住職のひとりごと

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第7回日本の古寺めぐりシリーズ観心寺と金剛寺2

2009年11月12日 12時34分57秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
天野山金剛寺・真言宗御室派大本山

南河内郡天野村にあるので天野山といい、寺伝によると、聖武天皇の勅願で、僧行基が天平年間に伽藍を開創し、後に弘法大師が三密修行の地としたと言うが、その後荒廃して四百年の後には堂塔坊舎が荒廃していたところ、二条天皇の永萬元年(1165)高野山の僧・阿観上人が高野明神の霊夢によって、天野に来て、高野山の別院として再興を朝廷に奏聞した。これに後白河法皇が応え、金堂、多宝塔等三十余りの堂宇、坊舎七十余りを造営。さらに院宣によって仏舎利を賜り、寺号を金剛寺と改め、楼門に宸翰の扁額「金剛寺」を賜った。

建久二年には、後白河院によって、寺域内の殺生が禁じられ、阿観門流からの師資相承を命じ福寿増長を祈らせている。これにより寺運益々隆盛を見るに至った。また特に、八条女院子内親王は、当寺を崇敬すること深く、眞如親王の真蹟弘法大師画像を御影堂に安置して毎年御影供を厳修させられたという。八条女院は、鳥羽天皇の皇女で、父帝の死後その所領の大半を譲り受け、日本一の富裕者と言われた。

金剛寺との縁は、女官として仕えていた二人の姉妹が阿観により剃髪せられて弟子となり、浄覚、覚阿と称して、女院にはたらきかけたからとも言われ、金堂が出来ると女院の祈願所とされて、その威儀法式すべてに亘って高野山の如くせられた。阿観の後、この二人の姉妹が院主となり、女人禁制の高野山に参られない女性の参拝を歓迎したので、世に「河内の女人高野」と呼んで、建久九年(1198)には仁和寺北院の末に列せられた。

仁和寺は宇多法皇開創の皇室の大寺で、爾来皇室からの崇敬特に厚く、護良親王は金剛寺に戦勝祈祷を依嘱され元弘三年(1333)播磨の国西河井庄を寄進、建武二年(1335)には、後醍醐天皇が東寺の仏舎利五粒を賜れ、官軍の寺内乱入を禁じ、和泉の国大鳥庄を祈祷料として知行せしめた。さらに、正平九年(1354)、後村上天皇が大和より遷られ、食堂と摩尼院を十四年十二月まで六年間行宮となされ、当寺興隆にも尽くされた。南朝方が金剛寺を拠点としたのは、八条女院の所領が回りまわって後醍醐天皇が領したからだという。

さらに、この前のこと、北朝の光厳、光明、崇光の三上皇も逃れて、塔頭観蔵院を御座所とされ特に光厳上皇は、当寺学頭禅恵を戒師に落飾、僧名を恵信と称された。天正十一年には、秀吉が寺領三十七石を安堵、安堵とは領主などが所有権を認めたことを言う。慶長十年には、秀頼が諸堂宇の大修繕を行い、徳川氏も寺領を安堵。元禄十三年、綱吉の時に更に再修繕をして現在に至る。境内の楼門は、鎌倉時代後期作、朱塗り、本瓦葺き、3メートル近い持国天と増長天が祀られる。

金堂は、七間四面、本瓦葺き、入母屋造り、承安元年後白河法皇の御建立。本尊金剛界大日如来、五智宝冠に智拳印を結ぶ。平安時代、木造像高313.5㎝重文。右に不動明王、鎌倉時代、像高207㎝。左に降三世明王、鎌倉時代、像高220㎝。ともに運慶作で重文。

食堂、多宝塔も重文。食堂は向拝のみ檜皮葺。行在所となったので天野殿とも言う。多宝塔は、三間四面の下層を方形とした密教寺院に造られる塔で、内部には、八角の須弥壇に、大日如来を安置。他に御影堂、観月亭、薬師堂、護摩堂、求聞持堂等多くのお堂がある。寺宝古文書が頗る多く、特に南朝に関する古文書は天下の至宝と称せられる。

