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嘯くセリフも白々しい

主に、「バックパッカー」スタイルの旅行情報を体験記のかたちで書いています。少しでもお役に立てば嬉しく思います。

論山~全州 韓国旅行9

2011年10月02日 | 韓国旅行(2011年9月)

2011年9月9日、10日

 灌燭寺(クァンチョッサ)の山門を出て、バスを降りた道へ戻ると、異臭を感じた。ここへ着いた時には気づかなかったが、何の臭いだろう。今までに嗅いだことがあるのは間違いない。嗅覚の記憶を掘り起こすなど滅多にやらないことだが、そうしてみてわかった。これは肥料の臭いだ。韓国旅行8に掲げた『見仏記 海外篇』で、著者のふたりが同じ場所で同様の経験をしたことを、いとうせいこうが次のように書いている。
 「三十分ほどしてタクシーを降りた我々の前に、長い参道があった。鼻のいいみうらさんはすぐに顔をしかめ、私の方を見て言った。
『これ、懐かしい臭いだねえ。人糞だよ』
 その懐かしい香りは、近くの畑から風に乗って灌燭寺を包んでいた。」
 牛糞などで作った肥料かと思ったが、人間のものだったのだろうか。真偽は不明だ。バス停へ着き、いつまでもこの臭いに曝されるのは辛いなあ、どのくらい待つことになるのかなと思いながら行き先などの掲示を見た。しかし何番がバスターミナルへ行くのかなかなか発見できず、目につくのは論山(ノンサン)駅行きばかりである。そこへバスがやって来たが、それも駅へ行く車両だった。

 その時に自分が考えたこととやったことは、いまだに理解できない。
 私は、ええい乗っちまえと思ってそのバスへ乗り込んだのである。しかもご丁寧に、運転手へ「ノンサンヨッ(論山駅)?」と尋ねながらだった。もちろん駅へ行くつもりなど毛頭ない。自分が考えたのは、このバスはほぼ間違いなく論山市街へ行く、街へ出れば、その辺りにいるひとへ訊いたりして何とかなるだろう、ということだった。
 だが、この街へはわずか1時間ほど前に着いたばかりである。歩いたのは街なかではなく、郊外の寺だけだ。土地勘などあるわけがないし、地図も持っていない。地元のひとに訊くといっても、肝心の言葉が不自由である。これだけ悪条件がそろっているのに、どうしてこんなことをしたのか。今もって我ながら不思議でたまらない。
 しかし、無計画な選択が偶然、最善の選択である場合も存在するのだった。バスが市街へ入って間もなく、何だか見覚えのある景色が前方に現れた。それが近づいてくるにつれ、記憶がどんどん鮮明になってくる。思い出した、これはバスターミナル前の風景だ。この車両は奇しくも、バスターミナル経由の駅行きだったらしいのである。停留所へ降りると、ターミナルの、あの目立たない入り口が見えた。

 全州(チョンジュ)行きのバスには、20分ほど待って乗ることができた。5,400ウォンで、1時間半ほどかかったと思う。

 全州では市外と高速のバスターミナルが隣接して建ち、そのすぐ近くがモーテル街だ。歩き方にはシドニーとフィールというふたつのモーテルについて記事がある。シドニーは35,000ウォンと書かれており、実際に泊まったひとのブログを見てもこの値段である。フィールは30,000ウォンからとあるので、こちらへ行ってみようと考えた。
 受付の小窓へ声をかけると、またもや量産型韓国のおばちゃんが顔を見せた。この国の中年女性が髪型にチリチリパーマを採用している確率の高さは、その背景に国家規模の構造的理由があるのではと不審に思うほどである。それはともかく、このおばちゃんは「パンイッソヨ(部屋ありますか)」の問いに対し、こちらが期待したシンプルな回答を返さず、何か訊いてきた。水原(スウォン)での経験が頭をよぎり、とてつもなく不安になったが、この時は彼女自身が助け舟を出してくれた。おばちゃんは再び同じ質問を口にしながら、頭の片側に手の平を当て、その方向へ首を傾けた。それは「横になる」とか「寝る」というジェスチャーだった。私は「泊まるのか」と訊かれていると判断し、質問を理解できたことに安堵して「ネー(はい)」を5回くらい繰り返した。

