写真(上から)
広島の大坂鉄工所因島工場争議
検挙され獄へ向かう同志を港で見送る
争議中に亡くなった争議団員の葬儀
葬儀に参列した争議団と総同盟の幹部
大坂鉄工所因島工場争議 1924年主要な労働争議④ (読書メモー「日本労働年鑑」第6集)
参照
「日本労働年鑑」第6集/1925年版 大原社研編
「協調会史料」(争議顛末 大坂鉄工因島工場)
大坂鉄工所因島工場争議
広島の大坂鉄工所備後・因島工場は2千名近い労働者が働いている。因島工場には日本労働総同盟因島支部(1000名)がある。1924年5月、因島工場で賃上げの声が上がり、現場ではサボタージュも始まった。笹子工場長は賃上げを求める労働者に向かって「嘆願か要求かどっちだ。嘆願だろう」と問い詰め、「嘆願です」と答える労働者に「嘆願なら、なぜ怠業や宣伝ビラをまいたりするのか。自分はみんなのために骨をおっているのに、まったく親の心子知らずだ」という態度のため、5月20日には因島工場の労働者側はほとんどサボタージュ状態となり残業も拒否した。5月21日、労働者側は「因島工場従業員名」で、①賃上げ、②解雇手当増額、③自己退職手当制定、③臨時休業、会社命令の休みに日給を支給すること、の要求書を提出した。会社は、翌日には労働者側の要求をすべて拒絶してきた。その上、工場の全面休業を表明してきた。官憲は総動員をかけ労働者を脅してきている。労働者側は急遽各地の労働団体に応援を打電した。
23日、会社は固く門を閉ざした。労働者は一斉に巡査の警戒線を突破し工場正門前に押しかけ、不当な休業を糾弾し開門を要求した。西牧造機部長との談判も2時間に及んだが、不調に終わり、労働者は喚声をあげて土生町大正座において、会社糾弾大演説会(職工大会)を開催し以下の決議をした。
「工場は我々の要求を容れざるのみならず、無謀にも本日臨時休業の旨を発表せり、しかれども我々はいつまでも意志を堅固にし正義の目的をもって初志の貫徹を期す」
労働者は、町内全域のデモを敢行し、一方妻子を帰国させるなど持久戦を覚悟し、その準備に入った。
24日、会社は今回の騒ぎの首謀者と決めつけた労働者60余名をクビにしてきた。
三ノ庄工場労働者も会社に要求書を提出したが、拒絶されたため同工場400名も一斉にストライキに突入した。
職長・伍長クラスの下級職制100余名は、争議の調停をはかろうと「妥協案」を持参して会社に面会を求めたが、拒絶された。土生町の町長など有力者も争議の調停へと動きだした。26日、三庄町長も会社を訪問し解決を要請したが、会社の態度は変わらなかった。
午後1時より三庄座で三庄工場職工大会が開かれ、因島工場から数百名の労働者がかけつけ益々結束を固くすることを誓いあった。
26日、会社は争議の首謀者として更に50余名労働者をクビにしてきた。
27日、「瀬戸内海横断電燈ストライキで全島暗黒となる」(協調会史料より。詳細は不明)。
30日、クビにされた116名労働者は、午後1時因島工場に押し寄せ、大声で工場長を出せと怒鳴りながら面会を要求するも拒絶された。代表一人だけの会見を許されたが、会社は「親が子供のしつけのためにお灸をすえた」とふてぶてしく居直り続けた。大山神社前で会社糾弾演説会。
31日、争議団に同情する土生町住民有志が陳情書を作り、郡当局に争議の調停を要請した。会社は、臨時職工として契約中の800余名に対して、「本月中に争議が解決しない時は、全員解雇する」と脅しの通告をしてきた。
6月1日、大正座にて争議団員婦人茶話会、浪波節など(7回目)。連日町民から争議団にカンパ届く。
2日、デモ(5回目)。町民からカンパあり。
4日、土生町住民有志の陳情もあり、広島県警察部長が尾道署に来て争議の聴取をし、自ら調停に乗り出したが、5日この調停は決裂した。争議団の工場門でのスト破りとの闘い、ピケッテイングで工場へ入場する労働者は少ない。
5日、争議団ピケ闘争。応援に来た大阪の「野武士組」と警官隊がすわ衝突か。検束者でる。
8日、三庄工場の労働者が三庄工場に押し寄せたのち、土生町の争議団員と合流し、大山神社境内に集合し会社糾弾演説会を開き、午後3時再び示威行動に移り、弾圧してきた警官隊と衝突して負傷者が出て4名が検束された。
9日、前日の警官隊との衝突の際、工場の一人の守衛が警官隊と一緒になって争議団員を攻撃してきたので、この日争議団数十名はこの守衛宅を襲った。
15日、争議団員伊藤嘉三郎の葬儀が行われ、多くの争議団員が参列した。
16日、争議団は争議団の子供全員の休学(同盟休校)を決め、県学務課長に報告した。
19日、会社と争議団の間でゆれていた職長や下級職制160名は、20日より各工場で就業することを決めた。三庄町で会社糾弾大演説会(12回目)。
20日、朝、検事は、大阪から応援にきていた日本労働総同盟大阪聯合会の金正米吉と総同盟因島支部長杉原喜代美の宿舎の家宅捜査を行い、午後2時この2名等争議団幹部4名を検挙し尾道検事局に護送した。官憲の強圧的弾圧が一層激しくなる。
21日、幹部の多くが検挙され追い詰められた争議団、ついに以下の条件で解決した。
一、解雇された116名に、解雇手当最高額の8割に相当する2萬1千圓を家族の救済金として支給する
一、復職する全労働者に、日給の10日分を支給する
一、解雇者は普通解雇として一般より認められるように配慮する
23日、30日間に及ぶストライキは終わり、争議団は23日から全員就業することとなった。この日争議団は解散した。