住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く時折々の思いを語る

後藤恵照大和尚 追悼

2016年11月26日 16時57分13秒 | 仏教小話
 
 インドのブッダ初転法輪のサールナートで、日本人僧後藤恵照大和尚が亡くなった。日本人僧というより、インド国籍を取得されてもいるから、日本を母国とするインド僧プラッギャラシュミ長老というべきであろう。「世界を変える100人の日本人(2010年7月)」「SUGOI日本人3(2008年9月)」などテレビ東京系の番組でも紹介されているから、ご存知の方も多いのかもしれない。
 在印38年、初心貫徹された後藤恵照師の最期を、現地メディア『24タイムズ・トゥデイ(ヒンディニュースポータル)』は11月25日付けで次のように報じた。
「法輪精舎創立者プラッギャラシュミ師、五大と化す バーラーナシーより配信/仏教寺院法輪精舎の設立者で、尊敬すべきプラッギャラシュミ(後藤恵照)尊者の葬儀が木曜日に仏式にて行われた。
 まず、サールナートの寺院内で比丘たちによって偈文が読誦される中、厳粛に葬儀が執り行われた。その後直ちに、法輪精舎から、遺体は車に乗せられ、サールナートの街をくまなく巡回された。多くの人々が駆け寄り、プラッギャラシュミ尊者の身体の上にたくさんの供物を御供えした。午後二時半、サラーヤモーハナーのタターガトガートで彼の遺体は火葬された。
 プラッギャラシュミ尊者は水曜日(11月23日)午前3時頃寺院内で遷化された。行年八十四歳。数年前から病を患っており、この訃報によりサールナートの信徒たち、地元の人々が悲しみの涙に暮れ、寺院内は最期の対面のために駆けつけてきた人で溢れかえった。
 その場には、中央チベット研究大学総長ナヴァングサムテン教授、マハーボーディソサエティ・インド総領P・シーワリー長老、ミャンマー寺名誉住職ユーバンナドゥワジ長老、ジャンブディパ・スリランカ仏寺住職シリースメーダ長老、クシナガラ・スリランカ仏教精舎住職ナンダラトナ尊者、シグラー・ミャンマー仏教精舎住職ソーバナー尊者、宗教教育協会、サールナートのチャンディマー尊者、ラメーシュ・チャンドラ・ネーギー教授、ラメーシュ・プラサード教授、ギャーナローカ尊者、ジーヴァンジョーティ盲人学校設立者シスター・アーイリーン師、スジータ・モウリア氏、サカラナーラーヤン・クスワハ氏、等々の人々が参列。遺体が市内を巡る間、大群衆がその後に従った。
 火葬は、法輪精舎法嗣ダルマプリヤ比丘と学校法人理事長サンジャイ・クマール氏によって執り行われた。火葬には、アジャイ・クマール・モウリア氏、ラジェンドラ・クマール氏、アニル・モウリア氏、サンジャイ・シュリワースタワ氏等とともに、法輪精舎インターカレッジの全教員が出席した。
 (略歴)プラッギャラシュミ比丘は1932年1月1日日本(茨城県土浦市)にて出生。幼少より仏教に深い信仰あり、後に45歳の時日本を出立してブッダ初転法輪の地に来たりて、仏教の宣布を始めた。1979年には法輪精舎仏教寺院をサールナートのチベット大学隣のマワイヤ地区に建立し仏教の布教に尽力した。
 そして自らのたゆまぬ努力によって法輪精舎国際仏教教育研究所並びにパーリ単科大学、法輪精舎インターカレッジ、法輪精舎小中等学校、法輪精舎女性職業訓練校、法輪精舎日曜学校を創立。今日ではこれら併せて5000人もの生徒たちがが熱心に勉学に励んでいる。
 さらに、ベナレスヒンドゥー大学日本語ディプロマコースの運営を支援し、初期の教員には献身的な援助をなした。そればかりか、サンプールナナンド・サンスクリット大学においても多くの生徒に長年に亘り日本語教官として教育を施した。そして、自らの寺院内でも1979年から2011年まで、日本語、中国語(漢文)、パーリ語など古典言語について、多くの学生たちを教育し指導した。」
 後藤恵照師は、小さいときに両親と死別し、畑仕事に明け暮れつつも勉学に励み旧制中学を卒業。その後全国三大花火大会の一つとして名高い土浦全国花火大会を時の住職が私費を投じて開催したという曹洞宗神龍寺(じんりゆうじ)に入寺。二年後には鶴見の大本山総持寺に安居している。その頃のエビソードとして、人が座禅しているときは昼寝して、人が寝ているときに1人座禅をしたとお聞きした。腹が減るので台所に行くと先輩僧たちもなぜか自分には怒らずに何かを食べさせてくれたとも。そして駒澤大学に学び、原始経典語であるパーリ語と出会う。
 卒業後は時宗の大本山遊行寺塔頭小栗堂住職夫妻の養子となり後藤姓に改名。時宗の本山内にもかかわらず座禅会を開いては若い駒沢の学生たちと朝まで学問論議に花を咲かせた。この間小栗堂仏教研究会として仏教系大学生を対象に、門司の世界平和パゴダのミャンマー僧をはじめとする講師を招いてパーリ語の学習会を開き、『アビダンマッタサンガハ』という貴重な仏教の哲学教義概説を訳出するにあたっては、これに協賛し訳注されたお二人に小栗堂において一年もの間食住を提供した。
 そして養父母を看取り、インドへ旅立つ。1977年2月15日コルカタのベンガル仏教会に掛錫し、将来の永住を念頭に、まずはヒンディー語を学ぶ学生としてビザを取ることとなり、シャンティニケタンのタゴール大学の仮入学許可書を取得して帰国。本格的に渡印準備に入り、たくさんあった蔵書類を方々に処分。残った蔵書を11箱に梱包してタゴール大学日本学科に空輸寄贈されたというが、それらは仏教を中心とした古代文学現代教養文化および当時入手困難な珍本ばかりで、日本学科図書室に千金の重みを添えたという。
 翌年再度渡印の折、実弟たちと送別の宴が催された。そのとき義妹に、なぜインドに行くのかと問われると、石を池に放って一言、「あれだよ」と言ったという。因縁だよと言いたかったのか、成り行きだということだったのか、今では知るよしもない。そしてシャンティニケタンのタゴール大学でヒンディ語を学ぶ間に、ベンガル仏教会にて再出家して上座仏教比丘となりプラッギャラシュミと名乗る。
 一年学んでベンガル語圏からベナレスのサンスクリット大学に居を移し、パーリ語を学びつつ、サールナートの遺蹟地区からは二キロほど離れたマワイヤに300坪の土地を購入。煉瓦を重ねコンクリートを上塗りしただけの建物を作り、一尺ほどの真鍮製の釈迦像を祀って、ベンガル仏教会サールナート支部法輪精舎を設立した。郷里の実兄から送金をたよりにゲストハウスを作り、日本人旅行者の便宜をはかった。朝は7時から毎日日本語ガイド向けの日本語教室を開き、終わるとサールナートの遺蹟に出向いて旅行者に寄付を募った。夕方からは自転車で10キロも離れたサンスクリット大学に出かけて日本語を教え、日曜日には地元の小さな子供たちに英語を教えパンとビスケットを施食した。
 私が初めてお会いしたのは、もうかれこれ26年前、そんな生活からいよいよ新たに無料中学校を設立しようとされている頃だった。法輪精舎にお訪ねし、インドで今も仏教が生き続けていることを知らされた。一緒に歩いてサールナートに向かうと、方々から小さな子供たちが駆け寄り、「グルジーマナステー」と後藤師の足に触れてから胸の前で合掌する。そんな子供たちの頭をこつこつと打って抱き寄せては耳を嚙んだりする。みんなニコニコとうれしそうに。そんな様子を見るに付け、まさに今良寛ともいえるお坊様がこの時代におられたのかと思わず涙が溢れ、この方とともにあってお役に立ちたいと思い、インド比丘となって法輪精舎に住み込むことを即決した。
 実際にはその翌年から一年、ともに暑いときにはパイプベッドを外に出し蚊帳をつって寝た。寒いときには朝水を張ったバケツを屋上に置き、昼食後水浴びをした。地元のミャンマー寺の住職に頼み沙弥式をして、ともにコルカタに出向き、後藤師の寄附した日野のバスに乗りフーグリー河岸まで行き船内で具足戒式を受けた。信徒の家に招待を受け食事を供養されたり、結婚式に招かれた時も一緒に参加させてもらった。
 法輪精舎では無料中学校の教室が急ピッチで造られ、生徒の制服や学用品まで提供して開校した。その後、手狭となり近隣に約600坪の土地を買い足して新たに校舎を建設し、それからは瞬く間に高校、仏教大学設立へと突き進まれた。現在校舎は1階と2階に職員室と事務室をいれて16部屋、3階は理科室と実験室そして図書館とトイレがある。中学校、高校は州政府の認可が下り、州全体でも大変優秀な学校として認められるまでになっている。
 今日世界的に多くのボランティア、慈善活動が盛んだが、この後藤師だけは寄付金を私のものとせず、自らはまったく贅沢もせず、もちろん飲酒妻帯せず、それまでと同様古びた衣を纏い、中古の壊れかかった自転車に跨がり、粗末な食材を用いて自ら調理して質素な生活のまま、そのすべてを貧しい子供たちの教育のために捧げられた。だからこそ地元のモウリア族の子供たちが中心となり後藤師を支え、今では彼らが学校の要職に就き、運営全般を担っている。小さいときに父親を失ったサンジャイ・クマール氏が学校法人の理事長を勤めているが、彼は私が居た頃から後藤師を父のように慕い、後藤師のために毎日昼食を届けてくれていた子である。
 インド国籍取得後2005年に23年ぶりに先祖の墓参りのため来日。2008年には曹洞宗正法伝光会から「社会教化賞」を受賞し受賞式に招かれて来日。その際には広島県福山市にまで足を伸ばして下さり、親しく備後國分寺に滞在、檀信徒向けに講演までして下さった。また2012年にはサンジャイ理事長を伴い来日して高野山、総持寺に参詣された。
 後藤師創立の法輪精舎インターカレッジに学んだサントーシュ・クマール氏は「グルジー後藤先生は2016年11月23日に遷化。師はその人生のすべてをベナレスのすべての人々に仏教と教育を広めるために捧げられました。師は偉大なる教師でありました。私が今日あるのはすべて師から受けた恵みのお蔭であります。師は以前から体調が良くありませんでした。最後お会いしたのは今年の8月のこととでありましたが、その時体調が良かったのか師の笑ったお顔に触れ、それだけで私をとても幸せな気持ちにさせてくれました。ここに御霊の安からんことを祈ります」と11月24日フェイスブックに追悼文を寄せた。
 このように後藤師は、たくさんの方々に寄付を募り功徳を積ませたが、それを基にインドの多くの子供たちに学ぶことの大切さ楽しさを授けることに成功した。サールナートという仏教発祥の地ともいえる初転法輪の聖地近くに、宗教を問わず貧富にかかわらず誰もが学べる立派な学校を布施した後藤師は一人の仏教徒として正に最高の功徳主であると言えよう。筆者も生前にご高誼を賜り、そのお蔭で私の今があります。深く感謝し追悼といたします。合掌