 だが、おばちゃんが提示してきた金額は30,000ウォンではなく、35,000ウォンだった。私はここで、今回の旅行で初めて宿代を値切ってみた。
 まず、わざとらしく「え~」と不満の声をあげた。それから「う~ん」と考え込むふりをした。おばちゃんは黙ってこちらを見ている。「ハリントェナヨ(割引できますか)」と、旅行前に調べておいたフレーズを言ってみた。これは値切る際の丁寧な言い方らしい。だが通じなかったようで、おばちゃんは「えあ?」みたいな反応をした。そこで、もっと直截的な言い方「カッカジュセヨ(まけてください)」を叫んでみた。「イトゥル(2日)」と言って、連泊することもアピールした。
 おばちゃんは微笑みながら少しの間考える表情をし、そして何か話し始めた。私はその様子に神経を集中した。言葉の内容が理解不能なのはいうまでもない。しかし、彼女がどんなニュアンスで話しているかはわかるのだ。おばちゃんは値引きを断っているのではないようだった。駄目駄目まけないよと言っているのではなく、何か新しい条件を提示しているらしかった。
 水原では、この状況で自ら交渉を打ち切ってしまった。言葉が不自由なために、相手が自分を拒絶しているのではないにもかかわらず、コミュニケーションを断念してしまったのである。だが今回は、同じ愚を犯すつもりはない。今の状況では、話題が宿代に限定されていることがわかっている。前回は何のことを話されているのか不明だった。今回はそれに比べて、はるかに優位性があるのだ。急いで紙を出し、話す内容を書いて説明してもらおうとした。
 私は「イトゥル」と言って「2」と書き、そこから2本の線を引っぱった。相手へボールペンを差し出して、書いてくれるよう促す。おばちゃんは何か言いながら、それぞれの線の下に35,000と書いた。何だよ、同じじゃんと落胆しかけたが、彼女はそれらの下へさらに35,000、30,000と書いた。そして大きく65,000と書いたのである。1泊分だけ5,000ウォン値引きしましょう、ということだったのだ。
 もちろんOKした。何度も礼を言って料金を払い、鍵を受け取った。

 部屋へ入り、どんな設備があるかを見て、同時にそれらが正常に動作することをチェックする。そうした確認作業をしながら、これなら35,000ウォンと言われるのは無理ないな、と思った。
 まずテレビがでかい。サムスン製の薄型で巨大なものが壁に掛かっている。そして、バスルームとトイレが別だった。さらに、熱湯の出る給水器が部屋にあり、グラス類は滅菌器具に入れられ、それにスティックコーヒーと緑茶のティーバッグが添えられている。それ以外でモーテルに通常あるものは、すべて備えられていた。家具にはバロック調だかロココ調だかの、ゴージャスで高価そうなものがあった。これは見方を変えれば、派手過ぎて趣味が悪いといえるのだが。
 そうした一方で、私があてがわれた部屋ではトイレの掃除がされていなかった。『ディープ・コリア』で根本敬が書いている「韓国人は見栄張りだが、必ずそつがある。」という言葉を思い出した。「そつ」が太字なのは原文のとおりである。


扶余~論山 韓国旅行8

2011年10月01日 | 韓国旅行(2011年9月)
2011年9月9日

 次の目的地は全州(チョンジュ)だが、扶余(プヨ)からのバスはないという情報を事前にネット上で得ていた。どこかで一度乗り換えなくてはならないのだが、論山(ノンサン)という街がいいと書いてくれているひとがいたので、それに従う。

