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とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

なぜ私はカバのために書くのか?

2006年11月27日 07時32分43秒 | 児童文学(絵本もふくむ)
その作家とは、スージー・モーゲンスターンです。ニューヨーク生まれのフランス人で、現在はニースの大学で英語教師をしているはずです。(定年になっているかな?)
邦訳は、ただ1冊、代表作の『秘密の手紙―0から10』河野万里子氏訳 白水社が出されています。

原題は『愛の手紙―0から10』で、0歳から10歳という意味です。河野万里子氏の訳は一度ざっと目を通しましたが、主に自分で原書を読んだ印象から語ります。

この作品は、評価が高く、白水社の帯では15の賞を獲得しているということですが、賞はうなぎのぼりで、私が調べた時点では確か30くらいまで行っているはず。

すばらしい作品ですので、ご興味のあるかたは是非お読みになってください。元気が出ます。

主人公は、両親もいず、おばあさまと孤独に生きるエルネストという10歳の少年です。彼女は小説の中心に常に一人の子供を置きます。子供の世界が中心で、大人は陰においやられ、ただ子供の成長のモーター役しかあたえられません。

ニューヨーク生まれという経歴のゆえか、多様性を大切にし、異質なものをぶつけて豊かさを開花させるのが得意です。

この小説においても、孤独な一人っ子のエルネストという少年に対して、13人の兄弟の唯一の女の子の大家族のヴィクトワールという女の子をぶつけ、エルネストに世界の豊かさを発見させます。

エルネストの母親は、出産すると同時に死亡をしてしまい、妻を心の底から愛していた父親はショックに耐えられず、生まれたばかりのエルネストを自分の母親のもとに置いて蒸発してしまいます。エルネストとおばあさまだけのひっそりとした孤独な生活の描写からスタートします。エルネストには、両親のことは一切秘密にされています。しかし、10歳になり、ヴィクトワールと知り合ってからエルネストは自分の境遇、世界の探検に目覚めていきます。
小説が進むうちに、秘密が徐々に明かされていきます。
種をあかしをすると楽しみがなくなるので「秘密」にしましょう。感動的な愛情物語です。読んだあなたは、泣くでしょう。

楽観性を貫き、愛情を大切にするこの作家の作品によって、気持ちが明るくなるでしょう。

私は、河野万里子氏とも白水社とも、なんの関係もない人間です。ただこの作品が好きなだけです。そして作者であるスージー・モーゲンスターンが。

フランスのネットサーフィンでみつけた記事は、かなり前に失神状態で訳し、今読むと修正したい部分がかなりあるのですが、原文が行方不明でどうしょうもなく、あえて恥をしのんでそのまま掲載いたします。細部の一部を少々ですが、つじつまがあまり合わないので我流で修正したことを明記しておきます。この作家の世界の雰囲気が少しでも伝われば幸いです。

なぜ、このようなことをするかといったら、この作家の描く子供たちが実に活き活きとしていて逞しいからです。舞台は学校が多い。しかし、子供の世界はあくまで自律的でどんどん成長していきます。そこが、すばらしいのです。   
    
   Susie Morgenstern
  スージー・モーゲンスターン(英語読み?)         
    
      作品のテクニック分析
 
 スージー・モーゲンスターンのほとんどあらゆる小説の中央に一人の子供がいる。特に10歳の女の子が。一度も受身にならず、一度も被害者にならず、いつも裏であやつり、苦労を脱する方法をたくさん持っている。10歳はスージー・モーゲンスターンにとって、子供が独自の経験で生き始める年令だ。*ゆえに、作品のヒロインたちは世界を征服しに出発をする。ヒロインたちは等しくゆるがぬ性格を持ち、エネルギッシュで、ハーフトーンではない。それは、たぶん、読者の青少年によって説明がつく。彼らはまだ直接にはそのニュアンスを理解していない。

 ゆえに登場人物の子供は、スージー・モーゲンスターンの作品のなかで大人の登場人物よりもはるかに存在感がある。たとえ活動が家庭や学校のただなかにあるとしても(典型的な子供の世界)この“不安な”不在への単純な説明。両親はよく働き、離婚をしている。父親は別なところで生活している、母親は死んでいる…けれどたとえ大人たちが透けて見えるだけの存在にしかすぎなくとも、副次的な役を果たし、困難な状況を抜け出す例になる(『愛の手紙、0から10』において、ヴィクトワールの父親がエルネストと自分の娘を学校の女校長先生と闘って難局から連れ出す。ここで大人は唯一姿を現す)あるいは、大人は主人公の成長や物語の直接、間接的な“モーター”だ。(『愛の手紙 0から10』において、父親を探索することで、父親はエルネストを世界に開花するよう導く、そして『アメルリック』では、マチルドの母親の無責任さであり、マチルドは母親をエリーズに働きかけるようにする…)

