河のみは往時の美しさをとどめている。

城 春 草 木 深 - 城 春にして 草木 深し        町中には春の気配がただよい、草木は青々と生い茂る。

感 時 花 濺 涙 - 時に感じては、花にも涙を濺ぎ      乱れた今の世をしみじみと思うにつけ、花を見ても涙があふれ、
 
恨 別 鳥 驚 心 - 別れを恨んでは、鳥にも心を驚かす   家族とのつらい別れに、小鳥の泣き声にさえ心がおののく。

烽 火 連 三 月 - 烽火 三月に連なり           戦火は、すでに三カ月以上も続いており、

家 書 抵 万 金 - 家書 万金に抵たる           家からの手紙は、万金に相当するほど貴重に思われる。
 
白 頭 搔 更 短 - 白頭 搔けばさらに短く        (どうにもならない悲しみ)白髪頭をかかえこむと、髪もめっきり薄く短くなって、

渾 欲 不 勝 簪 - 渾べて 簪に勝へざらんと欲す     まるっきり、冠のピンも止められないほどである。

  ○国 - 国の都  ○烽火 - のろし。敵の来襲や急変を知らせるために上げる。
  ○三月 - 三か月間  ○家書 - 家族からの便り  ○渾 - まったく。
  ○欲不勝簪 - 冠をとめるピンも、支えきれなくなろうとしている。欲は、状態を示す。          (つづく)
                                      
 
          

太平記・曽根崎心中

2012-02-08 15:47:10 | Weblog
 1.太平記について
 南北朝時代の軍記物語で、四十巻。後醍醐天皇即位の文保二年(1318年)から、後村上天皇の正平二十二年(1367年)=北朝は後光源天皇)までの約五十年間の動乱を記した物語です。作者は小島法師と言われたり、恵珍法印とされたりしていますが、要するにその人たちを中心として、1373年ごろには成立したと考えられています。
 太平記という題名は、戦乱を書いたのになぜ「太平」なのかと古くから問題になっていますが、これも最終巻第四十巻が、「中夏無為ノ代ニ成テ、目出カリシ事共也」と結ばれていることから考えて、久しく太平の世を願う物語と解釈するのが穏当かと考えます。「中夏」は「中華」と考えてもよく、国・都をあらわし、「無為」は、自然に任せて、何事も干渉しなくてよいことです。
 太平記は、軍記物語としては「平家物語」に次いで文学的価値も高く、何かと平家物語と比較されますが、平家物語が、特定の英雄などを美化し、ロマンチックに画き上げているのに対して、太平記は、動乱の現実に直面して生きる人間の姿をそのまま記し、その中で道義を強調しょうとするところに特色があります。したがって、人間悲劇のロマンを求めて読もうとすると、平家物語よりも見劣りがしますが、史実を裏側に思い合わせながら読むと、人間の生き方の種々相が、あぶり出しのように浮かび上がってきて、興味がつきません。