 このことについて調べる過程で、私は奇怪な画像に遭遇していた。巨大な石仏の写真なのだが、その顔はやたらとデカく、頭部が尖っていて、先端に帽子とも何かの台ともつかないようなものを載せている。添えられた文を読んで、論山の灌燭寺(クァンチョッサ)という寺院にある弥勒菩薩像だとわかった。画像から受けた印象は何とも言葉で表現しがたい。凡庸な言い方だが、インパクトがあり過ぎるのだ。はたしてこれは仏像なのか、こんな仏像がありえるのかと疑うほどだが、それは確かに存在し、歩き方に掲載されてすらいるのである。
 秋田書店という出版社が発行するコミック雑誌『週刊少年チャンピオン』に、かつて「マカロニほうれん荘」というギャグ漫画が連載されていた。登場人物のひとりに「きんどーちゃん」というキャラクターがいるのだが、この画像を載せてくれているブログによると、いとうせいこうとみうらじゅんの『見仏記』で、この菩薩像ときんどーちゃんとの関連に言及があるという。同著『見仏記 海外篇』(角川書店、1998年)を見ると、みうらじゅんがイラストのなかで「ボクは思わずこの顔『マカロニほうれん荘』のキンドーちゃんを思い出したっス!」と書いている。
 うーん、似ているという意味だったら、ちょっと違うかなと私は思った。きんどーちゃんの瞳はもっとつぶらである。強いていえば、このキャラクターが不機嫌に薄目を開けているときの表情に似てなくもない。唇のあたりはきんどーちゃんっぽい雰囲気があるけど。連想させるとすればこのへんだよね。
 まあそんなことは措いとこう。論山を経由して全州へ行くのは、バスで2時間ほどの行程という。途中の乗り換えで次の便をどのくらい待つか不明だが、大した時間ではないだろう。どんなに長く見積もっても、全体で半日あれば着く。論山で少し寄り道し、このきんどーちゃん、いや弥勒菩薩像を見に行くことにした。

 扶余から論山へは2,300ウォン、30分ほどで着いたと思う。歩き方へ書かれているとおりに、論山のターミナル前にある市内バス停留所からカヤゴク方面行きへ乗ろうとする。行き先や番号の書かれた掲示を読み始めてすぐに、バスが1台やって来た。フロントガラスにある行き先表示が、先ほどから見つけようとしていたカヤゴクというハングルに似ている。あっ、と思ったが躊躇っているうちにバスは客を乗り降りさせ、走り去ってしまった。再び掲示を読むと、それはやはり乗るべき車両だった。
 そうやって目当てのバスに乗り遅れると、次のバスはなかなかやって来ない。この不思議な法則は、旅行者の誰もが経験しているのではあるまいか。到着するのはまったく関係なさそうな地名を表示した車両ばかりで、自分の乗りたいものが一向に現れない。
 バスを待つことにだんだん飽きてきた。だが気を取り直し、周囲の景色や目印となりそうな建物をよく見て、記憶するようにした。論山のバスターミナルはすごく目立たない入り口をもっているので、ここへ戻って来た時に通り過ぎてしまうのを避けるためである。また、市内バスへ乗り込むひとが料金の投入口へカネを放り込む様子を観察し、金額を確かめた。案の定、歩き方に1,000ウォンとあるものの、それは1,200ウォンに値上げされていた。

 次々にやって来るバスを眺めているうちに、あることへ気がついた。それは、カヤゴクというハングルを掲げたバスは来ないものの、自分が行こうとしている寺の名前を表示したものは頻繁に通り過ぎている、ということだった。ガイドブックを開いてその文字を確認する。やはりそうだった。今行ってしまったバスも、灌燭寺というハングルを出していた。近づいている次のバスにも同じ文字がある。今度は迷わず乗り込んだ。「クァンチョッサ?」と運転手のおっさんへ叫ぶと、彼は怪訝な顔をしながら頷いた。
 後になってわかったのだが、この寺は論山の市街地から外へのびる主要道の脇にあった。その道を走るバスは数多くあり、それらはいずれも寺のそばにある停留所を通る。必然的に多くの車両が灌燭寺行きとなり、カヤゴク行きに拘る必要などなかったのだった。

 しかし、一難去ってまた一難である。ようやくバスに乗れたものの、今度は降りる場所を乗り過ごしそうになった。
 この寺院へは多くの参拝者や観光客が訪れるようで、前方の席へ座りフロントガラスの向こうを睨んでいると、寺への行き先を示す看板が次々と出てくる。そのうち、この辺りで降りるべきなのでは、と思うような場所へさしかかった。だが運転手のおっさんは微動だにせず、ハンドルを握っている。そばに座っていたおばちゃんがクァンチョッサ云々と声をかけてきた。「ネー(はい)、クァンチョッサ」とわけがわからないまま答えると、おばちゃんがさらに何か言った。今度は語調が強い。それへおっさんが反応した。バスが減速した。ああやっぱりここだったのかと思い、礼を言いながら降りた。おっさんは早く言えよというような顔をしている。
 運転手のおっさんに行き先を伝えたのだから、そこへ着いたら教えてくれるだろう、そんな曖昧な期待をしていた自分のミスだった。おばちゃんに助けられなければ、どこか知らない遠い場所へ行ってしまうところだった。