観心寺、金剛寺共に、最近結成された西国の名だたる古社寺が加盟する神仏霊場に入っている。参加社寺は百五十余り、かつての伊勢参り、熊野詣で、西国観音などで古びとが歩いた社寺をみな網羅している。当初加盟していなかった伊勢神宮は後から参加を申し出られ、なおかつ札所の頭にしてくれと言われたとか。明治の神仏分離、廃仏毀釈の前の人々の信仰の姿を現代に再現する誠に興味つきない霊場となっている。

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第7回日本の古寺めぐりシリーズ観心寺と金剛寺1

2009年11月11日 13時54分40秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
シリーズの7回目、番外まで入れると10回目となる今回は、はじめて大阪府内のお寺。これまで、京都奈良を中心に、西に東にと参詣を続けてきたが、まだまだ誰もがあまり行ったことのないお寺、行っていそうで行けてない盲点のような古刹、もちろん札所でもないところが沢山ある。そんなお寺をこれまでも探し出して参詣してきたが、今回もそうした古寺を、今月27日に訪れる。

大阪南部の観心寺と金剛寺。ともに真言宗の古刹である。古くより京都や大阪から高野山に至る高野街道の中継地として栄えた地。また南北朝時代には、南朝の功労者である楠木正成が観心寺で少年時代を過ごし、後醍醐天皇の皇子後村上天皇も金剛寺で6年、観心寺に10ヶ月行宮を開いた。正に南朝の本拠地、歴史の舞台として記憶されている。

地理的には、弘法大師との縁の深い土地であり、当時は、京都の東寺から高野山へ登山する際には、奈良の東大寺を経て、明日香村の弘福寺を通り、西の水越峠を越えて観心寺に入り、南に紀見峠を越えて吉野と尾根続きの高野山に登ったという。このあたり、つまり大阪府と奈良県和歌山県の三県の境、葛城山、金剛山のある金剛山地、それから和泉山脈は修験の行場で、昔から沢山の行者が往来した土地。また、西には、大阪湾南部の海が近く、山と海からの様々な文物情報の行き交う要衝として栄えた。

檜尾山観心寺・高野山真言宗遺跡本山
観心寺は、河内地方最大の古刹、創建は奈良時代前期、文武天皇の大宝年間(701~704)に修験道の開祖・役小角によって草創された(雲心寺として)。現在観心寺に伝えられる四体の金銅仏(観音三、釈迦一)は、奈良時代前期(白鳳期)の作とされ、この頃の遺品とされている。その後寺伝によれば、弘法大師空海が帰朝2年目の大同三年(808)当地巡錫の折、北斗七星を勧請。高雄山寺での金剛界灌頂の2年後、高野山開創の前年に当たる弘仁六年(815)に再度この地を訪れ、国家安康・衆生除厄祈願をして如意輪観世音菩薩(七星如意輪観世音菩薩)を刻み本尊とし、寺号を観心寺と改めたといわれる。

本格的な伽藍造営は、甥の実恵(じちえ)とその弟子真紹(しんじょう)によって行われた。実際には、実恵が国家のために建立を発願し、真紹が実行したであろう。その後も法灯よく護持され、定額寺として、密教の一寺院にして官寺でもあった。(定額寺とは延暦二年(783)以降朝廷が定めた官寺であり、官稲などが給される)

当時の伽藍堂舎は現在ほとんどないが、全ての建物は桧皮、及び萱葺きであり、瓦葺きのものはなかった。創建期の伽藍と現在のそれとでは、地形、形態などに大きな違いがあった。寺領荘園は、地元の河内国錦部郡のほか、石川郡、古市郡(現在の大阪府南東部)、紀伊国伊都郡、那賀郡(現在の和歌山県北東部)、但馬国養父郡(現在の兵庫県北東部)などにわたっていた。

また『三代実録』によれば、禅林寺に安置された仏像が斉衡元年(854)、河内国観心寺で製作されたと記しており、現在観心寺には檜材で造られた仏像が多数残されていて(そのほとんどが文化財に指定されている)東寺の仏像との近似も言われており、これらの仏像は檜材に富む河内の地で製作したらしい。つまり当時観心寺は造仏所を併設していたのであった。