 文体は美しい和漢混交文で、特に、本文を鑑賞していただく巻第二の「俊基朝臣 再 関東下向 事」の道行文は美しいとされ、戦後の教科書にはよく載せられていました。平家物語が琵琶法師によつて「平曲」として語られたのに対して、これは「太平記読み」として講談の祖となりました。「仮名手本忠臣蔵」などの浄瑠璃、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」など、後世への影響も大きいものがあります。
 2.曽根崎心中について
 元禄十六年(1703年)五月、大坂竹本座で初演した世話物浄瑠璃。世話物とは、江戸時代の主として町人社会の出来事や人物に取材した作品で、いわば当時の現代劇です。近松門左衛門56歳の時の作で、これが近松の世話物の第一作です。古今の名作ですが、初演の時から大当たりをとり、当時赤字に悩んでいた竹本座は、この興行で完全に立ち直ったと言います。
 筋は、大坂内本町醤油屋の手代徳兵衛が、主人に返済しなければならない金を、友人の九平次に友情から貸したが、九平次に裏切られ、ついに、恋仲だった蜆川の遊廓の天満屋お初と心中するというものですが、特に、天満屋に押し掛けてきた九平次を前に、徳兵衛を縁の下に隠して足で押えながら、ひとり言に託して心中の約束をする一方、九平次を痛烈に罵倒するお初の愛のまことには胸を打たれるものがあります。また、その道行は、心中以外に愛を貫く手段のなかった当時の男女の心情を描いてあまりあります。また、町人を主人公にする日本最初のドラマとしても、日本演劇史上、画期的な意義を持っています。
 3.道行き
 現在は真実を描くということを重んじるあまり、修辞の美がなおざりにされているきらいがあります。しかし、文は心なり、この二編の文章の美しさから、心は文と一体になっているということも考えてみる必要があると思います。
 ところで、私どもの自然への接し方は二通りあります。一つは楽しさのきわみで接する自然、一つは悲しみの瞳にうつる景色です。若山牧水には旅の歌が多いのですが、あれは孤独の寂しさ、それゆえに心に深くしみ透って、泣けとごとくに語りかけてくる自然でしょう。この「太平記」の東下り、「曽根崎心中」の見おさめのめおと星のひかり、それは牧水らの孤愁を絶対の境地にまで追い詰めたものだけに、彼らの心には、その自然はいかばかり心に沁みたでしょうか。小林秀雄は、そのエッセイ「平家物語」で、夫の戦死を追うて入水する小宰相が最後に見た月を、「常に在り、しかも彼女の一度も見たこともないような自然が。」突然目の前に現れると書いています。
 それはともかく、このような教養が、鎌倉へ、また、大阪・梅田へ降り立つ時、つい目と鼻の先の曽根崎天神へ自然と誘ってみたり、私どもの行動と思いを一段と広く、深くしてくれるはずです。それが古典を読む功徳でしょう。と言われます。  おわり