 道端に立ち、看板が示す灌燭寺の方角へ目をやる。すると巨大な石仏の横顔がもう見えていた。おお、ついにやって来た。きんどーちゃん、じゃなかった弥勒菩薩像、ついにやって来ましたぞと心のなかで呟きながら、そこへ至る坂を上り始めた。
 拝観料は1,500ウォン。平日の午前中だからか、ひと気がほとんどない。職員らしい女性が草むしりをしている。近くの林から時折、こここここここ、という音がして辺りへ静かに響いていた。キツツキの仲間の鳥が木を叩いているらしい。僧服の男性がひとり、境内を横切って行った。菩薩像は何も言わず、そうした光景を見つめている。
 灌燭寺は、そんな場所だった。

水原~扶余 韓国旅行7

2011年09月30日 | 韓国旅行(2011年9月)

2011年9月7日、8日

 朝、アラムヨインスクを出る。この宿には心の底から感謝している。会話がほとんど成立しないにもかかわらず辛抱強く相手をしてくれたおばちゃん、受付でいつも愛想よくしてれたおっさんにはお礼をいくら言っても足りない。

 韓国の長距離バスターミナルには「市外バスターミナル」と「高速バスターミナル」とがある。その違いについてはやはり、ガイドブックやネット上にさまざまな記述がなされているのでここでは触れない。水原(スウォン)にあるのはこれらふたつを合わせた「総合バスターミナル」だった。そこへ行く市内バスの番号をインフォメーションで教えてもらっていたが、地図を見るとそれほど遠くなさそうだったから徒歩で向かう。しかし思いのほか長い距離を歩き、結局小1時間かかってしまった。

 建物の1階にある「市外バスターミナル」のほうの切符売り場へ行き、窓口で「扶余(プヨ)」と叫ぶ。12,800ウォン。よく憶えていないが、1時間に1本以上の割合で便があったと思う。私は20分ほど待って、車上のひととなった。
 このバスは公州(コンジュ)を経由し、もともと多くなかった乗客はそこでほとんど降りてしまった。残ったのは私と、すぐ近くの席に座りケータイで延々と喋ったり化粧をしたりと忙しい下品な婆あだけ。運転手が検札にやってきて、乗車時ではなくここで切符をもぎるのかと思ったら、チケットを丸ごと取られてしまった。

 今回の旅行では長距離バスに約10回乗った。気付いたことを少し書く。
 まず、そのほとんどすべてで、こうしてチケットを巻き上げられた。半券がこちらの手元に残ったのは2回ほどしかない。だが切符には必ずミシン目が入っており、もぎってもらっている地元のひとも何回か見たので、その旨を言えばやってくれるのだろう。
 また、切符に座席番号があっても、原則としてすべて自由席のようだった。先述の婆あは私のチケットに書かれた番号の席に座っていた。やむなく近くへ腰を下ろしたのだが、そこの番号を持っているひとがいたかもしれず、しかし最後まで何も言われなかった。それに、そもそもチケットに座席番号があることのほうが少なかった。有って無きが如しのものだと悟ったが、印字されている場合はトラブル予防のため、なるべくその席へ座るようにした。

 扶余のターミナルには2時間足らずで着いたと思う。宿はユニバースモーテルを選んだ。歩き方では記事がなく、地図に名前だけが載っている。受付のおばちゃんへ来意を告げると、「オンドルパン」か「チムデッパン」かを訊いてきた。前者がオンドル部屋なのは理解できるが、後者がわからない。同様のやりとりを記したブログを読んだことがあり、それを書いてくれたひとは「チムデ」のほうを選んでいた。とくに根拠もなく私も同じ選択をしたが、後にそれは「寝台」のことだと知った。料金を尋ねると「サムマン」と言いながら指を3本立てる。少し高いなと思ったが、値切るのが面倒臭かったので了承した。

