サンチョパンサの憂鬱

大きな古時計は何故?

何年か前に……平井堅が歌って大ヒットした。

歌に限らず……しっかりしたコンセプトを持ち、丹念に織り込む様に作られたモノ・コトは絶対に人の琴線に触れる力がある……ということだろう。

表面を奇妙キテレツに捏ね回したスイーツや料理、アクセントだらけの洋服、奇抜な設定ばかりのアニメーション……何でもかんでもぶち込んだラーメン?……もう結構、ウンザリなんだと思う。

料理に於いても、レシピは何かを加えたり、加熱とかしたりだと思いがちだけど……必要以上の事をしない為の手順でもある。

潰れては雨後のタケノコ見たいに登場する居酒屋、パン屋、等々のメニューをテレビで紹介してるけれど、適当素人の典型的なパターンは、様々なモノを『付け加えるレシピ』に終始している。そしてそれをコ・ス・パって呼んで喜んでいる……。

結局『文化の問題』なのだと思う……。
目で見える可視化をし、胃袋を物理的に膨らませなければ、価値を感じられない。

そんな人達はいつの時代にも存在している。
変わったのは、そのボリュームゾーンの『自覚の問題』なのだと思う。
恥を知ろうとするならば、自分を客観的に把握する思考が必要だ。

自分を尊重する事と、汝自身を知らずして、意気揚々とその恥を垂れ流す事を同義と勘違いした事が長きに渡って行われた挙げ句の現在なのだと思う。

およそ、国のレベルはその中間ボリューム層が『自分たちのイケてなさの自覚』をどの程度知っているか?に掛かっている。

SNSは功罪半ばする。
どんな稚拙なレベルにあっても、そこら中に直ぐ書きなぐる事が出来る様になった事は、意見の自由な発表が可能となった反面……文化的な堕落と裸の王様を数多く産み出した。

食べログなんかの、『訳知り顔のグルメ気取り文化の評論』を読んでると哀しさを通り過ぎて絶望的な想いにさせられる。

ワケわからん評論をワケわからん人達が読み、語り……コ・ス・パなる下品な『量の論理』を恥ずかしげもなく当たり前化してしまった……。

かつて、この国は……それ思っても、口にするのをハバカルのは貧乏人のせめてもの『自分への拘り』だったのに……。
そして、それは貧乏人のプライドでもあったのだ……。

一人の人間の中に『量の私と質の私』がいる。要は程度問題。偏り過ぎなんじゃね?
と思う。

僕は貧乏人だけど……ファストファッションをまといファストフードとコンビニ弁当ばかりを食らい、暇な時はネットショッピングなんて暮らしの人を見て時々哀しくなる。

『これ幾らだと思う?良いでしょ?』なんて言われても……何が何処が違うのか?分からない。

恐らくアリさん一匹一匹微妙に顔は違うけど……違うでしょ?と言われたって群の中の一匹としか見えない。

数の論理で安く大量に作れるという出自を考えれば直ぐ分かる。その商品は『大勢の人達』が使用する事を宿命的に背負ってるのだから…。
イコール『アリキタリ』になる。

『数エリア商品と品質エリアの商品』の組み合わせ比率と編集の能力だと思うけど……。
成金が全部高級品で身を固めて喜んでるけどこれまた『18世紀のイギリス貴族ですか』?見たいになって観るに耐えない。

何故没個性になるか?……この両者とも『観念の奴隷』だからなのである。
根拠のない『良し!とされ喧伝されてる風説』を盲信する哀しさである。

風説を流す輩は『今はコレ、今はそれ、今はあれ……』と語り急き立てるけど『今のあなたは?』……と問えば急に押し黙ってしまうのである。

『地に足着ける』っていう。
『地とは何か?』……自分が元来持っている生まれながらの感性なのである。

モノの安い高いで優劣は決まらない。
自分の感性の上に立ち……自分の様々を『自分コンセプト』で処理してるか?否か?が『際立ち?』の決定要因なんだと思う。
思考もモノも『深さは時を超越する』んだと……ね?
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