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「アナガリカ・ダルマパーラ著シャキャムニ・ゴータマブッダの生涯」に学ぶ②

2016年11月07日 12時26分42秒 | 仏教小話

 前回に続き早速ダルマパーラ師のブッダ伝の翻訳を読んで参りましょう。

「波羅蜜を完成させることは、ねはんに到達するために不可欠なものでした。ねはんに至るには、阿羅漢、独覚、正等覚者の三つの道があります。それは(バラモン教の)ブラフマー神や神々の天界に至る道とは異なるものです。阿羅漢として、ねはんに到達するためには一阿僧祇劫(あそうぎこう)の間、十波羅蜜を修する必要があります。独覚として、ねはんに到達するためには、二阿僧祇劫の間十波羅蜜を修する必要があります。」

 ねはんに至るには三つの道があるとあります。阿羅漢とはお釈迦様の多くの弟子たちが到達した最高の悟りに到達した人のことで、教えを受けて何度か無常の真理を体験してすべての欲や怒り、無知を断った聖者のことです。独覚とは、師なくして飛花落葉など自然界を観察して悟った人のこと。そして、正等覚者とは、お釈迦様のように師から教えられずとも自らお悟りになり他を教え悟らしめることのできる聖者のことです。

「正等覚者として、ねはんに到達するためには、精勤・信仰・智慧という三つの方法があり、精勤の道を修する菩薩をヴィリヤーディカ(精進に優れたる者)、信仰の道を修する菩薩をサッダーディカ(信に優れたる者)、智慧の道を修する菩薩をパンニャーディカ(智慧に優れたる者)と呼びます。パンニャーディカ菩薩は波羅蜜を成就するのに十六阿僧祇劫を要し、サッダーディカ菩薩は波羅蜜を成就するのに八阿僧祇劫を要します。ヴィリヤディカ菩薩は波羅蜜を成就するのに四阿僧祇と十万劫を要するのです。」
 
 智慧、信仰、精勤の順により長く波羅蜜を修して功徳を積む必要があるということですが、逆に言えば、精勤、つまり精進努力することの功徳が大きいということでもあります。
 一人自分のために座禅瞑想するよりも、また自らの信仰のために様々な神聖なるものに供養し祈るよりも、それよりも多くの人たち生き物たちによくあらんと慈しみの心をもって善行に励むことの方がより厚い功徳になるということでしょう。
 もちろん、その基礎として信も必要ですし、座禅瞑想も必要であることは言うまでもありません。

「私たちのブッダは、ヴィリヤーディカ菩薩でした。菩薩ははじめ、ディーパンカラブッダから授記を受け、そしてそのあとも、コンダンニャ、(タンハカーラ)、(メーダンカラ)、マンガラ、スマナ、レーワタ、ソービタ、アノマダッシ、パドゥマ、ナーラダ、パドゥマッタラ、スメーダ、スジャータ、ピィヤダッシ、アッタダッシ、ダンマダッシ、シッダッタ、ティッサ、プッサ、ヴィパッシ、シッキ、ヴェッサブー、カクサンダ、コーナーガマナ、カッサパ、という名のブッダたちからイニシエーション(霊的な教え)を授かりました。

 お釈迦様は、精勤の道を歩む菩薩として、悪しきことを断ち善きことに精進して、十波羅蜜を成し遂げられていくのです。
 ここにたくさんの見慣れないブッダの名前が並んでいますが、これらは過去七仏、過去二十五仏と申しまして、私たちの世に現れたお釈迦様の前にたくさんのブッダがおられたと考えられています。最後にお釈迦様を加えての数となり、十九番目のヴィパッシ仏から以降が七仏となります。

「そうして完璧に波羅蜜を成し遂げることは菩薩にとって必然のことでありました。

菩薩は、布施波羅蜜については、貧しい者に対する施しにおいて自分に勝る者なく、施しについての完成に到達しました。

持戒波羅蜜については、たとえ鋭い杭で突かれ、ナイフでずたずたに切り刻まれようと怒らないばかりか道徳的教えを守り通しました。

出離波羅蜜については、たとえ王国が自らの手に落ち、唾ほども下劣なる行いなく陥落せしめたとしても、そこに少しの欲はなく、この世の楽しみを放棄しました。

智慧波羅蜜については、智慧をもって事象を精査して神々の苦しみからも解放され、智慧において私に等しき者はなく、完璧なる智慧に到達しました。

精進波羅蜜については、陸の見えないところへと遠く離れゆくとき船員は死の恐怖に包まれるけれども、私の心は平穏にして勇気あり、精進することについて完成に到達しました。

忍辱波羅蜜については、意識を失い倒れている間に鋭い斧で激しく突き刺されようとも決して激怒することもなく、私は忍耐という点において完璧となりました。

真諦波羅蜜については、たとえ百人の兵士を自由に扱えたとしても自分のなした約束を守り自らの命を生け贄に捧げ、真実を貫くことにおいて完成しました。

決意波羅蜜については、たとえ両親をひどく憎むようなことがあったとしても、ひどく嫌う名誉なことがあったとしても、全知者への道を大事にするという堅い決意は揺るぐことはありません。

慈心波羅蜜については、何をも誰をも怖れることなく、たとえ寂しい森に住んでいたとしてもすべての生きとし生けるものに慈愛の心をもって信頼と愛を捧げました。

捨波羅蜜については、周りの人々からあざけり笑われても称賛されても、それによって傷ついたり喜んだりすることもなく、常に公平なる平静な心でいられました。」

 この十波羅蜜については前回も解説がありましたが、もう一度それぞれの本質を一言で簡潔に述べてみますと。
 布施波羅蜜は、自己中心にならず他を助ける。持戒波羅蜜は、世の中の道徳を守る。出離波羅蜜は、俗世間の欲に執着せずより高い理想に生きる。智慧波羅蜜は、様々なことから真実を発見する。精進波羅蜜は、目的に達するまで悪をなさず善をなす。忍辱波羅蜜は、あきらめない性格を養う。真諦波羅蜜は、決して嘘をつかない。決意波羅蜜は、目的に到達する強い気持ちを持つ。慈心波羅蜜は、生きとし生けるものが幸せであるようにと強く思う。捨波羅蜜とは、何があっても平静な心でいること。これらは私たちが生きていく上で肝要なことでもあります。
 こうしてお釈迦様は十波羅蜜を完成し、多くの功徳を積むことでブッダになるべく準備を調えられたのです。