鎌倉時代には、源頼朝以来の慣例を明文化した武家法『関東御成敗式目』(貞永式目)の第二条に、「可下修造二寺塔一勤行中佛事等上事右寺社雖モ異ルト崇敬ハ是同ジ仍テ修造之功恆例之勤」などとあるように、武家社会になっても、仏教、寺院に対する基本的な姿勢に変化はなかったといわれる。

そして、鎌倉末期、建武新政へ至る元弘元年(1331)、後醍醐天皇の蜂起、楠木正成の挙兵は河内の地、とりわけ観心寺を政争の荒波の中に巻きこむ。楠木正成は、ご存知の通り明治以降大楠公と言われ南朝方の大功労者であり、公家も武士も主に誰を選ぶか損得ばかりで右顧左眄していた中で、劣勢と知りつつも終生後醍醐帝に忠誠を貫いたことで知られる。正成が八歳から十五歳まで観心寺中院で学問に励んだ時の師・滝覚坊は観心寺で正成に、四書五経、宋学、国史を中心に教授したという。

そのなかでも正成に大きな影響を与えたのは、弘法大師請来の『心地観経』の中にある四恩の教えだという。四恩とは、父母、衆生、国王、三宝に対する四つの恩をいい、天皇のために一命を賭して忠誠を尽した正成の生き方は、後世勤皇の祖として、坂本竜馬、西郷隆盛等明治維新で活躍した志士達の精神的支柱となった。その根底にあったのがこの四恩の教えであったという。敵味方の区別なく戦死した兵の菩提を弔ったことや、恩顧のあった社寺に対する敬虔な態度なども、この教えが影響しているのであろう。

正成は、元弘元年、後醍醐天皇に応じて倒幕に挙兵、二十万とも言われる鎌倉幕府軍をたったの五百騎で赤坂山にて神出鬼没の奇襲により対抗、その後後醍醐天皇は捕らえられ隠岐に島流しにあうものの、その後六波羅探題軍、さらには幕府軍と、赤坂城千早城にてわら人形の策、長梯子の計など機略を施した戦法で撃退、後醍醐天皇の全国の武将への綸旨を出し、反幕府に挙兵した新田義貞軍によって鎌倉幕府が滅び、ここに建武の新政がなった。

元弘三年(1333)後醍醐天皇は綸旨を発して観心寺地頭職は寺家に付され、同年十月十五日、天皇は弘法大師作と伝える観心寺不動明王像を宮中に遷座するように綸旨を下した。諸祈願をすべく念持仏とされたのであろうか。正成は観心寺に、十月廿八日に不動明王が京都に到着するよう依頼し、滝覚坊自身が不動明王とともに上洛することを勧めた。この間観心寺では、従来五間四方であった講堂(現金堂)の外陣造営を、後醍醐天皇の勅命により楠木正成が奉行し、自らも三重塔の造営を進めた。

しかし、その後建武二年(1335)尊氏が新政に離反。尊氏追討の命を受けた義貞が箱根・竹ノ下の戦いに敗北して、足利軍が京へ迫るが、正成らは足利方を京より駆逐する。しかし延元元年(1336)足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏との和睦を進言。しかし容認されず、次善の策として天皇の京都からの撤退を進言するも却下。

正成は、絶望的な状況下で義貞の麾下(きか)での出陣を命じられ、湊川の戦い(兵庫県神戸市)で足利直義の軍に敗れて、弟の楠木正季と刺し違えたとされる。これにより観心寺で建立していた三重塔は、その完成を見ることなく、初層のみの大きなわらぶきの屋根が載る有名な建て掛けの塔として残る(重文)。正成の戒名は「忠徳院殿大圓義龍大居士」、後醍醐天皇より賜わったもの。

尊氏は光明天皇を立てて幕府を開き、建武の新政は頓挫して、後醍醐天皇は神器を奉じて吉野へ遷られた。これにより、元中九年(1392)後亀山天皇が後小松天皇に神器を渡し、南北朝の合一となるまでの56年間を南北朝時代という。因みに神戸中央区の正成自害の地には、湊川神社が明治五年に理想的な勤皇家としての正成を主祭神とする立派な神社が出来ている。

