日々の気付き

自分への提言

「永遠」に「在る」為の条件

2019年08月21日 17時19分48秒 | 日記
 私たちが、時間と空間の連続の中に「在る」ために必要な条件とは、「現在」(肉体の在る時刻と場所、感知し得る波動の全て)において、触覚(体表・体内奥感覚)に関心を持ち、与えられる印象に基づいて、大脳感覚野内で、自らの「願望」を具体化してゆく事です。
 私たちに与えられる生命力とは、創造主から来る「印象」という波動エネルギー以外にはありません。
 印象は私たちの願望に則して与えられ、願望と世俗的な危機管理(忌避の感情)とは直接的な関係はありません。
 したがって、危機管理に軸足を置き、それ(忌避の感情)に偏重している心理状態においては、「印象」を呼ぶ願望が顕在化していませんので、大脳内での願望の具体化作業を成す事は出来ません。
 願望が自認される事によってやって来る印象に基づく、具体化作業においては、作られる最終的なヴィジョンに、合理的な目的(意味・大義)が付属される必要があります―意味を付与されたヴィジョンは、「イメージ」と呼ぶ事が出来ます。
 大義あるヴィジョンは私たちに「由(よし)」とされ、その現実化を許される事になりますが、逆に何かの懸念が残存する場合、トータルでの許可には至らないので、そのヴィジョンは「即座には」現象化しない事になります。
 私たちによって許される大義とは、おそらく「明るさ」「楽しさ」「親切」の3要素が揃っている事である、と考えられます。
 上記の条件の充足により、あらゆる懸念は退けられ、具体化されたヴィジョンは、完成された「イメージ」となって現象化します。
 ヴィジョンに含まれる時刻には、過去・未来の制約はありません。
 目撃的な認識、あるいは、願望の具体化によって得られるヴィジョンに至るまでの、私たちの大脳に投映されるイメージの全ては、私たちによる創造の成果と言う事が出来ます。
 したがって、私たちの創造物には、消極から積極、受動から能動への、無段階のグラデーションがある、という事です。
 以上の事から言えるのは、忌避の感情に偏重していない状態にある人は、「永遠」(永遠の過去から永遠の未来にわたる宇宙全体)から外れる事はない、という事です―その人は、消極的ないし積極的な創造を、その大脳内において行っているので、「印象」という生命力が尽きる事はないからです。

創造主の価値観

2019年08月16日 13時23分29秒 | 日記
 1つの「災害」は、私たちに忌避の感情を起こさせ「そんなことは起きてほしくない」と思わせます。
 しかし、あらゆる時刻あらゆる場所に「新たに」現象を作り出す事の出来る境地にある人にとっては、いかなる「災害」も客観的に見る事が出来るでしょう―しかし、災害の中で動揺し、失望する人々への同情は持ち得るでしょう。
 その人は「永遠」を全て知っているので、ある個人の「現在」(肉体の在る時刻と場所、感知し得る波動の全て)における「永遠」情報の中の個人的な重要事については、何らかの示唆を与える可能性はあります―ただし、「何をすべき」「こんなことが起きる」などという具体的な事は言わず、漠然とした予兆を与え、本人の自由意志による選択に、全てを委ねるでしょう。
 1つの現象は、その時刻が近づくにつれて、次第に改変が難しくなるのかもしれません―東北大地震については、数十年前にはすでにその可能性があり、数年前には、何時、何が起きるか確定されていたのでしょう。
 創造主の観点からすれば、あらゆる現象が人間の大脳内における願望の具体化作業の成果であるので、「既に配置された」現象について、人間が何も変えようとしないなら、それは人の意志である、と言えます。
 東北の繁栄は私の願望の1つという事が言えるので、東北大地震というカタストロフィーは、私にとっての最大の関心事であるはずです。
 だれが何の目的で地震を作成するかは、そのケースごとに異なるでしょうが、それを避けようとするなら、私たち自身の願望や意欲の具体的な物を、創造主に提示する必要があります。
 単なる忌避や恐れでは、それを避ける事は不可能です―危機管理は何も生み出せず、ただ願望のみが、結果的に状況の改変をもたらします。
 未来の人類に起きる事は、既に1つの事実となって配置されていますが、「永遠」という壮大な絵画は、その部分と全体は、同時に改変されます。
 「未だ来ない」現象は、ある種の幻想であり、私たちが「如意」とする範囲は、実際の如意とは大きく異なります。
 「何を作る」という目的を獲得するなら、それは光そのものであり、光が照らす対象物は、過去現在未来における、私たち自身による創造です。
 1個人が光を捕らえる事が出来、それに基づいて、漠然と、または具体的に「知覚」すなわち「願望の具体化作業」を開始するなら、それは「幸福」の到来を意味し、人類の絶滅は回避されるでしょう。

目的と過程(ゴールとプロセス)

