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認知症終末期を経て亡くなられた檀家さんの満中陰法話

本日は遠方からも早朝よりご参詣をいただきご苦労様であります。ご一緒にお経をお唱えくださり、また長いお経を聞いて下さいましてありがとうございました。5月○○日、午後一時頃奥様とご子息さんがお寺に見えられて、あまり様態が良くないのだとのお話を伺い、早速病院にかけつけお見舞い申しました。急性肺炎で入院され胃ろうをするかどうかという段階で、すでにたくさんの管が取り付けられ、その間を縫うように血圧やら脈拍やらを計測されているところに行き、それを待って、いろいろと話しかけはしたのですが、反応もなく、帰り際にわずかに目が動き視線があったかなというような感じで失礼をいたしました。それが最後となり、そのあと二三時間後にお亡くなりになってしまいました。

丁度今、中国新聞で僧侶による看取りという特集記事が何度か見受けられまして、死んでからではなく死の間際にも私たち僧侶の役割というものがあるのではないかと取りざたされているときでもあり、私に取りましても誠に貴重な機会となったわけではありますが、今回は看取りということではなく、もう一度元気になってお寺に参って下さいというようなことしか申し上げられなかったことが残念に思われます。

通夜、葬儀、そして、七日のお参りを近隣のご親族で熱心にお勤めされ、今日満中陰のお勤めを済ませたわけですが、この法要のご功徳をもって来世に旅立って行かれる、だからこそこうして、この四十九日の満中陰忌には法要を盛大に行うわけでありますが、中陰とは、中有とも申しまして、亡くなる瞬間を死有と言い、来世に生まれる瞬間刹那を生有、そして、死有と生有の間の四十九日を中有と言います。そして私たちは、生有と死有の間の本有を今生きているのでありまして、その間に沢山の行いを為して、業を前世過去世の業に積み増し相続していくのが私たち衆生でありまして、そうしてこの四有を私たちは何度も何度も繰り返していると考えます。

業には善い業も悪い業もある訳なのですが、私などは坊さんになるときにあんたは業が深いんだねとある方に言われまして、まるで悪いことをしてきた罪滅ぼしに坊さんになるんだろうと言われた様な気がしたものですが、善い業もあるのであって、坊さんになるような業があるという意味で言われたことだったのだと今では思っております。

故人は、そう考えますと確かに長患いをする、晩年に十年間も認知症を患われ気の毒なことではありましたが、そうなる業がおそらく過去世にあったのではないか、それでご家族には大変な看護介護の長い日々を過ごされたわけですが、こうして亡くならたからには、その長患いする業がこれで解消されて、その善くない業がなくなって来世に旅立って行かれる。来世は健康で長生きをされるはずであると思えるのです。そこで、通夜のお勤めの後、仏教で言う死とは、体と心の分離であり、心は身体から離れて今この会場の上の方におられて皆様を見ていると申し上げ、そして、その時、身体の束縛を脱して、清々しい気持ちでこれまでの人生を振り返り満足し感謝の気持ちでおられると思うとも申したのでありました。

ですが、その後、認知症について少し不安になり、少し調べをしました。認知症とは心の病なのか身体の病なのかということで、心の病なら身体の束縛を脱しても心が清々しくなれたのだろうかと不安になったからです。しかし、やはり認知症は心の病ではなく身体の病なのだということが解りホッとしたのであります。

ところで、國分寺の檀家さんで、十一年間寝たきりで、その間ほとんど反応もなく、植物状態で過ごされ亡くなられた方があります。その方は交通事故で脳挫傷となり、しばらくは意識もあり反応もあったのですが、しばらくして無反応になり、それでも息子さんご夫婦は懸命に看護を続けてとても明るく励まれていたわけですが、亡くなる少し前にお孫さんが来られたとき何かそれまで見せなかったような反応を示し、それで亡くなられていきました。その時も通夜になんと申すべきか、長患いでお気の毒でしたではその息子さんご夫婦には何のお悔やみにもならない、そこで調べましたところ、たとえ植物状態にあっても、脳波もなく反応もなくても、ちゃんと意識があり物事の判断をされているという研究結果があるということを知りました。

英国の脳研究者で、エイドリアン・オーエン博士が、二十年間も植物状態にある患者さんにMRIを使い、テニスをしているところをイメージして下さいというと脳の運動野が、家の中を歩き回っているところをイメージして下さいというと海馬が活性化としたと言います。それを用いて、あなたの名前は○○さんですか、間違いなければテニスをしているイメージをしてくださいという具合に質問をして、今までずっと意識がありましたか、事故後ずっと意識がありましたかなどと様々な質問をしたところ、そのどれにも明確な反応があったというのです。脳波も現れず、何を言っても反応がない植物状態の人であっても、きちんと意識があり、質問にも判断をすることができていた、つまり心ありという研究結果が出ているのです。通夜の晩そのことを話しとても意味のある十一年間だったはずでありますと申しました。

おそらく○○さんも、周りのことがみんな解っていて、ただ認知症が進み適切に反応することができずにいただけで、亡くなってからは、つらかった身体を抜け出て、四十九日の間は行きたいところにも行き、来世の逝くべき所も見つかり、今生の家族ご親族である、皆様に感謝の気持ちを表されて、皆さんから沢山の功徳もいただかれて、悪い業も消えて来世はとても善いところに旅だって行かれることと思います。来年には一周忌また三回忌と続きますが、今度は前世の家族から来世におられる○○居士に向けて功徳を手向けてあげて欲しいと思います。



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四国遍路行記40

長尾寺を出て、しばらく車道を歩く。お昼過ぎだというのに多くの車が渋滞している。道沿いに立派な瓦屋根を連ねたお寺を横目に見ながら先を急ぐ。山あいに大きなダムが見えてきた、ダム左側に進み山道に入る。次第に道が険しくなり、標高八百メートル弱の女体山登山道をひたすら登る。途中岩場となり、見晴らしの良い頂上付近の大窪寺奥の院を経由して下り道となる。いつの間にか目の前が開け、気がつくと第八十八番大窪寺山門前に出ていた。それにしても大きな門である。これほどの仁王門は四国遍路では初めてだろうか。どことなしか高野山の大門を彷彿とさせている。

結願所・大窪寺は、背後に矢筈山が聳え、山の木々に囲まれるように諸堂が佇む。大窪寺は、養老年間(七一七~二四)に行基が開基した寺である。唐から帰朝した弘法大師が奥の院の岩場で求聞持法を修して、大きな窪の傍らにお堂を建て、自ら刻んだ薬師如来を祀ったという。このお薬師さまは左手に薬壺ではなく法螺貝をもつ珍しいもので、すべての災難病厄を吹き払ってくれるという。

礼堂、中殿、奥殿に分かれた珍しい本堂の、礼堂で立って理趣経を上げる。これで八十八回目の理趣経かと感慨深く思いながら、ざわざわした沢山の結願した遍路さんたちの思わず声高になる話し声をかき分け、奥殿に祀られたお薬師さまに向けてお勤めをさせていただいた。この時なぜか急ぎ足で大師堂に行き、お勤めを済まし、大師堂前のベンチに座った。

すると隣に私より少し年上のご婦人がお座りになり、どちらまで行くのか、と問われた。高野山に向かって歩いて行こうかと思います、とお答えしたように記憶しているが、まもなくご主人さんがお越しになり、二人でなにやら話をされていた。すると、徳島にこれから帰るのだけれど乗っていかないか、とおっしゃる。とにかくお接待はお断りしないことをモットーに遍路してきて、今日ここに結願したのだから即座に、ありがとうございます、と返事をしたのだろう。折角結願してゆっくり少しはその感激に浸ればよかった、とはその後思ったことで、その時はただお二人に身を任せて車に乗り込んだ。

二時間ほども掛かったのだろうか、いろいろと四国遍路の話をしてすごたように記憶しているが、あっという間に徳島駅に到着して、ではとお礼を述べて一度車を降りたのに、また私の前に戻ってこられて、これから小松島のフェリー乗り場まで行くのならそこまでと、お住まいとは離れているのに小松島まで乗せて行って下さった。そして、フェリー乗り場で写真まで撮って、後日東京の住所までその時の写真を郵送して下さった。その時の写真こそ、このシリーズ初回でも掲載した錫杖と網代傘を持った遍路姿の私である。そして今もって年賀状のやりとりをさせていただき、また一周しましたよなどと近況を知らせて下さっている。

折良く、すぐに和歌山港行きのフェリーに乗り込み、揺られながら弁当で腹ごしらえをする。夜8時頃には和歌山港に到着。和歌山城の脇を通り小一時間ほどで和歌山駅に着いたので、さて今日は和歌山駅近辺で寝ようか、駅のベンチで横になってしまおうかと思い、駅前のロータリーで思案していた。するとそこに、ジャージ姿の若い人が二人来られたので、この辺りに安い宿泊所などはありませんかと問うたところ、少し待って下さいと云われ、しばらくすると車が来て、乗りなさいと云う。

皆さんで小声で話し合われて、聞くと、明日は祝日だし成り行きで高野山まで連れて行ってあげようということになった。それから二時間あまり、そのまま高野山に向けてひた走ることになる。この間宗教の話やら、人が死ぬときの心理であるとか、仏教の話やら、みんな、おまえそんなこと考えてたのかというように、私が間に入ったことでそれまで三人の中では語り合ったことも無いような話をして、みんな少々興奮気味に、とにかく話尽きること無く話をした。特に印象に残ったのは、一人がオートバイで事故をしたときに身体から心が抜けて上から自分の身体が転がっていく様子をスローモーションのように見たという話で、それまで人に話すのさえ躊躇していたとのことであったが、私が仏教的な解釈を申し上げると安心されたようだった。そして、この時運転して下さった方とも未だに年賀状のやりとりが続いている。

