住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

四国遍路行記40

2016年05月29日 13時43分06秒 | 四国歩き遍路行記
長尾寺を出て、しばらく車道を歩く。お昼過ぎだというのに多くの車が渋滞している。道沿いに立派な瓦屋根を連ねたお寺を横目に見ながら先を急ぐ。山あいに大きなダムが見えてきた、ダム左側に進み山道に入る。次第に道が険しくなり、標高八百メートル弱の女体山登山道をひたすら登る。途中岩場となり、見晴らしの良い頂上付近の大窪寺奥の院を経由して下り道となる。いつの間にか目の前が開け、気がつくと第八十八番大窪寺山門前に出ていた。それにしても大きな門である。これほどの仁王門は四国遍路では初めてだろうか。どことなしか高野山の大門を彷彿とさせている。

結願所・大窪寺は、背後に矢筈山が聳え、山の木々に囲まれるように諸堂が佇む。大窪寺は、養老年間(七一七~二四)に行基が開基した寺である。唐から帰朝した弘法大師が奥の院の岩場で求聞持法を修して、大きな窪の傍らにお堂を建て、自ら刻んだ薬師如来を祀ったという。このお薬師さまは左手に薬壺ではなく法螺貝をもつ珍しいもので、すべての災難病厄を吹き払ってくれるという。

礼堂、中殿、奥殿に分かれた珍しい本堂の、礼堂で立って理趣経を上げる。これで八十八回目の理趣経かと感慨深く思いながら、ざわざわした沢山の結願した遍路さんたちの思わず声高になる話し声をかき分け、奥殿に祀られたお薬師さまに向けてお勤めをさせていただいた。この時なぜか急ぎ足で大師堂に行き、お勤めを済まし、大師堂前のベンチに座った。

すると隣に私より少し年上のご婦人がお座りになり、どちらまで行くのか、と問われた。高野山に向かって歩いて行こうかと思います、とお答えしたように記憶しているが、まもなくご主人さんがお越しになり、二人でなにやら話をされていた。すると、徳島にこれから帰るのだけれど乗っていかないか、とおっしゃる。とにかくお接待はお断りしないことをモットーに遍路してきて、今日ここに結願したのだから即座に、ありがとうございます、と返事をしたのだろう。折角結願してゆっくり少しはその感激に浸ればよかった、とはその後思ったことで、その時はただお二人に身を任せて車に乗り込んだ。

二時間ほども掛かったのだろうか、いろいろと四国遍路の話をしてすごたように記憶しているが、あっという間に徳島駅に到着して、ではとお礼を述べて一度車を降りたのに、また私の前に戻ってこられて、これから小松島のフェリー乗り場まで行くのならそこまでと、お住まいとは離れているのに小松島まで乗せて行って下さった。そして、フェリー乗り場で写真まで撮って、後日東京の住所までその時の写真を郵送して下さった。その時の写真こそ、このシリーズ初回でも掲載した錫杖と網代傘を持った遍路姿の私である。そして今もって年賀状のやりとりをさせていただき、また一周しましたよなどと近況を知らせて下さっている。

折良く、すぐに和歌山港行きのフェリーに乗り込み、揺られながら弁当で腹ごしらえをする。夜8時頃には和歌山港に到着。和歌山城の脇を通り小一時間ほどで和歌山駅に着いたので、さて今日は和歌山駅近辺で寝ようか、駅のベンチで横になってしまおうかと思い、駅前のロータリーで思案していた。するとそこに、ジャージ姿の若い人が二人来られたので、この辺りに安い宿泊所などはありませんかと問うたところ、少し待って下さいと云われ、しばらくすると車が来て、乗りなさいと云う。

皆さんで小声で話し合われて、聞くと、明日は祝日だし成り行きで高野山まで連れて行ってあげようということになった。それから二時間あまり、そのまま高野山に向けてひた走ることになる。この間宗教の話やら、人が死ぬときの心理であるとか、仏教の話やら、みんな、おまえそんなこと考えてたのかというように、私が間に入ったことでそれまで三人の中では語り合ったことも無いような話をして、みんな少々興奮気味に、とにかく話尽きること無く話をした。特に印象に残ったのは、一人がオートバイで事故をしたときに身体から心が抜けて上から自分の身体が転がっていく様子をスローモーションのように見たという話で、それまで人に話すのさえ躊躇していたとのことであったが、私が仏教的な解釈を申し上げると安心されたようだった。そして、この時運転して下さった方とも未だに年賀状のやりとりが続いている。