2019年08月10日 22時17分43秒 | 日記
 「罪といった物は存在しない、罪とはそれを犯すあなたがた自身なのだ」というのは、マリア福音書における、イエスの発言です。
 「〇〇なってほしい」というのが、私たちの抱える願望ですが、「自分がそうなりたい」「自分がそうなってほしい」という、自身の在り方についての願望に関しては、その究極的な物は、「罪なき状態」ではないでしょうか?
 100メートルを10秒台で走りたい、という願望は、10秒後に100m先に居たい、という、時刻と場所とが限定された物ではなく、自身の名誉・社会的な地位を目的としています。
 自分がどうあるか、という事に関しては、いかなる名誉や他人からの賛美を目的とする事も、不自然と言えるでしょう。
 立派な人間になりたい、というのは、成果主義を共有する集団内でのみ通用する価値観です。
 イエスの言う「罪」とは、忌避の感情の保有であり、危機管理の支配下、すなわち「科学的認識の状態」と言えます。
 上記の状態においては、人間は、自らの触覚に関心を持たず、その故に、願望に則して与えられる「印象」を享受できません。
 「印象」の享受は、創造活動にとって不可欠であり、自身その物である「願望」を宇宙創成の意志の前にさらけだすことです。

個性としての個人的な願望と、如意・妙見の状態

2019年08月10日 21時01分43秒 | 日記
 創世記にある「失楽園」とは、個人が抱える「忌避的な価値観」の誕生を表す寓話(ぐうわ)と言えるでしょう。
 その話が事実であるかどうかは、ここでは問題とはなりません。
 何かを避けたい、という感情は、結果的に禁止・強制・懲罰を生み出しますが、そこには、宇宙創成の意志を除外しようとする心が横たわっています。
 自分が生み出したのではない、何かの現象が、それに続く、自らの苦痛を呼ぶのだ、という断定が、忌避の感情であり、それに論理性はありません。
 宇宙の統1性・全体性・調和性といった物が存在しない、という前提に立った時、「自身による創造の外に在る何か」とは、自身に災いをもたらす可能性のある物です―すなわち、何も創造しない状態が、「災い」「苦痛」です。
 時間の推移と空間の移動が、物の変化・環境の変化をもたらす、と言う考えに立脚すれば、時間と空間は私たちの支配者として、私たちに崇拝されて良いでしょう―その様な考えによれば、物理法則を含む科学の法則が、唯1の冷酷な、私たちの番人である、という事になります。
 上記の考えが発生した時点で、「全体性」「統1性」「調和性」の概念は、私たちの脳みそから失われています。
 仮に、私たちが、統1性の概念を持つなら、忌避の感情は失われ、創造主との協力関係「のみ」の中での生活が開始され、あらゆる「災い」への懸念を持つ必要はなくなり、創造が私たちの唯1の仕事・目的となるでしょう。
 統1性への認識は、私たち自身が、幻想でない創造主を、自らの心に生み出す事であり、失楽園以来の歴史には存在しなかった「宇宙創成の意志」が、エデンの園に居た時と同様に、表れる事になります。
 私たちによるあらゆる創造は完全であり、忌避すなわち危機管理が介在する事は不可能です。
 私たちが行なう事の出来る創造の全ては、私たちがその「現在」(肉体の在る時刻と場所、感知し得る全ての波動)において抱えている願望に則して創造主から与えられる「印象」に基づいて、達成される事が出来ます。
 私たちが抱える願望は日々進化し変容しますが、それらは、私たちの個性・独創性と呼ばれる事が出来ます―願望はその時の私たち自身です。
 「印象」を元に、私たちは自分の願望を具体化する作業を行ない、その成果として、イメージ(特定の意味と目的を持ったヴィジョン)が完成します。
 そのイメージは、認識であり、理解であり、知識です。
 私たちにとってのあらゆる認識・理解・知識は、個人的な創造によってのみ、創造を行なう本人に対してのみ、もたらされます。

ゼロとの訣別

2019年08月10日 20時38分16秒 | 日記
 自分の主観的経時性において、何千回転生しようと、1度たりとも転生したことがなかろうと、「悟り」という分野での進退は、「ゼロ」への対処の仕方に依っている―「ゼロ」とは、何かを避けようとする、忌避感情であり、自らの願望の具体化作業による時空を超えた創造を、妨げる要因である。
 私たちが人間やその他の生き物の死に直面したり、何かの物体の破壊に遭遇したりする時、私たちは自らの経時性に沿って「消失」のイメージを抱く。
 しかし、あらゆる個体は、「永遠」の内部に在る、永遠なる存在である。
 実際には経時的な「破壊」「消失」「排除」と、「個体の永遠性」とは、不連続の関係にあるのであり、私たちが自分や他人やその他のあらゆる個体に対して、その永遠性を認める事が出来ず、「失われた」「無くなった」「ダメになった」などと言っている間は、個体の存続という創造を成す事も出来ない。
 逆に、1個人が「永遠」を知れば、その人は、個体の永遠性にも気づく事になり、忌避の動機はなくなる。
 「消失」を知る事は、「永遠」を知らない事であり、忌避の感情と無知とは表裏1体の関係にある―「消失」という概念が、忌避の動機を生むからである。
 「永遠」を知るとは、時空を超えた現象の創造を、大脳内で行なっている状態であり、自らの願望の具体化作業によって完成されたイメージは、その通りに現象化する。
 ところで、忌避の感情は、肉体と心を緊張させ、その結果として、1時的に、宇宙創成の意志から来るはずの「印象」が来なくなる。
 「印象」とは、私たち各個体が抱える、日々変化し進化してゆく願望に則して、宇宙創成の意志が作成する、「私たちによる大脳内での願望の具体化作業」の原資であり、「現実化するイメージの元」と言う事が出来る。