夜で一台の車とも出会うこと無く曲がりくねった坂道をひた走り高野山に到着。高室院前で下ろして下さった。皆さんに、一緒に今日はお泊まりになって、明日いっしょに朝勤行してからお帰り下さいと申したが、みんな修行させられたら適わないと言いたげに、お帰りになるというので、自販機でオロナミンCを三本買ってお礼とさせていただいた。午後四時頃大窪寺に結願し、なぜか夜中の十二時半頃には高野山に来ることができた。まったくもって素晴らしい御縁の連続。少しの時間のずれも許さない遍路の功徳、出会いの妙。みんな寝静まっていたので黙って客間に入り込み自分で布団を引いて寝てから、そのありがたさがこみ上げてきた。


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保坂俊司先生の『仏教とイスラームの連続と非連続』に学ぶ

今年四月、中央大学出版部発行の中央大学政策文化総合研究所研究叢書21『中央ユーラシアへの現代的視座』という本が送られてきました。開けると「謹呈」とあり、中央大学の政策文化総合研究所から、ご謹呈いただいたものでした。第一章には、こちらにも度々著作を紹介させていただいている中央大学総合政策学部教授の保坂俊司先生の論文が掲載されており、早速拝読致しました。

「仏教とイスラームの連続と非連続」と題する論文ですが、副題に「多神教徒の共存可能性をインドのスーフィズム思想に探る」とあるように、イスラム教というと中近東やインドネシア、マレーシアなどの東南アジアについて注目しがちですが、先生はヒンドゥー教の国インドにおけるイスラム教徒の進出と浸透の仕方に着目されて、その適合の仕方がこれからの世界の多宗教間の共存を模索していくために大変有効なヒントを与えてくれるものではないかと論じておられます。

インド共和国には、現在一億三千万人ものイスラム教徒が暮らしており、隣のパキスタン、バングラデシュを含めると、インド亜大陸には五億人近いイスラム人口があります。世界全体の三割弱を占めるのだそうです。イスラム教徒がいつからインドの地に住み着いたのかと言えば、それは八世紀初頭に西インド攻略軍の三千人の軍人がインドに入ったことから始まるということで、既に一千三百年にもなるのです。彼らは、軍事的にインドの地を支配する過程で、捕虜や敗者、またヒンドゥー教や仏教徒らへの弾圧からイスラム教徒に改宗させていったのです。が、そればかりではなく、中央アジアからの移民や、カースト制度による差別からの解放を願う人々やヒンドゥー教徒との対立からイスラム教へ改宗する仏教徒もあり、今日でもインドにおけるイスラム教人口は増え続けているのだということです。

私がインドに行っていたのはかれこれ20年も前にはなりますが、他の中近東の国々と明らかに違って、インドの民衆の中でイスラム教徒の人々が違和感なく過ごしているように見えました。そうしてインドの社会、インドの民衆の中に定着し溶け込み、受け入れられるために大きな役割を果たしたのが、余り注目されてこなかったイスラム神秘主義者、スーフィーの思想があるのだと、本論文を読ませていただき初めて知りました。かつて成瀬雅春さんというヨーガの先生が主宰するスーフィーのメブラーナという旋回瞑想の講座を受講したことがあり、大変懐かしく感じ、またスーフィーがインドのイスラム教徒の中にも存在していることに強く興味を感じました。そして、彼らスーフィーの一見インドの宗教に近い思想と修行をするイスラム教徒がいたればこそ、イスラム教徒たちがインドの多神教世界との共存共栄が可能となったということなのでした。

スーフィーとは、現世的な欲求を捨て、神への畏怖を基にひたすら祈り禁欲する人々であり、彼らはアッラーを自ら体験する、あるいは神の存在を感得することをめざして、外面より内面に注視しようとする人々であるとあります。彼らが修行の末に得られるとする宗教体験はファナーと言い消滅とか合一と表現され、それは仏教でいえば悟り体験に当たるものに近いのではないかということです。

このようにインドのヒンドゥー教や仏教に近似した思想基盤を持ち、だからこそまた、正統イスラムの側からは非難弾圧の対象でもありました。ですが、そもそもイスラム教はムハンマド(マホメット)が神の啓示を受けたことに始まるのであり、それはヒーラの洞窟において禁欲修行の最中に起こったことを考えれば、そしてその行為そのものがイスラム教徒の模範とされるのならば、スーフィーたちの主張や行為は否定されるものではなく、その純粋な宗教的な情熱、ひたむきな神への祈りは逆に推奨されるべきものでありました。

ムハンマドは、生まれる前に父親を亡くし、幼少期に母親にも祖父母にも死に別れ不遇な青年期を過ごし、25歳の時15歳年上の女性実業家と結婚、それによって様々なキリスト教などの教養を学ぶことができ、40才過ぎると祖父に倣ってヒーラの洞窟にラマダン月のひと月籠もって懺悔や改悛、断食を行って瞑想や祈祷に明け暮れたといいます。そして西暦610年のラマダン月のカディールの夜、神からの啓示が下ります。

正統イスラム神学では、この神からの啓示をムハンマドだけに認めるのですが、スーフィーたちは、自らにもその可能性があると考えます。彼らは、アッラーとは宇宙や自然、そして人間を創造した神であり、人間から超絶、隔絶した存在ではあるけれども、この世は神が創った世界であり、人間であるのだから、そこには神が内在しているはずだと考えるのです。定められた戒律に従って行動すればよいとする一般のイスラム教徒に対して、スーフィーたちは、ムハンマドの生き方そのものに焦点を絞り真摯に神と向き合う人たちであると言えましょう。

そして、イスラム教世界には、正統イスラムとスーフィーという二つの流れがあり、スーフィーには西アジアから西の主流となるスーフィズムと、中央アジアから南アジア、東南アジアに広がる東方のスーフィズムがあります。そして特にこの東方に広がるスーフィーこそ、仏教徒のイスラム教への改宗を含み東南アジアへイスラム教が拡大する原動力となり、さらに、他教徒との共存共生の思想が展開される点において注目されるべきであるとのことであります。

スーフィズムには、ムハンマドの神への真摯な姿勢と中近東を中心として行われたキリスト教神秘主義、グノーシス主義、新プラトン主義、ゾロアスター教、そして仏教までが少なからず影響しているのだそうです。ギリシャ語の知覚(gnosis)を意味するグノーシス運動は、宇宙も人間も神的・超越的本質と物質的・肉体的実体との二つの要素からなり、人間には神的実在が部分的に存在するとし、そして救済とは人間の持つその神的な断片が集められ神的実在と帰一することであり、そのために、すべての人間は修行を通じて自分の神的本質を自覚し救済が得られるよう努力すべきと教えています。

さらに東方に広がるスーフィーには、こうしたグノーシス主義の発想に加え、インド思想である梵我一如の思想の影響や仏教がペルシャや中近東の諸文明の宗教的な要素が融合して大乗仏教に変質していく過程と同じ作用が影響していると指摘されています。

スーフィーは、ムハンマドの啓示体験、それは神との霊的直接交流というイスラム教の根源から発して、禁欲と衷心からの祈りという修行から神との合一を目指すという点でヒンドゥー教や仏教の精神に通じています。改悛(深い自己否定)、禁欲、放棄、清貧、忍耐、神への信頼、満足という修行の階梯と神からの恩寵とも言われる心的状態の双方の要素によって、ファナーという悟り体験が得られるとします。

スーフィーの修行は、師匠に仕え、世俗の地位や名誉、価値観を捨て、すべてを神に捧げ尽くす、そして、一心不乱に神の名「アッラー」を唱え、そこに音楽を用いたり、踊り(カッワリー)、音楽に合わせて旋回して瞑想(メブラーナ)したりして、それを数時間もまた幾日も続けて忘我の状態に入り、神秘体験を得ることが可能であるとしています。これらの修行は、まさに仏教の念仏、唱題、踊り念仏と同様であり、そこから得られるものは禅の境地にも近似しており、ヒンドゥー教の修行にも同じ手法が見いだせるものです。

こうしてインドの地に定着していくイスラム教の特にスーフィーたちの思想は、イスラム教とヒンドゥー教の融合が行われる素地をつくり、ヒンドゥー教とイスラム教から新たな宗教であるシーク教を創始するカビールやグル・ナーナクなどが現れることに進展していきました。彼らはヒンドゥー教をはじめとする他の宗教との関係において、神にはいろいろな呼び名があるだけで諸宗教の本質は一つであるとして、どの宗教にも寛容なる姿勢を貫きました。

さらには、ムガル王朝の皇帝の中からもヒンドゥーとイスラムの融和思想が芽生え、さらには融合思想にと発展していくことになります。第三代皇帝アクバルは、スーフィーとしての宗教体験を持ち合わせており、教条的な正統イスラムを廃し、スーフィーや哲学者、法学者、法律家、イスラム教のスンニ派、シーア派、ヒンドゥーのバラモン、ジャイナ教、キリスト教、ユダヤ教などのあらゆる人々が一堂に会し議論する「信仰の家」を造り、諸宗教の融和を旗印にしたディーニ・イラーヒーという神聖宗教を推進したということです。

保坂先生は、論文の冒頭で、イスラム神秘主義者の「思想活動は、イスラームが宗教上忌避するヒンドゥー教などのインドの多神教との共存・共生を実現させる原動力となったものであり、さらにその寛容思想の存在が、21世紀のイスラームの世界的な展開において、イスラームと他宗教との平和共存という課題において、きわめて価値あるものであると筆者は考える」と述べられています。

