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とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

赤い椿

2009年03月22日 18時31分19秒 | 私のこと(日記)
 ふと見上げると、椿がどんどん咲き初めていますね。
 椿を見ると、わたしには、この樹の前を少年時代の息子たちが明るく元気いっぱいに 走っていく姿が強烈に蘇って(よみがえって)きます。

 でも、息子たちは、これから人生本番という時に、こんな不況になってしまった(笑)。彼ら、あがいておりますよ(笑・涙)。親は、「また不況か!」と腰がぬけて、脱力状態が続く。

 それは、それとして........

以下の言葉が、きりきりと身体にささります。

"
 あらゆる社会の中でもっとも古く、またただ一つ自然なものは家族という社会である。ところが、子供たちが父親に結びつけられているのは、自分たちをを保存するのに父親を必要とする間だけである。この必要がなくなるやこの自然の結びつきは解ける。子供たちは父親に服従する義務をまぬがれ、父親は子供たちの世話をする義務をまぬがれえて、両者ひとしく、ふたたび独立するようになる。もし、彼らが相変わらず結合しているとしても、それはもはや自然ではなく、意志にもとづいてである。だから、家族そのものも結束によってのみ維持されている。
 両者に共通のこの自由は、人間の本性の結果である。人間の最初のおきては、自己保存をはかることであり、その第一の配慮は自分自身に対する配慮である。そして、人間は理性の年齢に達するやいなや、彼のみが自己保存に適当ないろいろな手段の判定者となるから、そのことによって自分自身の主人になる。
 だから、家族はいわば、政治社会の最初のモデルである。支配者は父に似ており、人民は子供に似ている。そして、両者ともに平等で自由に生まれたのだから、自分に役立つのでなければ、その自由を譲りわたさない。ただ異なるのは、家族においては、父親の子供にたいする世話をつぐなうものは子供たちに対する愛だが、国家においては、支配者は人民にたいして、この愛をも持たないのだから、支配する喜びがこれに代わる、という点である。
    ルソー、『社会契約論』、第2章 最初の社会について(岩波文庫p、16)

"

 別に、むずかしい話をするつもりはありません。

 ただ、赤い椿を見ると、自然状態のときの家族は、幸せだったなあ!とだけ言いたいのです。今日は、これにて、さらば。難しい話は、また、おいおいに.

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