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とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

まる暴

2007年02月06日 10時07分53秒 | 時事問題(日本)
 「まる暴」の正しい表記は、暴という字をまるで囲む。このソフトでは打てないので、以下、「まる暴」と表記します。

 先日、ちょっと用があって、ご近所の弁護士さんのお宅へ伺ってお聞きした話。

「まる暴」の警察官、「まる暴」の銀行員、「まる暴」の弁護士、と、こういう風に使うのだそうだ。

 つまり、暴力団係りのこと。

 弁護士さん仲間で食事をしているときに、「まる暴」がいると、みんなでひそひそ。

「誰?あの人?」

 暴力団顔負けの姿なので、違和感を発するのだそうだ。

 頭は、ひどいパンチパーマとか、ぞくっと角刈り。

 上着は、表は龍の模様で、裏は赤、といった具合。

 こういう姿で、日頃からいるのだそうだ。

 いるというより、たぶん、暴力団ばかりを相手にしていると、そうなってしまった、というのが正解なのでは、ないだろうか?

 わかる気はする。けんかは、気迫でやるものだ。
猫でいえば、両者毛をさかだてて、フーと言って睨みあう。

つまり、威嚇である。

それから、つかみあい、とっくみあいとなる。

大事なことは、戦争と一緒ではないだろうか?戦力(=腕力)と同時に戦略だろう。だが、いかなるプロセスにおいても、最も大事なのは、たぶん、気迫だろう。

最近、暴力反対と称して、子ども達に、カーっときてやる、つかいみあいも罰する風潮には、疑問を感じる。極端に走りすぎて、なにもかも圧するのは、ステレオタイプの思考だ。かえって、危険な事態に走っていく気がする。

「怒り」「憎しみ」というのも大事な人間の感情の一つだ。時として、ストレートに発散することは、大切だ。始末の仕方を学べる。

わたしたち子どものころは、親たちがみな戦争体験者だった。命をぽろぽろ落として、体で知って、戦争はこりごりした。にも関わらず、ケンカはするな、とは言われなかった。そのかわり、ケンカのルールを厳しく言い渡された。

ケンカはしてもいいが、絶対に相手に致命傷になるような行為には及んではならない。それには、顔を狙う時は、気をつけること。目をつぶす危険性があるからだ。
それから、腹を狙うな。死ぬ危険性があるからだ。

ケンカはしてもいい。しかし、そういう致命的な箇所をねらうケンカはするな。
それは、弱者がやることだ。卑怯者がやることだ。そして、決して武器をもつな。素手でやれ、と言われた。

かくして、わたしたちは、かーっとくると、野原でつかみあって、レスリングをやったり、「あいつはナマイキだから、みんなでやっつけよう」と、戦争ごっこに突入した。もちろん、野外戦だ。

親たちは、しらぬふりして、厳しく見張っていたようだ。

戦争ごっこは、エスカレーションしていく。ルールは教え込まれていたから、別に目をつぶす気はないのだが、ルール違反の武器をつい握り始める。石ころ、棒きれ、そして、もっと、もっと効果的な武器と目をさらのようにして探すようになる。みなさまは、Yの字の取っ手の先にゴムを結びつけた「パチンコ」でお遊びになったことが、おありですか?
ゴムの先に小石をつけて、ゴムをうーんと伸ばして手をはなすんですよ。
すると、石は、手で投げるよりもスピードをあげて、目標に飛んでいくのです。

が、しかし、武器もそこまでになると、あっ!大人が即あらわれて、「なんという危険なもので遊んでいるのだ。よこしなさい。二度とケンカに使ってはならない」と、どなられて、パチンコもろろとも、武器をとりあげられる。

私たち子どもは、まるで見ていたように、ここぞという時にあらわれて、どなる、大人が恐かった。

パチンコをほうりだして、わーっとばかり、蜘蛛の子をちらすようにして、逃げた。

そういった、ケンカをとおして、なにが卑怯か、本当にやってはならないこと、危険なこと、どれが勇気で、どれが臆病かなどなど、体を通して学んだことは、多かったように思う。もちろん、親は子どものケンカには、危険な場面をのぞいては、絶対に口をだしてこなかった。だからこそ、ケンカのフルコースを経験できた。

見張っていることは、大人はおくびにもださなかったので、わたしたち子どもは、自分のまいたタネは自分で解決しているつもりで、かーっとくる相手と、くんつほぐれつして感情と格闘をした。そして、たまに上手くいくと、「雨 降って 地 固まる」も経験した。ケンカ相手が、無二の友になるのだ。くんつほぐれつのケンカは、スキンシップなのですね。それだけスキンシップをすると、ふっとした瞬間に「憎しみ」が「愛情」にかわる。頭だけでは、こうは、いかない。

でも、どんなことをしても、絶対に「愛情」にかわらず、憎み続けて、憎み続けて、今日にいたるまで憎み続ける相手もいることも、知る。
たぶん、これが、「相性が悪い」という相手か?

もちろん、ナイフも危険だからと言って、とりあげられるようなことは、されなかった。わたしたちは、ナイフで鉛筆を削ったり、彫刻のつもりで木の枝を削ったりして、人を傷つける前に、まず自分の手を血だらけにした。ナイフも草刈カマもナタもいつも身近にある大事な生活用品だった。だからこそ、だからこそ、ナイフその他に慣れ親しみ、どうすると、どうゆう結果になるかを体で知った。

仮説だが、いきなりナイフで教師にとびかかって殺してしまう子どもは、ケンカの世界でも、ナイフの世界でも、素人すぎるように、見える。要するに、体験が足りないから、結果を予測できないのではないだろうか?「怒り」「憎しみ」という感情との格闘は、体をぶつけてぶつけて、やっと知ることができるのではないだろうか?ケンカとナイフは同じカテゴリー。「きれやすい」も同じことではないだろうか?

いきなりナイフを持って人にとびかかってしまう、これが、ナマケモノの発想、「あらゆる暴力まるごと反対運動」のきれいごとの茶番の結果ではないだろうか?他人事ではない。わが子もいっしょ。大きくなってから、いきなり人にとびかかってしまう。ばかめ、ケンカのデビューが遅すぎるのだ。これは、ケンカはしないで、仲良くしましょう、などと結論を言葉で先に言って、ケンカの不毛性を体で知ることを圧し、それで事が済んだと思う大人の浅はかさの責任ではないだろうか?

はっ!「まる暴」の話が、「まる暴走」になってしまった。
「まる暴走」は、戦争を体験した世代と、その世代から、ケンカの仕方とナイフの使い方を教えてもらった世代からのプレゼントにしたい。
みんなで、きれいごとを言わず、プロセスをはぶかず、真の意味での「まる暴」になりたい。

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