このように総括されているように、イスラム教の中では異端とされているイスラム神秘主義であるスーフィーではありますが、彼らの多神教、多宗教との寛容な姿勢は、これからの国際情勢を緩和していくために誠に貴重なポイントたり得るものであると思われます。イスラム教徒の強面の一面を政治的に利用されないためにもイスラム側からそのことを前面に出すことも必要ではないかと思われます。現代の宗教対立の中で余りにも過激な敵対心を煽るばかりのイスラム教徒という認識を改め、イスラム教徒の中にも多宗教に対して融和を求め、唯一の神ではあってもそれが他宗教と分かち合えないものではなく、本質的には同じものを共に希求しているとの発想は、大いにイスラム教徒の中でも、また側の人間のイスラム教に対する認識においても見直されるべきでありましょう。単なる恐怖心、敵対心ばかり持つのでは無く、世界中の人たちの共通認識にしていかねばならないことではないかと思えました。


なお、本論文の中でスーフィーにも多大の影響を与えたとされる仏教、特に大乗仏教の形成に関する、保坂先生の慧眼による、誠に重要なご指摘について記しておきたいと思います。まず、これまでの仏教研究においては、中央アジアに起こった複雑な文化融合現象を正確に捉え仏教学研究に生かされてきたとは言いがたく、初期仏教から見て異なる、インド思想の枠組みさえも否定する大乗仏教の、例えば菩薩思想、俗家主義、浄土思想などはペルシャや中近東の諸文明、宗教の要素の融合と考えられること。特に浄土教という新仏教運動は、北西インドから中央アジア、いわゆるガンダーラ地域からバクトリア、トランスオクシアナの民族やその文化、文明の産物であること。インド起源という固定観念にとらわれることなく、大乗仏教とは、繰り返しになるけれども、北西インド、現在のパキスタンの北西部からアフガニスタン、イラン東部、カザフスタン、ウズベキスタンなどの中央アジアのオアシス都市にかけて成立した新仏教運動であったということであり、その仏教をインド起源のお釈迦様の真説と思い中国は仏教を受け取り、中国において花開いた大乗仏教は日本においても珍重されて今日に至っているということなのであります。仏教は、2500年前のお釈迦様の悟りに端を発するもののその後の、特に大乗仏教と私たちが呼ぶ教えは、まさに中央ユーラシアの複雑な文明の衝突によって形成された当時の世界における先進的な思想運動の精華として捉えることが出来るのかもしれません。



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小学六年生に國分寺を語る 改訂版

○小学六年生に国分寺を語る(28.5.2.)

今日は皆さん、福山の街から、ようこそこの神辺までお越しになり、そしてこちらの國分寺にお参り下さいました。10分ほどの短い時間ですが、國分寺について少しお話しします。

皆さんこちらにお参りになるのは初めてですか。國分寺、例えば他の備中の国分寺にお参りしたことがあるという人もあるかも知れませんね。事前学習と言うことで國分寺について学んでこられたかも知れません。何か質問はありませんか。何事も、いろいろと疑問を持って何でだろう何だろうと考えながら学んで欲しいと思います。では、私からぼちぼちとお話をしていきますが、質問があったらすぐに手を上げて下さい。

まず、この皆さんの前にある建物は、現在の國分寺の本堂ですが、こちらは今から320年前、江戸時代元禄七年、1694年に再建された建物です。それより20年前の延宝元年に大雨で流されて荒廃していた國分寺を、時の福山城主水野勝種公が大檀那になって再建されました。

①なぜ水野勝種公は國分寺を再建されたのでしょうか。

それは、この備後には國分寺が昔からあって、一国に一つ、備後福山の国の象徴としてあったからなんです。

②そもそも國分寺が、いつ頃からあったかと言えば、今から1270年ほど前からです。その初めにできる奈良時代の國分寺はどんなお寺だったのでしょうか。

当時の建物は、参道の入り口の道が古代の山陽道に面していて、その入口に南大門があり、周りには高さが2.5メートルもある築地塀が約200メートル四方に巡らされていました。入って左に東西24メートル南北16メートルほどの金堂があり、丈六仏と言いまして、立ち上がると一丈六尺、4メートル80センチもの大きなお釈迦様の座像が祀られていました。その右には高さが5,60メートルもある七重塔があり、中には聖武天皇勅願の「紫紙金字金光明最勝王経10巻」が祀られていました。この國分寺にあった経典は、今国宝となり奈良国立博物館に収蔵されています。その奥には金堂と同じ大きさの講堂があり、その他、お坊さんたちが二十人もおりましたから住まいとなる僧坊、食事をする食堂、鐘撞き堂、経典を納めていた経蔵等があって、今のこの境内規模の20倍はあったと言われています。

③ではその初めにできる國分寺は誰が造ったか、ということですが、聖武天皇が741年「国分僧寺尼寺建立の詔」を発せられてできていくのですが、なぜ天皇は國分寺を造ろうとされたのでしょうか。

741年の百年くらい前に何があったか、社会科の授業で習っていますね。大化の改新と習いましたか。それは今では乙巳の変といって、今で言えば総理大臣の地位にあった蘇我入鹿を中大兄皇子と中臣鎌足が惨殺する。政権を転覆させるクーデターがあった。まだ、中大兄皇子が天智天皇になって朝鮮に出兵をしたり、また、天智天皇が死ぬと後継者争いで壬申の乱が起きる。それで、天武天皇の時代にそれではいけないというので中国の政治の仕組みである律令制度を採用して準備されて、諸国の境界も定められていきます。それが683年です。その頃このあたりは大きな吉備の国があり、律令制度上大きすぎるというので備前・備中・備後・美作と四つの国に分けられ、全国でつごう68の国が出来ていきます。

そして、飛鳥から奈良に都が移るのが710年、その頃いろいろと都の政治にも乱れがありました。正しい政治をしていた人が冤罪で暗殺されたり、その後政権を取った人が天然痘という疫病が流行り次々に死んでいくという恐ろしい時代となります。さらに天変地異があって作物も実らない。そこで、聖武天皇は、仏教の力で、この時代を正していこうとされたのです。諸国に國分寺を造り、都には東大寺を造り大仏を造って、理想とする仏様の世界をこの世に造ることによって、国が安泰となり、諸国が平安となり、そこに暮らす人々も幸せになると信じられたのでした。

④では、なぜこの御領の地に備後の國分寺を造ったのでしょうか。

それは、この地に弥生時代から大きな集落があり、例えば九州の吉野ヶ里遺跡というのは聞いたことがあると思いますが、ここは発掘調査が行われ御領遺蹟と言われる沢山の大きな集落の遺跡、また沢山の古墳が見つかっていて、それに匹敵するほどの大きな古代の都市があったところなのだそうです。ですから、人が沢山居て社会生活の中心だった、だから奈良時代になりここに國分寺が造られたのです。

⑤ところで、皆さん、なぜお寺だったんだろうと思いませんか。神社ではいけなかったのかと。

そう、仏教でなくてはならなかったのです。なぜかというと。既に日本にあった宗教である神道は我が国の神さまを祀ることですが、仏教はインドから中国朝鮮を経て入ってきますが、それは、当時の世界では最先端の先進文化、思想、、芸術、科学技術を伴うものであったからです。そもそも仏教が日本にもたらされるのは、今から1500年ほど前、西暦の538年に仏教が伝来します。当時は蘇我氏物部氏の時代で、いろいろ諍いがありましたが、その後聖徳太子が、仏教は四方の極宗(よものおおむね)であると言って、今で言うグローバルスタンダード、世界基準ということで、積極的に仏教を取り入れていきます。

たとえば、このような瓦の載った大きな建物を造る建築技術ですね。また仏像などの彫刻、仏具などの金属加工、経典書写のための紙や筆や墨の製法、経典による文字の知識、仏画などの絵画の技法、僧衣の生地や縫製など服飾関係の製法、法要に奏でる鐘や鉢、音楽舞踊などあらゆるものを仏教とともに取り入れることができました。私たちはお寺、仏教というと、古くさいもの、誰かが死んだりしたときに必要なくらいに思っていますが、1500年前に、仏教が日本に入ってきて、やっと日本の国は中国や朝鮮に肩を並べる先進国に発展していくことが出来たのです。仏教は世界水準の文化であり、お寺は最先端の文化の象徴でした。そこで、奈良の都には、東大寺を作り、諸国に國分寺を造る。それぞれの国の中心にその権威を示すものとして國分寺が造られていったのです。

長くなりましたが、この辺にしたいと思います。何か質問はありますか。

國分寺お参り下さってどうもありがとうございました。また近くに来たときにはお訪ね下さい。

(5/2 本日実際にお話しさせていただいた内容は以上のとおりです。)


今日は皆さん、福山の街から、ようこそこの神辺までお越しになり、そしてこちらの國分寺にお参り下さいました。10分ほどの短い時間ですが、國分寺について少しお話しします。

このお寺は今から1270年ほど前に出来るのですが、そもそも仏教が日本にもたらされるのはそれより200年前、今から1500年ほど前のことです。西暦の538年に仏教が伝来します。当時は蘇我氏物部氏の時代で、いろいろ議論がありましたが、聖徳太子が積極的に仏教を取り入れていきます。なぜ仏教を取り入れたかと言いますと、既に日本にあった宗教である神道は我が国の神さまを祀ることですが、仏教はインドから中国朝鮮を経て入ってきました。中国も朝鮮もみな仏教を積極的に導入していました。

それは、当時の世界では最先端の先進文化、思想、科学技術を伴うものであり、今で言うグローバルスタンダード、そのものだったのです。私たちはお寺、仏教というと、古くさいもの、誰かが死んだりしたときに必要なくらいに思っていますが、1500年前に、仏教が日本に入ってきて、やっと日本の国は中国や朝鮮に肩を並べる先進国に発展していくことが出来たのです。

