日々の気付き

自分への提言

目的と過程(ゴールとプロセス)

2019年08月10日 22時17分43秒 | 日記
 「罪といった物は存在しない、罪とはそれを犯すあなたがた自身なのだ」というのは、マリア福音書における、イエスの発言です。
 「〇〇なってほしい」というのが、私たちの抱える願望ですが、「自分がそうなりたい」「自分がそうなってほしい」という、自身の在り方についての願望に関しては、その究極的な物は、「罪なき状態」ではないでしょうか?
 100メートルを10秒台で走りたい、という願望は、10秒後に100m先に居たい、という、時刻と場所とが限定された物ではなく、自身の名誉・社会的な地位を目的としています。
 自分がどうあるか、という事に関しては、いかなる名誉や他人からの賛美を目的とする事も、不自然と言えるでしょう。
 立派な人間になりたい、というのは、成果主義を共有する集団内でのみ通用する価値観です。
 イエスの言う「罪」とは、忌避の感情の保有であり、危機管理の支配下、すなわち「科学的認識の状態」と言えます。
 上記の状態においては、人間は、自らの触覚に関心を持たず、その故に、願望に則して与えられる「印象」を享受できません。
 「印象」の享受は、創造活動にとって不可欠であり、自身その物である「願望」を宇宙創成の意志の前にさらけだすことです。

個性としての個人的な願望と、如意・妙見の状態

2019年08月10日 21時01分43秒 | 日記
 創世記にある「失楽園」とは、個人が抱える「忌避的な価値観」の誕生を表す寓話(ぐうわ)と言えるでしょう。
 その話が事実であるかどうかは、ここでは問題とはなりません。
 何かを避けたい、という感情は、結果的に禁止・強制・懲罰を生み出しますが、そこには、宇宙創成の意志を除外しようとする心が横たわっています。
 自分が生み出したのではない、何かの現象が、それに続く、自らの苦痛を呼ぶのだ、という断定が、忌避の感情であり、それに論理性はありません。
 宇宙の統1性・全体性・調和性といった物が存在しない、という前提に立った時、「自身による創造の外に在る何か」とは、自身に災いをもたらす可能性のある物です―すなわち、何も創造しない状態が、「災い」「苦痛」です。
 時間の推移と空間の移動が、物の変化・環境の変化をもたらす、と言う考えに立脚すれば、時間と空間は私たちの支配者として、私たちに崇拝されて良いでしょう―その様な考えによれば、物理法則を含む科学の法則が、唯1の冷酷な、私たちの番人である、という事になります。
 上記の考えが発生した時点で、「全体性」「統1性」「調和性」の概念は、私たちの脳みそから失われています。
 仮に、私たちが、統1性の概念を持つなら、忌避の感情は失われ、創造主との協力関係「のみ」の中での生活が開始され、あらゆる「災い」への懸念を持つ必要はなくなり、創造が私たちの唯1の仕事・目的となるでしょう。
 統1性への認識は、私たち自身が、幻想でない創造主を、自らの心に生み出す事であり、失楽園以来の歴史には存在しなかった「宇宙創成の意志」が、エデンの園に居た時と同様に、表れる事になります。
 私たちによるあらゆる創造は完全であり、忌避すなわち危機管理が介在する事は不可能です。
 私たちが行なう事の出来る創造の全ては、私たちがその「現在」(肉体の在る時刻と場所、感知し得る全ての波動)において抱えている願望に則して創造主から与えられる「印象」に基づいて、達成される事が出来ます。
 私たちが抱える願望は日々進化し変容しますが、それらは、私たちの個性・独創性と呼ばれる事が出来ます―願望はその時の私たち自身です。
 「印象」を元に、私たちは自分の願望を具体化する作業を行ない、その成果として、イメージ(特定の意味と目的を持ったヴィジョン)が完成します。
 そのイメージは、認識であり、理解であり、知識です。
 私たちにとってのあらゆる認識・理解・知識は、個人的な創造によってのみ、創造を行なう本人に対してのみ、もたらされます。

ゼロとの訣別

2019年08月10日 20時38分16秒 | 日記
 自分の主観的経時性において、何千回転生しようと、1度たりとも転生したことがなかろうと、「悟り」という分野での進退は、「ゼロ」への対処の仕方に依っている―「ゼロ」とは、何かを避けようとする、忌避感情であり、自らの願望の具体化作業による時空を超えた創造を、妨げる要因である。
 私たちが人間やその他の生き物の死に直面したり、何かの物体の破壊に遭遇したりする時、私たちは自らの経時性に沿って「消失」のイメージを抱く。
 しかし、あらゆる個体は、「永遠」の内部に在る、永遠なる存在である。
 実際には経時的な「破壊」「消失」「排除」と、「個体の永遠性」とは、不連続の関係にあるのであり、私たちが自分や他人やその他のあらゆる個体に対して、その永遠性を認める事が出来ず、「失われた」「無くなった」「ダメになった」などと言っている間は、個体の存続という創造を成す事も出来ない。
 逆に、1個人が「永遠」を知れば、その人は、個体の永遠性にも気づく事になり、忌避の動機はなくなる。
 「消失」を知る事は、「永遠」を知らない事であり、忌避の感情と無知とは表裏1体の関係にある―「消失」という概念が、忌避の動機を生むからである。
 「永遠」を知るとは、時空を超えた現象の創造を、大脳内で行なっている状態であり、自らの願望の具体化作業によって完成されたイメージは、その通りに現象化する。
 ところで、忌避の感情は、肉体と心を緊張させ、その結果として、1時的に、宇宙創成の意志から来るはずの「印象」が来なくなる。
 「印象」とは、私たち各個体が抱える、日々変化し進化してゆく願望に則して、宇宙創成の意志が作成する、「私たちによる大脳内での願望の具体化作業」の原資であり、「現実化するイメージの元」と言う事が出来る。