中国の歴史(つづき)

2012-01-30 15:11:51 | Weblog
 4.三国志と陳寿
 西晋の陳寿が三国志で記述したのは魏晋南北朝時代四百年の幕開けにあたる。いわゆる三国時代五十年の歴史である。魏晋南北朝時代は中国の歴史上、春秋戦国時代につぐ大分裂の時代です。分裂の時代は人びとから安定した生活を奪いますが同時に既成秩序からの解放も与えます。そこには虚飾をはぎ取った赤裸々な人間自体が露出されます。黄巾の乱(184年)による後漢王朝の事実上の崩壊から、、魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権がそれぞれ国を建てて帝を称した三国鼎立の時代は、治世なら「能吏」に終わったかもしれない曹操が「乱世の姦雄」となって天下に覇を称え、貧しい草履売りだった劉備が蜀の皇帝にのしあがることの可能な時代でした。三国志に登場する人物たちが、むき出しの人間臭さをまき散らしながら活躍するのは、まさにこの時代がもつエネルギーの発現でした。
 三国志は全六十五巻。うち魏志三十巻、蜀志十五巻、呉志二十巻。史記と同じ紀伝体の体裁ですが、本紀(皇帝の記録)があるのは魏志のみで、他はすべて列伝です。このことは陳寿が仕えた晋は魏の後を継いでいますので魏を正統としなければならなかったのはやむを得なかったのですが、それが後世さまざまな非難を生みました。しかし魏を正統をしながらも、三国の歴史を書き得た点は評価されるべきです。三志とも表、書を欠きますので当時の制度や文物については纏められていませんが、魏と関係のあった烏丸や鮮卑(ともに北方の民族)や東夷の伝をたて、この頃の東アジアの情勢が少しわかります。この東夷の条に私達にとって問題の倭人伝が載っています。
 陳寿、字は承祚。巴西安漢(四川省)の人。陳寿の父は蜀の将軍馬謖の将校でした。馬謖が諸葛亮の命令に背いて敗戦を招き(街亭の戦い)、斬罪になった時・・・泣いて馬謖を斬るの故事ができました・・・陳寿の父も髠刑という髪切りの刑に処せられました。そのため陳寿は三国志の中でことさらに諸葛亮を貶しめ、父の恨みを晴らしたのだと言われたりしました。陳寿は譙周の下で歴史を学びましたが、この譙周は主君(蜀の後主)に勧めて魏に降服させた人で、譙周への非難が弟子の陳寿にまで及びました。陳寿は先ず蜀に仕えましたが、宦官(後宮に仕える去勢された男の役人)の黄皓に頭を下げなかったので、たびたび左遷されました。その上、父の喪に服している時病気になり下婢に丸薬を作らせているところを人に見られ、世の指弾を受けました。当時の硬直した儒教の礼法では、親の喪にあっては悲しみのために骨と皮になり、栄養失調で死ぬことが美談とされたくらいで、自分の病気を顧みることは許されなかったのです。このため晋の時代になっても長く就職できませんでしたが、幸いに晋の司空(三公の一、水利土木担当)の張華に才を認められ、歴史を編纂する役人となり、三国志を著わしました。三国志の出来栄えによって昇進の糸口をつかみましたが、妨害する人があって実現せず、不遇のまま亡くなりました。
 陳寿の文章は簡潔な名文として称えられました。しかし記事があまりにも簡略過ぎると言うので、南朝宋の文帝が裴松之に注を作らせました。この注が百四十余種の諸書を引用して該博を称えられ、本文と共に長く並び行われるようになりました。なお、元の羅貫中が書いた小説、三国志通俗演義は、この三国志に素材を取っていますが、全く別の書です。
 注1 二十四史とは、史記、漢書、後漢書、三国志、晋書、宋書、南斉書、梁書、陳書、魏書、北斉書、周書、隋書、南史、北史、旧唐書、新唐書、旧五代史、新五代史、宋史、遼史、金史、元史、明史、です。
 注2 総大将である李広利将軍・・・武帝の寵姫、李夫人の兄・・・を貶めることになると武帝が感じたためと言われますが、背後の対匈奴戦を巡る政治的暗闘を窺がわせます。
 注3 この時司馬遷は死刑の判決を受けました。当時死刑を免れるには、五十万銭出すか、宮刑を受けるかのいずれかの方法しかありませんでした。大金を調達できなかった遷が、去勢の屈辱に耐えて生きたのは、父の遺言を果たすためでした。  おわり