延元四年(1339)八月十五日後村上天皇即位、同年八月十六日には、後醍醐天皇が吉野で崩御。正平十四年(1359)には、後村上天皇が天野山金剛寺から観心寺へ遷り、翌年五月大和宇智郡北山に移られるまでの間10ヶ月間行宮を開き過ごされた。正平二十三年(1368)三月十一日、天皇四十一歳で崩御、同年観心寺に葬られる。

中世末期、室町時代後半の観心寺は南朝時代の情勢と大きく異なり、漸次衰退の兆しをみる。戦国時代までは、つまり応仁の乱の前までは、この地を統治した畠山家の寄進を受けるが、かつての盛時には到底及ばなかった。南北朝時代に戦乱の渦中にあった河内の地は、この時期、畠山氏の内紛に端を発した抗争で再び戦乱の地となった。そして、畠山氏の没落後の織田信長の登場は、観心寺にとってさらなる大きな打撃となる。『檜尾蔵記』によると、観心寺は七郷支配によって九十三石の知行があったが、天正八年(1580)をもって終わりを告げた。しかし、信長の跡を継いだ豊臣秀吉は文禄三年(1594)、観心寺村を検地のうえ二十五石を寺に寄附した。

この時期、文禄四年(1595)と慶長十八年(1613)の二回にわたり、持明院正遍と豊臣秀頼によって金堂の修理がおこなわれているが、寛永十年(1633)八月十日、洪水によって、金堂、塔、坊舎など多数が破損、翌十一年(1634)将軍家光の上洛の際、観心寺惣中が伽藍の造営を奉行衆に願いでて、正保三年(1646)御影堂再建になり、万治二年(1659)阿弥陀堂建立、同年八月には西南両大門が再建されている。寛文五年(1665)九月十日には金堂修理完成、元禄十二年(1699)には行者堂が再建。

延宝六年(1678)、河内国石川郡山中田村に生れた堯恵は、五十五歳で観心寺僧綱の最上位である法印に昇進し、『檜尾蔵記』四巻四冊、『檜尾山年中課役双紙』五巻五冊をはじめ、『金堂修理萬記』、『一院建立萬記』、深い学識と謹厳な筆体で寺史を残した。また安永三年(1774)には開基の実恵僧都に対し、後桃園天皇から道興大師号が贈られた。

明治維新前の文久三年(1863)八月、中山忠光を総裁とする尊皇攘夷を訴える天誅組は大和五條に打ち入る前の十七日、楠木正成の墓前に詣でた。明治四年(1871)寺領上地(政府に上納)、同十九年(1886)内務省より保有金五百円下附、同三十一年(1898)金堂修理。昭和四年(1929)には金堂尾根瓦葺き替え。昭和五十九年(1984)十一月、金堂昭和大修理落慶をみる。

金堂の前には、弘法大師の礼拝石があり、国家安泰と厄除けのために北斗七星を勧請し、七つの石が降ってきたとして、梵字の刻まれた石が境内に祀られている。金堂は南北朝の建造で府下最古、国宝。七間四面の入母屋造り、本瓦葺き、和様、禅宗様、大仏様の折衷様式、左右板壁に両部曼荼羅、内陣須弥壇には三基の厨子。

中央に国宝如意輪観音。像高109㎝平安時代作、榧一材から彫りだした像の表面に木の粉を漆で練ったもので塑形。密教彫刻の中で、最も魅力的な傑作と言われる。意の如く宝を出す宝珠と説法の象徴である法輪、蓮華に数珠を持つ六臂、災害を除き、病気平癒、延寿、安産などに効験がある。この像は、嵯峨天皇の后檀林皇后が840年頃に像立したものと言われ、秘かに皇后のイメージが重ねられているとも言う。

左右に愛染明王、不動明王。修法壇は正面に一つと左右に二つ曼荼羅に向いて置かれている。広大な境内には沢山の堂宇があるが、金堂左手に霊宝館があり、地蔵菩薩立像や宝生如来像など重文の平安期の見事な木彫像が収蔵されている。その逆側には、阿弥陀堂に御影堂、開山堂には実恵大徳(道興大師)像が祀られ、御廟もある。その奥に正成の首塚、師の龍覚坊の墓、山門近くには、後村上天皇旧跡碑、山門手前には、正成騎馬像がある。