たとえば、このような瓦の載った大きな建物、建築技術ですね。また仏像などの彫刻、仏具などの金属加工、経典書写による紙や筆や墨の製法、経典による文字の知識、僧衣の服飾、法要に奏でる鐘や鉢、音楽舞踊などあらゆるものを仏教とともに取り入れることで、日本の国は一気に文化的に発展することが出来ました。さらに沢山の経典が書写研究され、様々な願いを祈願することも出来る、願っても無いものだったと言えます。

聖徳太子の時代の後、政治的には、皆さん習った大化の改新それが645年、今では乙巳の変と言いますね、それから壬申の乱が672年というように、政治的社会的にかなりの混乱した時代が続きます。そこで、それではいけないというので天武天皇の時代に律令制度が整備されていき、諸国の境界も定められていきます。それが683年です。その頃このあたりは大きな吉備の国があり、大きすぎるというので備前・備中・備後・美作と四つの国に分けられます。

そして、飛鳥から奈良に都が移るのが708年、その頃いろいろと都の政治にも乱れがあり、疫病が流行ったりしまして、偉い人も亡くなった、そこで時の天皇、聖武天皇が741年「国分僧寺尼寺建立の詔」を発せられ、国ごとに國分寺を造って、大きなお釈迦様を祀り、大きなお堂や七重塔を作って、金光明最勝王経という護国経典を読誦させて国家の安泰と作物がよく実りますように、人々が幸せであるようにと願ったのでした。

國分寺は、国を分ける寺と書くわけですが、ここは備後の國分寺ですね、隣には備中の國分寺、また西には安芸の國分寺があり、一つの国に一つの國分寺が造られ、全国に六十八ほどの國分寺がありました。國分寺が造られた頃の政治の仕組み、律令制度は、天皇を中心とする中央政府が万民に土地を公平に分け与え、その収穫の3%ほどを税とし他に労役兵役を課すという制度で、きちんとその制度が行き渡るように地方の各国にも役所、国府が置かれました。そして、先ほど申した通り仏教は世界水準の文化であり、お寺は最先端の文化の象徴でした。そこで、奈良の都には、東大寺を作り、各国には國分寺を造る。それぞれの国の中心にその権威を示すものとして國分寺が造られていったのです。

ここ備後の國分寺は、参道の入り口の道が古代の山陽道に面していて、その入口に南大門、入って左に東西24メートル南北16メートルほどの金堂があり、丈六仏と言いまして、立ち上がると一丈六尺、4メートル80センチもの大きなお釈迦様の座像が祀られていました。その右には高さが5,60メートルもある七重塔があり、中には聖武天皇勅願の「紫紙金字金光明最勝王経10巻」が祀られていました。この國分寺にあった経典は、今国宝となり奈良国立博物館に収蔵されています。その奥には金堂と同じ大きさの講堂があり、その他、お坊さんたちが二十人もおりましたから住まいとなる僧坊、食事をする食堂、鐘撞き堂、経典を納めていた経堂等があって、周りは高さが二メートルもある築地塀が約200メートル四方に巡らされていました。今のこの境内規模の20倍はあったと言われています。

ではなぜこの場所、御領というところに國分寺を造ったのか。それは、この地に弥生時代から大きな集落があり、例えば九州の吉野ヶ里遺跡というのは聞いたことがあると思いますが、ここは発掘調査が行われ御領遺蹟と言われる大きな集落の遺跡、また沢山の古墳が見つかっていて、それに匹敵するほどの大きな古代の都市があったところなのだそうです。ですから、人が沢山居て社会生活の中心だった、だから奈良時代になりここに國分寺が造られたのです。

ところで、お寺には仏様が祀られています。今の本堂、この伽藍は今から320年ほど前に福山城主水野勝種公が大檀那になり再建されたものですが、仏様はお薬師さま、薬師如来が祀られています。仏様とは何でしょうか。亡くなった人ではありませんよ、木の彫り物でもない。仏様はインドから来たわけですが、インドではブッダと言います。ブッダは目覚めた者という意味です。この世の中の真実、ありのままの姿、この世界の成り立ち、法則について本当に解った人のことです。

皆さんは、怒ったり、喧嘩したり、イライラしたり、悩んだりということがあると思いますが、それは本当のことが解らないからです。ブッダは、そんなことは一切無い、いつも幸せな気持ちでゆったりと落ち着いて、とっても楽に生きている人のことです。人間としての理想とする人格を備えた人。だから本堂に祀って、一生懸命私たちもそうなれるように努力する、そうした場所がお寺ですね。ですから、國分寺というのはその国の人たちがみんなそうした理想的な生き方が出来るように、幸せに暮らせるようにと願って作られたお寺だったのです。

皆さんの家にもお寺がありますね。仏壇です。仏壇は皆さんの家の仏様、ブッダを祀った場所です。皆さんも理想の人になれるように頑張って生きて欲しいし、何かあったら、仏壇の前に行って手を合わせて静かにしてると気持ちがスッと安らぎます。やってみて下さい。

長くなりましたが、この辺にしたいと思います。國分寺お参り下さってどうもありがとうございました。また近くに来たときにはお訪ね下さい。



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四国遍路行記39

八栗寺手前の土手下にあった遍路宿にお世話になり、ゆっくりと骨休めをして、翌朝も七時には八栗寺に向けて歩き出す。

少し行くと前方に五剣山が姿を現し、その裾野にケーブルカーの八栗登山口駅が見えてきた。駅の左手の道を行く。徐々に勾配が急になるが、三十分ほどで八栗寺山門にたどり着いた。五剣山の岩肌を背景に青々とした銅板屋根の本堂に真っ直ぐに進む。

第八十五番八栗寺は、天長六年(八二九)、弘法大師開基のお寺である。山号は、五つの峰が剣のように聳えていたからとも、この地で求聞持法を修していて五柄の剣が降ってきたからとも言われるが、寺号は、大師が唐に留学している間に八つの焼き栗の芽が出て繁茂したから八栗寺というらしい。

戦国時代には長宗我部元親の兵火により焼失するものの、文禄年間には復興し、現本堂は寛永十九年(一六四二)に藩主松平頼重が大師作の聖観音を祀り再建した。

朝勤行の気持ちを込めて、ゆっくりと理趣経をお唱えした。大師堂をお参りした後、家康の孫娘東福門院より賜ったという大師作歓喜天を祀る聖天堂に参拝する。早い時間なのに既に結構な人が参詣している。関西方面からも商売人たちの信仰を集める聖天さんには沢山の大根が祀られていた。

ケーブルの山上駅の方へまわり、東から南に向けて山を下る。土産物屋の前を通り進むと、歴代の墓が並ぶ。その中に高野山の管長をなされた中井龍瑞猊下の供養塔が目にとまり手を合わせた。五輪塔の側面から背後に足跡が記されている。阿字観という真言宗の瞑想法を多くの僧俗に宣布なされたことなどが目にとまった。体の小さな優しげなお方であったと地元の人からお話を聞いた。

山道を下り、親水公園から讃岐牟礼駅の前を通り、志度湾沿いの道を歩く。行く手に大きな五重塔が姿を現し、大きな草鞋が志度寺の仁王門を飾っていた。

第八十六番志度寺は、藤原不比等が開基したお寺だという。不比等の妹は唐の高宗皇帝に請われて妃になり、不比等が亡き父鎌足供養のために興福寺建立にあたり、唐に伝わる三種の宝珠を兄に送った。ところが、その船が志度の浦で難破して一つの宝珠を竜神に取られてしまう。宝珠を探すために志度を訪れた不比等は、土地の海女と情を通じて男児をもうけ、その子を跡継ぎにするとの約束を取り付け海女は海に潜り、その命と引き替えに宝珠を取り戻したという。

不比等は宝珠を興福寺に納め、この地に海女の墓を建てて堂宇を作り、「死度の道場」と名づけた。後にその男児は房前と名を改め、行基とともにこの地に来て、母の冥福を祈り大伽藍を造営したのだという。

国の重要文化財の本堂に上がり、理趣経一巻お唱えする。善通寺派のため、善通寺の遍照殿での朝のお勤めの時に顔を合わせた僧がおられ挨拶して外に出る。かなり広い境内ではあるが、木々が茂り苔むした五輪塔が所狭しと建ち並ぶ。潮風が漂う境内をゆっくり散策したいところではあったが、先を急いだ。

仁王門を出て、ひたすら南に向けて歩く。途中建設中の高速道路の高架の下を通り、平坦ながら車の多い道を一時間半ほどで第八十七番長尾寺に到着。仁王門をくぐり、広い境内を見渡す。今までのお寺と何か雰囲気が違うと思ったら、ここは江戸時代前期に天台宗に改宗されているのだという。

天平十年(七三八)行基がこの地を巡錫中に、道ばたの楊柳で聖観音像を刻み小堂を建て、後に弘法大師が入唐にあたり、この本尊に祈願して護摩供を修した。そして帰朝した大師は唐での大願成就を感謝して、大日経の一字一石供養塔を建立したといわれている。

その後度重なる兵火に遭い伽藍は壊滅しては再建を繰り返し、現本堂は藩主松平頼重によって再建された。頼重は、この長尾寺の本尊を「当国七観音随一」と讃え、秘仏として祀られている。

堂々とした唐破風の庇のついた本堂前で、急ぎ足で経を唱え、塔のように九輪がのった宝形造りの屋根の大師堂に参る。

ガランとした境内に大きな古木が枝を張っている。その下にあったベンチに腰掛けて、通り沿いのお店で買ったおにぎりをほおばる。まだお昼を過ぎたばかり、結願所大窪寺まで行けそうだ。