夜で一台の車とも出会うこと無く曲がりくねった坂道をひた走り高野山に到着。高室院前で下ろして下さった。皆さんに、一緒に今日はお泊まりになって、明日いっしょに朝勤行してからお帰り下さいと申したが、みんな修行させられたら適わないと言いたげに、お帰りになるというので、自販機でオロナミンCを三本買ってお礼とさせていただいた。午後四時頃大窪寺に結願し、なぜか夜中の十二時半頃には高野山に来ることができた。まったくもって素晴らしい御縁の連続。少しの時間のずれも許さない遍路の功徳、出会いの妙。みんな寝静まっていたので黙って客間に入り込み自分で布団を引いて寝てから、そのありがたさがこみ上げてきた。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

保坂俊司先生の『仏教とイスラームの連続と非連続』に学ぶ

2016年05月04日 20時32分06秒 | 仏教書探訪
今年四月、中央大学出版部発行の中央大学政策文化総合研究所研究叢書21『中央ユーラシアへの現代的視座』という本が送られてきました。開けると「謹呈」とあり、中央大学の政策文化総合研究所から、ご謹呈いただいたものでした。第一章には、こちらにも度々著作を紹介させていただいている中央大学総合政策学部教授の保坂俊司先生の論文が掲載されており、早速拝読致しました。

「仏教とイスラームの連続と非連続」と題する論文ですが、副題に「多神教徒の共存可能性をインドのスーフィズム思想に探る」とあるように、イスラム教というと中近東やインドネシア、マレーシアなどの東南アジアについて注目しがちですが、先生はヒンドゥー教の国インドにおけるイスラム教徒の進出と浸透の仕方に着目されて、その適合の仕方がこれからの世界の多宗教間の共存を模索していくために大変有効なヒントを与えてくれるものではないかと論じておられます。

インド共和国には、現在一億三千万人ものイスラム教徒が暮らしており、隣のパキスタン、バングラデシュを含めると、インド亜大陸には五億人近いイスラム人口があります。世界全体の三割弱を占めるのだそうです。イスラム教徒がいつからインドの地に住み着いたのかと言えば、それは八世紀初頭に西インド攻略軍の三千人の軍人がインドに入ったことから始まるということで、既に一千三百年にもなるのです。彼らは、軍事的にインドの地を支配する過程で、捕虜や敗者、またヒンドゥー教や仏教徒らへの弾圧からイスラム教徒に改宗させていったのです。が、そればかりではなく、中央アジアからの移民や、カースト制度による差別からの解放を願う人々やヒンドゥー教徒との対立からイスラム教へ改宗する仏教徒もあり、今日でもインドにおけるイスラム教人口は増え続けているのだということです。

私がインドに行っていたのはかれこれ20年も前にはなりますが、他の中近東の国々と明らかに違って、インドの民衆の中でイスラム教徒の人々が違和感なく過ごしているように見えました。そうしてインドの社会、インドの民衆の中に定着し溶け込み、受け入れられるために大きな役割を果たしたのが、余り注目されてこなかったイスラム神秘主義者、スーフィーの思想があるのだと、本論文を読ませていただき初めて知りました。かつて成瀬雅春さんというヨーガの先生が主宰するスーフィーのメブラーナという旋回瞑想の講座を受講したことがあり、大変懐かしく感じ、またスーフィーがインドのイスラム教徒の中にも存在していることに強く興味を感じました。そして、彼らスーフィーの一見インドの宗教に近い思想と修行をするイスラム教徒がいたればこそ、イスラム教徒たちがインドの多神教世界との共存共栄が可能となったということなのでした。

スーフィーとは、現世的な欲求を捨て、神への畏怖を基にひたすら祈り禁欲する人々であり、彼らはアッラーを自ら体験する、あるいは神の存在を感得することをめざして、外面より内面に注視しようとする人々であるとあります。彼らが修行の末に得られるとする宗教体験はファナーと言い消滅とか合一と表現され、それは仏教でいえば悟り体験に当たるものに近いのではないかということです。