中国の歴史

2012-01-17 15:14:03 | Weblog
 1.中国の歴史
 これから読む史記や三国志は中国の歴史書の中でもとりわけ面白いものでしょう。なぜ面白いのかと言うと、それぞれが近代の小説にも似た首尾結構をもち、さまざまな人物・・・皇帝、英雄豪傑、思想家、暗殺者、商人など・・・が生きた人間として描かれているからです。中国の史書では第一に、きれいごとでは済まされない人間の真実を描きました。例えば史記の「呂后本紀」では、想像を絶する残忍性を発揮した女性の一生を描きましたが、この話が事実であるということによって一層私達の心を動かします。このように一人の人物に焦点を当て、個人の伝記を記述する形で歴史を編集する方法を紀伝体と言います。司馬遷が史記によって創始し、以下二十四史と称される中国の正史の伝統的な編集の体裁となりました。これに対して、時間の流れを軸に事件を述べる、編年体という編集の体裁もあります。
 2.史記と司馬遷
 史記は漢の武帝に仕えた司馬遷が書いた上古から、前漢の中期、つまり司馬遷と同時代に至るまでの通史です。全百三十巻。その構成は、本紀(皇帝の記録)十二巻、表〈年表の類)十巻、書(文化史的諸記録)八巻、世家(諸侯の記録)三十巻、および列伝(士庶一般の人々の記録)七十巻となっています。これらは個々に書かれていますが、全体が有機的に結びついて壮大な人間宇宙の世界を描き出しているのです。その構想のたくましさ、社会の矛盾を凝視するまなざしの厳しさ、人間に対する観察力の鋭さ、人間の典型を描く巧みさなどによって、史記は歴史の書であると同時に文学の書となりました。また史記は写実的な文体として優れていると言われていますが、文章の均整を尊んだ当時にあって、これもまた画期的なことでした。
 司馬遷、字は子長。歴史記録を司る太史令の家に司馬談の子として生まれました。十歳で古文〈古い歴史書)を暗誦したという早熟な天才児でした。長ずると広く天下を周遊して歴史家としての素養を積みました。また、学問は儒学を主に学びました。三十六歳の時、父談が亡くなり、書きかけた歴史書を完成して家名を挙げるようにと遺言を残したのですが、その後大事件が起こりました。匈奴に降った将軍李陵を弁護したことが武帝の怒りに触れ、宮刑に処せられたのです。当時の考えでは、祖先の血を子孫に伝え、祖先の祭祀を絶やさぬことが孝道実践の第一歩でした。宮刑はその孝道実践の主体たることを否定する極刑でした。司馬遷にとってこの不幸を補うには、史記を完成し、もって名を後世に挙げ、父母の名を顕す以外にはありませんでした。つまり、史記著述によって宮刑の屈辱に耐え、名を残すことに全力を傾けたのです。史記の文学性は受刑によって開かれた運命観、そして表現者としての自覚にあると言えるのです。
 3.中国(唐代)の生活から
 (1)衣 服
 礼制が貞観(627~649年)に定められ、官吏は服の色によって等級を分けた。三品以上は紫、四・五品は朱、六・七品は緑、八・九品は青、卿大夫の子弟・学生・庶民は白衣。帯には犀帯、玉帯、金帯などがあり、後で結んでいる。婦人はスカート(裙)をつける風習が盛んになり、石榴裙、瑟瑟裙、月色裙、碧紗裙、紅裙などがあり、上着は袿衣である。履物は、官吏は黒色の長靴をはき、私服のときは紐の付いた短鞋をはき、室内に入る時は脱いだ。都では老若男女とも木履をはいた。長安の婦人は輿入れのときには漆の彩色をした木履をはいたという。日本の下駄もこのあたりに由来している。
 (2)食 物
 黄河地方では栗・黍・高粱・麦・菽などの雑穀が、淮水より南では稲が作られていた。また揚子江下流では甘藷が栽培され、これらの五穀のほかに蕎麦・胡麻・葛もあった。焼餅や餛飩・餃子やクッキーもあったようである。肉は、牛・羊・豕・鶏・鶉など、狗・兎・狐・狸などは都では食されなくなる。蔬菜類では、葱・韮・菁・葵・芹・苟など、魚貝も食用に供されている。果物は、梨・桃・棗・核桃・林檎・石榴・蜜柑・栗・葡萄・荔枝など、玄宗が楊貴妃のために、早馬で嶺南から長安へ荔枝をとりよせた話もある。酥・酪・乳腐の乳製品。酒は、黍・粟・米によるものの他、葡萄酒などもあった。
 (3)年中行事
 都を中心に、四季のあるいは仏事の行事は楽しい。正月十五日は元莦の灯籠祭、三月三日は上巳の節句、冬至から百五日目を寒食、その三日後(春分の後十五日目)が清明節、墓参。立春後と、立秋後の第五戊の日を社日、土地神を祭り豊年を祈る。四月八日は灌仏会、五月五日は端午節、七月七日は乞巧祭、七月十五日(中元)の盂蘭盆会、八月十五日の中秋節、九月九日の重陽節など、十二月には冬至など。
 (4)娯 楽
 都長安には多くの仏寺、道観のほか祅教・景教・摩尼教の寺院もあった。これらの寺院の主なものの周囲には、呑刀・吐火・縄技・竿技などイラン風の見世物があり、また西市には胡人が多く、胡食胡餅・胡酒を売り、酒樓には縁眼金髪の胡姫もいた、と言う。   つづく