「ヴァイシャ(農工商庶民)の子として(ブッダとなる前の人としての生涯の)最後の生誕をなし、二人の子供をブラフマン神に捧げ、インドラ神に妻マドリを捧げたとき、彼は慈愛の完成を遂げるに至りました。そして死後、彼は都率天(とそつてん)に生まれました。こうして遂にブッダになるべく地上に生まれるときが来たのです。神々は未来のブッダに近づき、世界を救うべくインドに生まれることを懇請し、その時菩薩は時と大陸と国、それに母と家族という五つの偉大なるシグナルを感得しました。彼は相応しい時を見いだし、大陸は閻浮堤(えんぶだい)(仏教で考える世界観で須弥山(しゆみせん)という世界最高の山の南に位置する人間世界のこと)であり、国はインド中部の国であり、家族は太陽王イーシュヴァル(シバ神の異名)から降下したとされる釈迦族、そして母は行いに一点の汚れもない王妃マハーマーヤ夫人でありました。」

 人として農工商階級であるヴァイシャとして生まれ、家族をも神々に差し出して、死後、都率天に昇り、そしていよいよ最後の生誕となるべく、インド中部の釈迦族に生まれることとなります。
 都率天は、欲界六天の第四で、この天の寿命は四千年で、一日は人間界の四百年にあたります。弥勒菩薩が説法しているところとも言われ、仏となる菩薩の住処とされています。

「マハーマーヤ妃の一点の汚れもない子宮に子を宿すために都率天から未来のブッダが堕ちてきたとき、一万世界が歓喜しました。そして十ヶ月の後、時いたり、王妃はお産のために、実家であるデーヴァダーハ国に向け、多くの侍者たちとともに列をなして歩みを進めていきました。そして花薫るルンビニ園にいたると、王妃は庭園にお寄りになられることを望まれ、供の者たちとともに庭園に入り、日陰になる林へと進まれました。すると、にわかに陣痛が起こり、沙羅の木の下で未来のブッダがお生まれになりました。」

 人間界に誕生するのであれば、命宿った母親の胎内に、この場合でしたら天界から堕ちてきた心が入り、人として生まれ出ると考えます。お産のために実家に帰る風習は遠い昔インドでも行われていたようです。

「その時心に一点の翳(かげ)りのない五浄居(ごじようこ)天の四人の神がきたりて母よりも前に未来のブッダを受け取り、そして、「ああ王妃よ、そなたに力強き男の子がお生まれになった、歓喜せよ。」とお告げになりました。四人の守護天使たちは子を人々に手渡し、とそのとき、(前に七歩歩くと足の下には蓮華の花が咲き、)『私はこの世界の中で最年長の首長である(私に等しき優秀なものはない、これは私の最後の誕生であり、再生はない)』と言葉を発しました。」

 五浄居天の神とは、余り聞かない名前ですが、第四禅天の無漏聖者(むろせいじや)と辞書にあります。第四禅の境地を得た人が死後逝く天界に至り、新たに煩悩を生じることなくそのまま涅槃に入られる神々です。
 ここは、有名な誕生仏が七歩歩行して言葉を発する場面です。七歩は、六道から解脱することを意味し、この世界で、ただ一人解脱して再生することがない、最後の人生を生きる者なので最年長者と言っているのです。

「その同じ時に、将来かの妻となる、ラーフラの母として知られるヤショーダラー王女が生まれ、馬のカンタカ、宮廷使用人カルダーイー、二輪戦車の馬使いのチャンナ、ブッダガヤの菩提樹が生まれました。一万世界の神々が、未来のブッダが生誕した日を祝福いたしました。(この生誕時の詳細は、C・H・ウォーレンが翻訳したジャータカを参照した)」

 多くの神々が祝福せるその日に、お釈迦様の人生の中でとても深い因縁を持つ人や馬も、また菩提樹と後に言われるようになるアッサッタ樹までもこの日に生を受けたということです。
 出家の時、お城から馬に乗るその馬がカンタカであり、その時の御者がチャンナでした。
 カルダーイーは、スッドーダナ王の家来であり友人だった人です。お釈迦様出家後、父王はたくさんの使者を派遣して帰城することを勧めるのですが、ことごとくみな、お釈迦様の説法で入信出家してしまうのです。ですが、カルダーイーだけは出家後もカピラヴァッツに帰ることを進言して、お釈迦様が父王にまみえることに成功するのです。

 次回は、いよいよ出家され修行に入ってまいります。

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水野勝種侯菩提所参拝之記

2016年10月20日 18時06分38秒 | 世間話
 延宝元年(一六七三)五月十四日、この地をおそった集中豪雨によって大原池は決壊し、堂々川が氾濫して壊滅的な被害をもたらしました。川下の民家田畑も流されて、六三名もの犠牲者を出したことはよく知られています。このとき國分寺は草堂一宇を残し、すべての堂塔を失いました。そして五年後、延宝六年(一六七八)に芦田福性院の住僧で、容貌魁偉志気宏放と称された快範上人が國分寺に晋山し再建に乗り出します。

 快範上人は、創建時からの境内地の真北に位置する現在地こそ霊壌であるとして、山をうがち谷をふさいで、復興に着手。そして、現本堂は備後福山藩の第四代藩主・水野宗家四代水野勝種侯が大檀那となり、神辺網付山から用材を切り出し、さらに金穀役夫を給付下さり、元禄七年(一六九四)に再建されました。

 この時國分寺本堂再建監督奉行であった代官桜井忠左衛門の書付が國分寺に伝えられています。元禄七年三月七日付で「國分寺本堂同寺作事諸入用目録」とあり、公儀より米四十六石が寄進され、内三十石は本堂寺諸入用として、また十六石は同造営扶持方と明記されています。これは藩から四十六石もの米を頂戴し、三分の二は建築の諸費用に、三分の一は造営に掛かる扶持給付として寄進があったということでしょう。他に郡中の代官十七名が集銭した各々三百五十七匁から一百六十二匁の銀、併せて三貫七百七十六匁五分七厘が寄進されたとあります。

 当時、金一両で一石の米が買えたといいます。一石は二・五俵ですから、三〇㎏米袋五袋ということになります。三〇㎏のお米の小売価格は現在八〇〇〇円から一三,〇〇〇円として、金一両は四万円から六万五千円となります。ですが、文献などを参照しますと、時代に応じて価値に相違があるようで、一般に米価を基準に計算した金一両の価値は江戸初期で十万円、中~後期で三~五万円、幕末頃には三~四千円になるそうです。また賃金換算すると、一両が三十万円から四十万円にもなり、そば代金の換算では一両が十二~十三万円ともいわれます。

 仮に分かりやすく金一両十万円とすると、一両は銀六十匁ですから、銀一匁が一,六六〇円ほどになります。郡中からの寄進三貫七百七十六匁は、およそ六二七万円。一石は一両として、公儀の四十六石が四六〇万円とすれば、併せて一,〇八七万円という計算になります。用材を除いての本堂造営費としての金額と考えられますが、当時の実質としてはこの数倍もの価値があったものと想像されます。そして、これと別に公儀から仰せつけられし人夫が千五百二十二人とあります。

 これに先立ち元禄五年には本堂内諸仏の造像が完了し、大小の仏像等について施主の名前ともども像容が記された「本尊並諸尊像造立目録」が残されています。

 そうして郡中数多の人々の寄進により、また多くの人たちの労働によって再建されたことに改めて思いをいたすとき、突如として、それら郡中の人々に呼びかけ再建を実現して下さった勝種侯に感謝の念が沸々とわき上がり、十月四日、そして、十月七日二度に亘り墓所に参詣しました。これまでにも賢忠寺境内飛び地の水野家墓所前を車で何度も通りかかりながら参拝する機会もなく過ごしておりました。当日は賢忠寺山門前の駐車場に車を止め、新幹線高架下を通り車道を渡って水野家墓所の門を入りました。

 正面に初代勝成侯の五輪塔があります。その右手に同じく南向きに、玉垣に囲まれた五メートルはあろうかと思われる大きな五輪塔があり、それこそが勝種候の菩提所でした。五輪には梵字ではなく、下から地・水・火・風・空と梵字の意味するところを漢字一字で刻まれていました。玉垣の門、五輪塔の下部、香炉、花立てにも水野家の家紋や蓮などが刻まれ意匠を凝らした作りとなっており、後世にまで大切に祀られてきていることが分かりました。