このようにインドのヒンドゥー教や仏教に近似した思想基盤を持ち、だからこそまた、正統イスラムの側からは非難弾圧の対象でもありました。ですが、そもそもイスラム教はムハンマド(マホメット)が神の啓示を受けたことに始まるのであり、それはヒーラの洞窟において禁欲修行の最中に起こったことを考えれば、そしてその行為そのものがイスラム教徒の模範とされるのならば、スーフィーたちの主張や行為は否定されるものではなく、その純粋な宗教的な情熱、ひたむきな神への祈りは逆に推奨されるべきものでありました。

ムハンマドは、生まれる前に父親を亡くし、幼少期に母親にも祖父母にも死に別れ不遇な青年期を過ごし、25歳の時15歳年上の女性実業家と結婚、それによって様々なキリスト教などの教養を学ぶことができ、40才過ぎると祖父に倣ってヒーラの洞窟にラマダン月のひと月籠もって懺悔や改悛、断食を行って瞑想や祈祷に明け暮れたといいます。そして西暦610年のラマダン月のカディールの夜、神からの啓示が下ります。

正統イスラム神学では、この神からの啓示をムハンマドだけに認めるのですが、スーフィーたちは、自らにもその可能性があると考えます。彼らは、アッラーとは宇宙や自然、そして人間を創造した神であり、人間から超絶、隔絶した存在ではあるけれども、この世は神が創った世界であり、人間であるのだから、そこには神が内在しているはずだと考えるのです。定められた戒律に従って行動すればよいとする一般のイスラム教徒に対して、スーフィーたちは、ムハンマドの生き方そのものに焦点を絞り真摯に神と向き合う人たちであると言えましょう。

そして、イスラム教世界には、正統イスラムとスーフィーという二つの流れがあり、スーフィーには西アジアから西の主流となるスーフィズムと、中央アジアから南アジア、東南アジアに広がる東方のスーフィズムがあります。そして特にこの東方に広がるスーフィーこそ、仏教徒のイスラム教への改宗を含み東南アジアへイスラム教が拡大する原動力となり、さらに、他教徒との共存共生の思想が展開される点において注目されるべきであるとのことであります。

スーフィズムには、ムハンマドの神への真摯な姿勢と中近東を中心として行われたキリスト教神秘主義、グノーシス主義、新プラトン主義、ゾロアスター教、そして仏教までが少なからず影響しているのだそうです。ギリシャ語の知覚(gnosis)を意味するグノーシス運動は、宇宙も人間も神的・超越的本質と物質的・肉体的実体との二つの要素からなり、人間には神的実在が部分的に存在するとし、そして救済とは人間の持つその神的な断片が集められ神的実在と帰一することであり、そのために、すべての人間は修行を通じて自分の神的本質を自覚し救済が得られるよう努力すべきと教えています。

さらに東方に広がるスーフィーには、こうしたグノーシス主義の発想に加え、インド思想である梵我一如の思想の影響や仏教がペルシャや中近東の諸文明の宗教的な要素が融合して大乗仏教に変質していく過程と同じ作用が影響していると指摘されています。

スーフィーは、ムハンマドの啓示体験、それは神との霊的直接交流というイスラム教の根源から発して、禁欲と衷心からの祈りという修行から神との合一を目指すという点でヒンドゥー教や仏教の精神に通じています。改悛(深い自己否定)、禁欲、放棄、清貧、忍耐、神への信頼、満足という修行の階梯と神からの恩寵とも言われる心的状態の双方の要素によって、ファナーという悟り体験が得られるとします。

スーフィーの修行は、師匠に仕え、世俗の地位や名誉、価値観を捨て、すべてを神に捧げ尽くす、そして、一心不乱に神の名「アッラー」を唱え、そこに音楽を用いたり、踊り(カッワリー)、音楽に合わせて旋回して瞑想(メブラーナ)したりして、それを数時間もまた幾日も続けて忘我の状態に入り、神秘体験を得ることが可能であるとしています。これらの修行は、まさに仏教の念仏、唱題、踊り念仏と同様であり、そこから得られるものは禅の境地にも近似しており、ヒンドゥー教の修行にも同じ手法が見いだせるものです。

