今朝、第40回語り継ごう東京大空襲下町追悼碑巡りに参加してきました。
榎稲荷の堅川地蔵尊(墨田区立川)、菊川橋夢違地蔵尊(墨田区菊川)、八百霊地蔵尊(江東区森下)と三つのお地蔵様を巡ってきました。
「あの晩、この町だけで四千人が死にました」
「この地の殉難者数約三千余名です」
「五丁目の町民八百余名が亡くなりました」
と、どこもすごい内容です。参加者はみな言葉を失い、うなだれてただ一輪の花を手向けるばかりです。残された人々や住民が殺された家族や子供たちに想いを込めたこの「地蔵尊」です。
戦争は殺された人たちだけでなく、残されて路頭に迷う多くの家族も生みます。菊川にはベタニアホームという母子寮があり、東京大空襲により利用者の半数以上が亡くなるという災禍にも見舞われました。戦後直後この菊川保育園で私の母が働き姉と三人がこのベタニアホームでお世話になりました。ここには戦争や空襲で家族を失い残された多くの戦争犠牲者の母と子も共に生活していました。
また、戦争で母も父も失った戦争孤児も膨大な数にのぼります。総務省の調査でその総数は123,511人にのぼっています。怖ろしい数です。(2 戦争孤児-その概要-総務省)
侵略戦争の結末、戦争の残酷さ悪虐さ、こうした怖ろしい被害と加害を、もっと謙虚に勉強したい ! 知らしめなければ ! とあらためて深く思いました。
40年もの長きにわたり、行動し続ける主催者の方々に心から感謝申し上げます。
榎稲荷の堅川地蔵尊(墨田区立川)
地蔵尊の由来
大東亜戦争中昭和二十年(西暦一九四五年)三月十日未明、敵空軍爆撃機の焼夷弾による大空襲を受け下町一帯は壊滅状態となり尊い人命を数多く亡くし其の数実に10万人と言います。
攻撃に参加した敵爆撃機二九八機、投下焼夷弾一七八三t、被災者数100万人、焼失家屋二十七万戸、負傷者数14万人、当、菊川公園に埋めた人4515人に達し当町の住民の中からも多数の焼死者を出し、無人の町に等しくなるも終戦により町に復帰する人も日毎に多くなり、其の生存者の間から犠牲者の冥福と恒久平和を念じて地蔵尊建立の運動が起き、当時この町の住民で菊川小学校で奇跡的に難を免かれ、船橋市に疎開中の石黒善次氏に話が伝わり動詞の浄財により昭和二十一年五月地蔵尊を菊川公園に建立し町に寄贈され昭和四十年四月菊川公園改修のため現在地に移転、今日に至り以来毎年三月十日の戦災記念日には盛大に犠牲者の霊を弔うと共に人が人を愛し世界の国々が平和で人類が何時迄も仲良く幸であることを祈るものである。
昭和五十九年三月十日 立川四丁目町会
菊川橋夢違地蔵尊(墨田区菊川)
夢違地蔵尊縁起
一九二三年(大正十二年)関東大震災に於ける下町の惨禍は遭難死者五万八千名に及びその遺骨を収納し、東京都慰霊堂が建立され、その加護と平安を願い毎年九月一日を記念日と定め 官民あげて法要が営まれているが、この地も焦土と化しその物故者も多いため、毎年その慰霊法要を行うに至った。一九四一年(昭和十六年)太平洋戦争勃発し、戦局利にあらず、殊に一九四五年(昭和二十年)三月九日より十日にかけての米戦略爆撃機B29による東京空襲は最も熾烈を極め僅か数時間で下町を中心に二十七万八千余戸を焼失し無慮七万八千余の殉難者を出した広島 長崎の原爆の戦史に比類する永遠に忘れ得ぬ悲惨な史実である。
まだ春浅き三月九日夜半 雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を、呼び合い叫び逃げまどい 或は壕に入り、水面に飛込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果て、やがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥に骸と果て、翌朝光の中の惨状は眼を覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。
この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残るもので霊地として守らねばならない聖域である。而して復興なり一九八三年(昭和五十八年)三月十日、誠心集い浄財を集め仏縁深き弥勒寺住職の教示を得て、これか悪夢の消滅を願い、これを善夢に導き、再びこの悲史をくり返さないようにと、夢違之地蔵尊と命名され開眼法要、殉難者追悼供養を施行した。
時移り再び多大なる協賛を得て夢違之地蔵尊縁起の史碑建立となり地蔵講が生まれた。願わくば子々孫々への加護と人類の平和を祈念して本日此処に慰霊法要を謹んで行うものである。
合掌
一九八五年三月十日
弥勒寺第五十七代住職 岩堀真至謹書
夢違之地蔵尊縁起史碑建立 協賛者一同
八百霊地蔵尊(江東区森下)
八百霊地蔵尊
由来記碑
昭和二十年三月十日大東亜戦争による米軍東京大空襲により一朝にして犠牲となった当時の深川高橋五丁目の町民八百余名の霊を慰めるため昭和二十一年生存者町民有志によりこの地蔵尊が建立されたこの由来を後世に伝へ併せて恒久の
平和を祈るため三十周忌を記念してこの碑を建てた
昭和四十九年三月十日
江東区森下五丁目町民有志