 ここは建物に年季が入っているが、各種の設備は標準的なモーテルと同じだと思う。熱湯も出る給水器は各階にあり、それを使ってカップラーメンを朝食にした。
 アラムヨインスクと違いバスルームでお湯がふんだんに出るので、数字の学習を兼ねた洗濯をした。これがいったい何のことなのかは、当ブログのタイ旅行2を参照されたい。まず、1から9までを確実に憶えることへ専念した。それが終わったら、位を徐々に上げていく。10から90までの10刻みの数、100から900までの100刻みの数という具合である。それ以外の数字、たとえば11、12や203、345などという細かいものは、実際に使う可能性が皆無と思われたので無視した。旅行の最中にこうして憶える数を増やしていき、最終的には90,000までを数えられるようにした。
 もう、言葉であたふたするのはご免である。私はこの習慣を帰国の直前まで続けた。


水原 韓国旅行6

2011年09月29日 | 韓国旅行(2011年9月)
2011年9月5日、6日

 「まいったな」と呟き続けながら安宿街をあてもなく歩く。同じ街路を何度も通り、同じモーテルの看板を何度も眺めた。
 そのうちに、血の上った頭が徐々に冷却されてくるのを感じた。混乱した脳味噌が落ち着きを取り戻し、絶望に代わって建設的な考えを登場させることになんとか成功した。
 やるしかないのだ、と考えた。何回でも、何十回でもやるしかないのだ。会話が成り立たなくても、断られても、安宿の扉を叩き続けるしかないのだ。そのうちに、交渉を成立させるヒントが得られるかもしれない。あわよくば泊めてくれる所が見つかるかもしれなかった。永遠にうまくいかない可能性もあるだろう。しかし、成功する可能性もまた、ゼロではなかった。

 立ち止まって周囲を見回した。もう宿泊場所の候補などない。だが、あてがない以上、場所はどこでもよかった。その時は比較的小さな宿が並ぶ路地を歩いていた。そのうちでいちばん宿代が安そうな、みすぼらしい建物を選んで入り口のドアを開けた。
 小窓へ声をかけると、先ほどのひとよりは可愛らしい感じだが、やはりチリチリパーマの量産型韓国のおばちゃんが出てきた。「パンイッソヨ(部屋ありますか)」と訊くと、「ネー(はい)」という答えが返ってきた。
 一瞬で、目の前が明るくなったような気がした。
 これだ。
 これが、現地の言葉に不自由な、私のような外国人が待ち望んでいた返事の仕方だった。
 「ありますか」と尋ねたら「はい」か「いいえ」、「いくらですか」と訊いたら金額。それだけのシンプルな回答。この返事だけを言ってくれればいいのだ。これこそが、理想の回答方法だった。ほかのことは答えてくれなくていい。どうせ言われても理解できないのだ。この回答以外のことをごちゃごちゃと返されてしまうから、哀れな外国人は途方に暮れ、混乱し、絶望してしまうのだ。
 訪ねた最初の宿で真っ暗になり、気を取り直して臨んだ1軒めで欣喜雀躍する。我ながら不様なほど浮き沈みが激しいが、今はそんなことを反省している場合ではない。このおばちゃんと会えたのは僥倖だ。彼女との交渉は何としても成立させなくてはならない。小汚い宿だが、ここには可能性があった。ここで失敗したら、次はないかもしれないのである。