 水野家二代勝俊侯の墓所のみ日蓮宗妙政寺にあり、三代勝貞侯の五輪塔は、勝成侯の墓所の左に西に向けて祀られていました。玉垣は取り払われ五輪塔のみがやはり地水火風空と刻まれて立っています。因みに、勝成侯の五輪には、上から祖・師・西・来・意とあります。これは、無門関第三十七則にある禅の代表的公案(達磨大師が西にあたる中国にまでお越しになったその真意はと問う意味となります)です。この他勝成侯の父君、ご子息方の他勝種侯の長男数馬殿の五輪塔も祀られており、それらすべてにお線香を供え、勝種侯の墓前でしばし理趣経を読誦させていただきました。

 時折通る新幹線の騒音にかき消されつつ、感謝の心を込めてお唱えしお参りをさせていただきました。新幹線高架下で北側はマンションに囲まれた土地ではありますが、木々に守られ敷地に入ると誠に心穏やかに落ち着つく空間となっています。いつまでも留まっていたいような気持ちになりましたが、「また参ります」と申して墓所を後にいたしました。

 調べてみましたら、勝種侯は、國分寺ばかりでなく、阿伏兎観音で知られる磐台寺の観音堂と境内の造営をはじめとして、同じ鞆の医王寺本堂建立、白石島開龍寺奥の院石燈籠寄進、福山八幡宮移転修復、艮神社諸社殿造営修復、笠岡菅原神社創建など神社仏閣の普請事業を数多く手がけられたお殿様でありました。

 勝種侯は、父勝貞侯がお隠れになり寛文三年(一六六三)わずか三歳で福山藩主をお継ぎになられました。元禄十年三十七歳で逝去されるまで三十三年間もの長きにわたり藩主の地位にありましたが、若くしてこの世を去られたのは誠に残念なことでした。

 亡くなられる三年前に國分寺を再建して下さった大檀那勝種侯、そのご生涯について『広島県史』を参考に述べてみたいと思います。

 『広島県史近世資料編Ⅰ』水野記[勝慶之譜」には、寛文元年(一六六一)五月九日に福山でご誕生になり、はじめ勝慶といわれ後に勝種と改めたとあります。幼くしてよく馬を馳せ、人となり慈孝の行を顕す、庶民を愛して刑罰をゆるやかにし、孤児をまもり世嗣(よつぎ)とし、藩の倉を開いて貧窮なる者たちに施し、故に減給なく国中に餓死無し、人々は勝種侯の徳をたたえ楽しく歌ったとあります。

 同水野記のその後の記述より少々詳しく勝種侯の足跡を見ていきますと、寛文二年十月二九日父勝貞侯が江戸で他界、ときに三八歳。この年は勝貞侯の継母が一月に、三月には弟小八郎、五月に正室が亡くなり自身も亡くなるという、水野家にとって陰々滅々たる年でありました。

 そして、十二月に将軍家の命により、幼き勝侯候は備陽を発して関東に赴き、同三年一月五日江戸に到着。二月三日には本領安堵の上意が下り、四月には、藩主幼少であるとのことから将軍家の使い旗本二名が福山藩に監司として派遣されています。

 寛文七年四月乗馬を始め、高祖父勝成侯が大阪の戦乱にて用いた鞍に乗ったと記録されています。

 寛文八年、九月将軍家に拝謁、尾張中納言光義、紀伊宰相光貞、水戸宰相光圀に謁すともあります。このとき勝成侯の姪の婿であった紀伊大納言頼宣はすこぶる懇切に手ずから金龍を八歳の勝種侯に与えたということです。

 翌年四月には将軍家大老老中らを勝種侯が藩邸に招請し、自ら玄関外で出迎え、上段の間から順に案内して茶を献じ猿楽などでもてなし、書院の茶具墨跡古器を披露して饗応しています。

 寛文十一年、初めて甲冑を身につけ、延宝二年(一六七四)十二月二十二日には酒井雅楽頭の娘と縁組み調い、従五位下美作守に任ぜられています。延宝五年(一六七七)七月元服し、十一月二十五日酒井雅楽守の娘を妻に迎え、同七年六月十一日帰国の暇を賜り二十八日江戸を出立しました。しかし七月一日に実母勝貞侯妾永久院が亡くなり、服喪のために城に入れず、四十九日忌も済んだ八月二十五日に初めて福山城にお入りになられたということです。ときに十七歳。

 天和二年(一六八二)、石州大森銀山の手当(罪人などの捕縛)を松平周防守とともに命ぜられ、鉄砲、弓など足軽百名他警護の部隊を派遣しています。また、元禄元年(一六八八)には伯父小八郎氏の二十七回忌にあたり茶湯料として麻布真性寺に賜り、翌年には姉了寿院殿の十七回忌にあたり江戸霊厳寺にて執行され、元禄七年には父勝貞侯室寿康院殿の三十三回忌を江戸常林寺にて法事修行なされたとあります。

 さらに同水野記[水野美作守勝慶行状]より抄録いたしますと、勝種侯が在国の時には不思議に罪人なく、法を犯し斬首の罪人あるときは勝種侯が福山から離れた留守のときであったとあります。

 家督の相続に配慮され、実子養子なき者には養子になすべき者の名を書いて懐中させて、もしもの時には目付役が見聞してその者に相続させ、また一歳の小児でも後見者を付け家督をたてられることにしました。

 貧しい者には利子なく金銀を貸しつけ、借金が重なり逼迫した者には米を賜り、凶年には庫を開き民を救ったので、百姓らみな勝種候を、万年の君と仰ぎ称賛しました。これにより国は太平となり、民は富み、藩の倉は実り多く栄えたと記しています。

 また、鞆の目付役が大酒を飲み行い乱れたかどで訴えがあったとき、その人物の器量あるを見定めて訴えを引き延ばし猶予し、家老らの前で本人から事情を聞いて、大酒を禁じ身心を慎むこととし、後には大目付役として福山城下に住まわせました。

 元禄三年、勝種侯が将軍家の勘気(怒り)をこうむり閉門諸事遠慮することがあったときには、町人百姓らまで甚だ歎き愁いて祈り、諸寺諸社へ参拝し、断食して祈る者までいたといわれ、これ皆勝種侯の人を思いやる心に厚く、あわれみ深きことのなせるところなりと云われたということです。

 元禄七年(一六九四)八月十五日、城下の八幡宮に参詣の折、諸々の商売人がしばらく売買を止め、参詣人たちも走り隠れるのを見て、勝種侯は不審に思い侍者に問えば殿の参拝に憚りありとして遠慮したものと応じたので、勝種侯は諸人の妨げになったことを憂えて、商人らに銭を授け賜ったといい、まこと民のために利となり害となることを避けようとなさること、正に民の父母と云うべきなりと記しています。

 また、毎年麦が熟さぬうちは百姓の食が乏しいので、麦を貸し与えて民を救い、困窮した群村には銀子を貸し、年貢を納めるのも秋から翌年三月までとゆるく上納させました。このように民をいたわり給わるので、その恩沢を感じ、米初穂を別に、上納する米俵に紙で包み入れて納める者まであったということです。

 元禄九年、美作津山城主滅亡の時、勝種侯が城の請け取りに参上せよとの上意が下り、福山藩家臣らはみな勇んでお供しようとしたところ、勝種侯は武具の他装束の類、美を飾ることのなきように、亡国に赴くのに悦んでまいるものではないと諫(いさ)めたと云います。

 そして元禄十年(一六九七)八月十二日、勝種侯はにわかに血を吐かれ、そのまま治療することもできずに二十三日ご遷化になり、城下の賢忠寺に埋葬されました。御年三十七歳、戒名は萬輝院殿前作州太守忠嶽全功大居士。翌年五月五日嫡子勝岑(かつみね)殿二歳にて逝去され、これによりお家滅亡となり、民ら各村々の寺院に勝種侯の位牌を造立して久恩に報いようとしたと伝えられています。亡国の主となりても、勝種侯の年忌は怠ることなく、国中の庶民らが法事を執り行い、宝永四年諸国大地震で勝種侯菩提所の石塔が倒れたときには、恩を思い庶民集まり来たり建て直したと云います。勝種侯三五回忌には百姓町人男女数百人が金銀米穀を持ち寄り賢忠寺にて法事を修行し、その際に詠まれた歌が残されています。

「水の恩わするな軒の花あやめ」

このように詠まれるのも勝種候の積善の余慶なり、と[行状]は結んでいます。

 誠に慈愛深き名君、民百姓にまで慕われ愛された勝種侯。こうして県史を開き、勝種侯のご人徳を知り、知ることによって報恩の心が生じ、改めて感謝のまことを捧げたいと存じます。皆様もぜひ水野家墓所にご参詣いただけますようお願い申し上げます。


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「アナガリカ・ダルマパーラ著シャキャムニ・ゴータマブッダの生涯」に学ぶ①

