住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

法句経から

2007年12月29日 07時58分20秒 | 仏教に関する様々なお話


『人身得ること難く、
人として寿命あること難く、
正しき教えを聞くこと難く、
仏陀の出でたまうこと難し。』
(法句経一八二)

仏教では、六道に輪廻する衆生の中で、人間として生まれるのは誠に得難いことであると考えます。私たちはその価値を知ることなく、漫然と年を重ね、人生の後半にさしかかります。

人として正しく生きることは誠に難しく、本当に自分のためになることは行いにくいものです。

ですが、出でたまうこと難い仏陀の正しき教えを聞き、そして、功徳を重ねる後半生を送るならば、必ずや、その果報によって、善き来世を迎えることができる。それはお釈迦様が保証してくれている教えなのでありますから、真実に違いありません。

来世にどこどこに生まれ変わりたいなどとと願うよりも、何よりも多くの功徳ある行いをする人が勝ちなのです。たとえ天上極楽世界に生まれても、それまでの功徳を使い果たすだけの生命となるに過ぎないといいます。

それよりは、再び人間界に生まれて、正しき教えを聞き、学び行じ善行を重ねることによって最高の幸せである悟りにいたる道を歩む方が近道なのです。

だからこそ、人身得ること難し、とお釈迦様はその尊さを教えられているのでありましょう。

来年もよき年でありますよう。生きとし生けるものが幸せでありますように。

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大法輪誌掲載『怒りを離れる』 

2007年12月06日 14時47分24秒 | 仏教に関する様々なお話
<大法輪誌12月号、現在書店にある号です。特集ブッダの名句・名言に掲載された文章です。是非書店で手にとってご覧下さい。法句経やスッタニパータの偈文を解説したものです>

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(ダンマパダ 5)」

一九九二年十二月、インド北東部のイスラム教の聖地アヨッディアで、過激なヒンドゥー至上主義者たちがモスクに乱入し、建物を破壊する事件が起こりました。そもそもそのモスクは、一五二八年にラーマ生誕の地にあったヒンドゥー寺院を破壊しその上に建てたものだとヒンドゥー教徒は主張したのでした。

この事件が引き金となり、インド全土でヒンドゥー教徒とイスラム教徒との衝突が繰り返され、多くの犠牲者がでました。お互いが怨みをもって怨みに報いた結果でした。

世界中で宗教の名を借りたテロ事件が後を絶たない昨今、お釈迦様が示されたこの言葉を私たちは、宗教を超えた人類普遍の真理として受け入れたいものだと思います。  

「われわれは怨みをもつ者たちの間にあって怨みを抱かず、よく心安らかに生きよう。われわれは怨みある者たちの間にあって、怨みを抱かずに生活しよう。(ダンマパダ 197)」

インドのコルカタにある仏教寺院に併設する小学校では、仏教徒やヒンドゥー教徒に混じってイスラム教徒の子供たちも沢山学んでいます。ヒンドゥー・イスラムの宗教対立が頻発する時勢であっても、寺院の中では、お釈迦様の仏像の前でヒンドゥー教の子供たちもイスラム教の子供たちもともに礼拝し、休憩時間には一緒に境内を駆け回り、笑い声が絶えることはありませんでした。

一人の人間として何の怨みつらみがなくとも、ひとたび何々教徒などと色分けすることで多くの過ちが繰り返されてしまいます。一人一人を同じ一つの生命として見ることができたなら、何の不快感も生ずることなく反発することもなく、穏やかに過ごすことができることでしょう。

「怒らないことによって、怒りにうちかて。善いことによって、悪いことにうちかて。与えることによって、物惜しみにうちかて。真実によって、虚言にうちかて。(ダンマパダ 223)」

人の言うこと、することに文句を重ね、自分こそよくあれと他に譲ることもない、つい自分かわいさのあまり嘘をつき悪事を重ねる。これら怒り、物惜しみ、悪事をなした後悔などは、私たちを不幸に陥れる強敵と言ってもいいものです。

ただ、怒らないようにしようと思っても、そう簡単なことではありません。そこで、怒る心の反対の心である優しい慈しみの心を育て、怒らない心をつくることで、怒りにうち勝つことを教えています。物惜しみする心には、人や他の生き物たちのために物を与えることでうち勝ち、善いことをして悪事に勝ち、真実を述べることで嘘偽りにうち勝つことを教えているのです。

