岡山新報デジタル

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シュメール人の謎

2023-02-28 09:27:08 | 日記
⭕連載【シュメール人と日本人の謎】

◇シュメール人と日本人やユダヤ人との密接な関係性の神話



シュメール人は、紀元前3500年ごろに突然現れた高度な文明を持った人たちだったと言われています。そのシュメール人と日本人は密接に関係があるとされています。例えば天皇家の菊花門がシュメール遺跡から発掘された粘土板に描かれていたことや、日本語と同じ意味や発音を持つ言葉がたくさんあることがあげられます。日ユ同祖論では、日本人の先祖はユダヤ人だと言う説をご紹介しましたが、日本人とシュメール人やユダヤ人とは、数多くの共通点が存在しています。



○シュメール人が発明した文字
シュメール人は、とても高度な文明を持っていた事で知られていますが、その中にシュメール人が発明した楔形文字があります。この楔形文字が刻まれた粘土板などが遺跡から発掘されておりその高度な文明を証明していると言われています。



シュメール人の都市国家の代表的なものは、メソポタミア地方南部で発見された遺跡のウルウルクラガシュと言われています。そしてこのウルウルクラガシュの遺跡で、円筒印章などが発掘されています。


岡山新報デジタル【今日は何の日】

2023-02-28 07:29:51 | 日記
ビスケットの日(2月28日 記念日)
東京都港区新橋に事務局を置き、ビスケットに関する調査・研究などを行う一般社団法人・全国ビスケット協会が1980年(昭和55年)に制定。

1855年(安政2年)のこの日、パンの製法を学ぶために長崎に留学していた水戸藩の蘭医・柴田方庵(しばた ほうあん、1800~1856年)が、同藩の萩信之助に、オランダ人から学んだ軍用のパン・ビスケットの製法を書いた「パン・ビスコイト製法書」の書簡を送った。これが、ビスケットの製法を記した日本初の文書とされている。

また、ビスケット(biscuit)の語原がラテン語で「2度焼かれたもの」という意味の「ビス・コクトゥス(bis coctus)」であることから、「に(2)どや(8)く」(2度焼く)と読む語呂合わせの意味もある。



ビスケットについて
ビスケットは、小麦粉に牛乳、ショートニング、バター、砂糖などを混ぜて、サクサクした食感に焼いたもの。チョコレート、ナッツ、果実加工品などが加えられる場合もある。

本来の英語圏では日本でいうところのクッキー(cookie)との区別は存在せず、イギリスでは両者をビスケットと呼び、アメリカでは両者をクッキーと呼ぶ。アメリカのビスケットはイギリスのスコーンに近いものを指す。


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2023-02-27 07:16:48 | 日記
⭕国際ホッキョクグマの日(2月27日 記念日)
アメリカとカナダに本部を置く動物保護団体「Polar Bears International」が制定。英語表記は「International Polar Bear Day」。

ホッキョクグマ(Polar bear)の絶滅の危機や彼らが直面している現状をより多くの人に知ってもらうことが目的。

地球温暖化のため北極圏の海氷は年々小さくなり、そこに暮らしているホッキョクグマも棲み家や餌を失いつつある。同団体では二酸化炭素の排出量を減らすなど地球規模での活動を呼びかけている。また、この日には大阪市の天王寺動物園などホッキョクグマに関するイベントを実施する施設も見られる。

ホッキョクグマについて
ホッキョクグマ(北極熊)は、クマ科クマ属に分類される食肉類である。北アメリカ大陸北部、ユーラシア大陸北部、北極圏に生息する。オスの大きい個体では体長250cm、体重600kgにもなるが、近年は地球温暖化の影響で小型化が進んでいる。



全身が白い体毛に覆われているように見えるため、シロクマ(白熊)とも呼ばれる。夏季は汚れや油脂の酸化などにより毛衣が黄がかる個体もいる。長い首や流線型で小さな頭は遊泳への適応結果とされ、何時間も氷海を泳ぐ事ができる。また、流氷に乗って長距離移動することもある。

ホッキョクグマは分岐分類学的にヒグマに極めて近い位置にある。雑食獣であるクマの中で最も肉食性が強い種であり、アザラシを主食とするほか、魚類、鳥類やその卵、イッカクやシロイルカなどの哺乳類、クジラなどの動物の死骸に加え、氷の溶ける季節にはコンブ、スゲ、イチゴなどの植物も食べる。


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2023-02-26 07:34:18 | 日記
⭕二・二六事件の日(2月26日 記念日)
1936年(昭和11年)のこの日、クーデター未遂事件「二・二六事件」が発生した。



陸軍の皇道派の影響を受けた青年将校が、対立していた統制派の打倒と国家改造を目指し、1483名の下士官兵を率いて「昭和維新」と称して首相官邸等を襲撃した。内大臣・大蔵大臣等が殺害され、永田町一帯が占拠された。

当初、陸軍の首脳部は青年将校たちの行動を容認する態度をとっていたが、海軍が鎮圧を要求し、天皇も同様の立場をとったので、29日に鎮圧を開始した。飛行機から「下士官兵ニ告グ」のビラを撒いて帰順を勧め、「今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ」との投降を呼びかけるラジオ放送を行った。

形勢が不利になったと判断した将校たちは兵を原隊に帰し、2名が自決、残りの者が自首して、その日のうちに鎮定された。事件の首謀者は銃殺刑に処された。事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。