中国の歴史

2012-01-17 15:14:03 | Weblog
 1.中国の歴史
 これから読む史記や三国志は中国の歴史書の中でもとりわけ面白いものでしょう。なぜ面白いのかと言うと、それぞれが近代の小説にも似た首尾結構をもち、さまざまな人物・・・皇帝、英雄豪傑、思想家、暗殺者、商人など・・・が生きた人間として描かれているからです。中国の史書では第一に、きれいごとでは済まされない人間の真実を描きました。例えば史記の「呂后本紀」では、想像を絶する残忍性を発揮した女性の一生を描きましたが、この話が事実であるということによって一層私達の心を動かします。このように一人の人物に焦点を当て、個人の伝記を記述する形で歴史を編集する方法を紀伝体と言います。司馬遷が史記によって創始し、以下二十四史と称される中国の正史の伝統的な編集の体裁となりました。これに対して、時間の流れを軸に事件を述べる、編年体という編集の体裁もあります。
 2.史記と司馬遷
 史記は漢の武帝に仕えた司馬遷が書いた上古から、前漢の中期、つまり司馬遷と同時代に至るまでの通史です。全百三十巻。その構成は、本紀(皇帝の記録)十二巻、表〈年表の類)十巻、書(文化史的諸記録)八巻、世家(諸侯の記録)三十巻、および列伝(士庶一般の人々の記録)七十巻となっています。これらは個々に書かれていますが、全体が有機的に結びついて壮大な人間宇宙の世界を描き出しているのです。その構想のたくましさ、社会の矛盾を凝視するまなざしの厳しさ、人間に対する観察力の鋭さ、人間の典型を描く巧みさなどによって、史記は歴史の書であると同時に文学の書となりました。また史記は写実的な文体として優れていると言われていますが、文章の均整を尊んだ当時にあって、これもまた画期的なことでした。
 司馬遷、字は子長。歴史記録を司る太史令の家に司馬談の子として生まれました。十歳で古文〈古い歴史書)を暗誦したという早熟な天才児でした。長ずると広く天下を周遊して歴史家としての素養を積みました。また、学問は儒学を主に学びました。三十六歳の時、父談が亡くなり、書きかけた歴史書を完成して家名を挙げるようにと遺言を残したのですが、その後大事件が起こりました。匈奴に降った将軍李陵を弁護したことが武帝の怒りに触れ、宮刑に処せられたのです。当時の考えでは、祖先の血を子孫に伝え、祖先の祭祀を絶やさぬことが孝道実践の第一歩でした。宮刑はその孝道実践の主体たることを否定する極刑でした。司馬遷にとってこの不幸を補うには、史記を完成し、もって名を後世に挙げ、父母の名を顕す以外にはありませんでした。つまり、史記著述によって宮刑の屈辱に耐え、名を残すことに全力を傾けたのです。史記の文学性は受刑によって開かれた運命観、そして表現者としての自覚にあると言えるのです。
 3.中国(唐代)の生活から
 (1)衣 服
 礼制が貞観(627~649年)に定められ、官吏は服の色によって等級を分けた。三品以上は紫、四・五品は朱、六・七品は緑、八・九品は青、卿大夫の子弟・学生・庶民は白衣。帯には犀帯、玉帯、金帯などがあり、後で結んでいる。婦人はスカート(裙)をつける風習が盛んになり、石榴裙、瑟瑟裙、月色裙、碧紗裙、紅裙などがあり、上着は袿衣である。履物は、官吏は黒色の長靴をはき、私服のときは紐の付いた短鞋をはき、室内に入る時は脱いだ。都では老若男女とも木履をはいた。長安の婦人は輿入れのときには漆の彩色をした木履をはいたという。日本の下駄もこのあたりに由来している。
 (2)食 物
 黄河地方では栗・黍・高粱・麦・菽などの雑穀が、淮水より南では稲が作られていた。また揚子江下流では甘藷が栽培され、これらの五穀のほかに蕎麦・胡麻・葛もあった。焼餅や餛飩・餃子やクッキーもあったようである。肉は、牛・羊・豕・鶏・鶉など、狗・兎・狐・狸などは都では食されなくなる。蔬菜類では、葱・韮・菁・葵・芹・苟など、魚貝も食用に供されている。果物は、梨・桃・棗・核桃・林檎・石榴・蜜柑・栗・葡萄・荔枝など、玄宗が楊貴妃のために、早馬で嶺南から長安へ荔枝をとりよせた話もある。酥・酪・乳腐の乳製品。酒は、黍・粟・米によるものの他、葡萄酒などもあった。
 (3)年中行事
 都を中心に、四季のあるいは仏事の行事は楽しい。正月十五日は元莦の灯籠祭、三月三日は上巳の節句、冬至から百五日目を寒食、その三日後(春分の後十五日目)が清明節、墓参。立春後と、立秋後の第五戊の日を社日、土地神を祭り豊年を祈る。四月八日は灌仏会、五月五日は端午節、七月七日は乞巧祭、七月十五日(中元)の盂蘭盆会、八月十五日の中秋節、九月九日の重陽節など、十二月には冬至など。
 (4)娯 楽
 都長安には多くの仏寺、道観のほか祅教・景教・摩尼教の寺院もあった。これらの寺院の主なものの周囲には、呑刀・吐火・縄技・竿技などイラン風の見世物があり、また西市には胡人が多く、胡食胡餅・胡酒を売り、酒樓には縁眼金髪の胡姫もいた、と言う。   つづく