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音楽大好き男の徒然なる日記

憲法記念日に考える 「洞窟の囚人」から脱して(東京新聞社説)&れいわ新選組・代表団話

2024-05-03 | 日記
東京新聞 2024年5月3日付社説
「憲法記念日に考える 「洞窟の囚人」から脱して」
 https://www.tokyo-np.co.jp/article/324971?rct=editorial

「洞窟の比喩」というエピソードが古代ギリシャの哲学者プラトンが著した「国家」にあります。
 
洞窟の奥にいる囚人たちは、振り返ることもできない状態で縛られています。
入り口の方にかがり火が燃えていて、人々を背後から照らしています。
 
動物などの像が火にかざされると、洞窟の壁に影絵が映ります。
囚人たちはその影絵こそ真実だと思っています。
 
でも、ある1人が束縛を解いて、洞窟の外に出ようとします。
光源の存在を知り、やがて太陽の光を浴びることになります。
そこで見る世界は洞窟の影絵とは似ても似つきません。
 
その1人は洞窟の奥に戻り、囚人たちに自分が見た世界を語ります。
でも、洞窟の囚人たちは誰もその話を信じようとはしません。
何しろ、自分が見ている影絵こそ真実だと思っているのですから。


◆暴政を見ている10年間
 
この10年間、私たちは囚人のように洞窟に閉じ込められ、
政権が都合よく映し出した影絵を見ているのではないでしょうか。
 
「閣議決定」で政府が思い通りの政策を推し進める政治風景のことです。
まるで憲法を無視するかのように、国会など存在しないかのように、
主権者たる国民も蚊帳の外であるかのように…。
 
安倍・菅・岸田と続く政権下では、
憲法の解釈も、法律の解釈も、内閣が自由自在に変更してしまいました。
戦後積み上げた政府答弁も自分たちの都合のいいように簡単に覆してしまいます。
 
息のかかった高検検事長を定年延長したり、
日本学術会議の会員を任命拒否したり。
老朽原発の運転延長も国会の議論をほとんど経ずに閣議だけで決めました。
 
国権の最高機関は国会なのに、さながら政府の追認機関になっています。
憲法が想定する三権分立の民主主義とは異なります。
まるでプラトンの「洞窟の影絵」のように、当たり前の光景になっている、
それが心配です。
 
内閣とは法律を誠実に執行する行政機関で、国会は唯一の立法機関です。
法律はときに国民の権利を制約しうるので、
国民の代表者である国会だけが立法できると憲法に定めています。
 
ですから内閣が勝手に法の枠や解釈の枠を踏み外してはなりません。
憲法は主権者たる国民の側に制定権力があり、
政府は憲法に拘束される側ですから、身勝手な解釈変更など許されません。
 
それが三権分立の本当の姿です。
でも、この10年、単なる閣議決定で憲法や法律が読み替えられています。
これは暴政です。
 
出発点は2014年の夏。
集団的自衛権の行使容認を安倍内閣が閣議決定した時です。
専守防衛のはずの自衛隊が他国の戦争に介入できることになったのです。
 
180度の大転換です。
平和主義を定める憲法9条から逸脱しています。
法治国家では法の整合性や連続性が求められますが、壊れてしまいました。
 
それからは安全保障の重要案件の多くは、閣議で決定されていきます。
敵基地攻撃能力の保有や防衛費倍増、高性能の次期戦闘機を他国に売ることも…。
 
でも、そもそも閣議決定とは閣僚の合意事項で、
法律を超える法的拘束力はありません。
もし閣議決定に法的効力を認めるとすれば、内閣が勝手に法律をつくるのと同じです。
国会はいらなくなります。

やはり暴政なのです。

しかし、最近は世論の反応も鈍くなっているのが残念です。
2014年から2015年の安全保障関連法の成立当時は、
「憲法違反だ」と多くの国民が怒り、国会前で抗議のデモを繰り広げました。
 
今は政府により既成事実が積み上げられて、無力感が漂っているのでしょうか。
抗議の声も鳴りをひそめがちです。


◆「考える」は戦う精神だ
 
冒頭の「洞窟の比喩」は、批評家・小林秀雄の「考えるヒント」(文春文庫)にも出てきます。
 
<彼等(ら)は考えている人間ではない
(中略)巨獣の力のうちに自己を失っている人達(たち)だ>
 
影絵を真実と思っている洞窟の囚人たちのことでしょう。
だから、自ら考えねばなりません。
小林秀雄は「考える」営みについて、「どうあっても戦うという精神である」と記します。
 
<プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である>
影絵のような名ばかりの民主政とは、どうあっても戦う。
そんな精神を持ちたいものです。

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「日本国憲法は、国家権力を縛るもの。
 私たちの基本的人権が尊重され、健康で文化的な生活が守られる平和な社会の為に施行されている、
 はずである。
 今の日本ではどうだろうか。
 憲法記念日の今日、みんなで考えたい。
 ちなみに私は最高法規の章に書かれている第97条が好きで、誇りに思っています!」
  やはた愛さん(れいわ新選組)のツイートより。
   ↓
第97条「基本的人権の由来特質」
 この憲法が日本国民に保障する由来は、
 人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、
 これらの権利は、過去幾多の試練に耐え、
 現在および将来の国民に対し侵すことのできない
 ”永久の権利” として信託されたものである。



【山本太郎】 総理、アメリカではなく奥能登に行っていただきたいんです
 2024年4月24日 参議院・予算委員会【国会ダイジェスト】


【代表談話】憲法記念日
  (れいわ新選組代表 山本太郎 2024年5月3日)
 https://reiwa-shinsengumi.com/comment/20385/