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ネパール巡礼・七

2009年11月07日 08時32分40秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
(1995.10.11~10.26~)

十月二十六日、一週間お世話になったサールナート法輪精舎の後藤師に別れを告げた。「カルカッタのバンテーによろしく言って下さい」と言われたのだったか。とにかく余り別れに執拗にものを言われない方なので、あっさりしたものだったことを記憶している。それは居なくなった後の寂しさをよく知っているからなのだろう。

お寺で部屋の片付けをしているとクリシュナさんがやってきて、オートバイで駅まで送ってくれるという。ベナレスから東に十七キロほどの所にあるムガール・サライという幹線列車の発着駅に向かう。

この一年半前、サールナートのこの法輪精舎で過ごし、大学に通ったり、お寺の無料中学が発足したり、出入りするインドの少年達と付き合い、また後藤師と暮らした一年間に一応のピリオドを付けて日本に帰ろうというとき、その時もクリシュナさんが駅まで送ってくれたことを思い出す。

ただその時は路線バスでであった。ムガール・サライ発カルカッタ、ハウラー駅行きの列車に乗るべく二時間前にお寺を後にしたのだが、バスでまずベナレスに出て、ムガール・サライ行きの別のバスに乗り換えたあたりから車が混み出し、車線も描かれていない道路なので後ろの車が右車線から前に出て、対向車もまた左に出てしまい双方がにらみ合う、インドではよく目にする最悪の事態になってしまった。そして、とうとう止まってしまって動かなくなってから警察官が来たが、どうともしようがない。

そこでバスを降りて、脇を通り過ぎていくオートバイを止めて、後部座席に私だけ乗せてもらい先に進んだ。ところが、駅の手前でそのオートバイも行き先が違うとのことで降ろされ、近くにいたオートリキシャに乗り継ぎ何とか発車十分前にホームに駆け込み、予約した座席を探し、乗り込むことが出来た。ゆるゆると列車が動き出した頃、やっとクリシュナさんが窓の前までやってきて手を振ったことを思い出す。しかし、この時は初めからオートバイだったので、何の心配もなく時間通りに駅に辿り着いた。

二等寝台で夜を過ごし、翌朝早くに到着。カルカッタの玄関駅ハウラー駅では両手に荷物を抱えているのに、ちっとも私にはクリーやタクシーの呼び込みが寄ってこない。大きな麻袋を二つ両手に持って頭陀袋を肩に掛け黄色い袈裟をまとった、見るからに貧乏な坊さんといった風体なのだから仕方がない。いつものように地下を通りフェリー乗り場に。朝の涼しげな風を額に感じつつ薄茶色のフーグリー河を眺める。周りはきちんとシャツを着込んだ人が多い。カルカッタの中心部ダルハウジー広場周辺で働くビジネスマンだろうか。

歩いてベンガル仏教会本部僧院に向かう。時折しも安居開けの一大イベント、カティナ・ダーナの期間中ということもあり、寺内は騒然としていた。そんな中、早速総長ダルマパル・バンテーの部屋を訪ね、ルンビニーの建設現場の様子、カトマンドゥのルンビニー開発トラスト事務所でのこと、またサールナートの法輪精舎の学校運営状況などを報告し、預かったベンガル仏教会のお金の精算書を提出し、決済を受けた。

私自身は、ルンビニーの個々のお寺の建設はさておき、全体計画の遅々とも進まない進捗状況に疑問を持っていたが、バンテーはただルンビニーに伽藍を建設するのに日本の縁故者たちがこの度も何とかしてくれるはずだという信念をもっておられるようだった。

ルンビニーに行くときからうすうす予感してはいたのだが、バンテーは「私の代わりに日本に行って、お釈迦様の生誕地ルンビニーにベンガル仏教会がインドを代表して伽藍を作る計画に、是非寄付してくれるように話をするため縁故者たちの所へ行くように」と命じられた。

