今の時代ほど『普通』という価値観が揺らぎ曖昧模糊となって語られる事は、無かったんじゃないか?と思う。
普通と称される、ウンウンそうだよね的に確認し合える基準があった環境はとっくに失せてる訳だけど……。
皆で共有出来る基準としての普通は確かに存在していた。
その、1億総○○的に、括る事が出来た普通モデルはもう存在しないのだが相変わらず、その『普通』とやらを以て行われるコミュニケーションは何やら怪しい……。
お互いの軸足は全く違うポジションに根差しながら、分かり合えてるかの様な形式を整えながらコミュニケーションは交わされる。
それじゃねと別れた途端、背を向けた者同士が真顔に戻り、話す前よりもどかしくなって離れていく。
自分の外にあった基準が基準ではなくなり、同じ業界でも正規、非正規と立場は違い、生きてく条件はもっと違うなんて状況だからそれは仕方ない。
ならば勇気を持って『自分の普通』を明確にし、その基準に従って生きる覚悟が必要な時代なんだと思う。
皆と同じ自分が楽で良かったけれど、『皆と違う唯一の自分とその普通』で様々を観察し評価して決定する。
そこの所が凄く曖昧で、未だに皆と同じ自分モデルを求めている人は存外に多いんじゃないかと思う。
話は簡単で……経済環境や、制度の恩恵などは階層化、階級化しちゃって普通なんて何処を探してもない。
しかし人間の人生のファンダメンタルズ……特にメンタル面で『普通モデル』は未来永劫存在するのである。
孤独感とか老いの不安とか病気の不安とか……それらを新基準にしたコミュニケーションは存立するんじゃないか?
と思う。
単に高齢化ゾーンだけじゃなく、育児、子育ての不安なども、共感、共有出来る普通化出来るテーマだろう。
リア充のオッサン、オバサン達も蓄えと年金頼りでの安心を打ち出してる人は多いが……そんな普通も風前の灯なのである。
素直に見る事だと思う……自分のメンタルも含めて。
そこにある様々な要素を『在るがままに在らしめてみる』のである。
寂しいよね?ウンウン寂しい!不安だよね?ウンウン不安!……という様に。
一昔前は、経済的に不安ない老後が満場一致で良いとされる普通だった。
でも、長寿による介護問題、健康問題、カネじゃ解決出来ない孤独感……そんな誰もが『普通に至る状況』を普通として認識、共有することで……失われた普通は……また皆の手に戻るんじゃないか?……と僕は思う。
皆で『共有出来る普通』って必要なんだと思う。
既に……今でも寂しいって普通に言える人って凄く、豊かに生きている。
ウンウン寂しいよね?と共感のコミュニケーションが得られるからである。
かつてあった1億総○○の普通というチーズは何処かに消えたのだ。
僕達は共感、共有という『新しい普通のチーズ』を探さなきゃいけないんだと思う。
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