国民の生命や権利を守る気概のない者たちに政治を任せれば
憲法上の権利は見事なまでに無視される。

2024年1月1日から私達が目の当たりにした現実は
そのことをはっきりと思い知らせてくれた。


1月1日能登半島と周辺地域を襲った大震災でこの年は始まった。

正月休みの帰省者を含めれば、
被災地には登録された住民以上に多数の方々が被災され、
支援を必要としていることが十分想定できた。
案の定、被災市町では食料など必需品の備蓄は早期に尽き不足。

災害時、自衛隊炊き出しの食材は基本、自治体が準備するのがルール。
でも今回、当然その前提は成立しない。
現地に入る際、追加の支援物資にも大量の食料を持ち込まなければならないが、
そのような政府からの指示はなかったようだ。

それを表すのが、はじめて珠洲市で行われた、自衛隊による炊き出し。
発災5日後の1月6日。準備されたのは、100食だけ。

現場の自衛隊員が持ち合わせていた食材を工夫し、
何とか100食だけを提供することができた。
自衛隊員の機転と思いに感謝すると共に、
食材を搬入する指示をしていない政府の無能さにめまいがする。


2月末時点で、珠洲市における必要食数は、「一食」あたり2500食。

発災から2ヶ月近くが過ぎた頃でも、
自衛隊による珠洲市での炊き出し提供数は、
「1日」で1640食。圧倒的に足りていない。

国会で総理に対し、自衛隊炊き出しの提供能力の増強を求めたが、
間も無く、自衛隊による炊き出しは撤退。
上下水が壊滅的な被害を受けた地域においてこの非道ぶり。

他にも、能登町で行われた「はじめて」の炊き出しは1月28日、300食だけ。

奥能登で水道の復旧が遅れる中、携帯型トイレの供給も減っている。
そもそも在宅避難者数から割り出された必要な携帯トイレの数を
現地に提供する考え方は取られていないため、
圧倒的に数が足りていない。

そのため、トイレに行く回数を減らす、15分かけて避難所のトイレに通う、
トイレに行きたくならないように水分補給や食事を減らし体を悪くする。
被災地域では、そのような壮絶な状態が放置され続けている。


当たり前に食べ物があり、水があり、
安心して寝ることのできる場所がある。
その最低限の権利が保証されないままの状態で、
4ヶ月以上も生きることを余儀なくされている多くの人々がいる。

一番恐ろしいのは、
政府や自治体のトップがこの現実を直視せず、
「そろそろ被災地も自立すべき時期だ」と支援を縮小、
3月下旬で打ち切ってきたことだ。


平時には1日1人250リットルの水が必要だが
被災地ではまだ水道が通らず、
高齢者が一世帯1日20リットルの水をもらいに並ぶ。
飲み水さえも不足する状況を政府に説明すると、

「店にはペットボトルがあるから買えばいい」
との答弁で切り捨てる。



憲法25条
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」

もちろん能登の震災以前から、憲法は守られていない。
30年の経済災害の中、コロナで物価高でも
大胆な減税も社会保険料の減免も行わず、
日本国民の6.5人に1人が貧困であっても事実上の放置プレイ。

憲法15条
「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」

国民が貧困化する中でも、金と票で政治家・政党を子飼いにし、
政策を買収する大企業・資本家は毎年、過去最高益を更新し続けている。
富裕層が世界で2番目に多い国は日本だ。

自民党の4分の1の議員は裏金をネコババしても辞職せず、脱税し放題。
その泥棒たちも加わって、政治と金のルールを変える、という。
国会自体が強盗団の補完勢力になりつつあることを危惧する。


この状況で、
憲法13条
「すべて国民は、個人として尊重される。
 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、
 立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
など保証されるはずもない。



この現実に、この国のオーナーである国民が気づくことができなければ、
さらなる生活の破壊と国の切り売りは加速。
将来、形の上での国は残っても、そこに生きる人々には地獄が広がるだけである。
それを止めることができるのが政治だ。

ここまで社会を破壊してきたのも政治。
それを変えるのも政治。
それを動かせるの、あなたであり、わたし。


憲法12条
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」

不断の努力を怠たり、
無関心の先頭に立つような人物が、昔のわたしであった。
だからこそ、今、やれることを全力でやりたいと
自分なりに必死に取り組んでいる。



30年の不況にコロナ、物価高においても大胆な経済政策もやらず棄民。
一方、特定の者たちだけが肥え太るための政治をやめない永田町。

コミュニティを守る、何でもやる、先頭に立つと
リップサービスだけで、
能登半島地震で被災された方々をだまし、
国土面積の0.45%の地域の生活復旧さえも真剣に取り組まずに見捨てている。

多くを失い困り果てた人々を前に、必要な施策でさえもコストだと、
金がかかるのだとして、前に進めない外道。
存在自体が憲法違反の者たちから国を取り戻すことを急がなければならない。

このような輩たちは口を揃えて憲法改正という。


30年にわたる経済災害でも国民を棄民し続け、
そこにコロナと物価高が重なっても国民を救わず、憲法改正?

災害時における衣食住、
ライフラインは民間の善意に甘えるのではなく、
国が全面的に行うこともせず、憲法改正?

寝言は寝てから言え。


まずは、失われた30年を取り戻す経済政策と、
一刻も早い奥能登の生活復旧と災害前以上の復興が最優先。
これこそが、憲法を守る政治である。
その先頭にれいわ新選組が立つ。


 2024年5月3日
 れいわ新選組代表 山本太郎

れいわ新選組・公式ホームページ
 https://reiwa-shinsengumi.com/

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