檜山(ひやま)智子の徒然なるままに・・・

ひやま智子の日々の思いや活動をお知らせします。

私の見た被災地その⑦南三陸の風景

2012-01-08 | 災害・防災
 11月28日午後から、南三陸町の防災センター跡地を訪ねました。ここは、最後まで住民に避難を呼びかける放送をしていた女性の町職員はじめ、何人かの方が殉職したことで、何度も放送や新聞でも映されたところです。現場には、他の建物跡地と同様、お弔いのお花やお線香を手向けるところが設けられていました。南三陸町の町長さんは、あの震災を忘れない為のメモリアル的なものとして、この跡地を残そうとはじめ表明しました。が、住民の方からは、この跡が残るのは、苦痛に耐えないという声が多く、撤去する方針に転換しました。その場に行くと、まだ、生々しい雰囲気があたりに残っている感じがしました。
一同合掌したことは言うまでもありません。

 
 また、海岸近くの鳥居がなくなっている場所も案内していただきました。こんもりした小島の上にある社殿に繋がる階段は、
地震で大きくづれ、とても登れない状態でした。
 
 かつての写真です。立派な鳥居がそびえ、毎年の出初式には陸と神社のある小島を繋ぐ桟橋で消防車が放水するのが習いだったそうです。(南三陸町のアリーナに移転している町役場に、震災以前の写真がありました。)
 
 鳥居の対岸には、私達が泊まったホテルが見えました。このホテルも、2階まで水につかったそうですが、改修され営業を再開していました。海のすぐそばの素晴らしいロケーションのホテルでした。海にせり出すような大浴場や露天風呂。いろいろな方が泊まっていました。泊まること・売店で買い物すること、それが従業員の方の雇用の継続につながり、復興に繋がる・・・そんな思いで宿泊させていただきました。
 
 
 最後に寄ったのり屋さんです。近くに床屋さんもありましたが、お店は、皆プレハブしか許されません。それでも、店をやることが自営の方にとっては生きる道です。コンビニやお米やさんなど、少しづつポツンポツンとお店がありました。少しでも早くお店が増えることを願って南三陸町を後にしました。

私の見た被災地その⑥南三陸町歌津駅

2012-01-06 | 災害・防災
 11月28日の昼頃から、南三陸町の歌津駅(気仙沼線)に、というか正確には駅のあった所に行ったと言うべきかもしれません。もう、鉄路も枕木もなくなっています。ホームも津波にさらわれて、途中からもぎ取られていました。高台にあるこの駅を越えて、津波は山の方に行きました。
 
 
 この駅は、海からすぐです。周辺の建物や道路も、殆どありませんでした。この写真は、駅から海を見たものです。

 
 残されたホーム部分にあった、駅の標識には、かつてのツツジの綺麗な時の写真もありました。周りの風景に何の色も無い中で、ツツジの濃いピンクだけが鮮やかでした。海を臨む綺麗な駅だったのでしょう。
 
 
 お昼は、食堂など殆どと言って良いほどありません。私達は、そんな中、あちこちに移動してラーメン屋をしているというバスを改造したラーメン屋さん蔵八ラーメンに行きました。座席もそのままを使用。水なども不自由をしていらっしゃるだろうが、美味しかったです。ご馳走様でした!

私の見た被災地その⑤陸前高田市体育文化センター

2012-01-05 | 災害・防災
 11月28日の夕方、陸前高田市内の体育文化センターという、アリーナや図書館などの施設がまとまっていた地域に行きました。冒頭の写真は、アリーナの全体像です。写真を見てわかるように、この建物は、ドーム型の丸屋根です。屋上はありません。建物は残っていましたが、中に入って息を呑みました。
 瓦礫が片付けられている周囲と比べて、内部は全くそのまま残っていました。ひっくり返った車もありました。このアリーナは指定の避難所にもなっており、大勢の方が避難してきていたそうです。
 
 
 アリーナですから当然、観客席もあったのですが。津波は容赦なく襲い掛かり、天井のパイプに手が届いたわずかな人しか助からなかったそうです。屋上がなかったのですから。言葉が出ませんでした。
 津波の力は、コンクリートで鉄筋が何本も入っているアリーナ天井近くの梁をも引き剥がして、地面に落下させていました。私達が帰ってくる時、地元の子ども達数人が入口付近でボール遊びを始めました。彼らの心にどんな思いがあるのか・・・・
 
 
 周辺は消防署や図書館もありましたが、大変な被害を受けていました。移動図書カーも残されていました。この文化体育センターの表示板も、太いパイプがへし折られて地面に叩きつけられていました。アリーナ入り口にあった、寄付者の名前を記した巨大な岩が、ひっくり返っていたのですから、津波の力はなんとも表現の仕様がありません。

 今、このブログを書いていたら、テレビで、大晦日の陸前高田を写していました。何の明かりも無い空に、大きな花火だけが
浮かび上がっていました。そして美しい元旦の朝日。全く何事も無かったかのようです。

私の見た被災地その④高田松原

2012-01-04 | 災害・防災
 11月27日、気仙沼を後にして北上。岩手県に入りました。この写真は、報道でも何度も見た写真です。本当に一本だけ残った松。高田松原といって、写真を見ましたが、本当に美しい松原が広がっていたのに。跡形もなくなって。そろそろ夕焼けが非情なほど美しいシルエットをつくり始めていました。暮れに報道されましたが、この一本だけ残った松も塩害などで残すのが困難とのこと。
 最近、私は、湘南の海沿いの松林を見ると、高田のことを思います。そういうことが、実際におこるんだ・・・・と、思わずにいられません。
 
 
 写真の物産店と、歌手の千昌夫さん経営のホテルの2つの建物だけが残っていました。観光の中心でした。
 陸前高田は、本当に津波の勢いが凄かったそうです。
 見渡す限り何もないのです。

 
 気仙沼から陸前高田に行く途中、忽然と現れた船です。

私の見た被災地その③気仙沼漁港

2012-01-03 | 災害・防災
 11月27日の午後、気仙沼漁港にいきました。
 昨年のかつお水揚げも日本一の座を守ったという報道に、暮れに接しましたが、漁港の全面復興は並大抵のことではないだろうと感じました。写真に写っている港の岸壁は沈下が激しく、若干かさ上げしたものの海水が常に引かないそうです。船が写っているのは、たまっている海水にです。満潮になるともっと海水が押し寄せると聞きました。
 
 昼食をとった食堂は気仙沼にホテルも営業している会社がやっているところでした。きれいでできたばかりの建物でしたが、それも、市の復興計画が正式にはできていないため、もしかして、計画決定後は取り壊さなければならないかも・・・とのことでした。今朝の朝日新聞の朝刊に、気仙沼支局長の方が『市の正式な都市計画決定は2013年3月10日までとなっているが、いつまで市民を待たすのか!』と書いていた。ああ、やっぱりこのことなんだと思いました。
 
 
 この写真は、漁港に隣接する水産加工工場群の状況です。こういう状況が、あたり一体続いていました。これらの水産加工団地の再建に向けて市民が動き出しても、市の建築規制が立ちはだかる・・・というのが現状だと聞かされた。
 横転し流されたオイルタンクがそのままだったり、朝は通れた道が、満潮とともに通行不能になったり。でも、15年連続のかつお水揚げ日本一を成し遂げた気仙沼の方々の力はすごい!本当にすごい!と感じた。
 
 
 私たちが行った数日前にオープンした復興屋台村です。行って、にぎやかしに花を添えたい気持ちでしたが、時間がなく通過。心の中で『頑張れ~』と叫ぶ。