
母に教えられたとおりに育てたシャコバサボテンが今年もちゃんと咲きました
懺悔その2
今年は老人ホームに入居した母への訪問が少なかった。3月に起きた大震災のせいもあるが、6月、8月、10月のたった3回だけだ。12月にもう1回行きたいと考えてはいるが。母は88歳になりました。
母の老人ホームは新潟の亀田駅からタクシーで20分の辺鄙な場所にある。どうしてそんなアクセスしにくい場所にある老人ホームを弟は選んだのだろうか?ほとんど畑と田んぼのまんなかにあるのだ。どうやら答えは自分の家から15分で行けるからのようだ。弟にとっては近いのだ(そのくせ料金は高い。1か月約20万円はかかる。土地代が安かったのだろう。建物だけは新築したてで広々としている。)
ところがこちらはアクセスするのが大変だ。亀田駅からタクシー20分が最短距離で、新潟駅からタクシーなら30分~40分もかかる。まず上越新幹線で東京駅~新潟駅まで行く。タクシー代を倹約するなら、新潟駅から在来線の信越本線に乗り換え2駅目の亀田駅で降り、そこからタクシーに乗るのが一番安い。
ドア~ドアでは、食事時間やコーヒータイムや乗り換え時間も全部足すと往復約10時間は覚悟しなければならない。
老人ホームには幸いゲストルームが1部屋あり、1週間前に予約をすれば無料で泊まれる。食事も母たちと同じものを注文できる。夕食が600円で朝食が200円である。
ところが、田んぼと畑のまんなかにあるので、ホームへ着いたら最後、どこにも行けない。ホームに缶詰になる。刺激がなく、母も苦しいだろうが、訪問した私も苦しい。刺激ゼロというのは、とても苦しい。
すでに1歩も歩けない母は車椅子生活なので、いつも置かれた場所にじっとしている。地獄であろう。
たまには私が行ったときくらい外出して、レストランに入ったり、ウインドウショッピングぐらいさせてあげたいのだが、周りに町がないので何もできない。台数は少ないが、車椅子用のタクシーはあるので予約をしておいて新潟駅周辺の繁華街につれて行って少し息抜きをさせたいと考えているが、今年は訪問した3回はすべて父の遺産の後始末で終わってしまった。人1人が死亡することは大変なことだ。
どうやら、後始末の道筋が見えてきたので、これからは母に一番いいことをしてあげたいと考えている。が、そうこうするうちに母に大分衰えが見え始めてきた。、少し焦っている。脳神経科にホームの人につれていってもらい診断を受けた結果、要介護5、CTかMRIの診断では脳の委縮が著しく廃用症候群にかかっているらしい。
なによりもショックだったのは、長谷川式認知症スケールとMMS知能スケールの結果がどちらも1/30点だったことだ。そこまで衰えていたとは驚いた!08年ではMMS知能スケールでは15点だったのに。診断名はアルツハイマー型認知症だ。アリセプトで認知力喪失を抑止できる時期は過ぎてしまった。
老人ホームは建物の立派さではなく、サービスの中身を見るのが大切なのだとやっと気づく。父の急死後、1か月ちょとで入居した施設だ。サービスの中身まで調べたのか?素人はつい建物に目がいく。しかたがない、サービスの内容は入ってみなければ分からない。だから情報豊かなケアマネさんに出会えるかどうかで運の良し悪しが決まるようだ。
あのホームでいいのか? 今年はせわしなかったので余裕がなかったため今後考えていきたい。が、人間の衰えは、まったなしなので、心配だ。そういえばご近所のお年寄りもみるみる衰えていく方もおられる。たとえ自宅介護を受けていてもだ。人間が衰えていくことは何をしても止めることができない。しかし、後期の認知症に効く薬も日本でやっと認可されたということなので、少しでも衰えを遅くする、あるいは緩和させる治療方法はないのか医師に相談してみるつもりだ。
気丈でクールな母だった。自分が自分でコントロールできなくなったら施設に入れて欲しいと言っていた母だったが、いざその時になったら辛そうだ。家に帰りたいとも言う。けれど父が急死した今となっては誰も父の代わりができないでいる。
私には老人ホームがubasuteyamaに見える。決して楽しい所ではない。自分の老後も老人ホーム入りを考えているが、覚悟が大切だ。覚悟しなければあんな所は耐えられない。認知力があればまだいい。どうして自分が施設にいるのか理解できるので、それなりにあきらめて、納得し、生活を楽しんでいる方々もおられる。
けれど、母には自分がどうして突然施設にいるのか理解できないのだ。
「私はどうしてこんなところにいるのだろうね?」(認知力があった時は、自分から施設に入れて欲しいと言っていたくせに)
突然、言う。「こういう所に入ると死ぬまで出れないのだ」と。
母なりに残った認知力で、自分の今の境遇を理解しようと必死に考えているようだ。悲しくなる。
母の家はそのままとってあるが、家に帰っても、父のいない家はもはや前の家とは大きく異なるだろう。母にとって父だけが頼みの綱だった。この世の認知は父に頼っていた。「これは何?」という質問に、父が「それはトイレの電気をつけるスイッチだよ」と説明すると母は納得するのだった。本気できめ細やかに介護していたのも父だった。父以外の人の世話は、たとえ実子でもあまり信用していないように思えた。父亡き後、頭の痛い問題である。
母のプライバシーですが、同じ悩みを持っている人も多いと思うので記しました。