 「オルマイエヨ(いくらですか)」と尋ねると、おばちゃんが何か言った。通じなかったかと思って、空港バスの時に続いて『ディープ・コリア』が教示するとおりに「オルマエヨォオ」と叫んだ。しかし彼女は同じ答えを返す。それに今度は、指で何やら数字らしきものを示していた。そうか、金額を言っているのかと思ったが、値段を訊かれているのだから当たり前である。一方こちらは、いくらなのかまったく理解できない。私は今回の旅行を始める前に、韓国語の数字を憶えてこなかった。おばちゃんの言っていることがわからないのも、これまた当たり前である。
 私は後悔という精神活動をほとんどしない人間だ。何か失敗をしても、それは自分がその時点でもつ能力の産物であり、それより以前のことをほじくり返して考えるのは価値がないと思っている。おばちゃんが言う数字を理解できないのは、あらかじめ数字を憶えておかなかったためで、それはその時点での判断や行動の所産だ。これは当然の成り行き、結果であり、数字を学習しておけばよかったと考えることに価値はない。そんなことを考えても、自分がもつ能力の産物、判断や行動の所産は既に存在してしまっており、まったく変化しないからである。
 しかしこの時の私は、数字を学習しなかったことについて激しく後悔した。急いでポケットから紙幣を出し、おばちゃんに示す。必要な分を実際のカネで教えてもらおうとしたのだ。幼稚で涙ぐましい行動だが、なりふり構っていられない。彼女は会ってすぐにこちらを外国人だと理解したようだが、ここまで言葉が通じないとは思わなかったらしい。ちょっと黙った後、ついて来なさいという身振りをして階段を上った。
 昭和30年代や40年代の日本に典型的なアパート。建物の内部はそんな雰囲気だった。通されたのは3畳ほどの部屋で、ベッドのほか、テーブルのような小さい台とテレビがそれへくっつくように置かれている。ほかにはほとんど何もない。というより、何も置けない。ベッドで部屋が一杯になってしまっており、その脇をカニ歩きするのも困難だ。シャワーとトイレは薄暗い共同のものがすぐ隣にある。部屋を覗き込みながら、何だかすげー所に来ちゃったなと思った。
 おばちゃんが再び、指で数字を作りながら何か言った。マンとかオッチョとか話しながら指を1本立てたり手の平を開いたりしている。乏しい想像力をフル回転させて、なんとか理解した。15,000ウォン。「マン」は10,000、「オッチョ」は5,000だった。
 断るはずがないし、断ることなどできない。ここを離れたら、次はないかもしれないのだ。その場で15,000ウォンを払う。おばちゃんがにっこり笑って階下へ戻ろうとするのを慌てて呼び止めた。呼びかけたり呼び止める言葉を知らないので、日本語である。振り向いた彼女に、ドアへ鍵を差し込む真似をして「これは」とまたもや日本語で訊いた。「鍵」とか「これ」という言葉も知らないのである。

 おばちゃんが持ってきた鍵をノブへ差し込んで、開閉の方法と確実に動作するかを確認した。ドアを閉め、改めて部屋を見た。
 これが、今の自分にふさわしい部屋なんだろうなと思った。これが、現地の言葉を学習しておくことを怠った旅行者が、味わうべき状況なのだろう。高いカネを払って言葉の通じる宿へ行くか、それとも、こうした安い所に行き当たり、それを黙って受け入れるか。これらのうち、どちらかなのだろうと思った。今の自分は後者を選択したのだ。窓を開けると、隣にある安宿の勝手口が見えた。焼酎の空き瓶が何十本も無造作に置かれ、かすかに排泄物の臭いがした。
 と、ドアがノックされ、おばちゃんの声がした。宿代は払ったし、ほかに何の用があるのかと訝しみながら開けると、手招きをされた。彼女がほかの部屋を指差して何か言う。そこのドアを開けて一緒に覗き込んだ。その部屋は、狭さが今の部屋と変わらず、窓の外が隣の壁なので昼間でも暗いが、シャワーとトイレが付いていた。おばちゃんは指を二本立てた。オッチョやら何やらと言っていることと考え合わせると、払った額に5,000ウォンをプラスして、20,000ウォンのこの部屋へ移りなさいよということらしい。
 すぐにOKした。私は共同のトイレ、シャワーがあまり好きではない。この部屋は洗面台がなく、シャワーからはぬるま湯しか出ないことが後になってわかったものの、自分の使いたい時に自分だけの使える設備があるのは何よりだ。おばちゃんはほかにもエアコンや扇風機が付いていることを強調して、5,000ウォンという言葉を繰り返している。たったそれだけのカネを追加すればここに泊まれるんだから安いもんでしょ、ということを言っているらしい。寒がりの自分にとってはどうでもいいのだが。