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お釈迦様のご真骨はいずこに

ある先生に勧められ、インドに居た頃、お釈迦様のご真骨を間近に拝む機縁を得たことをここに書き残しておきたいと思います。

あれは、比丘になった翌年のことなので1994年の二月頃、確かサールナートから日本に帰るためにコルカタに戻った頃のことであったと記憶しています。日本に帰りサールナートの無料学校のための寄付を集めるために、折角通い始めたサンスクリット大学を休学する手続きを済ませてタゴール大学のあるシャンチニケタンを経由して、コルカタに向かったのでした。コルカタのボウバザールの一角にあるベンガル仏教会の本部僧院に帰り着き、総長ダルマパル大長老に慌ただしくサールナートでの現地報告などを済ませ、日本に帰る準備をしたり、コルカタの僧たちにいろいろと教えを受けたりして日を過ごしていました。

そんなある日、昼食を済ませ自室で午睡を取っていると事務所に一本の電話が掛かってきました。すると僧院全体が慌ただしく賑やかになったと思ったら、ドアが叩かれ、あなたも来なさいというので総長室に行くと、僧院内の僧侶がすべて召集されていました。「いまインド博物館から電話があり、明日からブッダのシャリーラ(遺骨sarira)が特別展示されるに先立ち、我らビックサンガ(比丘僧伽Bhikkhu sangha)に法楽をあげて欲しいとのことなので、すぐにインド博物館に行くから、皆同行するように」とのことでした。

お寺のアンバッサダー(インド国産車)とマイクロバスに分乗して、コルカタのチョーロンギー通りに面したインド博物館の裏手に車は到着し、閉館日で誰も参観者のいない廊下を職員に案内されて、正面入口から入ってすぐのメインブースの前にやってきました。そして、その中に、お釈迦様の真骨が展示されていました。1メートル四方のガラスの中に白い綿が置かれ、その上に2、3センチほどの白いお骨がいくつも置かれていました。所々茶色く変色しており、日本で舎利と言われている小豆ほどの大きさの透明な仏舎利とはまったく異なり、まさに人骨の破片そのものでした。7、8人いた比丘衆はみな合掌し、しばし呆然とその舎利を見つめていました。

そして、その前にひざまずき三礼してから床に座り、ダルマパル総長の発声で、一同、「ナモー・タッサ・バガヴァトー・アラハトー・サンマーサンブッダッサー(阿羅漢であり正しく覚れるものであるかの世尊・お釈迦様を私は礼拝致します)」と三返お唱えし、

続いて、<仏の十徳>イティピーソー・バガヴァー・アラハン・サンマーサンブッドー・ヴィッジャーチャラナ・サンパンノー・スガトー・ローカビドゥー・アヌッタロー・プリサダンマサーラティ・サッターデーヴァマヌッサーナン・ブッドー・バガヴァー・ティ(かの世尊・お釈迦様は、供養されるに値する阿羅漢であり、正しく自ら覚れるものであり、智慧と行いに優れたものであり、覚りの世界によく行けるものであり、すべての世界をよく知れるものであり、この上無きものであり、よく制御せるものであり、神々や人間の師であり、真理を自ら覚った仏であり、聖なる方である)

<法の六徳>スヴァッカートー・バガヴァターダンモー・サンディティコー・アカーリコー・エーヒパッスィコー・オーパナーイコー・パッチャッタン・ヴェーディタッボー・ヴィンニューヒー・ティ(かの教えは、お釈迦様によってよく説かれたものであり、自分で見るべきものであり、時間を経ずして果を与えるものであり、自ら確かめつつ進むものであり、自ら心に獲得すべきものであり、賢者によって各々知られるべきものである。)

<僧の九徳>スパティパンノー・バガヴァトー・サーヴァカサンゴー・ウジュパティパンノー・バガヴァトー・サーヴァカサンゴー・ニャーヤパティパンノー・バガヴァトー・サーバカサンゴー・サーミーチパティパンノー・バガヴァトー・サーバカサンゴー・ヤディダン・チャッターリ・プリサユガーニ・アッタプリサプッガラー・エーサバガヴァトー・サーヴァカサンゴー・アーフネイヨー・パーフネイヨー・ダッキネイヨー・アンジャリカラニーヨー・アヌッタラン・プンニャケッタン・ローカッサー・ティ(お釈迦様の弟子の僧団は、よく法にしたがって修行するものであり、真っ直ぐに修行するものであり、悟りのために修行するものであり、人々の尊敬にふさわしく修行するものであって、この四双八輩といわれる弟子たちは、遠いところから持って来て供えるに値するものであり、方々から来た客のために用意したものを受けるに値するものであり、供えたものを受けるに値するものであり、合掌を受けるに値するものであり、世の無上の福田である)・・・・」とお唱えしました。

そして、読誦後再度丁重に三礼し、名残惜しく思いつつも博物館を後にしたのでした。その後、私は慌ただしく日本に帰り、今でも毎年本尊開帳法会などに出仕させていただいている東京都新宿区西早稲田の放生寺に居候させていただき、寄付勧簿活動を続けていました。日本財団からの協力金を獲得するなど予想外の進展を見て、いざインドへ戻ろうかと考えていた矢先に、インドでコレラが蔓延し、とても帰る状勢ではないとのことから早稲田のお寺で年越しすることになりました。そして、忘れもしない1月17日阪神淡路大震災が起こり、何度か現地に赴きボランティア活動に邁進、お釈迦様の真骨を拝ませてもらったこと、その時の感激もすっかり忘れ、その年の5月にコルカタの僧院に雨安居に戻っても、時折思い出してはその時の感動を話す程度のことで特段お釈迦様の真骨に関する調べをすることもなく過ごしておりました。

そして、今年の一月、先生がインドを再訪されるにあたり、インドの思い出話をしている中でお話したところ、それは本当に真骨と言えますかと先生に問われました。そこで、それは、19世紀末に、イギリスのペッペという考古学者が、インドネパール国境付近の村で、当時の文字でブッダの遺骨であると書いた舎利容器の中から発見し、それまで西洋世界ではお釈迦様を実在の人物とするのを疑問視する向きがあったのに、それによって実在した聖者であったことが証明されたこと。その真骨はタイに寄贈され、そこからスリランカ、ミャンマー、そして日本にも贈され名古屋の日泰寺に納められていることなどを話しました。そして、寺内にある書物の中から当時掘り出された舎利容器の写真なども見ていただきました。

この度、この一文を書くにあたり、改めて國分寺の書棚の中にあるペッペ発見の舎利に関する記述を当たり、またインターネットでも調べを進めてみました。

そこで、まずはじめに、日本にその真骨が納められたとされる名古屋にある覚王山日泰寺の公式ホームページから参照してみることに致します。日泰寺略記には、『「釈尊」の実在が立証される。19世紀東洋史上の一大発見 1898年(明治31年)1月、ネパールの南境に近い英領インドのピプラーワーというところで、イギリスの駐在官ウイリアム・ペッペが古墳の発掘作業中ひとつの人骨を納めた蝋石の壺を発見した。その壺には西暦紀元前3世紀頃の古代文字が側面に刻みこまれており、それを解読したところ「この世尊なる佛陀の舎利瓶は釈迦族が兄弟姉妹妻子とともに信の心をもって安置したてまつるものである。」と記されてあった。

これは原始佛典に、「釈尊」が死去した後、遺体を火葬に付し、遺骨を八つに分けてお祀りし、その中釈迦族の人々もその一部を得てカピラヴァツに安置したとある記載が事実であったことを証明するものである。当時19世紀の西欧の学者の間では、佛教の教祖である「釈尊」なる人物はこの地上に実在したものではあるまいという見方が一般的であって、一部の学者にいたっては釈尊信仰を太陽神話の一形式であるとの見方をしていたほどである。そうした状況がこの発掘によって一変し、「釈尊」の実在が立証され、まことに19世紀東洋史上の一大発見となった。

その後インド政庁はこの舎利瓶と若干の副葬品の呈出をうけ、舎利瓶その他はカルカッタの博物館に納めたのであるが、釈尊の御遺骨についてはこれを佛教国であるタイ国(当時シャム)の王室に寄贈したのである。時のタイ国々王チュラロンコン陛下は大いに喜ばれ佛骨を現在もあるワットサケットに安置しお祀りしたのであるが、その一部を同じく佛教国であるセイロン、ビルマに分与せられた。この時日本のタイ国弁理公使稲垣満次郎はバンコクに於いてこれを見聞し、羨望にたえず、日本の佛教徒に対してもその一部を頒与せられんことをタイ国々王に懇願し、その結果「タイ国々王より日本国民への贈物」として下賜するとの勅諚が得られたのである。

日本とシャム(暹羅)の友好を象徴する日暹寺(現在の覺王山日泰寺)の誕生 稲垣公使の通牒が外相青木周藏によせられ、直ちに日本佛教各宗管長に対して、受け入れ態勢の要請がなされ、当時の佛教13宗56派の管長は協議を開いてタイ国々王の聖意を拝受することを決定、明治33年6月に奉迎の使節団を結成し、正使に大谷光演(東本願寺法主)、副使に日置黙仙(曹洞宗、後に永平寺貫首)の他、藤島了穏(浄土真宗)、前田誠節(臨済宗)等がタイに渡り、6月15日バンコク王宮に於いてチュラロンコン国王より親しく御真骨を拝受し、又使節団が帰国後、佛骨奉安の寺院を超宗派で建立するとお約束を申しあげたところ、完成時の御本尊にとタイ国国宝の一千年を経た釈尊金銅佛一躯を下賜された。

