「罪といった物は存在しない、罪とはそれを犯すあなたがた自身なのだ」というのは、マリア福音書における、イエスの発言です。
「〇〇なってほしい」というのが、私たちの抱える願望ですが、「自分がそうなりたい」「自分がそうなってほしい」という、自身の在り方についての願望に関しては、その究極的な物は、「罪なき状態」ではないでしょうか?
100メートルを10秒台で走りたい、という願望は、10秒後に100m先に居たい、という、時刻と場所とが限定された物ではなく、自身の名誉・社会的な地位を目的としています。
自分がどうあるか、という事に関しては、いかなる名誉や他人からの賛美を目的とする事も、不自然と言えるでしょう。
立派な人間になりたい、というのは、成果主義を共有する集団内でのみ通用する価値観です。
イエスの言う「罪」とは、忌避の感情の保有であり、危機管理の支配下、すなわち「科学的認識の状態」と言えます。
上記の状態においては、人間は、自らの触覚に関心を持たず、その故に、願望に則して与えられる「印象」を享受できません。
「印象」の享受は、創造活動にとって不可欠であり、自身その物である「願望」を宇宙創成の意志の前にさらけだすことです。
「〇〇なってほしい」というのが、私たちの抱える願望ですが、「自分がそうなりたい」「自分がそうなってほしい」という、自身の在り方についての願望に関しては、その究極的な物は、「罪なき状態」ではないでしょうか?
100メートルを10秒台で走りたい、という願望は、10秒後に100m先に居たい、という、時刻と場所とが限定された物ではなく、自身の名誉・社会的な地位を目的としています。
自分がどうあるか、という事に関しては、いかなる名誉や他人からの賛美を目的とする事も、不自然と言えるでしょう。
立派な人間になりたい、というのは、成果主義を共有する集団内でのみ通用する価値観です。
イエスの言う「罪」とは、忌避の感情の保有であり、危機管理の支配下、すなわち「科学的認識の状態」と言えます。
上記の状態においては、人間は、自らの触覚に関心を持たず、その故に、願望に則して与えられる「印象」を享受できません。
「印象」の享受は、創造活動にとって不可欠であり、自身その物である「願望」を宇宙創成の意志の前にさらけだすことです。