 寝場所を確保して、ようやく本格的に落ち着きを取り戻した。部屋で荷を解き、少し休んだ後でドアをロックし廊下へ出た。おばちゃんの旦那らしい男性が受付にいたので鍵を渡し、夕食のため外へ出る。道に迷ったときに備え、宿の名前と住所を控えておこうと思った。振り返って看板を眺め、ハングルを読み、インフォメーションでもらった地図に書き写していく。
 「ア・・・ラム・・・ヨ・・・」
 そこへ突然ドアが開いて、旦那のおっさんが飛び出してきた。微笑とともに1枚の紙を手渡されたが、そこには宿の名前と電話番号が記してあった。私が看板を読んでメモするのを見ていたらしい。
 この宿の名前は「アラムヨインスク」(Hyanggyo-ro 3beon-gil 46。ツーリストインフォメーションと駅前の大通りを挟んで向かい側あたりにある石畳の歩行者天国へ入り、1本目の左折路を道なりにどんどん進み、コンビニGS25、スタバの名前をそれぞれパクった2店の間にある道がHyanggyo-ro 3beon-gil)と読めた。「アラム」はおそらく屋号だろう。でもヨグァン(旅館)ではなく「ヨインスク」って何だ、と思ったが、帰国した後に調べて了解した。それは旅人宿のことで、モーテルや旅館より1ランク低い種類の宿らしい。
 しかし、ここは意外と繁盛しているようだった。夜になるとほぼ満室になるらしく、若いカップルや女性どうしのふたり連れすら泊まっているのが、周囲の部屋から丸聞こえの韓国語から確認できた。一方、過去においても現在においても、ここに泊まるもの好きな外国人は自分だけなのではないかと思う。

 私はこの宿に2泊した。

仁川~水原 韓国旅行5

2011年09月28日 | 韓国旅行(2011年9月)
2011年9月5日

 入国手続と通関を済ませて到着ロビーへ出た。空港内の両替レートは街なかに比べて悪い、という情報をネット上で事前に得ていたので、10,000円だけウォンへ替える。
 今回の旅行では、かつて訪れたことのあるソウル、釜山(プサン)、慶州(キョンジュ)へ行かないことにしていた。したがって仁川(インチョン)空港からは、多くの旅行者がそうするようにソウルへと向かわず、ほかの街を目指すことになる。その街に水原(スウォン)を選んだ。
 やはりネットを使って事前に調べると、仁川空港からのバスは水原市内最高クラスというホテルキャッスルへ着くとのことだった。しかし私が目指す安宿街は、このホテルから数キロ離れた水原駅前にある。荷物を担いでそこへ行くには市内バスを使わないと辛そうだ。到着したその日からいきなりローカルバスか、ハードル高そうだなあと思い、さらにいろいろ調べてみた。すると、空港からバスで水原駅へ行ったことがあると書き込んでいるひとがいた。
 地方都市行きバスのチケットを売るブースは到着ロビーと、建物を出た所の両方にある。ロビーのブースへ行って英語で訊いてみると、水原駅に着くバスは確かにあり、値段がホテルキャッスルへ向かうものと変わらない。ただし、キャッスル行きが約20分間隔で出ているのに対し、こちらは1時間に1本である。だが市内バスを使う手間とカネをかけるよりいいと考え、駅へ行くほうを選んだ。値段は12,000ウォン、車両は3列シートで自由席だった。発車前に検札があり、運転手が何か訊いてきたので「スウォンヨッ!(水原駅)」と『ディープ・コリア』から学んだとおりに発音したら、無言で通り過ぎた。

 1時間ほどで到着。駅のすぐ近くにあるツーリストインフォメーションへ入る。漢字で「日本語」と書かれた名札の向こうへ座るおっさんに、街の地図をもらい、安宿が集中するエリアを確認し、次の街へ向かうためのバスターミナルへどう行くか尋ねた。
 入国してからここまで、「アニョハセヨ(こんにちは)」「カムサハムニダ(有難う)」「スウォン」「スウォンヨッ!」以外の韓国語を喋っていない。ここまでは、日本語か英語で用を済ませることができた。そう、ここまでは。

 韓国の安宿に関しては、ガイドブックやネット上にさまざまな記述があり、特にネットでは多くのひとが体験談や考察をブログなどへ載せてくれている。したがって詳しい説明はそれらに譲り、ここでは長々と書くことを控える。
 今回の旅行で私が主に使ったのはモーテルだった。「旅館」および「モーテル」のハングルは、最も早く憶えものだったのではないかと思う。もし看板にこれらの文字がなくても、いわゆる温泉マークがあればそれは旅館やモーテルなどの安宿だ。なので、これらの文字と温泉マークを目当てに探せば、とりあえず宿には困らないはずだ。そう、困らないはずだった。