2016年10月16日 10時28分32秒 | 仏教小話
 この本はいつ手に入れたものなのか。よく憶えてはいないのですが、かれこれ二十年も前のことになろうかと思います。インド・ベナレスのガンジス河近くのバザールの一角、チョーク街にモティラル・バナラシダースという出版社があり、そこに出向き、仏教書などを物色した際に買い込んだ中の一冊だったのだと思います。

 著者であるダルマパーラ(一八六四―一九三三)という方は、明治から昭和の初年頃まで、在家者として熱心に仏教の復興のために生涯を捧げたスリランカ人の仏教啓蒙運動家です。当時スリランカはイギリスの植民地で、キリスト教に改宗しなくては出世もできない社会でしたが、ニューヨークに神智学協会を創立し初代会長となるH.S.オルコット大佐らの協力を得てスリランカの人々に仏教徒としての自覚を促しました。インドに渡っては、インドの荒れ果てた仏教聖地の復興に尽力され、また日本にも四度も来訪した親日家でもありました。さらには、西洋世界に向けて余り知られていなかった仏教についての様々な情報を発信し、支援者を募るということもなされた先駆者でした。今私たち日本人も含め世界中の仏教徒がインドに行き、仏教聖地を巡礼できるのもみんなこの方のお蔭なのです。

 前置きはこのくらいにして、この「シャキャムニ・ゴータマ・ブッダの聖なる教え(The Arya Dharma of Sakyamuni Gautama The Budhha)」と題する、ダルマパーラ師が一九一七年に出版された本の中に、わずか二十三頁ですが、表題のお釈迦様の生涯について書かれた章があります。

 読むと、日本語で書かれた仏伝にはない南方の仏教徒に伝承された独特な大変興味深い記述がたくさんあり、また改めて彼らの信仰の篤さを感じさせてくれます。少しずつ翻訳した内容を紹介し、わかりやすく解説して参りたいと思います。
 先ず、冒頭こんな書き出しから始まっています。

「四阿僧祇とも十万劫ともいわれる果てしない昔のことでございます。私たちの世に現れたお釈迦様のように、完全にお悟りになられ、まこと慈悲深き全知者であられたディーパンカラというブッダがおられた頃のことからお話しを始めなくてはなりません。」

 仏伝なれば、お釈迦様の誕生から、もしくはその当時の社会の様子から始まってもよさそうなところですが、こうして果てしもない四阿僧祇劫というような過去から書き始めています。
 これには私たち生命は何度も何度も生まれ変わりしてきている、それは無始といって、はじまりのない過去からずっと転生、再生を繰り返えしてきているという認識があります。その考えの基に、お釈迦様のようなお方はそれに相応しい過去の生まれ変わりをされてきているはずだと考え、そう信じられているのです。
 阿僧祇とは、数えることもできない無数という意味の言葉で、劫とは、一由旬(約十四.四㎞)四方の大きな石を百年に一度柔らかい布で払ってその石が無くなっても終わらないという永い時間のことです。その果てしない過去に、お釈迦様の前に七仏ないし二十五仏もの過去仏がおられたと考えられています。その二十五仏の最初の過去仏で、お釈迦様に仏になると授記をしたブッダとして知られるディーパンカラ・ブッダとの出会いから物語が始まります。

「その同じ時代に、まこと信心深きバラモンであるスメーダという修行者がおりました。彼は若くして先祖の莫大な財産を相続したのでしたが、その七代にも亘る先祖たちは世代ごとにふくらんでいく莫大な富を積み増していくことだけに精を出し、慈善のために使うことはありませんでした。そこで、スメーダは、世界中のよきことにそれらを使おうではないかと思いつきました。
 そこで、家人たちに、この家の蓄積された富は慈善のために用いるつもりだと宣言をし、たった七日の間にそれらの莫大な富を貧しいものたち、必要とする人たちのために与えていきました。そして、その七日目には、彼はこの世の楽しみをみな放棄して、聖なる修行者として、成し遂げるべき修行のためにヒマラヤ山に登っていきました。まもなく、彼は五神通と八成就を成し遂げ、神々のいる天界に空へ浮遊して登ることができるようになっていました。」

 この時代には、お釈迦様はスメーダという名の信心深い一人の行者であったということです。相続した財産を自分で使うことなく人々に施し、徳を積んですべての享楽を捨ててヒマラヤ山に籠もり修行なされたとあります。
 五神通とは、人の未来を予知する天眼通、通常聞こえない音を聞く天耳通、他者の心を見抜く他心通、自分ないし他者の過去を知る宿命通、空中を飛行したり水上を歩いたり、身を大小にしたり一身を多身にする神足通の五つの修行中に現れる超能力のことです。
 また、八成就とは、初禅、第二禅、第三禅、第四禅と禅定を深め、さらに空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処へと、これら八段階の禅定状態のことで、そうして悟りの前段階まで修行を極められたということです。

「ある日、ヒマラヤからアマラヴァティという街に降り立ったスメーダは、人々が通りや家を忙しそうに飾り立てているのを目にしました。彼は街の人たちに、誰のために街を綺麗にしているのか、と尋ねました。すると彼らは聖なるディーパンカラ(燃燈)・ブッダのためであり、彼の名にちなんで飾り立てているということでした。ブッダという言葉を耳にすると彼の心には喜びの灯がともり、歓喜で身体中に戦りつが走ったのでした。

 そして彼は自分もまた通りを一部分でも飾ることで自分のブッダに対する尊敬の気持ちを表そうと思いました。そして彼らに自分も一部分でもよいので飾らせてくれるようにと頼みました。聖なる修行をしてきたバラモンである彼にはそのスピリチュアルな超能力で簡単にやることもできましたが、彼は自分の手で道を飾り始めました。

 ですが、彼の仕事が済む前に、ブッダが、黄色い袈裟を纏ったお悟りになられた阿羅漢の一群とともにお越しになられるのが見えました。その時その敬けんなるバラモンはブッダに我が身を捧げることを決心し、顔を下にひれ伏し、身体の上をブッダに歩いてもらえるように身体を前に伸ばしました。ブッダはこの信心深い男の所にやってくると、彼を見て止まり、手招きしておっしゃいました。『信心深き男よ、そなたがもし望むなら、阿羅漢となりねはんを得るであろう、そして私のようにブッダとなるであろう。四阿僧祇ないし十万劫の後に、釈迦という種族に生まれ、父はスッドーダナ王、母はマーヤー王妃として、ゴータマの名の下に生まれ、ブッダとなり、何百万という数え切れないほどの人々を輪廻の悲しみから救うであろうと予言する』

 そう言われて、抱えきれないほど沢山の花束を未来のブッダに差し上げると、それを聞いていたすべての人々はスメーダがブッダとなり、彼によって救われることを喜んだのでした。」

 ブッダが修行者に対して将来必ず仏となることを予言し保証を与えることを授記というのですが、まさに、お釈迦様がディーパンカラ・ブッダから授記を受けるという場面です。

 かなり高度な修行をなしていたにもかかわらず、ブッダの存在に敬意を表し、さらにその身を挺して供養しようとする清らかな心にして初めて授記が適ったということだと思います。

 果てしない未来のことにはなるのですが、こうしてお釈迦様は、釈迦族に生まれブッダとなり多くの人々を救うのだと授記されたことによって、一つの確信を持って、ブッダになるに相応しい、さらなる徳を身につけていくということになるのです。

「そして、信心深きスメーダは、この時、布施、持戒、出離、智慧、精進、忍辱、真諦、決意、慈心、捨という、ブッダとなるために必要な『十の波羅蜜』を成し遂げることを決意しました。

一、布施波羅蜜とは、完全なる慈善であり、人生、財産、血、肉体、目、子供、妻をも施してしまうことです。
二、持戒波羅蜜とは、徳行の道から逸脱することのない完全なる道徳的行いをすることです。
三、出離波羅蜜とは、性的な歓びを放棄し、慈しみと聖なるものを求める聖者としての人生を熱望することです。
四、智慧波羅蜜とは、普通の人の理解を超えた自然界の法則すべてを把握する完全なる智慧であり、神々と人間の知識を超越した悟りの智慧を獲得することです。
五、精進波羅蜜とは、死ぬまで困難に屈せずに絶え間なく努力し、継続することです。
六、忍辱波羅蜜とは、どんなことにも我慢し許すことです。たとえ身体がバラバラに切り刻まれようと、怒りの言葉を吐くことなく、ただ愛の心が怒りを説き伏せねばなりません。
七、真諦波羅蜜とは、死の間際まで真実そのものであること。死の傷みにさえ嘘を吐くことなく、真実は虚偽を打ち負かす武器なのです。
八、決意波羅蜜とは、最高の善なる行いをなすための意志の力を養うことです。彼を絶望させるような障害なく、怖れない意志を持って完成に至るまで継続することです。
九、慈心波羅蜜とは、すべての生きとし生けるものに慈愛の心を広げることです。お腹にいるまだ見ぬ子供に対するお母さんの愛情です。
十、捨波羅蜜とは、完全なる平等なる心であり、友も敵もなくすべての者に分け隔てのない、同じ良い感情を持つことです。」

