
グラフィックデザインに経年劣化よる新たな美を生み出す力はあるのか?
グラフィックデザインとは元来、情報を伝えるため、視覚的材料を『集める』作業である。デザインが「データ」を配色構成し明言化するため「だけ」に、ある、とは西島先生の作品を見ていると「思えない」のである。
先生が手がけた福岡地下鉄の各駅マーク。そこに織り込まれる膨大な情報量!そしてそこに「西島伊三雄」をそぎ落とした先に「クラフト」でも『アート」でもない「デザイン」があるとするなら、彼の歩んできた途方もない「闇」や「死角」に勝手に想いをはせ、郷愁や慕情を感じる気持ちが「ゴール」であるのか、ないのか……
私が尊敬する陶芸家、仁田三郎氏は「先生」と呼ばれることを嫌い「んにゃんにゃワシは茶碗屋や」といってはばからず「ワシゃ芸も術も使わんからな」と言い、使う、という時間の経過が新たな美を生む、と彼が粗大ゴミ置き場から拾ってきた円卓のちゃぶ台を撫でながら言ってたことを思い出す。
デザイナーが伝えるべき対象物を、解析し、そこから平面構成や立体構成をする。デザインの語源が「デッサン」であり「計画を記号に表す」ものであるのなら、問題を解決するため、思考や概念を組み立てなおすデザインは「科学」といっていいんじゃないのか!!
もうすぐ、梅雨が明ける頃、福岡博多は「山笠」一色になりつつあり、まだスタートしてないのに我慢できないヤマノボセ達がさるきまわっている。中洲ながれの長はっぴを着た西島先生の笑顔を思い出す季節か来た。

「うんにゃ、あたしは図案屋たい」 アーティストが絶対言わない言葉である。
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