 駅を背にして左前方が安宿街であり、そこには夥しい数のモーテルや旅館が並んでいる。歩き方は水原での宿泊について、「ソウルから日帰りのほうが旅行者には何かと快適だろう。水原駅前の旅館街は風俗街になっているので、トラブル防止の観点から避けたほうが無難。」としている。冗談じゃない、こっちはその妖しいエリアへ積極的に泊まりたいんだと思ったが、実際ここを利用したことのある日本人旅行者は多くないようだった。ネットで検索しても、有用な情報がきわめて少ないのである。泊まった経験を記したものをいくつか発見したが、宿の場所や名前などに触れずじまいで、ほとんど参考にならなかった。
 そうしたなかで、こんなことを書いてくれているひとがいた。ロンプラに紹介されている「サンボ」というモーテルの向かいには「DOORI」というモーテルがあり、宿代は30,000ウォンだった、という。私はこうした情報をパソコンの画面からガイドブックへ転記していた。どちらの宿に関しても、場所までは記されていない。だが、温泉マークとハングルの洪水で酔いそうになるこの見知らぬ安宿街で、具体的な存在を感じさせるのはこれらふたつの名前だけだった。薄汚い街路をいい加減に歩き回り、そのサンボ、あるいはDOORIモーテルを探す。

 しばらくして、「サンボ」と読めるハングルを看板へ掲げた建物に偶然行き当たった。しかし、その向かいにDOORIなどない。本当にここでいいのかと思いながら、まあとにかく入ってみよう、問題がなければそのまま泊まっちまえと考えた。
 受付の小窓を覗き込んで「アニョハセヨー」と声をかける。とくにこれといった特徴のない、量産型韓国のおばちゃんみたいな女性が顔を出した。「パンイッソヨ(部屋ありますか)」と問うたら、おばちゃんが何か言った。しかしまったく聞き取れず、理解できない。こちらの発音が通じなかったかと思い、もう一度訊くと、彼女も同じ返事を繰り返した。ならばと思って質問を変え、値段を尋ねてみたものの、おばちゃんは再び同じ言葉を私へ浴びせた。その様子は「だから、さっきから××××って訊いてるんだけど」というように感じられた。だがこちらは、その××××がわからないのだ。それに、「わからない」ということを相手へ伝える言葉さえ咄嗟には出てこなかった。「ナヌン、イルボン(私は、日本)」と言って韓国語の不自由な外国人であることを伝えようとしたが、反応は変わらなかった。
 しかし、これだけはわかった。おばちゃんは、私を拒絶しているわけではない。おばちゃんの語調や態度は、あんたなんか泊めないよ、と伝えようとしているものではなかった。彼女は明らかに、こちらへ何か尋ねているのだ。宿泊を断りたいのではなく、私を客とみなし、その客を迎えるのに必要な何らかの情報を得ようとしているのだった。
 だが、こちらはそれが何なのかまったくわからず、見当さえつかない。言葉が途切れ、我々の間に白い空気が流れた。
 私は、それ以上の会話を断念した。曖昧な笑みを浮かべつつ「カムサハムニダ」を連発し、そのモーテルを辞した。その際おばちゃんが、どんな表情をしているかは見なかった。

 外へ出て、「まいったな」と呟いた。何度も呟いた。何なんだあれは、と思った。いったい、何を訊いているのか。こちらの何を知ろうとしているのか。今から思えば、それは「ひとりなのか、連れがいるのか」とか「泊まりなのか、休憩なのか」くらいのものだったのだろう。だが質問の中身がわからない以上、「ネー(はい)」とも「アニヨ(いいえ)」とも答えようがない。こうした推測が外れていたときのことを考えると、迂闊な返事はできなかった。たとえば、質問が料金に関するものだった場合、それは重大なトラブルにつながりかねないのだ。
 しかし何よりも、ある可能性が私を半ば絶望させていた。それは、安宿へ泊まろうとするたびに同じ経験をすることだった。今回と同じように、受付の小窓を覗き、「アニョハセヨ」と声をかけ、宿のひとと交渉を始める。しかし会話は成立せず、相手にとって意味不明な愛想笑いをしながら建物を出る。モーテルや旅館へ行くたびに、それを何度も繰り返す。その行為が報われるのは、いったい何回め、何十回めのことなのだろうか。それとも、成功の果実は永遠に与えられず、この国にいる間はずっと、日本語や英語の通じるクソ高いホテルへ泊まり続けざるをえなくなるのだろうか。

 韓国を17日間で一周しようとする旅行は、始まったばかりだ。しかし私は、この出来事で早くも挫けようとしていた。