それからは毎日のように顔を合わせればルンビニーの話だった。「この伽藍が完成したならば、お前はお釈迦様に祝福されて大変な功徳を手にするだろう」という話や、寄付をお願いする人たちのリストを何度も書き換えてはその人たちとの交際について話された。

また、忙しい行事の合間に、建設予定の伽藍を設計した設計士事務所まで私を連れて行き、建設費用の詳細を詰めたり、「日本の兄弟達に向けて」と題する英訳の寄附勧進の嘆願書を作られた、さらには、代理として寄付を募る私を紹介する文章まで用意された。

その年の暮れ帰国した私は、英文の寄付嘆願書やバンテーの履歴書、設計の概要、建設費用の概算表を一応和訳しワープロ打ちして、バンテーが言われた日本の縁故者一人一人に連絡し、会える人には会い寄付をお願いした。

ある宗派の本山に出向いたり、若かりし日にインドに留学していた学僧に面会するために、ある大学の学長室にまでお訪ねしたこともあった。また、お会いできず電話で詳細を申し上げて意向を伺った方もあった。

しかしながら、残念なことに時すでにバブルがはじけ景気の後退期にあり、総額二億円を超える寄付額の大きさに誰もが驚き、前向きの返事を返してくれる人はいなかった。またバンテー自身も高齢になり、ルンビニーがカルカッタから遙か遠くに位置するということも寄付に前向きになれない一因であった。

三ヶ月ほど寄付勧誘に明け暮れた末、この度の寄付嘆願に対する一人一人の反応返答を記した上で、残念ながらこの度は日本からの寄付は期待できないとする結論を英文の手紙にしたため、この仕事の一応の締めくくりとさせていただいた。

その後バンテーは台湾の仏教界と接触し、そこから寄付を引き出されることをお考えになった時期もあったようだが、結局この計画は完遂することなく沙汰止みとなり、借りた土地も返却することになった。

その年、カルカッタに伺った際には、一切このルンビニーの話をバンテーはなさらなかった。もう別のことに関心が移ったということだったのか、もう私には期待しないということだったのかはよく分からない。いずれにせよ、その時は別に建設が進んでいたラージギールの寺院のことに関心が集中していたようだ。

そしてこの時、南方の上座部で受戒して三年が経っていた私は、カルカッタにいて二度マラリヤに罹りこのまま過ごす難しさを思い、また日本に滞在する間の戒律を守れないもどかしさもあって、捨戒(上座部の戒律を捨て黄衣を脱ぐこと)することに踏み切った。

こう考えさせられたきっかけは、東京で外出しているとき、何度かミャンマー人やタイ人から道端で突然跪かれ、お布施を頂戴したことにあった。十分に戒律を守れず、かつ修道生活を送っている訳でもない自分が、わざわざ不法就労してまで日本に来ている人からお布施を賜る居心地の悪さを感じたからであった。

さらにはそれが契機となり、自分はやはり日本人なのにこんな格好で気取っていて良いのか、という気持ちをもつようにもなっていた。何か日本ですべき事があるのではないか。私のような紆余曲折をしたればこそ役に立つこともあろう、とも思えた。今思えば、その選択は年齢からしてその時が限界だったのかもしれない。御陰様で今日があるのだと思う。

それはともかくとして、ルンビニーのその後について一言しておこう。私が訪問したとき解体調査中であったマヤ夫人堂は、日本仏教会による調査が済み、きれいに復元再建された。建設途中だったベトナム僧院は三重の鳥居風の門に重層の本堂がある立派な寺院となった。また中国寺ではまるで東大寺大仏殿のような本堂が完成している。日本山妙法寺でも立派な世界平和パゴダと僧院が出来上がった。

しかし、やはり全体的にはまだ広大な計画の半分も済んでいないのではないだろうか。ネパールは現在、王室の悲惨な事件や国王によるクーデター等で政治的混乱状態にあり、益々ルンビニー開発計画は停滞を余儀なくされそうである。

ともあれ、こうしてネパールにおいて南方上座部の比丘なればこそ出来た貴重な体験をここに綴ることができた。記憶が薄れ思い出せなくなる前に書き残すことができたことに安堵している。他国の仏教徒の行状から、読んで下さった皆様が何かしら学ぶべきものがあったと念じたい。 終 

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