 スージー・モーゲンスターンの作品中で、実際に存在する唯一の大人達は、ファンタジーや、やや子供っぽい人生の恋愛の便宜のために、「大人」としての特性を奪われている。(たとえば、エリーズ、『アメルロック』の無償で家事を手伝う若い女性、あるいは『第六学年』のマルゴの父親)メッセージは明白のように思える。できるだけ長く子供の魂を保ちなさい、さもなくば大人の世界は子供たちにかかわらなくなり、子供は大人の世界に無関心になる。
 彼女がこのことを『親密な二つの半身』で大声で強く叫び、あるいは『アメルリック』でさらに強いニュアンスで叫ぶのは、スージー・モーゲンスターンが対照的なもの、相違点が好きだからだ。彼女の小説では、いたるところにある。たとえ社会のなかでも、肌の色、宗教、国籍、家族の規模でさえも。こうして、エルネストあるいはサラという一人っ子が親密にたくさんの兄弟、姉妹のいるヴィクトワールあるいはサラと読書をしあう。こうして互いに豊になり、彼らの違いが世界のたくさんの地平線を開く、たとえそれがやすやすとぐらつかずにおこなわれたとしても。
それは、よって、世界を作る多様性であり、スージー・モーゲンスターンの世界がより強くなる理由である。
スージー・モーゲンスターンはこの世界を彼女のイメージで創作した。すなわち愛情の基礎の上に、文化、好み、分野、混合した世界を。

 愛情は、フランスの学校とともに、彼女の好きなテーマでありつづける。そこにささいなあやまちを明らかにするのがうまい。スージー・モーゲンスターンの学校は、ひょっとするとマルゴ(第6学年とマルゴ・メガロ)の学校かもしれない。すなわち、それぞれが自分の場所をみつける場所、学ぶことは罰ではなく真の楽しみである場所、世界を学び、他人を尊重する場所、教師のことではなく、むしろ生徒のことだ。スージー・モーゲンスターンはわたしたちに友情、家族、本のことさえ話す…。

 “世界を発見する少女たちのハレムを介して、彼女は子どもの読者に楽観的な、豊で、ダイナミックなメッセージを届ける。すなわち愛しなさいと。世界を愛しなさいと。人生を愛しなさいと。他人を愛しなさいと。特に自分自身を愛しなさいと。そして活動に参加すること、独自の経験をしあう、独自の人間性を開発すること、他のだれかが望む人にではなく、自分自身になること。社会に加入すること、けれど、精神に、世界は社会からわたしたちがつくっているものであるということをずっと残しておきながら、こうして登場人物たちは自分独自の経験を通して自分が誰か、世界がどうなっているのかを長所短所を含めて学んでいく。それは、いわば、『ラメルドック』あるいは『親密という二つの半身』のメッセージである。
スージー・モーゲンスターンの子こどもたちはこうして常に自分自身を探し求める、が他人との恋愛も探し求める…決してユーモアのセンスを失わずに。また、自伝的と呼ぶことができるのも小説のなかでだ。『初めて16歳になった』あるいは『初めての恋、最後の恋』のような小説に、作家を見出すことができる。彼女もまた自分自身を探し求めに出発する。そして多少ともうまくいった経験により個性を練りあげる。

 スージー・モーゲンスターンにとって、書くこと、それは全能になること“神様ごっこをする”ことである…小説ではあらゆることが可能である。特に最高のことが。書くこと、それは小声で、少しづつ胸のうちを明かすことである…(実際、、『ラメルリック』でエリーズやマグロの箱の背後でスージー・モーゲンスターンをみいださないだろうか?“オッシュ”、姉妹やコントラバス、『「初めて16歳になった』で。書くことは自分の興味の中心を分配することだ、精神の糧を配って養う人のように、それはスージー・モーゲンスターンの小説にくりかえし現れるテーマだ。
 
しかし、書くことは読者の子どもに社会の規範という強制をひきおこす。安心させねばならない。“手をとって”あまり見しらぬものでなく,あまり見なれたものでない土地に運び去るために。それゆえ、スージー・モーゲンスターンはほとんど常に小説を子ども時代の不可欠な部分を成すものにすえる(家庭や学校)。主人公の子どもの手綱を離して。おそらく同じ理由で彼女は好んで、一人の子どもが経験したように自分の物語を語る演出を選ぶ。呼び名に“ぼく・わたし”をつけ、子どもの目からみた位置に語りをすえる。彼女の小説は世界についての同伴者にも、入り口にも、説明者にもなりたがる。そして小説は子どもが自分の人生の、探求者の 幸福あるいは不幸な経験を演じるアクターになる場所である。
つまり、書くことは“世界を理解する手助けをする”こと、生きることをも。生きる以上のことを。、それは存在することだ。
スージー・モーゲンスターン、なぜ私はカバのために書くのか。レコール・デ・レットル。1994年6月1日。“青少年と読書する”特集12-13
p.137-139

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