こうしてインドの地に定着していくイスラム教の特にスーフィーたちの思想は、イスラム教とヒンドゥー教の融合が行われる素地をつくり、ヒンドゥー教とイスラム教から新たな宗教であるシーク教を創始するカビールやグル・ナーナクなどが現れることに進展していきました。彼らはヒンドゥー教をはじめとする他の宗教との関係において、神にはいろいろな呼び名があるだけで諸宗教の本質は一つであるとして、どの宗教にも寛容なる姿勢を貫きました。

さらには、ムガル王朝の皇帝の中からもヒンドゥーとイスラムの融和思想が芽生え、さらには融合思想にと発展していくことになります。第三代皇帝アクバルは、スーフィーとしての宗教体験を持ち合わせており、教条的な正統イスラムを廃し、スーフィーや哲学者、法学者、法律家、イスラム教のスンニ派、シーア派、ヒンドゥーのバラモン、ジャイナ教、キリスト教、ユダヤ教などのあらゆる人々が一堂に会し議論する「信仰の家」を造り、諸宗教の融和を旗印にしたディーニ・イラーヒーという神聖宗教を推進したということです。

保坂先生は、論文の冒頭で、イスラム神秘主義者の「思想活動は、イスラームが宗教上忌避するヒンドゥー教などのインドの多神教との共存・共生を実現させる原動力となったものであり、さらにその寛容思想の存在が、21世紀のイスラームの世界的な展開において、イスラームと他宗教との平和共存という課題において、きわめて価値あるものであると筆者は考える」と述べられています。

このように総括されているように、イスラム教の中では異端とされているイスラム神秘主義であるスーフィーではありますが、彼らの多神教、多宗教との寛容な姿勢は、これからの国際情勢を緩和していくために誠に貴重なポイントたり得るものであると思われます。イスラム教徒の強面の一面を政治的に利用されないためにもイスラム側からそのことを前面に出すことも必要ではないかと思われます。現代の宗教対立の中で余りにも過激な敵対心を煽るばかりのイスラム教徒という認識を改め、イスラム教徒の中にも多宗教に対して融和を求め、唯一の神ではあってもそれが他宗教と分かち合えないものではなく、本質的には同じものを共に希求しているとの発想は、大いにイスラム教徒の中でも、また側の人間のイスラム教に対する認識においても見直されるべきでありましょう。単なる恐怖心、敵対心ばかり持つのでは無く、世界中の人たちの共通認識にしていかねばならないことではないかと思えました。


なお、本論文の中でスーフィーにも多大の影響を与えたとされる仏教、特に大乗仏教の形成に関する、保坂先生の慧眼による、誠に重要なご指摘について記しておきたいと思います。まず、これまでの仏教研究においては、中央アジアに起こった複雑な文化融合現象を正確に捉え仏教学研究に生かされてきたとは言いがたく、初期仏教から見て異なる、インド思想の枠組みさえも否定する大乗仏教の、例えば菩薩思想、俗家主義、浄土思想などはペルシャや中近東の諸文明、宗教の要素の融合と考えられること。特に浄土教という新仏教運動は、北西インドから中央アジア、いわゆるガンダーラ地域からバクトリア、トランスオクシアナの民族やその文化、文明の産物であること。インド起源という固定観念にとらわれることなく、大乗仏教とは、繰り返しになるけれども、北西インド、現在のパキスタンの北西部からアフガニスタン、イラン東部、カザフスタン、ウズベキスタンなどの中央アジアのオアシス都市にかけて成立した新仏教運動であったということであり、その仏教をインド起源のお釈迦様の真説と思い中国は仏教を受け取り、中国において花開いた大乗仏教は日本においても珍重されて今日に至っているということなのであります。仏教は、2500年前のお釈迦様の悟りに端を発するもののその後の、特に大乗仏教と私たちが呼ぶ教えは、まさに中央ユーラシアの複雑な文明の衝突によって形成された当時の世界における先進的な思想運動の精華として捉えることが出来るのかもしれません。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする