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高浜虚子『柿二つ』(文学表現と思想の会でのリポート)

2015-01-16 21:35:27 | 読んだ本
        高浜虚子『柿二つ』             松山愼介
この作品は、高浜虚子が師正岡子規との交流を小説形式でえがいたものである。
明治三十一年一月、松山で「ほとゝぎす」が創刊された。子規の俳句運動を支援するために、柳原極堂が出した。「ほとゝぎす」は三百部の発行だったが、すぐに経営がむずかしくなった。その後、子規の全面的な協力のもとで、経営に高浜虚子があたり、東京で「ホトトギス」が発行されることになった。この数年前の明治二十八年に子規は虚子に俳句運動の後継を打診したが、断られている。前半はこの子規と虚子の後継問題が取り上げられ、後半は死にいく病床の子規について書かれている。
高浜虚子は『柿二つ』(一九一五年)の一方で『子規居士と余』(一九一一年 『回想 子規・漱石』岩波文庫)を書いている。そこでは「後継者を作るというようなことは、生い先が短いと覚悟した居士に在っては、それが唯一の慰藉ともなるのであったろうが、冷かにこれを言えば、そういうことは幼稚な考えであって、居士の後継者は決して一小虚子を以てこれに満足すべきではなくして、広くこれを天下に求むべきであったのである。(中略)たとい一小虚子であってもその虚子を居士の意のままに取扱いたいと考えたことはやや無理な注文であったともいえるのである」と弁明している。
子規は東京大学予備門(第一高等中学校)在学中の二十二歳で喀血し、肺病と診断され、以後死を意識して生きることになる。明治二十三年東京帝国大学文科大学哲学科に入学した時の身体検査では、百六十三センチ、五十二キロという記録が残っている。明治二十八年、日清戦争に従軍し帰国途中の船中で喀血し重態に陥る。神戸、須磨で療養にあたり、虚子は日本新聞社長陸羯南の報により看護にあたる。子規の腰痛は結核性脊椎カリエスと判明し、死ぬまでの約六年間、俳句と関わりながら闘病生活を送ることになる。子規が『再び歌よみに与ふる書』(明治三十一年)で「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」ときめつけたのは有名だが、この文章の後半で「実は斯く申す生も数年前迄は古今集崇拝の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拝する気味合は能く存申候」と書いている。古今集時代には歌は美となる言葉が決まっていて、それを組み合わせたり、また屏風の絵を見て、あたかもそこへ行ったかのような歌を作ったりしていた。そのような作風に対する批判から子規の「写生」、「写実」がでてきたのではないだろうか。
『柿二つ』は「三千の俳句を閲し柿二つ」からきているが、子規は「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」など、柿の句をたくさん詠んでいる。この句について河東碧梧桐は「柿食ふて居れば鐘鳴る法隆寺」とすればという異見を出したが、子規は「句法が弱くなる」として退けた。法隆寺が有名になり始めたのはこの頃のことだそうである。花といえば、万葉集では梅、古今和歌集では桜となるが、柿は食べ物なので歌の対象になることはなかった。「柿が秋の代表的風物になったのは俳句が柿を詠むようになったからだ」(坪内稔典『正岡子規』 岩波新書)という。
 富士正晴に『高浜虚子』(角川書店)という作品があるが、それによると富士正晴の父が「ホトトギス」の投稿者であり、母の末妹の亭主、白川朝帆が同人であったとのことである。朝帆によると、虚子の「句はわしらと大して変らん。わしらの方が時々もっと良え句を作っとる時はあるぞ。じゃがな、選句となると天下に虚子に及ぶものはひとりもおらん」ということになる。また句が選ばれ、同人になるにあたっては貢物をたくさんする必要があるとも言っていたという。また戦後、桑原武夫が『第二芸術論』を書いた時、虚子は俳句を第二芸術と、芸術に入れてもらえたのは有難いことだと言ったということに関して富士正晴は「俳句も芸術でありましたか、知らなんだよ」とうそぶく虚子の微苦笑を感じて、とてもかなわぬ大人と思ったという。
『柿二つ』の死にいく子規の描がき方は見事である。死の数日前に心臓の動きが弱り、足に水が溜まって激痛に呻く子規の姿は目に浮かぶようであった。司馬遼太郎の『坂の上の雲』の子規の死の場面はこの『柿二つ』を参考にしているそうである。子規の母は最後に「NはKさんが一番好きであった。Kさんには一番お世話になった」と言った。一方、坪内稔典『文章家・虚子』によれば、河東碧梧桐に『子規の回想』(昭和十九年)という文章があり、そこでは死んだ子規の身体を真っ直ぐにしようとして、子規の母は「サア、もう一遍痛いというてお見」と言ったという。この時、虚子は席をはずしていた。つまり子規の母の言葉として二通りの言葉が伝えられているわけである。この虚子について坪内稔典は「虚子はいわば、私的な挨拶の場の言葉を水戸黄門の印籠のようにしてしまったのではないか」と疑問を投げかけている。子規は三十五歳で死んだが、虚子は八十五歳までしぶとく生き抜いた。
                                2015年1月10日


 補遺
 『柿二つ』はしたたかな作品である。子規からの自分の後継者となってくれるようにという頼みを高浜虚子は断り続けた。ところが子規の死後、この作品を書くことによって、自分が子規の正当な後継者であることを世間にアピールしたようにも思える。虚子と並んで子規の弟子であった河東碧梧桐についてはほとんど触れられていない。「ホトトギス」も長男年尾に継がせ、年尾はまた娘、稲畑汀子に継がせている。俳句界の世襲制度を始めたのは高浜虚子であろうか。ともあれこの作品は、そのような虚子のしたたかさを見せてくれる。

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