メルケル演説が示した知性と「ガースー」の知性の欠如
「ガースーです」と同じ日、メルケルは国民に厳しい感染対策が必要な理由を情熱的に説いた(12月9日、ベルリンの連邦議会で) Hannibal Hanschke-REUTERS
<新型コロナ危機のなか珍しく情に訴えたメルケルは、ウイルスというファクトから目を背けることはできないと言い、菅は「こんにちは、ガースーです」と言った>
ドイツのメルケル首相の演説が世界的に話題を呼んでいる。同国のコロナ死者数が過去最多の1日590人に上った12月9日。連邦議会において行われた演説で、首相はいつになく感情を剥き出しにして、クリスマスシーズンにおける市民の自粛を訴えた。例年のようなクリスマスを楽しめないことは「本当に心から残念なことではあるが」と首相は述べる。「1日590人の死は受け入れることができないというのが私の見解だ」。情熱的なスピーチは得意ではないとみられていたメルケルが、突如身振り手振りまで込めてコロナウイルスの拡散防止を訴える姿はインパクトがあり、その数分間は切り取られて、世界的に知られるようになった。
この演説では、コロナウイルス対策として12月中旬からの部分的なロックダウンおよびそれに対する財政支援なども説明されている。また、来年から始まるワクチン接種についてのロードマップの概要も首相は示した。
「私は啓蒙の力を信じている」
コロナの危機を訴える演説の途中で、メルケル首相にヤジが飛んだ。「(コロナの死者数が増えるという予測は)まったく証明されてないんだ!」ヤジを飛ばしたのは極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の議員で、同政党はコロナ禍における移動や経済活動の制限について全面的に反対している。世界各国の極右ポピュリズム運動・政党はコロナの危機を過小評価する傾向にあるが、それはドイツでも例外ではない。
メルケルは普段はヤジに反応することはないのだが、この日は違った。彼女は、以下のように応答したのだ。
「私は啓蒙の力を信じている。今日のヨーロッパが、まさにここに、このようにあるのは、啓蒙と科学的知見への信仰のおかげなのだ。科学的知見とは実在するのであって、人はもっとそれを大切にするべきだ。私は東ドイツで物理学を志した。しかし私が旧連邦共和国(=西ドイツ)出身だったならば、その選択はしなかったかもしれない。東ドイツで物理学を志したのは、私には確信があったからだ。人は多くのことを無力化することができるが、重力を無力化することはできない。光速も無力化することはできない。そして他のあらゆるファクトも無力化することはできない、という確信が。そして、それはまた今日の事態においても引き続き当てはまるのだ」。
メルケルは、反知性主義的なヤジに対して「啓蒙の力を信じている」と返した。人々の自由が政治によって弾圧されていた東ドイツにあって、いかなる政治も干渉することができない自由な領域が、彼女にとっては物理学の世界だった。自分自身の経験を通して、メルケルはこの社会における科学的知見の重要性を語るのだ。
通俗的な反近代主義者やポスト近代主義者は、啓蒙主義の精神を批判しがちである。しかし、彼らがそれに代わって社会が拠って立つべき指針を示すことはほとんどない。
メルケルが見せた知性への誇り
前例のないパンデミックで国家が常態ではいられなくなったとき、問われるのは国家のアイデンティティだ。メルケル首相は、演説の中でドイツについて「強い経済」と「強い市民社会」をもった「民主主義」国家だと定義している。そして彼女にとって、そのような国家のアイデンティティの前提にあるのが啓蒙の精神、すなわち知を愛することなのだ。演説の中でも、教育や学術への支援を首相は強く訴えていた。
ヨーロッパは東アジアに比べてコロナの流行が激しい。そうした状況下にあって、ドイツの取り組みも他のヨーロッパ諸国と比べると優等生ながら、必ずしもすべての政策が上手くいっているわけではない。しかし、メルケルが知性に拠って立ち、議会において市民に対してコロナの流行と「戦う」気概を示したことは、国家の首班としてふさわしい振舞いだった。
私権の制限を伴うロックダウンは、自由で民主的な体制と必ず衝突する。もしロックダウンを行うのであれば、いかにそれが公正に行われるかを、政府はオープンな議論のもとで市民に示す必要がある。いかにパンデミックのような緊急事態であろうと、政府がアカウンタビリティ(説明責任)を果たそうとせず、強権的な政治を行うのならば、それは独裁への道だ。
「こんにちは、ガースーです」
11月中旬以降、日本でも新型コロナウイルスの「第三波」が到来している。比較的感染者数が少ない東アジアにあって、現時点での日本は感染者数が多い劣等生の部類に入る。北海道や大阪ではすでに医療崩壊が起こっている。そして東京の感染者数が初めて600人を超えた12月11日、菅義偉首相は「ニコニコ動画」の生放送に出演し、「こんにちは、ガースーです」と笑顔をみせた。コロナ対策に関して、人々の移動を促し、感染拡大の要因のひとつと指摘されている「GoToキャンペーン」について尋ねられると、一時停止は「まだ考えていない」と述べた。
この菅首相の振る舞いは、9日のメルケル演説と対比され、SNSで話題を呼んでいる。メルケルの情熱的に市民に訴えかける振る舞いに対して、菅首相の姿勢はパンデミックの危機にあってあまりにも不誠実にみえるというのだ。
知性に対する態度の落差
もちろん、首相は演説が上手ければよいというものではない。いかにその言葉に真心がこもっているようにみえようと、それ自体はひとつのパフォーマンス以上のものではない。しかしここで再度強調したいのは、メルケルの「情熱的な」の中に込められた知性への誇りについてだ。啓蒙の精神を土台とした政策決定を行っていく姿勢をみせることは、単なるレトリックではない。そのような言明を首相がすることによって、科学的なものに裏打ちされた公正な政策について議論可能な土壌が、政治的につくられるのだ。
「こんにちは、ガースーです」の第一声のもとニコニコ動画に出演した菅首相に、そうした知性に基づいた政治を行う気概はあるのだろうか。政策決定の公正さについて、アカウンタビリティを果たす責任感はあるのだろうか。残念ながら、これについては悲観的にならざるをえない。菅政権発足直後に発生した日本学術会議に対する介入をみると、この政権が知性に対してどのような立場を取っているかを推察することができる。
なるほどメルケルが言う通り、人は多くのことを無力化することができる。学問の自由もその一つである。医療崩壊の渦中にある人々の悲鳴や、「GoToキャンペーン」を停止すべきだとする専門家の意見も、無力化することができる。しかしこれもまたメルケルが言う通り、残念ながらファクトは無力化することはできない。新型コロナウイルスの脅威もその一つだ。
<執筆者>
藤崎剛人 北海道生まれ。東京大学大学院単位取得退学。埼玉工業大学非常勤講師。専門はドイツ思想史。特にカール・シュミットの公法思想を研究。『ハーバー・ビジネス・オンライン』でも連載中で、人文知に基づいた時事評論や映画・アニメ批評まで幅広く執筆