 波羅蜜とは、パーラミター、此岸に対する彼岸のことであって、そこに到達すべき状態ないし、そのために実践すべき徳目をいうのですが、大乗仏教なら六つの波羅蜜を説くのですが、南方仏教では十項目に分けて、ブッダという最高の目標を掲げ成就するために特別に修行すべきものとされています。

 三の出離波羅蜜は、一般には出家をして、心も身も欲を避けることをいうようです。七の真諦波羅蜜は、わかりにくいのですが、話すことも行いもまた心の中でも真実を貫き嘘偽りのまったくないことをいいます。また十の捨波羅蜜には、喜びや悲しみ不安、好き嫌いなどの感情にも揺らぐことなく平静な心を保つことも含まれています。

「ブッダが、スメーダは正等覚者となるであろうと予言した瞬間から、彼は次なるブッダであり、このゆえにこれから先には菩薩大士として知られることになります。彼は他のどの生き物よりも勝れており、彼の願いは実現されるのです。彼は動物、神、ブラフマー神として生まれ変わるかも知れませんが、金色の糸はそれらの生の後先に繋がり、途絶えることはありません。

 そして、四阿僧祇劫ないし十万劫もの間、完璧な歩みを重ねるに違いなく、いくつもの生を重ね、彼は波羅蜜を果たしていったのです。いくつかの人生で彼は、慈善の波羅蜜を実現し、その他の人生では他の波羅蜜を果たし、その道から逸脱することも悪を為すようなこともあり得ないことでした。」

 大乗仏教では仏となるために修行する者すべてを菩薩と言い習わしていることはよく知られていますから、私たちがここで「菩薩大士として知られる」と読んでもそれほどの感激を抱くこともないのですが、「彼は次なるブッダであるが故に菩薩として知られる」というところに着目すべだと思います。誰でもが菩薩と言われることはなかったということであり、次なるブッダとして授記されたが故に菩薩と呼ばれたということを私たちは憶えておかねばならないでしょう。ご自身を菩薩と思われる方は、特にそのことをわきまえて自覚すべきだということかと思います。

 そうして何度も生まれ変わりしながらこの敬けんなる修行者として菩薩はたくさんの波羅蜜を成し遂げつつ転生されたということです。

「ディーパンカラ・ブッダのもとで、ねはんに到達することも可能でしたが、自らブッダとなり世の中を救うために、その安直な方法を放棄しました。彼には罪とがなく、世界のため生きとし生けるものたちのために蓄積した功徳のみがあります。世界の幸福のために善きすべてのことをなし、彼の中にまったくエゴはありません。彼は自分が将来ブッダになることを知っていましたから、自分の為すべき事を為しつつ、我慢強く待ちました。菩薩としての直感的な知識を獲得し、容易に波羅蜜を満たしていきました。将来世界を救うという役割を担っていくという自覚から、よろこんで他の生き物に身を捨てて命を捧げるのでした。彼スメーダはあらゆる生きとし生けるものたちの中で最も優れた存在でありました。」

 ありとあらゆる善きことをなしつつ、徳を積み、その時を待たれていたということでしょう。


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認知症終末期を経て亡くなられた檀家さんの満中陰法話

2016年07月18日 13時55分51秒 | 仏教小話
本日は遠方からも早朝よりご参詣をいただきご苦労様であります。ご一緒にお経をお唱えくださり、また長いお経を聞いて下さいましてありがとうございました。5月○○日、午後一時頃奥様とご子息さんがお寺に見えられて、あまり様態が良くないのだとのお話を伺い、早速病院にかけつけお見舞い申しました。急性肺炎で入院され胃ろうをするかどうかという段階で、すでにたくさんの管が取り付けられ、その間を縫うように血圧やら脈拍やらを計測されているところに行き、それを待って、いろいろと話しかけはしたのですが、反応もなく、帰り際にわずかに目が動き視線があったかなというような感じで失礼をいたしました。それが最後となり、そのあと二三時間後にお亡くなりになってしまいました。

丁度今、中国新聞で僧侶による看取りという特集記事が何度か見受けられまして、死んでからではなく死の間際にも私たち僧侶の役割というものがあるのではないかと取りざたされているときでもあり、私に取りましても誠に貴重な機会となったわけではありますが、今回は看取りということではなく、もう一度元気になってお寺に参って下さいというようなことしか申し上げられなかったことが残念に思われます。

通夜、葬儀、そして、七日のお参りを近隣のご親族で熱心にお勤めされ、今日満中陰のお勤めを済ませたわけですが、この法要のご功徳をもって来世に旅立って行かれる、だからこそこうして、この四十九日の満中陰忌には法要を盛大に行うわけでありますが、中陰とは、中有とも申しまして、亡くなる瞬間を死有と言い、来世に生まれる瞬間刹那を生有、そして、死有と生有の間の四十九日を中有と言います。そして私たちは、生有と死有の間の本有を今生きているのでありまして、その間に沢山の行いを為して、業を前世過去世の業に積み増し相続していくのが私たち衆生でありまして、そうしてこの四有を私たちは何度も何度も繰り返していると考えます。

業には善い業も悪い業もある訳なのですが、私などは坊さんになるときにあんたは業が深いんだねとある方に言われまして、まるで悪いことをしてきた罪滅ぼしに坊さんになるんだろうと言われた様な気がしたものですが、善い業もあるのであって、坊さんになるような業があるという意味で言われたことだったのだと今では思っております。

故人は、そう考えますと確かに長患いをする、晩年に十年間も認知症を患われ気の毒なことではありましたが、そうなる業がおそらく過去世にあったのではないか、それでご家族には大変な看護介護の長い日々を過ごされたわけですが、こうして亡くならたからには、その長患いする業がこれで解消されて、その善くない業がなくなって来世に旅立って行かれる。来世は健康で長生きをされるはずであると思えるのです。そこで、通夜のお勤めの後、仏教で言う死とは、体と心の分離であり、心は身体から離れて今この会場の上の方におられて皆様を見ていると申し上げ、そして、その時、身体の束縛を脱して、清々しい気持ちでこれまでの人生を振り返り満足し感謝の気持ちでおられると思うとも申したのでありました。

ですが、その後、認知症について少し不安になり、少し調べをしました。認知症とは心の病なのか身体の病なのかということで、心の病なら身体の束縛を脱しても心が清々しくなれたのだろうかと不安になったからです。しかし、やはり認知症は心の病ではなく身体の病なのだということが解りホッとしたのであります。

ところで、國分寺の檀家さんで、十一年間寝たきりで、その間ほとんど反応もなく、植物状態で過ごされ亡くなられた方があります。その方は交通事故で脳挫傷となり、しばらくは意識もあり反応もあったのですが、しばらくして無反応になり、それでも息子さんご夫婦は懸命に看護を続けてとても明るく励まれていたわけですが、亡くなる少し前にお孫さんが来られたとき何かそれまで見せなかったような反応を示し、それで亡くなられていきました。その時も通夜になんと申すべきか、長患いでお気の毒でしたではその息子さんご夫婦には何のお悔やみにもならない、そこで調べましたところ、たとえ植物状態にあっても、脳波もなく反応もなくても、ちゃんと意識があり物事の判断をされているという研究結果があるということを知りました。

英国の脳研究者で、エイドリアン・オーエン博士が、二十年間も植物状態にある患者さんにMRIを使い、テニスをしているところをイメージして下さいというと脳の運動野が、家の中を歩き回っているところをイメージして下さいというと海馬が活性化としたと言います。それを用いて、あなたの名前は○○さんですか、間違いなければテニスをしているイメージをしてくださいという具合に質問をして、今までずっと意識がありましたか、事故後ずっと意識がありましたかなどと様々な質問をしたところ、そのどれにも明確な反応があったというのです。脳波も現れず、何を言っても反応がない植物状態の人であっても、きちんと意識があり、質問にも判断をすることができていた、つまり心ありという研究結果が出ているのです。通夜の晩そのことを話しとても意味のある十一年間だったはずでありますと申しました。

おそらく○○さんも、周りのことがみんな解っていて、ただ認知症が進み適切に反応することができずにいただけで、亡くなってからは、つらかった身体を抜け出て、四十九日の間は行きたいところにも行き、来世の逝くべき所も見つかり、今生の家族ご親族である、皆様に感謝の気持ちを表されて、皆さんから沢山の功徳もいただかれて、悪い業も消えて来世はとても善いところに旅だって行かれることと思います。来年には一周忌また三回忌と続きますが、今度は前世の家族から来世におられる○○居士に向けて功徳を手向けてあげて欲しいと思います。



