大阪メーデー 1924年メーデー(読書メモ)
参照「日本労働年鑑」第6集/1925年版 大原社研編
「協調会」史料
1924年第5回メーデー。大阪でも官憲は弾圧を強めた。朝鮮人同志会256名の参加を許可せず、また社会主義者をメーデー前日に特高・警官が検束し、かつメーデー会場とデモで社会主義者の参加者を見つければ即検束するという徹底的乱暴に弾圧してきた。また、水平社メンバーも絶対に参加させるなと厳命した。
大阪では、この間、総同盟側と反総同盟側が二つに分かれて集会とデモをする慣習となっていた。この年も中の島公園の反橋を挟んで西に総同盟、東が反総同盟が集結した。
5月1日午前10時に、反総同盟側が集会を開始、12時にデモが出発し、正午には総同盟が集会を開き、午後2時にデモに出発した。
反総同盟側は、大阪鉄工組合、土工組合、立憲造船労働組合、美術友禅工組合など約1200名が結集した。
メーデースローガンは
一、8時間労働制の即時実施
一、生存権の確立
一、失業の徹底防止
一、学習権の確立
一、人類的差別待遇の撤廃
一、移民の世界的自由
等をあげた。
総同盟側は、総同盟大阪聯合会所属の9組合と同婦人部、朝鮮労働同盟、西部交通労働同盟、煙草労働組合、向上会など約5500名で、デモ隊は大阪機械労働組合を先頭に一路天王寺公園に向かい、途中警官隊と小競り合いがあり、数名が検束された。
西部交通労働同盟の大阪市電労働者300名が正服姿で参加したことが、著しく人目を引いた。
メーデースローガンは
一、8時間労働制の即時断行
一、最低賃金制度の確定
一、失業防止の徹底
一、労農ロシアの承諾
一、東拓移民廃止(注)
一、悪法令の撤廃
一、万国の労働者団結せよ
一、メーデーを祝す
一、第5回メーデー示威行列
一、理想の社会は近づけり
等であった。
(注)東拓『東洋拓殖株式会社』
日露戦争後の1908年、朝鮮植民地における日本の国策会社『東洋拓殖株式会社』が設立されます。当初は日本皇室が株式を支配し、のちに大財閥(三井・三菱・安田・大倉など)が支配しました。
1908年から朝鮮の土地を大々的に買収し、日本の自作農民を送り込みます。東拓は、朝鮮における優良土地の最大地主・大所有者となり朝鮮全土の耕作地の約1.8%をも手にします。また朝鮮企業50社の株式を所有し、日本農民の移民は1910年には14万人を越え、1917年には33万人に達します。しかし、日本から渡った一部の農民は地主化しましたが、一般の多くの貧しい農民は、生活費・営農費に困窮し、1920年代には、日本国内においても東拓移民への反発が出て農民の東拓移民は尻すぼみとなります。1924年大阪メーデーに「東拓移民廃止」のスローガンがあがったことは、このような背景があります。また、当然日本労働者階級による朝鮮・中国侵略反対の革命的意思表明でもあったと思います。
1915年の対華21か条条約を下敷きにした朝鮮・満州支配の手先『東洋拓殖会社』は、以後満州における金融・建設・投資・毛織物・軍需・鉄道・電力・製鉄・東南アジアのゴム経営等あらゆる産業に手を広げ、1923年には、米貨社債1990万ドルを手に入れ、1924年にはブラジルや南米への移民事業も行います。モンゴル、華北、南洋諸島にまで営業範囲を広げました。