「他人が怒ったのを知ったら、自分(の心)を静かにして(自分が怒ることがないようにするべきである)。そうすれば、自分も他人も大きな危険から身を守ることになる。(ウダーナヴァルガ 20・10)」

誰かから怒鳴られたり、憤然と何事かを言われたりしたとき、ついその怒りに反発して大きな声で言い返したり、激しく動揺したりしがちなものです。

それに対して、また言われた側も怒鳴り返す、怒りの応酬を繰り返すことになります。怒りの心をぶちまけることで、まずは、その人自身が大きな苦しみを味わい、それだけで終わらず、周りをも巻き込んでみんなを不快な不穏な気分に陥れます。

何を言われても、何をされても、それに反応した自らの怒りの心を素早く察知して、次の瞬間には冷静に他のことに心を移すよう心がけねばなりません。そうして、一瞬でも現れた怒りの心が無くなれば、相手の怒りも終息に向かい大きな危険から身を守ることになるのです。

「心が静まり、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人に、どうして怒りがあろうか。はっきりと知っている人に、怒りは存在しない」
   (ウダーナヴァルガ 20・17)」

気に入らないことに出くわしたとき、とっさに心静まらない中で、物事の前後関係さえわきまえずに思考し、妄想して、荒々しい言葉を発する怒り。顔は紅潮し、体はこわばり震えます。

怒りは、物事の因果道理を理解しないがために生じる心です。この世に現れたすべての物事には原因があり、それは様々な条件により結果します。その結果がまた原因となり、次の結果を生じさせていきます。すべてのものがこの因縁の世界の中で存在していることをはっきりと知るならば、怒りの心が現れることがないと、この偈文は教えています。

ちょっとしたことから怒りの心が生じないために、日頃から常に自らの心を観察する習慣を身につけ、物事の原因と結果をできるだけきちんと冷静に理解するよう心がけることが大切なのです。

「怒りを断てば安らかに寝ることができる。怒りを断てば悲しむことがない。
    (相応部経典Ⅰ 8・1)」

怒りの正反対の心が慈しみの心です。好ましくないものを嫌い、拒絶する怒りに対して、慈しみの心は、他を受け入れ共感する心です。

特に怒りっぽい人のためには、この慈しみの心を育てる四無量心を修行するよう勧められています。

生きとし生けるものを友として観じ、それらが苦しんでいるときには救ってあげよう、喜んでいるときにはともに喜ぼう、誰に対してもわけへだてなく好き嫌いなく冷静に対しようとする心を育てることで、怒りの心を滅していくことができます。

そうして誰にも敵対する相手としてではなく、親しみが感じられるようになれば、何を見ても聞いても文句を言い怒りの心が生じていた人でも心穏やかになり、人が困っていれば物惜しみせずに手助けし、人の幸せに嫉妬することもなく、過去になされたことに後悔することもなくなることでしょう。

そうなれば、安らかに寝ることができ、悲しむこともないと、この偈文は教えています。

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大法輪誌掲載『貪りを離れる』 

2007年12月04日 07時57分57秒 | 仏教に関する様々なお話
<大法輪誌12月号、現在書店にある号です。特集ブッダの名句・名言に掲載された文章です。是非書店で手にとってご覧下さい。法句経やスッタニパータの偈文を解説したものです>

「この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執着しない。(ダンマパダ 171)」

お釈迦様が出家してお悟りになる前のこと、マガダ国のラージャガハを托鉢するお釈迦様の常人らしからぬ態度風貌に目をとめたビンビサーラ王は、わざわざお釈迦様の住まいするところに赴き、「汝の欲する俸禄を与えよう。由緒ある汝は、かの象軍を先頭とする精鋭なる軍に参加するがよい」と仕官を勧めたのでした。

これに対し、お釈迦様は「私が出家したのは欲望を求めるためではなく、諸々の欲望のわざわいを見つくし、欲望を離れることこそ安楽であると思うが故に、その道に精進しようと私は思う」と答えられました。

世俗の欲得の中に暮らす人々とは違う別の生き方を求め、それが欲望を離れる道であると示されました。何の束縛もない最上の幸福を目標に、貪りを離れる実践道こそが仏教なのだと言えましょう。

「利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことがなく、美味に耽溺することもない。(スッタニパータ 854)」

