サンチョパンサの憂鬱

災厄が……

行き詰まれば……まるで世の中が災厄という災厄を掻き集めて……自分に持ち込み圧迫して来る?……そんなメチャクチャ湿度を含んだ重い空気に覆われる……。

そんな時、大抵……一気に状況を変えようと焦り……余計に身動き取れなくなる。

時折掛けられる善意の声、苦しいのは『あなただけじゃない❗』さえも傍観者のオタメゴカシにしか聞こえない……。

そんな難儀専門の大家となった僕は……シンプルな答に行き着いた。
重苦しい空気全ては自分の『依存心』が演出しているのだ❗❗……という事に。

頼むしかない事さえ自分で働きかけない……。
誰かが助けてくれる?いや❗助けてくれるべきだ?なんて依存心にすがっている。

自分が自分に嘆いて見せているのである。そんな三文芝居なんて誰も見てはくれない。上目遣いになって周囲を窺って見ても誰一人近寄っては来ない。
当たり前である。
志願して自ら『貧乏神』になっているのだから……。

『相手が謝るなら謝ってやっても良い』とする態度も依存心そのもの。
自分の落ち度を相手に救わせようとしてるのと構造は全く一緒……。

要するに餓鬼なのである。メンタルが……。
自分が非道を行うはよし❗しかし人が自分に持ち込んで為す事は絶対に許せない❗……そういう人間故の被害者意識。

よくよく紐解いてみれば……難儀を構成してる要素は全て『自分発』という事に気付くのである。

苦境はホントの自分を見付ける最大のチャンス。
『何故?間違ったのか?』ソレを知ることこそ……成長だと思う……。

善人は下手な『間違いを犯さない』から……『何故?上手く出来るのか?』その訳を知らない。今の自分を全て自分のお陰だと誤解する……。

聞きかじりの浄土真宗でいう『善人でさえ往生できる』のだから『悪人が往生出来ぬ訳がない』……も恐らくそんな道理を説いているのだと思う。

問題は……その悪人が自らの『悪徳を発見』し『悪人になれるか?』ということである。

精神論でも宗教論でもなく……人の成長の道は『自らの間違いの発見』と是正の実行……その繰り返しなんだと思う。
『汝自身を知ること』……知ろうとする事。

この歳にして『幼稚な我が依存心を知る』ていたらく……しかしね?遅過ぎる事はない❗のである。

若くして安普請の砂上の楼閣を完成させて、その中で慢心の限りを尽くして生きてしまうコトよりは……。

そんな気付きの度に……『危なかった❗』危うく『自分にヤラれる所だった……』と……胸を撫で下ろしながらながら人生は過ぎて行く……。


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