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四国遍路行記40

2016年05月29日 13時43分06秒 | 四国遍路行記
長尾寺を出て、しばらく車道を歩く。お昼過ぎだというのに多くの車が渋滞している。道沿いに立派な瓦屋根を連ねたお寺を横目に見ながら先を急ぐ。山あいに大きなダムが見えてきた、ダム左側に進み山道に入る。次第に道が険しくなり、標高八百メートル弱の女体山登山道をひたすら登る。途中岩場となり、見晴らしの良い頂上付近の大窪寺奥の院を経由して下り道となる。いつの間にか目の前が開け、気がつくと第八十八番大窪寺山門前に出ていた。それにしても大きな門である。これほどの仁王門は四国遍路では初めてだろうか。どことなしか高野山の大門を彷彿とさせている。

結願所・大窪寺は、背後に矢筈山が聳え、山の木々に囲まれるように諸堂が佇む。大窪寺は、養老年間(七一七~二四)に行基が開基した寺である。唐から帰朝した弘法大師が奥の院の岩場で求聞持法を修して、大きな窪の傍らにお堂を建て、自ら刻んだ薬師如来を祀ったという。このお薬師さまは左手に薬壺ではなく法螺貝をもつ珍しいもので、すべての災難病厄を吹き払ってくれるという。

礼堂、中殿、奥殿に分かれた珍しい本堂の、礼堂で立って理趣経を上げる。これで八十八回目の理趣経かと感慨深く思いながら、ざわざわした沢山の結願した遍路さんたちの思わず声高になる話し声をかき分け、奥殿に祀られたお薬師さまに向けてお勤めをさせていただいた。この時なぜか急ぎ足で大師堂に行き、お勤めを済まし、大師堂前のベンチに座った。

すると隣に私より少し年上のご婦人がお座りになり、どちらまで行くのか、と問われた。高野山に向かって歩いて行こうかと思います、とお答えしたように記憶しているが、まもなくご主人さんがお越しになり、二人でなにやら話をされていた。すると、徳島にこれから帰るのだけれど乗っていかないか、とおっしゃる。とにかくお接待はお断りしないことをモットーに遍路してきて、今日ここに結願したのだから即座に、ありがとうございます、と返事をしたのだろう。折角結願してゆっくり少しはその感激に浸ればよかった、とはその後思ったことで、その時はただお二人に身を任せて車に乗り込んだ。

二時間ほども掛かったのだろうか、いろいろと四国遍路の話をしてすごたように記憶しているが、あっという間に徳島駅に到着して、ではとお礼を述べて一度車を降りたのに、また私の前に戻ってこられて、これから小松島のフェリー乗り場まで行くのならそこまでと、お住まいとは離れているのに小松島まで乗せて行って下さった。そして、フェリー乗り場で写真まで撮って、後日東京の住所までその時の写真を郵送して下さった。その時の写真こそ、このシリーズ初回でも掲載した錫杖と網代傘を持った遍路姿の私である。そして今もって年賀状のやりとりをさせていただき、また一周しましたよなどと近況を知らせて下さっている。

折良く、すぐに和歌山港行きのフェリーに乗り込み、揺られながら弁当で腹ごしらえをする。夜8時頃には和歌山港に到着。和歌山城の脇を通り小一時間ほどで和歌山駅に着いたので、さて今日は和歌山駅近辺で寝ようか、駅のベンチで横になってしまおうかと思い、駅前のロータリーで思案していた。するとそこに、ジャージ姿の若い人が二人来られたので、この辺りに安い宿泊所などはありませんかと問うたところ、少し待って下さいと云われ、しばらくすると車が来て、乗りなさいと云う。

皆さんで小声で話し合われて、聞くと、明日は祝日だし成り行きで高野山まで連れて行ってあげようということになった。それから二時間あまり、そのまま高野山に向けてひた走ることになる。この間宗教の話やら、人が死ぬときの心理であるとか、仏教の話やら、みんな、おまえそんなこと考えてたのかというように、私が間に入ったことでそれまで三人の中では語り合ったことも無いような話をして、みんな少々興奮気味に、とにかく話尽きること無く話をした。特に印象に残ったのは、一人がオートバイで事故をしたときに身体から心が抜けて上から自分の身体が転がっていく様子をスローモーションのように見たという話で、それまで人に話すのさえ躊躇していたとのことであったが、私が仏教的な解釈を申し上げると安心されたようだった。そして、この時運転して下さった方とも未だに年賀状のやりとりが続いている。

夜で一台の車とも出会うこと無く曲がりくねった坂道をひた走り高野山に到着。高室院前で下ろして下さった。皆さんに、一緒に今日はお泊まりになって、明日いっしょに朝勤行してからお帰り下さいと申したが、みんな修行させられたら適わないと言いたげに、お帰りになるというので、自販機でオロナミンCを三本買ってお礼とさせていただいた。午後四時頃大窪寺に結願し、なぜか夜中の十二時半頃には高野山に来ることができた。まったくもって素晴らしい御縁の連続。少しの時間のずれも許さない遍路の功徳、出会いの妙。みんな寝静まっていたので黙って客間に入り込み自分で布団を引いて寝てから、そのありがたさがこみ上げてきた。


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保坂俊司先生の『仏教とイスラームの連続と非連続』に学ぶ

2016年05月04日 20時32分06秒 | 仏教小話
今年四月、中央大学出版部発行の中央大学政策文化総合研究所研究叢書21『中央ユーラシアへの現代的視座』という本が送られてきました。開けると「謹呈」とあり、中央大学の政策文化総合研究所から、ご謹呈いただいたものでした。第一章には、こちらにも度々著作を紹介させていただいている中央大学総合政策学部教授の保坂俊司先生の論文が掲載されており、早速拝読致しました。

「仏教とイスラームの連続と非連続」と題する論文ですが、副題に「多神教徒の共存可能性をインドのスーフィズム思想に探る」とあるように、イスラム教というと中近東やインドネシア、マレーシアなどの東南アジアについて注目しがちですが、先生はヒンドゥー教の国インドにおけるイスラム教徒の進出と浸透の仕方に着目されて、その適合の仕方がこれからの世界の多宗教間の共存を模索していくために大変有効なヒントを与えてくれるものではないかと論じておられます。

インド共和国には、現在一億三千万人ものイスラム教徒が暮らしており、隣のパキスタン、バングラデシュを含めると、インド亜大陸には五億人近いイスラム人口があります。世界全体の三割弱を占めるのだそうです。イスラム教徒がいつからインドの地に住み着いたのかと言えば、それは八世紀初頭に西インド攻略軍の三千人の軍人がインドに入ったことから始まるということで、既に一千三百年にもなるのです。彼らは、軍事的にインドの地を支配する過程で、捕虜や敗者、またヒンドゥー教や仏教徒らへの弾圧からイスラム教徒に改宗させていったのです。が、そればかりではなく、中央アジアからの移民や、カースト制度による差別からの解放を願う人々やヒンドゥー教徒との対立からイスラム教へ改宗する仏教徒もあり、今日でもインドにおけるイスラム教人口は増え続けているのだということです。

私がインドに行っていたのはかれこれ20年も前にはなりますが、他の中近東の国々と明らかに違って、インドの民衆の中でイスラム教徒の人々が違和感なく過ごしているように見えました。そうしてインドの社会、インドの民衆の中に定着し溶け込み、受け入れられるために大きな役割を果たしたのが、余り注目されてこなかったイスラム神秘主義者、スーフィーの思想があるのだと、本論文を読ませていただき初めて知りました。かつて成瀬雅春さんというヨーガの先生が主宰するスーフィーのメブラーナという旋回瞑想の講座を受講したことがあり、大変懐かしく感じ、またスーフィーがインドのイスラム教徒の中にも存在していることに強く興味を感じました。そして、彼らスーフィーの一見インドの宗教に近い思想と修行をするイスラム教徒がいたればこそ、イスラム教徒たちがインドの多神教世界との共存共栄が可能となったということなのでした。

スーフィーとは、現世的な欲求を捨て、神への畏怖を基にひたすら祈り禁欲する人々であり、彼らはアッラーを自ら体験する、あるいは神の存在を感得することをめざして、外面より内面に注視しようとする人々であるとあります。彼らが修行の末に得られるとする宗教体験はファナーと言い消滅とか合一と表現され、それは仏教でいえば悟り体験に当たるものに近いのではないかということです。

