しかしこれは若者のせいなのか?……目を凝らして見ればオッサンもオバハンもさしたる違いはない。
暇さえあれば年金の目減りを気にしながら人生を終える事ばかりにしか頭は働かない。
バーチャルはドラスティックに価値観を変えてくれた。それはそれで素晴らしい事を一杯提供してくれた。
インドアに居ながら外界を探索した?かに思わせてくれる魔法使いだ。
友達?だってクリック一つで繋がった?なんてその気にさせてくれた……。
しかし……僕達は肉体も持っている。いきなり外界に出ず脳だけで感じ生きて行くには不完全である。
ある時……感染症に酷くやられホウホウの体で病院に駆け込んだ。次の日……身体は自分のモノとは思えない。全身から力は抜け床に貼り付いた様になって睡眠を貪った。
夕方近くになって恐ろしい食欲を感じて目覚めた。何か食べなきゃ!……直ぐそこのコンビニがブラジル位に遠く感じてしまう。でも……何かを食べなきゃ!……昨日からずっと食べてない。大袈裟じゃなくこれ以上はヤバイ!……
何かを探して口にしろ!と全身から指令が飛ばされる。這う様にして起き上がり財布をポケットに入れフラフラと家を出た。一晩中鼻血が流れ夜中に何度も血の塊を吐いた。
生命が肉体へ容赦ない要求をしていたんだと思う。一旦外へ出ると萎えていたメンタルが急速に回復していくのを感じた。
『行うべきを行っている!』という安心感だったと思う。
寝転がって健康不安の中でアレコレ思う不安や悪い予感を……たった数百メートルの歩行が消し去った……。
単純に行動する事の大切さを思った。
諦観は人を負の妄想の中に閉じ込めてしまうんだと思う……。四の五の憂慮する余裕を失った時……たった数百メートルの歩行がドラスティックに思考を転換させた。
『兎に角、演って見る』という『理屈抜きの行動』は千、万の思考に勝るのかも知れない。ちょっとした事でも『演ってみなきゃ分からない事』が沢山ある。
足掻き動く事を放棄した諦観は意欲と思考を吸収し消滅させるブラックホールの様に働くのである。
とても不思議なんだけど『ダメなんだ!』という諦めは……心を安定させるのである。
『仕方ないのだ!』という諦観はこれ以上『苦しまなくても良い』という免罪符を心に刷り込み心身を麻痺させ動けなくさせるんだと思う。
これは奴隷の心理に似ていて……辛いけど『これは自分のせいじゃない!』と諦める事で自分を納得に導くのである。楽しくはないけど楽なのである。
苦しいけれど変化の余地という楽しみに生きるか……全く楽しくはないけれど諦めの中の楽を貪り過ごし生きるか?……足を止めて一考する価値があるテーマだと感じるのである。
誰かが言ってなかったか?
『諦めた時から老化は始まる……』って。
横着を決め込んでる自分の脳ミソ……先ずは散歩することから始めれば良いんだと思う。
一歩一歩が脳ミソを引っぱ叩いて起こすのである。歩く事にリスクはない。その行動の一歩は大きな化学反応を起こすやも知れない。
演って見る価値があるんじゃね?
兎に角人生は……『演ってみなはれ!』……なんだと思うのです……。