何かになるためであったり、実利のためであったり。私たちの普段していることは、自分の利益のためにしていることばかりなのかもしれません。何をしても見返りを欲し、ねぎらいや賞賛を求めていたり。

自分の考えや見識にこだわり諍いを起こしたり他に逆らうのも、美味しいものに夢中になり不健全な生活をするのも自分の存在や自分の感覚に執着し、自己の利益に翻弄されているに過ぎません。

この偈文はどのような戒律をたもつ人が安らかな人と言われるのか問われ、お釈迦様がお答えになった経典の一句です。世俗の名聞利養を超越して、それらを手放すことに喜びを感じる、より徳の高い幸せを求めるべきことを教えています。

「子女ある者は子女について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の執着するよりどころは憂いである。執着するよりどころのない人は、憂うることがない。(スッタニパータ 34)」

一人インドを旅したとき、駅でトイレに行ったり、列車に乗っているときでも、たいした物が入っていない自分の荷物に常に注意を払っていました。また指定した自分の寝台を他の人が占領したりはしまいかと憂いていました。

物があったり、自分の場を確保することで、私たちは満足や安心を獲得します。ですが、実際にはそれらに縛られ、心の多くの部分をそうした自分の執着するものを守ることに費やされているのかもしれません。

幸せをもたらす子供の誕生も、その瞬間から心配や憂いのもとになります。私たちが執着するものは憂いそのものであり、執着がないほど憂いることがないのだとおぼえておきたいものです。

「人々はわがものであると執着した物のために憂う。(自己の)所有したものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅すべきものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。(スッタニパータ 805)」

誰もが我が子の誕生を祝い、かわいく思います。しかしかわいい盛りはつかの間で、すぐに口答えをし、言うことを聞かなくなるものです。それでも、身に危険はないか、けがをしたり事故にあったりはしまいかと、わがものとして執着するがゆえに憂い悲しむことになります。

しかし、すべてのものは無常なるが故に、いずれはともに死がおとずれ別れていかねばならないのだと賢明にこの世の理を知って、わがものという観念を追い払うべきであると教えられています。普通に暮らす人々と同じように無常なるものに執着していては、いつまでも心の安寧は得られないということを、この偈文は教えてくれています。

「善い友だちと交われ。人里はなれ奥まった騒音の少ないところに坐臥せよ。飲食に量を知る者であれ。(スッタニパータ 338)」

人間とは誠に弱いものです。見たり聞いたり嗅いだり味わったり触れたりという五欲になじみ、心楽しいもの心地良いものになびきやすいのです。また、他の影響を受けやすいので、なるべく正しい行いをする善い人々と交わることが大切です。

若い頃、高野山で百日間の修行をしたときには、ともに励む修行僧らと専門道場で寝食を共にしました。そして、新聞、テレビ、電話などに煩わされない環境の中、食事は精進料理で、途中から夕飯を止めて二食にし、また最後には八日間の断食も経験しました。

食を制限することは、食べ物を消化吸収するために使われる体のエネルギーが精神面に向かい、落ち着いた心の状態を長期間維持することに繋がりました。自分の心を見つめ、貪りを離れるためには、しかるべき相応しい環境の中で励むべきことを教えています。

「現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれのない人、かれをわれは婆羅門とよぶ。(ダンマパダ 410)」

貪りの正反対の心が布施の心です。好ましい物は何でも自分に引き寄せる貪りに対して、布施の心は自分のものを他と分かち合い、他者に何かしてあげたいと思う心です。

他に施し布施の実践をすることで、貪りの心を弱めることができます。が、特に貪りの強い人には、自他の身体に対する愛著を滅するために不浄観が勧められています。

不浄観は、自他の身体を垢や臭気にまみれた不浄なるものと観じたり、段階的に死体が腐乱し朽ちていく様子を観察し、すべての生き物が不浄なるものと観念して貪りの心を滅していくのです。

不浄観を徹底的に修すると、現世で生死の苦界から解脱したいという心が起こり、欲もなく、悪事をすることもなくなり、来世へ赴く輪廻の因となる生きたいという執着も無くなると言われています。

ここでの婆羅門とは、バラモン教の司祭者のことではなく、理想の修行者を意味しています。この偈文は、真の仏道修行者とはそのような人を言うのであると教えています。

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