奉迎使節団は御真骨を奉持して帰国後、京都妙法院に仮安置し、佛教各宗の代表が集って新たに御真骨をお祀りする寺院の建立計画を協議したが、候補地をめぐって意見が分れ、これの調整に甚だ難渋した結果、名古屋官民一致の誘致運動が最後に効を奏し、ようやく名古屋に新寺院を建立するとの結論を得た。ここに於いて名古屋市民あげての協力によって現在の地に10万坪の敷地を用意し、明治37年、釈尊を表す「覺王」を山号とし、日本とシャム(暹羅)の友好を象徴する日暹寺(現在の覺王山日泰寺)の寺号をもって誕生したのである。』とあります。

こうありますから、私があの日コルカタのインド博物館で拝んだ仏舎利、お釈迦様の真骨も、イギリス人ウイリアム・ペッペがピプラーワーで発見した遺骨に違いないと思っていました。しかし、たまたま数年前に手に入れていた、立正大学名誉教授中村瑞隆師の著書『釈迦の故城を探る-推定カピラ城跡の発掘(雄山閣出版)』(54頁)によれば、まず、1896年にお釈迦様の生誕を記念するアショカ王の建てた大石柱がネパール領のルミンディで発見され、それによって、そこが仏伝にいうルンビニ園であることが確定したのだといいます。そして、翌年イギリスのインド史の権威者ビンセント・スミスはピプラハワの遺跡を調査しているうちに巨大なストゥーパ(杉本卓洲「ブッダと仏塔の物語」によれば高さ6.8メートル直径35メートル)や僧院跡などを発見し、そのスミスの示唆を受けて考古学者ウイリアム・ペッペは1898年ストゥーパを縦横三メートル角に発掘したところ頂上から三メートルの所に石鹸石の壊れた壺を発見し、それよりさらに二・八メートル下で砂岩製の大石棺を発掘したのでした。

その中には、四個の石鹸石の壺と水晶の鉢、金板や銀板、ビーズなどの副葬品が入っており、中でも古い文字が刻された舎利壺(高さ15センチ直径10センチ)には、日泰寺のホームページに記されているように、「これこそがブッダの舎利壺である」と翻訳した学者があり、注目を集めたと記されています。オーストリアの東洋学者ビュラー、イギリスの仏教学者リス・デビッツ、ドイツのインド学者ビシェルらなど。しかしこのように「ブッダの舎利」と訳した人ばかりではなく、イギリスの東洋学者フリートなどは、「これは小さい妹たち、子供たち、妻たちといっしょのよき名声を持つものの兄弟たちの、すなわち、仏世尊の親族の舎利の容器である」と翻訳したとあり、「釈尊の親族の舎利」と訳すべきだとする東洋学者もあったということです。(同著55頁)

前訳が正しいとすれば、日泰寺のホームページにあるようにお釈迦様の死後舎利が八分されその一つはカピラバッツに安置されたとするので、ピプラハワこそがカピラバッツであるということになります。が、実はお釈迦様の重要な聖地の中で、お釈迦様が出家するまで生活されていたとされるカピラバッツのみ、その位置が未だに確定されていません。当時のことを知る手がかりとしての歴史書はインドには存在しません。インドには歴史を書き残す慣習がないからで、そのため、中国からインド世界を旅した二人の僧侶の旅行記こそが唯一の手がかりとなっています。それは、七世紀中期に中国からシルクロードを通って経典を求めてインドへ旅したかの高名な玄奘三蔵の『大唐西域記』と、それに先立つ五世紀初頭に主に律蔵を求めて旅行した法顕の西域旅行記『法顕伝』なのですが、残念ながら、このカピラバッツの位置に関する記録に相違があるのです。そのため、ピプラハワの西北19キロに位置する、もう一つの想定地であるティラウラコットと、新旧二つのカピラバッツがあったとする説まで唱える学者がある程なのです。ティラウラコットはネパール領になるのですが、その後ネパールの鎖国政策のため、半世紀以上もの期間この論争は沙汰止みとなっていました。

1950年、ネパールは民主国家となり鎖国を解き、1967年からネパール政府と立正大学でティラウラコットの共同発掘が始まり、インド政府も1971年からピプラハワの発掘を再開。1972年インド政府考古局発掘監督スリバスタブ氏が発表した研究雑誌には、大ストゥーパの中心部、ペッペが発見した石棺より下に煉瓦製の小室が二つ発見され、それぞれに径七センチ、径九センチの石鹸石の壺があり、中には黒く焦げた遺骨が入っていたとされ、明らかにペッペ発見の壺よりも年代的には古いものであると知ることができるということでした。ザ・タイムズ・オブ・インディア紙の報道には、さらに、このストゥーパ東の僧院跡からは31個のシール(粘土の丸い印)が発見され、そこにはカピラバストという文字が読み取れたとのことでした。そして、それにより長年論争してきたカピラバッツの位置はこのピプラハワに間違いなく、さらに、ペッペの発見した舎利壺は複製品であり、この度その下の小室から発見した壺こそが本物であるとインド側は主張したのでした。(同著60頁)

しかし、同著111頁には、ピプラハワの遺蹟は塔と僧院からなり、伽藍遺蹟であるのに対し、ティラウラコットはこれまでの発掘によれば城塞遺蹟であることが明らかになっていることからも、距離的には19キロと離れてはいるものの、カピラバッツとは、カピラ城という構造物の名ではなく、カピラ城を中心とする都邑として解釈すれば、各々の役割を持った地として把握されるのではないか、つまり、カピラ城のあった場所としてはティラウラコットが該当し、その後舎利が埋葬される仏舎利塔の出来る僧院群としてピプラハワがあるとするのです。

カピラバッツとはどこにあったのか、という副題まで含めて考察してきましたが、この問題を複雑にしている背景にお釈迦様の生存中にコーサラ国ヴィドゥーダバ王によって釈迦族が亡ぼされ多くの人がその地で亡くなっていることと無関係ではないと思われます。法顕の残した旅行記(平凡社東洋文庫『法顕伝・宋雲行紀』)にも、「城中に王民なく荒れ果てている、・・・カピラバストゥ国は非常に荒れ果てていて人民きわめて少なく、道路には白象や獅子が現れて恐ろしい、みだりに行くべきでない」とあります。だからこそ、舎利壺が近代になって手つかずのまま発掘することが出来たともいえるのですが。なお、お釈迦様の死後舎利は八分されて各々持ち帰った部族が仏舎利塔を建立して祀った訳ですが、それからおよそ百年後にインドを統一するアショカ王によってこれら八か所の仏塔に祀った舎利のうち七か所の舎利は掘り起こされ、それらを八万四千に分けて全国に仏塔を建立して祀ったといわれています。ラーマガーマのコーリヤ族の祀る仏塔はナーガが護るためアショカ王も手を出せなかったといわれています。お釈迦様の生誕の地であったればこそ、その後改めて舎利を納め後代に増高して大きな塔になって残されていったのでしょう。多くの釈迦族の人々が悲惨な死を遂げ廃墟と化した地でもあったがために、法顕の記すようにカピラバッツの仏塔はひっそりと近代の発掘を待つまで保存されたと考えられます。

はたして私があの日拝んだお釈迦様の真骨と思ったものは、本当にお釈迦様のご遺骨だったのか、やはり複製品だったのか。はたまたお釈迦様の親族の遺骨だったのか。現在インド博物館にコレクションされているブッダの遺骨について、いつ誰がどこから掘り出した遺骨なのか、実はインド博物館に問い合わせしているところであります。ところで、1972年のインド政府考古局の発表があっても、日泰寺はじめ、他の仏教国は、いまだにペッペが掘り当てた舎利壺から発見された遺骨を真骨とする姿勢に変わりはないようです。それを不思議にすら感じるのは私だけなのでしょうか。・・・。


現在のティラウラコット、ピプラハワを旅した人の映像記録がありましたので貼り付けておきます。
http://isekineko.jp/budda-kapilavastu.html


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四国遍路行38

根来寺を後にして、次なるは四国第八十三番一宮寺に向け歩き出す。五色台みかん園から、車道を一時間ほど歩くと鬼無の駅が見えてきた。

駅前のよろず屋でパンを買い食べる。食べながら家に手紙を書き、駅前のポストに入れた。小さな駅だが、ロータリーの周りに新しく草花を植え整備されていた。さらに車道を歩いて香東川を渡って、一宮寺へ。

一の宮・田村神社の大きな鳥居の前から左に出ると一宮寺の仁王門が見えてきた。

一宮寺は、もともと奈良仏教隆盛の基を開いたとされる義淵僧正が奈良時代初期に開創したといわれ、当時は法相宗に属し、大宝院と称していた。

義淵は唐に留学して沢山の経典を持ち帰り、光明皇后に仕えて後に國分寺制や東大寺を創建する知識を授けたと言われる玄や國分寺の境内にも祀る行基菩薩の師にあたる人である。

後にその行基がこちらに来訪して、堂宇を建造し、田村神社の別当職となり一宮寺と改称した。

そして弘法大師が大同年間に巡錫の折に聖観音菩薩を刻み本尊に据えた。戦国時代には、この一宮寺も長宗我部元親の兵火にかかり、灰燼と化し、後の住僧らによって再建したという。

正面に進み、本堂でゆっくりと理趣経を一巻、そして、多くの燈籠が吊された大師堂の中に入り、香の香りに包まれながら心経を読み上げた。

どこからともなく子供たちの遊ぶ声が聞こえてきた。一宮寺はどこからがお寺なのかがわからないような敷地の中に堂宇が点在する。わざとそのような設営なのかもしれない。神社からお寺へと広々とした空間が広がる安らぎの中で楽しそうに子供たちが賑やかにするのは何ともいいものだと思えた。ゆっくりしたかったが、先を急いだ。

