サンチョパンサの憂鬱

個性的?

自分の想いや解釈を辿り続けていると
次第に自分というものが立ち上がっていく事は……間違いない。

深夜のバンドとか見ていると、自分の手法や感性を殊更に強調するあまり特異なニュアンスを漂わす様になって『しまった』人達が多い。

自分独自のやり方を深めて行くに従って他のジャンルややり方を受け入れ認められる様になるのが個性の在り方だろうと思う。
自分の個性を把握する分だけ、人の個性を受け入れ認められる様になるということだけど……。

それは……丁度、自分を愛する領域でしか人を愛せないといわれる事と同じメカニズムだと思う。

自分の想いは自分だけのものである。
その人の想いはその人独自のものである……。

例えば、他者を見て随分とその人は自分の気持ちを蔑ろにして生きてると見えても、その人はそういう感じ方であり、此方が感じるほど蔑ろにしている感覚もその痛みも無いのだと言うことだ。

人の感性による感じ方には優劣はなく
只、そういうモノ、こういうモノとして存在している。
それを尊重し合う姿勢、レベルは……自分の個性の完成度に比例するんだと思う。

ヒップホップとかロックとかラップとかのバンドにありがちな『変わったカッコ』だけど不思議と個性がないステレオタイプの雰囲気に支配されてる人達……。

それは個性、感性の問題じゃなく、自分達のジャンルに逃げ込んで何かから必死に防御してるスタンスなんだろうと感じる……。
ネット村の少人数の同人グループと酷似している心理だと思う……。

個性が立ち上がっていくと必ずメンタルもスタンスも『開いていく』ものだ。

狭小になり頑なになりストイックなスタンスで『……でなきゃ駄目だ、認めない』となるのは逆に『引き籠り』であり個性は本人によって『閉じ込められて行く』んだと思う……。

自分のマインドの扉に鍵をかけず、外に向けて明け閉め自由にどうぞ……とやるにはとても勇気を必要とする。
しかし、自分の思いとか感じ方だったりを不特定多数にオープンにしないと『単なる思い込み』なのか?『他者に認知して貰えるポリシー』なのか?確かめ様はない。

マニアックに自分の思いに深く入り込み、『他に晒さない姿勢』は疑似ポリシーであり
引き籠りに近いメンタルなのである。

ジャンルが違うバンドグループなのに……『君を守る』だったり『自由の翼を広げ』たり『大丈夫!』だったりと……彼等の目論見がすこしも実現されず『アリキタリバンド』になってるのはそんなメカニズムのせいなんじゃないか?と僕は感じるのです……。

詰まり外界に開いて尚……失われないコンセプトが匂い立つっていう……ソコにそんな密度の濃い空気感がまるで感じられないのである。

個性は……何か?変に『変わってる』んじゃなくその人が立っているソコだけが『際立っているモノ』なのである。

最近ではヒゲダンとかkind grnなんかにその際立つ濃い空気感って奴を僕は感じる けれど……。
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