日々の気付き

自分への提言

ヒイラギの梢(ファティマの聖母)

2019年08月08日 14時19分02秒 | 日記
 人間の多くは、自分の人生の鉄路の前方に(未来に)策略を敷き、他人をそれに従わせる事によって、利益を得、災いを避けようとしますが、完全なる支配を達成する事は出来ず、人の外の物事については、いかようにも、手出しは出来ません。
 他人を操るその策略には、家族、友人、親類、1族郎党、その他の「愚かな」人々が含まれます。
 私たちは皆、相互に命令し合い、お互いの策略の支配を受けています。
 しかし、1個人は他人から来る全ての命令を無視する事が出来、その策略から外れる事が出来ます。
 そのような人は、人間から来るはずの「未来の富」の全てを失う代わりに、創造主(宇宙創成の意志)との直面にさらされ、真の供給のみを得る事になります―いかがわしい、時として履行される事のない「約束」としての富の代わりに、確実なる提供を受けるようになります。
 確実なる富は確実に人間を生かし、その人はもはや、現代の人類社会のみならず、人類の歴史のすべてから独立した自由人となります。
 創造主を信用しないために、策略を巡らし、他人を使役して得られる貧しい手当を期待しながら、完全なる暗闇の中で、脂汗を流して「あれやこれや」を試し続ける人類・・・。
 自由なる人は、人類の歴史「永遠」(永遠の過去から永遠の未来を含む宇宙全体)における、あらゆる時刻と場所に干渉する事が出来ますので、人類の生存と滅亡に、その存否は依存してはいません。
 創造主への不信頼とは、すなわち、自身の願望と外部からの触覚波動への関心を放棄し、創造主から「印象」という生命力の供給を、得られなくなっている状態であり、「危機管理(リスクマネジメント)」という牙の奴隷です。
 危機管理の牙(きば)は、「消失」「排除」「破壊」の側面を持ち、忌避の感情という底面に支えられた、三角錐をなす1種の実体です―それは未来への心配という幻想から生み出された、増え易い生物とも言えるでしょう。
 人類の歴史は、牙に取り巻かれた大木の幹であり、自由になった人々は、それから離れ落ちた、風に乗ってどこへでも行ける木の葉です。
 幹が炎に没するとしても、自由なる人はその災禍を免れる事が出来、「永遠」に対する自由な干渉の能力を、その通りに「永遠」に持ち続けます。
 彼らは、何時でも、倒れ掛かる幹を、退ける事が出来るのです。
 ヒイラギの大木は、トゲトゲの葉を持ち、その葉は幹から栄養を得、離れようとはしません―「哀れ」にも、幹から外され、あるいは自ら外れた葉は、自由であり、なおかつ「永遠」の人生が保障されていますが、私たち人類の全てにとって、この事は皮肉な話でしょう。
 他人に使役され、自らも自身の生活の保障を求めて努力したのに、得る物の全ては過去に置き去りにされてゆく・・・この様な不遇を呪おうにも、初めからその責任を取る人はどこにもいません。
 他人を脅すその返し刀を「神」に向けても、唯1自分の存在を保障し得るのが「神」であるために、空を切り、他人を傷つけ、肉体は疲労し続けます。
 ヒイラギの梢に静かに足をのせる人は、ヒイラギの支配を受ける事のない、しかし、ヒイラギの炎上を避けようとする、私たちにとっての「救い主」と言う事が出来ます―その人は1切他人を批判しません―「懲罰」という誤りを知らないからです・・・イエスでさえ人や物を裁いたというのに・・・。
 私たちは自らを自由にすることは、ある程度容易にできるでしょうが、1定以上の数がそうならなければ、幹は炎上する事になります。