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ちひろBLUESこと熊谷千尋のブログです。

傷つけ合い、すれ違いながら終わっていく不安定な青春の物語『空の瞳とカタツムリ』観てきました。

2019-04-28 22:13:46 | Weblog


4/26(金)、シネ・ウインドで『空の瞳とカタツムリ』を観てきました。





予告編はこんな感じです。



出会った男とは見境なく誰とでも寝る女性・夢鹿(ムジカ)、処女で潔癖症の女性・十百子(トモコ)、この対照的な二人の女性のダブル主演映画です。
そして、二人の美大時代からの男友達・貴也がそこに加わり、恋愛や友情といった言葉では説明しきれない三人の微妙な人間関係を描いた物語でした。

夢鹿は、道でもトイレでも出会った男とは速攻でセックスをしてしまうような女性なんですけど、「一度寝た男とは二度と寝ない」という謎のポリシーがあるように、セックスには愛も幸せも見出さず、ただセックスしては男を捨て続けるだけという決して満たされない人生を送っています。
そんな彼女に代表されるように、とにかくこの映画にはピンク映画かってくらいセックスシーンが次々登場してくるんですけど、セックスや恋愛によって決して誰も満たされないし幸せになれない、という映画だったと思います。

一方、十百子は潔癖症であるが故に他人に触れることができず、そのためもちろんセックスもできず処女のままなのですが、何故か唯一、セックスばかりしている夢鹿にだけは触れることができます。
夢鹿は一見すると十百子に対して上から目線で彼女を支配しているようにも見えますが、どんな男とセックスしても決して心は開かない彼女は、唯一、十百子にだけ心を開いているようにも見えます。

そんな二人の不思議な関係は、いわゆる「百合」と言われるような肉体関係にまで発展しているのですが、何度体を重ねても二人は幸せにはならず、寧ろお互いの孤独が際立っているような、それでいてお互いが依存しあっているような、絶妙に不安定な関係が続いています。
そんな二人の共通の友人である貴也は、ずっと夢鹿に片想いしていて、同じ美大を卒業後も時々一緒に遊ぶような3人は、それぞれ何となく近付いたり離れたりしながら、絶妙な関係が続いています。

3人が同じボートに乗っている時に、突然貴也に「私が溺れたら助けてくれる?」と言って池に飛び込む夢鹿、迷わず飛び込む十百子、呆気に取られて何もできない貴也、というシーンが、すごく印象的でした。
しかし、そんな何とも言えない不安定な3人の関係も、少しずつ変化していきます。

貴也はついに夢鹿に告白、そのまま二人はセックスするのですが、「一度寝た男とは二度と寝ない」夢鹿は、その日を境に貴也を拒絶します。
かと思えば、夢鹿は十百子と貴也の両方に働きかけて、2人にセックスをさせようとしたりします。

その後、十百子と貴也の2人は本当にセックスするのですが、十百子は夢鹿のことを想いながら貴也とセックスをして処女を失ったりします。
しかし、そんな二人を夢鹿は拒絶し、どんどん関係は修復不可能になっていき、その度に3人とも傷付いていきます。

また、夢鹿は何を思ったか十百子に彼女が絶対苦手なピンク映画館でバイトをさせたりします。
すると、十百子はピンク映画館で出会った鏡一という男性から積極的に求められるようになっていきます。

実は鏡一は体に傷があり誰からも体を求められないという恐怖を抱えており、どうやら十百子なら自分を受け入れてくれるのではないかと思って近づいたようなのです。
しかし、十百子は十百子で夢鹿のことが(もしかしたら貴也のことも)未だに頭の中にあり、ここでも男女はすれ違っていきます。

このように、この映画の中では様々な男女の、時には女性同士の、友情とも恋愛とも共依存ともSMとも、何とも言語化しにくい様々な関係を描いています。
そして時には、というかわりと高頻度で、その関係はセックスに発展したりもするのですが、何度も言うようにセックスで誰も満たされず、幸せになれず、すれ違い、傷つけ合うばかりで、ただただお互いの孤独が際立つばかりです。

そんな物語を象徴する存在として登場するのが、タイトルにも入っているカタツムリです。
カタツムリは雌雄同体であり、交尾の際は「恋矢」という器官をお互いの肉体に刺すのですが、それは相手の生殖機能を低下させたり、時には寿命を縮めたりするのだそうです。

男女がはっきりせず、交尾の際はお互いを傷つけ合うカタツムリは、まるでこの映画の登場人物たちの不安定な男女関係や、セックスの度に傷つけ合う関係を描いているようです。
無理矢理こじつけると、決して鳴き声を発せずに、ゆっくりと動くだけで意思が見えにくいカタツムリも、まるでこの映画の象徴的なセリフや静かで淡々とした作風にも似ているのかも知れません。(それにしても「空の瞳」って何だろう…)

正直、この映画を観た直後の僕は、「切なくてエロいけど、よく分からない映画だなあ…」と思うだけでした。
しかし今、こうして感想を書きながら映画のストーリーを振り返っていたら、少しずつ映画の内容に親しみを覚えたり、気持ちが分かる部分がたくさんあることに気付きました。

まず、一つ目は、この映画が、僕も確かに経験したであろう「戻れない青春」を描いた映画だということです。
青春、思春期とも言い換えますが、それはつまり、人生における不安定な時期を意味するんじゃないかと思うんですよね。

あとから考えたら、どうして自分があんな言動を取ったのか分からない、そんなことを若い頃はしてしまうものです。
また、あとから考えたら、どうしてあの人と付き合っていたのか分からない、そんな人間関係を若い頃は築いていたりします。

青春時代とは、そんな言動も人間関係も不安定な人間たちが、自分がそうとは気づかないままに、不安定に集まって生まれるものなのかも知れません。
しかし、この映画がそうであるように、そんな不安定な青春も、お互いが無防備に傷つけ合ったり、誰かを拒絶したり、苦い別れを体験したりしながら、いつか終わっていくものです。

この映画で切ないのが、一度失った人間関係は元には戻らないものとして描いていることで、特に夢鹿と貴也、十百子と貴也のセックスではそれを強く感じました。
夢鹿と十百子のセックスが満たされないまま依存しあう不安定な青春の象徴なのに対し、そんな二人の間に入ってくる貴也とのセックスは青春の終わりを意味しているのかも知れません。

そして、この映画の最後には、それぞれの登場人物たちがそれまでの自分を捨てて、新しい人生を歩んでいくように見えました。
こう書くとすごくポジティブに聞こえますが、実際はずっと一緒にいた夢鹿と十百子の別れを意味するという、非常に切ない最後でした。

そんな訳で、最初はあんまりぴんとこない映画だと思って観ていたんですけど、こうして振り返ってみると、切ないけどすごく共感できるところも多くてぐっとくる映画だったなあと思います。
ちなみに、母も観たがっていたので、一緒に観に行くかみたいな話もしていたのですが、いざ観てみたらポルノ映画かってくらい濡れ場の連続だったので、マジで母と一緒に観なくて良かったです。
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