第八十四番屋島寺までは、十四キロほど。四時間はかかるだろうか。ひたすら車道を歩く。作り始めの高速道路の高架の下を通り、高松の賑やかな街中を歩く。なるべく下を見て歩いていたが、高野山讃岐別院という看板があった。

このときには立ち寄らなかったが、この翌年に遍路したときには丁度夕刻にさしかかり、一夜の宿を願い、名乗ったところ、高野山の師匠に電話をされて、なればどうぞと客間に案内され、かえって冷や汗をかくことになった。

しかし、翌朝本堂でお勤めをしてから賄いのおばさんが昼食を用意してくれたので食していると、そこへ、総代で弘法大師の著作もある中橋健氏がお参りに来られ、折良く、光明真言を二百万遍唱えた話やいろいろと弘法大師信仰についてご教示賜ったことはさすがに有り難い遍路の功徳と思ったことである。

このときには、ただひたすら前を通り過ぎ、琴電の踏切を越えて屋島寺への道を急いだ。山道に入ると、蛇腹の道が続く、小さな祠や地蔵が所々に現れだしたら、屋島寺の入口にさしかかっていた。

屋島寺は、唐から日本に正式な授戒作法を伝えるために、国禁を犯し五回も渡航に失敗した末に、十一年も掛けて来朝した鑑真和上が、太宰府から奈良に入る途中、天平勝宝五年(753)に立ち寄られて屋島の北嶺に普賢堂を建てられたことに由来する。

後に弘法大師が、弘仁六年に訪れて、北嶺から南嶺にお寺を移して本堂を建立、千手観音を刻み本尊とした。慶長十六年、元禄二年、そして昭和にも解体修理が施された、本瓦葺きの本堂は、現在、国の重要文化財となっている。

柱が白くなった本堂前で理趣経一巻、そして、大師堂に参る。

源平の合戦の地でもあり、また瀬戸内海が見渡せる風光明媚な高台でしばしのんびりしたいところであった。が、多くの観光客で賑わっていて、なぜか場違いな雰囲気を感じ、隠れるように遍路道に入り、八栗寺へ向かう。

屋島ドライブウェイを横切るあたりで振り返ると、まさに屋根のような屋島の地形が目の前に迫っていた。

途中、清盛の娘建礼門院の子で壇ノ浦で平家一族とともに入水した安徳天皇を祀る、安徳天皇社の前を通り、八栗寺登山口手前あたりで暗くなりかけ、丁度土手下にあった遍路宿にやっかいになることにした。


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大乗仏教とは何か

この度、大法輪誌11月号の特集記事を書くにあたり改めて大乗仏教、特に初めての大乗経典である般若経について学ぶ機会が得られた。参考にしたのは、中公新書の「般若経」と、講談社現代新書の「さとりと廻向」、共に梶山雄一先生の著作である。大乗仏教が現れるまでの仏教は自利の教えであって利他は大乗仏教の旗印のように言われるが、お釈迦様の時代から利他という言葉ではなく慈悲という言葉で、他の者を慈しみ、苦しむ者を助け、よくあるときにはともに喜び、誰をも平等に見る「慈悲喜捨」の教えは説かれていた。

自分があるのは多くの他者のお蔭であるのだから、当然のことながら他の者たちがよくあるように生きることが求められていたのである。そうして徳を積み、何度生まれ変わっても自ら心浄めて真理を悟ることによってしか、この業報輪廻の世界から解脱することは出来ないと考えられた。だから、お釈迦様も含めて仏を崇拝し信仰するという発想さえなく、自らの行いによって徳の高い存在に近づく道を教えられた。しかし大乗仏教は信仰すれば業報輪廻から救われると説いた。

この大乗仏教としての一番の転換点とも言える、仏菩薩への信仰によって救われるとはどういうことなのか。すべてのものを平等に見る、分け隔てのないものとして見るとはいかなることなのか。上にあげた書物はこれまでにも何度も目を通し読み込んでいたつもりだったが、その肝の部分に気づかずにいた。が、この度、改めて読み返してみて、やっとこの大乗仏教の言いたいところが浮かび上がって感じられた。

部派仏教の時代となり台頭した説一切有部の教学は、三世実有、有の哲学と言われる。それに対抗して、空という鮮烈なる語を用いて、大乗を標榜する新しい宗教運動が起こった。すべてのものは空である。様々な原因と縁によって仮に存在するものであり実体なきものであるとされた。そこで、善も悪も、自も他も、迷いも悟りも、空なるものであり、実体がない、だから不二なのだという。二つであって二つでない。分け隔てできるものではないので不二だという。Aなるものに実体なく、Bなるものにも実体がないのだから、AとBはともに実体の空なるものとして区別されず、分かつことの出来ないものであり、本質的には不二であると考える。

そこで廻向という考え方が可能になるのだという。善行の果報であるこの世での幸福を悟りや極楽往生など超世間的なものに内容的に変換したり、あるいは自己の功徳を方向を変えて他者にめぐらすことを廻向と言うが、これは空の論理があって初めて成立するとする。今日、日本仏教でも廻向という言葉は日常にも使われ一般化しているが、それは読経やお供えの功徳を先祖や精霊の菩提に振り向けることなどをさす。この場合、知らず知らずに方向の転換と内容の変換という廻向が同時になされているのである。

そして、また一つここで随喜という言葉が登場するが、随喜とは、お釈迦様やその弟子たち、およびあらゆる人々の喜びや幸せを自分のことのように喜ぶこと(慈悲喜捨の喜に同じ)であり、信仰するとは対象とする仏菩薩に随喜することなのだととらえるのである。仏菩薩の優れた徳や善根に対して随喜をして、それを喜び、まるで自分のこととして受け入れ、その功徳を自分のものとすることなのだという。そしてその受け取った優れた功徳を自らの悟り、菩提のために廻向する、振り向けることによって、業報輪廻からの解放が得られるとするのである。

しかし、それを可能とするためには、心を般若波羅蜜にとどめ、すべてのものを空と見て、不二ととらえられねばならない。般若波羅蜜とは、六波羅蜜の一つでもあり、智慧の完成と訳す。なにものにもとらわれず、心とどめないこと。そのために、少し後の時代のものかもしれないが空性の瞑想がなされた。自分の体、心を分解し自分と言えるものがあるのかと瞑想し探求する。これが自分と言えるような不変の実体ある自分などどこにも無いことを悟ることを内容としているが、一般的な行としては六波羅蜜があげられよう。

六波羅蜜とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧、これらの波羅蜜、つまり完成と名付けられている。智慧波羅蜜を除く、世間における五つの俗行を波羅蜜に高めるためにはいかになしたらよいのか。六波羅蜜は単に、他者に施しをしたり、在家の戒である五戒を守ればよいというのではなく、これら五つの行いを為したなら、それらの徳をすべての者たちの菩提のために廻向する、無上菩提のために廻向することによって、崇高なる出世間の無上菩提の完成になる、つまり六行が六波羅蜜に転換されるというのである。それこそが空の働きであり、仏陀の働きであるから、菩薩の行となり、業報輪廻から解放されると考えたのであった。

さらに、空の世界に入るためには言葉の概念世界からの解放が必要であるとしているが、そのために、たとえば般若心経では最後の一行である真言、マントラこそが重要視され、真言を唱えることによって言葉の概念世界からの解放を目的とした。そして、心経はその前段階で五蘊をはじめとするお釈迦様の教説を否定するが、それも、とらわれない心にとどまり、あらゆるものに心とどめないこと、ものを認識して執着しないこと、すなわち般若波羅蜜にとどまることを述べたものにすぎず、それこそが彼らの心の支えであり、そうあれば業報輪廻からの超克が得られると考えたのである。

こうした論理によって人々を救いのない業報の束縛から解放し、恩寵と救済の宗教としての大乗仏教を形成したのである。



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法事に関する一考察

法事とはなんだろう。法事について今日は考えてみたい。法事というとお経を聞いていただく時間が長いわけですが、実際長いなと、分からない言葉の羅列を聞くのはしんどいと感じますでしょうか。私は子供の頃、父方の宗旨が日蓮宗で、お寺に参り法事に参加したとき、木魚の音がなぜか可笑しくて、笑ってしまって、親に怒られ、廊下に立たされたことを思い出すのですが、皆さんはいかがでしょうか。

では本家本元のインドではどうなのか、昔インドのコルカタの僧院にいる頃、お呼ばれをして法事に参加する機会が何度もありました。一人二人のお坊さんを家に招いてする小さな法事は、ニマントランと言って、招待という意味ですが、昔亡くなった先祖の命日などに行うのですが、十一時半頃家に到着したら、まず、その家の奥さんなどが出てこられて、丁寧に礼拝されて、簡単な挨拶をしていると、その場にお膳が運ばれてきます。インドのことですから、もちろんカレーなのですが、大きなステンレスのプレートの中にご飯やチャパティというパンと小さな皿に入ったカレーが二三種類、サブジという野菜のカレー、マッチュリーという魚のカレー、マーンスというチキンや山羊の肉のカレーなど、それにチャツネという少し酸っぱい漬け物などが盛りつけられていました。

その家庭で食べられているスパイスで作られているので、そんなに辛いこともなく、ですが、とても滋養たっぷりの薬膳とも言えるようなご馳走が振る舞われました。インドや南方のお坊さんたちは、戒律で正午以降固形物を口にしてはいけないので、正に2食分くらい沢山の量を食べて、食べたら二時間くらい横になって午睡を取る習慣があります。ですから、その時も、信者さんの家で、しばらく横になったりして休み、それから簡単にカラニーヤメッタスッタなど慈悲のお経を唱え帰ってくるのです。

