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リヒヤルト・ハイゼに関しての引用・・・以下 今回、飯盛山の観光ボランティアガイドさんより、ハイゼさんに関して、はじめて説明を聴けました。
白虎隊の墓のある広場に、ドイツ・イタリアから贈られた、記念碑・塔があります。戦前の三国同盟の影響もあり、戦後・進駐軍により、一部・削られたり、破壊されているようですが。でも、日本の一地方のことがヨーロッパから、どうして?賞賛されたのか・・・・
それを紹介にたのが、この、ハイゼさんということらしいです。ハイゼさんは、ここに、希望して葬られているそうです。 本人と、お子さんも、日本人と結婚・・・
『リヒャルト・ハイゼ物語 白虎隊の丘に眠る或るドイツ人の半生』
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知られざる歴史明かす労作
福島県会津若松市の飯盛山(いいもりやま)といえば、白虎隊の墳墓の地として有名だ。
この山に上ると、時に地元の人の口から「ハイゼ先生」ということばを聞くことがある。本書は、今は飯盛山の一角に眠るその「ハイゼ先生」ことドイツ人リヒャルト・ハイゼ(1869~1940年)の評伝である。
バルト海に面した軍港キールの生まれ、キール大学を病気中退後、志願兵として軍務についたハイゼが来日したきっかけは、1901(明治34)年、ロンドンで英語教育の先駆者である神田乃武(ないぶ)高等商業学校(現・一橋大学)教諭と知り合い、同校のドイツ語講師として呼ばれたためらしい。翌年、34歳にして初来日したハイゼは、お雇い外国人の特権というべきか、松方正義、井上馨、山県有朋ら明治の元勲たちに会見。時代相を理解する一方で、日本の近代革命の裏には、戊辰戦争、西南戦争といった悲劇が隠されていたことも知るのである。
特に会津藩白虎隊の生き残りの東京帝国大学総長山川健次郎から「白虎隊の悲話」について教えられたことは、プロイセン仕込みの軍人教育を心がけてきたハイゼに強烈な印象を与えた。
ある夏、会津若松を訪ねて「白虎隊の丘」に上ったハイゼは十九士の墓前に佇(たたず)み、「若き英雄たちの精霊らしきもの」の幻影を見る。かれが感動したのは、白虎隊の少年たちがゲルマン魂にも通じる忠誠心をもって死を怖(おそ)れることなく行動したからであった。
そこからハイゼは武士道について考察し、清らかさを愛でる神道、敬虔(けいけん)さを重んじる儒教、人間性を賛美する仏教がその根底にある、と結論づけるに至る。かれは1924(大正13)年に帰国するが、ヨーロッパの物質偏重主義になじめず、1937(昭和12)年に数え69歳にして日本を再訪。白虎隊の墓にも参拝し、その3年後に北京で客死すると、遺言によって飯盛山に葬られた。
細い糸と糸を紡(つむ)ぎあわせるようにしてハイゼ一家の歩みを初めて跡づけた本書は、地味ながら好感の持てる労作である。(瀬野文教著/中央公論新社・1995円)
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「道は一筋なり」・・・・・郡上八幡
郡上八幡から、脱藩して、応援に・・・
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バルトの楽園の主人公
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そもそも、会津の悲劇は、幕末、京都守護職を拝命したことから、始まるのでしょう・・・
幕末、あるは、もう江戸・中期には、徳川家の権力は、ただの、中央主権体制の形だけで、軍備・教育において、地方のむしろ、外様の長州・薩摩などが、はるかに・・・力があったかも。
江戸時代というのは、中央集権というのは参勤交代などの形だけで、実態は地方分権で、地方の有力藩の方は、幕府より実態はむしろ、優勢だったかもしれません。教育・人材・近代化・武力・・・など。
幕末、長州征伐も、幕府は命令するだけで、実戦部隊はすべて他藩の寄せ集め・・幕府の本体なるものがはたして存在したのか、軍艦以外において。
幕末・維新後の人材でも、勝海舟・榎本孝明ぐらいしか、歴史には出てきません・・・・・官僚組織のような感じに?
京都守護職も、幕府みずからはないわけですから。自分ですればいいのに、代わりにしてもらうしか力がないということ!
ただ、命令するだけの、親方日の丸と同じ・・・
会津藩は、この苦境を幕末・から・・・ズート背負い続けてきたのでしょう・・・
でも、喜多方駅で約1:30分ぐらい、駅で見てましたが、学生など、駅員さんにちゃんと挨拶するし、座りこんでいる人など一人もいません。教育というのがいかに大切かということでしょう。
会津の悲劇というのは、今の時代の官僚の無責任体制にだぶって見えてしまうわけです。最後まで、信念を貫いたのは、幕府ではなく、会津だったわけですから。
来年の「八重の桜」では、そこらへんを忠実に描いてほしいですが。
会津の悲劇は、また、福島の悲劇にも、だぶって見えてしまいます。
でも、この、苦境から、また人材が育ってくるんでしょう・・・それを期待したいと思います。