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明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (6)

2024年05月05日 12時12分22秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (6)




よって律の偈にも、「たとえ百劫という果てしない時間を経るとも、なされた業は亡びること無く、因縁が巡り来たるとき、果報還り報いて自ら受ける」とあります。

律蔵の中の各章段の終わりにこの偈を掲げて誡めています。よって私も、またつねにこの偈を引いて応報の理を述べるのです。たとえ百劫という果てしなく長い年月を経ても、いったんなされた行為の善悪の業の力は決して亡くなったり枯れたりということはなく、因縁が熟したときにはその善悪の果報が生じて、他の人がそれを承けること無く、必ず自身がこれを承けて悪は必ず苦果を、善は必ず楽果が報いることでしょう。

それは決して他に神仏あって苦楽を与えるのではありません。自ら悪をつくり自ら悪の果を受け、自ら善を修めて自ら善の結果を受けることは、鏡に姿が現れ、谷に呼びかけて声が反響するようなものなのです。たとえ大地を打ち外すことがあっても、この応報の真理は古今にどこにあっても、決して僅かにも相違あることはありません。よって、勉めてなされるべきなのは、ただ十善道徳であり、頼みても頼むべきは因果応報の真理なのであります。たとえ富財産が四海を埋め尽くし、妻子家族が思いのままに財宝を身につけたとしても、無常の暴風はたちまちに来り、息絶える時には一物もその死後の魂に随いついていくものはありません。

大国の君主と言えども、橋の下に住まう乞食同様に、死に去って冥途に赴くときには異なることなく、ただ知らず知らずのうちに一人彷徨って死者のいく黄泉に入るのみなのです。そのとき、実に頼りとならないのは、世間の名誉や地位であり、そのためになされた業であります。それに対し、今世でも後世でも我が伴侶となって導き、涅槃安楽の境遇に至らしめてくれるのは、ただこの十善道徳による功徳のみなのです。ことここに至って、このように思えるならば、歓喜の涙を拭って信じ行うこと、貧人が宝を得たときのように、また渡りに船を得たように、得難き心地がして、この十善のためには、たとえ命を落とすことがあったとしても、決して退歩退くことのないようにと固く誓って、自らも勉め、周りにも勧め励むべきものと言えます。

この肉身は言ってしまえば旅館のようなものです。惜しむようなものではなく、今日努力して善業を貯え、後の世の糧を得たならば、命終を迎えた時、その旅館を出て、明日にはもっと上等な旅館に移り宿泊したらよいのです。善業の道徳だけの身となれる人は、四苦八苦を生じさせるこの不浄なる肉身を脱ぎ捨てて、煩悩の無い正に清らかな真如法性そのものとなって不老不死となることでしょう。ただおおよそ世の中の人は、わが身である旅館を惜しむことばかりに専心して、旅費を貯えることをしないというのは愚の骨頂ともいうべきことです。旅館というこの身を惜しむことなく、旅館は他にも散在しているのですから、後の世の糧となる金貨をこそ貯えるべきなのです。

もちろん、後の世の糧となる金貨とは十善道徳にほかなりません。ときに世間の金貨は時代や国の事情により通用しなくなるということがありますが、そればかりか価値が目減りすることもあります。ですが、この十善道徳の金貨は、この世界のはじめから未来永劫、日本でも中国でも欧米でも、東方阿閦如来の世界でも、西方阿弥陀如来の世界でも、十方世界いたるところで、過去現在未来、三世にわたり、通用しない時も空間もないのであります。たとえ百千万効を経たとしても決して朽ちることはなく、ますます光輝を放って自身を利益し、一切の人々を利益して、様々に果てしなく世の人々を救うことでしょう。どうして貴ばないことがありましょうか。勉めないことがありましょうか。  了


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