一方、お葬式のあと七日目や、半年後、又一年後には盛大な法事を行います。こちらはサンガダーンと言って、僧団への施与という意味で、五人以上のお坊さんを招き食事を供養する儀式です。お寺に親族が来てする場合もあり、家にぞろぞろと、五人のお坊さんがバスに揺られたり電車に乗って駆けつけるということもありました。お寺でするようなときは、朝の6時頃からガタゴト外がやかましくなり、テントが張られ中ではスパイスを刻むことから始まり、その場で一からカレー料理が作られていきました。

十一時頃には本堂のひな壇にお坊さんたち一同が一列に座らされ、下に信者親族が座ると、施主から、その日の法事の始まりを告げる懇請文が唱えられます。「オーカーサ、バンダーミバンテー、ティサラネーナサハッ、パンチャシーランダンマンヤーチャーミ、アヌッガハンカットバー、エーバンデータメーバンテー」と三遍唱えて、尊者様を礼拝し申し上げます、どうか私たちに三帰五戒をお授け下さいとお願いすると、長老のお坊さんが、「ヤマハンバダーミタンバデータ」と、ではお授けいたしましょうと応じ、「ナモータッサーヴァガバトーアラハトーサンマーサンブッダッサー」と礼拝文が唱えられ、信者さんたちも唱和し、続いて、「ブッダンサラナンガッチャーミ・ダンマンサラナンガッチャーミ・サンガンサラナンガッチャーミ」と、三帰依文が唱えられ、それに唱和し、「パーナーティパーターベーラマニーシッカーパダンサマーディヤーミ・・・・」と五戒が唱えられお授けされると、信者も唱和して五戒を受けるのです。

それから、お坊さんたちみなで、やはりカラニーヤメッタスッタなどパリッタというお経が唱えられると長老のお坊さんから法話があり、最後にあらかじめ用意されていた大きなお盆の中にコップにつがれた水を施主ら三四人で、少しずつお盆に返されつつ、お坊さんから、功徳随喜の偈文が唱えられていきます。この功徳が、水がお盆に満たされていく如くに、生きとし生けるものたちに満たされ、亡き故人にもその功徳が行き渡りますようにと祈念されるのです。

その後、その場が食事会場となり、机が運ばれ、一人一人のお坊さんの前に大きなプレートが置かれ、そこにバケツに入れられたご飯がよそわれ続いてカレーや他の惣菜などがつがれていきました。食べても食べてもすぐにご飯やカレーがよそわれるので、途中でバスバスと、もう十分ですと言わないといつまでもおかわりが来てしまうのでした。

このようにインドの法事は、在家信者が三帰五戒を授かり、仏道に新たに精進することを決意し、お坊さんたちにさらに健康に修行に励んでもらうべく、たらふく食事を供養してその功徳を一切衆生に、そして故人にもその功徳が至り来世でよりよくあるようにと願われるものです。

ところで、今、実は西洋で、日本の法事という仕組みが真似されていると言ったら驚かれるでしょうか。今から二十年ばかり前、デニス・クラスというアメリカ人の宗教心理学者が日本に来て、日本の家庭に入り込み、仏壇や法事を研究し、それを論文で発表するや、アメリカやヨーロッパのキリスト教徒たちが日本の法事に併せてみんなで集いパーティをするようになったというのです。

十九世紀の心理学者フロイトは、いつまでも亡くなった人を思い悲しむのは病気であると教えました。しかし人はそんなに強い存在ではない、無理に無かったことには出来ない。そこで多くの人たちが病む社会となります。そこで、亡くなった人に近しい人たちが日本の法事の時期に合わせて集い、共にその喪失感を共有することで心癒やすようになったということです。カール・ベッカーという京都大学のこころの未来研究センター教授が報告されていました。

同様に仏壇も、ご先祖様にいろいろ報告したり、悩みを打ち明けてみたり、勇気をもらったりする場として、日本人にとってそれは、豊かな心を養う貴重な装置であるとも言われています。

法事や仏壇というと、どうでしょう。今では、やっかいなもの、慣習としてしなくてはいけないとか、しきたりのようなものとして、ネガティブに捉えられがちではないでしょうか。しかし、アメリカの先生が言われるように、その本来の意味はとても大切な実用的なものであったとも言えないでしょうか。

法事は、故人が私たちに残してくれた、置き手紙ではないかと思えます。日頃仏教に縁の無かった親族たちにも、仏道に精進させ、善行功徳ある行いをさせることで、功徳を積ませ、自分亡き後も、残していくものたちにしっかりと健やかに過ごしてもらう。そのことによって、家族、親族が結束して、執り行うことの大切さを知らせ、縁ある者たちが力を合わせて助け合い、皆が心通わせていく、それによって、一人一人も自然と心癒やされていく機会となるものとして、仏事、法事はあったのではないかと思うのです。それは正に日本人の代々受け継いできた大事な営みであり、そうして縁ある者たちを守ってきたのであり、日本人の叡智であるとも言えるのではないかと思えるのです。

この数年来、仏壇を整理する、墓じまいといった言葉をよく耳にするようにもなりました。たとえば仏壇をお寺に預ける、先祖代々の墓をほかしてしまうなどといった現代の風潮は、ここに見てきたような日本人が長年大切にしてきた仏壇や仏事の意味を顧みずに、安易に時代の風潮として行われているのではないかとも思えます。もちろんそれぞれに事情があることでしょうが、若い人たちに負担になる、迷惑を掛けたくないというような、まるでネガティブなものとしてしか捉えられていないと感じます。そうではなくて、それは先人の智慧の結晶として継承してきたものであり、心理学的にも大事なものであるという観点から再認識をしていただき、ますます仏事に仏道にご精進願いたいと思うのであります。


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四国遍路行記37

讃岐國分寺の多宝塔造りの大師堂をお詣りし、奈良時代に鋳造されたという梵鐘が吊されている鐘楼を拝見する。国の重要文化財。今では、広大なかつての寺域が国の特別史跡に指定されており、近年の発掘により珍しく僧坊跡が確認され一部復元されている。資料館に復元模型が展示されているという。

國分寺を後にして、住宅街を通ってしばらくして案内板の矢印に従って山道に入る。山道はやはり楽しい。登りで体はきつくとも、生き物と共にあることを肌で感じるからか。国道の側道を歩いていると体が衰弱してくることが分かる。一時間ほどで休憩所があり、しばし休んでまた歩き出す。急坂が続く、いわゆる遍路転がしと言われる難所である。途中地蔵菩薩の祀られた広場から左に白峰寺右に根香寺という道しるべがあった。そこから左に歩いて半時間ほどで第八十一番白峰寺にたどり着いた。三段に掛け下ろしの瓦屋根の山門をくぐる。

白峰寺は弘法大師が弘仁二年(八一五)に山中に如意宝珠を埋めて井戸を掘り衆生済度を祈願したのが始まりという。その後天台宗の智証大師が白峰大権現の神託をえて瀬戸内海の流木で千手観音を刻んで本尊とした。その後、天皇寺に流罪で逗留していた崇徳上皇が荼毘に付されたのがこの地であり、寺の裏山に葬られ白峰御陵として祀られている。たまたまお遍路さんの姿が見えなかったからかもしれないが、ひどくひっそりとして天気は晴れやかなのに暗い境内を歩き、長い石段の先に建つ本堂に、そして大師堂に参った。夕刻が迫っていたこともあり、早々においとまして、次なる根香寺に向かった。

実は、白峰寺から根香寺までの遍路道は、歴史的な面影を色濃く残しているとされ平成二十五年に国指定の史跡となっている。道が史跡になるというのは珍しいことなのではあるまいか。百メートルごとに立つ丁石、中務茂兵衛の道標や閼伽井があり、記憶に強く残る遍路道の一つである。木々に囲まれた自然のトンネルのような遍路道を心地よく二時間ほど歩いて根香寺山門にたどり着いた。 

仁王門前には、山号ともなっている青峰山にいたと伝承される大きな牛鬼像が祀られていた。仁王門を入ると下りの石段があり、しばらく行くと登りの石段が続く。その右手には修験道の開祖である、大きな役行者像、左手には水掛地蔵尊が祀られていた。

第八十二番根香寺は、入唐前に弘法大師が五大明王を祀り、草庵を結んだところといわれている。後に智証大師が巡錫して、香木で千手観音を刻み本尊とした。その時香木の根まで香り高かったためそれが寺号になったと言い伝えられている。鎌倉時代には九十九院を誇る大寺となり後白河法皇の勅願所だった時代もあるとか。しかし兵火にかかり一時衰退し、寛文四年(一六六四)に高松城主松平頼重によって再興され、その時天台宗に転じている。

このとき既に暗くなりかかっていた。その日は夕食を手当もせず、買い物出来る場所もない。仕方なく、大師堂の脇に置かれた縁台にそのまま寝袋を広げた。夜中にオートバイのエンジン音をふかす音で目覚めると、数人の若者たちが大きな声で話しながら近くまでやってきた。慣れたものなのだろう、人が寝ていても知らん顔で去って行ってくれた。翌朝は六時前に起き出して洗面を済ませ、そこからさらに石段を登り、回廊を巡って本堂前に出て理趣経一巻。大師堂、それに、弘法大師ゆかりの五大尊堂にお詣りした。

五大尊とは、本山大覚寺の本尊でもあるが、不動明王(中央)はじめ、降三世明王(東方)、軍荼利明王(南方)、大威徳明王(西方)、金剛夜叉明王ないし烏枢沙摩明王(北方)の五尊のこと。明王の明とは、智慧の光明を生ぜしめる真言・陀羅尼のことで、それは最も重要なものとして王と尊んで、その真言を宣布する尊格を各々○○明王と呼ぶ。えてして悟り難き衆生を調伏するために忿怒の形相をして威圧する姿をとる。

 

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