このようにインドのヒンドゥー教や仏教に近似した思想基盤を持ち、だからこそまた、正統イスラムの側からは非難弾圧の対象でもありました。ですが、そもそもイスラム教はムハンマド(マホメット)が神の啓示を受けたことに始まるのであり、それはヒーラの洞窟において禁欲修行の最中に起こったことを考えれば、そしてその行為そのものがイスラム教徒の模範とされるのならば、スーフィーたちの主張や行為は否定されるものではなく、その純粋な宗教的な情熱、ひたむきな神への祈りは逆に推奨されるべきものでありました。

ムハンマドは、生まれる前に父親を亡くし、幼少期に母親にも祖父母にも死に別れ不遇な青年期を過ごし、25歳の時15歳年上の女性実業家と結婚、それによって様々なキリスト教などの教養を学ぶことができ、40才過ぎると祖父に倣ってヒーラの洞窟にラマダン月のひと月籠もって懺悔や改悛、断食を行って瞑想や祈祷に明け暮れたといいます。そして西暦610年のラマダン月のカディールの夜、神からの啓示が下ります。

正統イスラム神学では、この神からの啓示をムハンマドだけに認めるのですが、スーフィーたちは、自らにもその可能性があると考えます。彼らは、アッラーとは宇宙や自然、そして人間を創造した神であり、人間から超絶、隔絶した存在ではあるけれども、この世は神が創った世界であり、人間であるのだから、そこには神が内在しているはずだと考えるのです。定められた戒律に従って行動すればよいとする一般のイスラム教徒に対して、スーフィーたちは、ムハンマドの生き方そのものに焦点を絞り真摯に神と向き合う人たちであると言えましょう。

そして、イスラム教世界には、正統イスラムとスーフィーという二つの流れがあり、スーフィーには西アジアから西の主流となるスーフィズムと、中央アジアから南アジア、東南アジアに広がる東方のスーフィズムがあります。そして特にこの東方に広がるスーフィーこそ、仏教徒のイスラム教への改宗を含み東南アジアへイスラム教が拡大する原動力となり、さらに、他教徒との共存共生の思想が展開される点において注目されるべきであるとのことであります。

スーフィズムには、ムハンマドの神への真摯な姿勢と中近東を中心として行われたキリスト教神秘主義、グノーシス主義、新プラトン主義、ゾロアスター教、そして仏教までが少なからず影響しているのだそうです。ギリシャ語の知覚(gnosis)を意味するグノーシス運動は、宇宙も人間も神的・超越的本質と物質的・肉体的実体との二つの要素からなり、人間には神的実在が部分的に存在するとし、そして救済とは人間の持つその神的な断片が集められ神的実在と帰一することであり、そのために、すべての人間は修行を通じて自分の神的本質を自覚し救済が得られるよう努力すべきと教えています。

さらに東方に広がるスーフィーには、こうしたグノーシス主義の発想に加え、インド思想である梵我一如の思想の影響や仏教がペルシャや中近東の諸文明の宗教的な要素が融合して大乗仏教に変質していく過程と同じ作用が影響していると指摘されています。

スーフィーは、ムハンマドの啓示体験、それは神との霊的直接交流というイスラム教の根源から発して、禁欲と衷心からの祈りという修行から神との合一を目指すという点でヒンドゥー教や仏教の精神に通じています。改悛(深い自己否定)、禁欲、放棄、清貧、忍耐、神への信頼、満足という修行の階梯と神からの恩寵とも言われる心的状態の双方の要素によって、ファナーという悟り体験が得られるとします。

スーフィーの修行は、師匠に仕え、世俗の地位や名誉、価値観を捨て、すべてを神に捧げ尽くす、そして、一心不乱に神の名「アッラー」を唱え、そこに音楽を用いたり、踊り(カッワリー)、音楽に合わせて旋回して瞑想(メブラーナ)したりして、それを数時間もまた幾日も続けて忘我の状態に入り、神秘体験を得ることが可能であるとしています。これらの修行は、まさに仏教の念仏、唱題、踊り念仏と同様であり、そこから得られるものは禅の境地にも近似しており、ヒンドゥー教の修行にも同じ手法が見いだせるものです。

こうしてインドの地に定着していくイスラム教の特にスーフィーたちの思想は、イスラム教とヒンドゥー教の融合が行われる素地をつくり、ヒンドゥー教とイスラム教から新たな宗教であるシーク教を創始するカビールやグル・ナーナクなどが現れることに進展していきました。彼らはヒンドゥー教をはじめとする他の宗教との関係において、神にはいろいろな呼び名があるだけで諸宗教の本質は一つであるとして、どの宗教にも寛容なる姿勢を貫きました。

さらには、ムガル王朝の皇帝の中からもヒンドゥーとイスラムの融和思想が芽生え、さらには融合思想にと発展していくことになります。第三代皇帝アクバルは、スーフィーとしての宗教体験を持ち合わせており、教条的な正統イスラムを廃し、スーフィーや哲学者、法学者、法律家、イスラム教のスンニ派、シーア派、ヒンドゥーのバラモン、ジャイナ教、キリスト教、ユダヤ教などのあらゆる人々が一堂に会し議論する「信仰の家」を造り、諸宗教の融和を旗印にしたディーニ・イラーヒーという神聖宗教を推進したということです。

保坂先生は、論文の冒頭で、イスラム神秘主義者の「思想活動は、イスラームが宗教上忌避するヒンドゥー教などのインドの多神教との共存・共生を実現させる原動力となったものであり、さらにその寛容思想の存在が、21世紀のイスラームの世界的な展開において、イスラームと他宗教との平和共存という課題において、きわめて価値あるものであると筆者は考える」と述べられています。

このように総括されているように、イスラム教の中では異端とされているイスラム神秘主義であるスーフィーではありますが、彼らの多神教、多宗教との寛容な姿勢は、これからの国際情勢を緩和していくために誠に貴重なポイントたり得るものであると思われます。イスラム教徒の強面の一面を政治的に利用されないためにもイスラム側からそのことを前面に出すことも必要ではないかと思われます。現代の宗教対立の中で余りにも過激な敵対心を煽るばかりのイスラム教徒という認識を改め、イスラム教徒の中にも多宗教に対して融和を求め、唯一の神ではあってもそれが他宗教と分かち合えないものではなく、本質的には同じものを共に希求しているとの発想は、大いにイスラム教徒の中でも、また側の人間のイスラム教に対する認識においても見直されるべきでありましょう。単なる恐怖心、敵対心ばかり持つのでは無く、世界中の人たちの共通認識にしていかねばならないことではないかと思えました。


なお、本論文の中でスーフィーにも多大の影響を与えたとされる仏教、特に大乗仏教の形成に関する、保坂先生の慧眼による、誠に重要なご指摘について記しておきたいと思います。まず、これまでの仏教研究においては、中央アジアに起こった複雑な文化融合現象を正確に捉え仏教学研究に生かされてきたとは言いがたく、初期仏教から見て異なる、インド思想の枠組みさえも否定する大乗仏教の、例えば菩薩思想、俗家主義、浄土思想などはペルシャや中近東の諸文明、宗教の要素の融合と考えられること。特に浄土教という新仏教運動は、北西インドから中央アジア、いわゆるガンダーラ地域からバクトリア、トランスオクシアナの民族やその文化、文明の産物であること。インド起源という固定観念にとらわれることなく、大乗仏教とは、繰り返しになるけれども、北西インド、現在のパキスタンの北西部からアフガニスタン、イラン東部、カザフスタン、ウズベキスタンなどの中央アジアのオアシス都市にかけて成立した新仏教運動であったということであり、その仏教をインド起源のお釈迦様の真説と思い中国は仏教を受け取り、中国において花開いた大乗仏教は日本においても珍重されて今日に至っているということなのであります。仏教は、2500年前のお釈迦様の悟りに端を発するもののその後の、特に大乗仏教と私たちが呼ぶ教えは、まさに中央ユーラシアの複雑な文明の衝突によって形成された当時の世界における先進的な思想運動の精華として捉えることが出来るのかもしれません。



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小学六年生に國分寺を語る 改訂版

2016年04月29日 08時35分35秒 | 仏教史
○小学六年生に国分寺を語る(28.5.2.)

今日は皆さん、福山の街から、ようこそこの神辺までお越しになり、そしてこちらの國分寺にお参り下さいました。10分ほどの短い時間ですが、國分寺について少しお話しします。

皆さんこちらにお参りになるのは初めてですか。國分寺、例えば他の備中の国分寺にお参りしたことがあるという人もあるかも知れませんね。事前学習と言うことで國分寺について学んでこられたかも知れません。何か質問はありませんか。何事も、いろいろと疑問を持って何でだろう何だろうと考えながら学んで欲しいと思います。では、私からぼちぼちとお話をしていきますが、質問があったらすぐに手を上げて下さい。

まず、この皆さんの前にある建物は、現在の國分寺の本堂ですが、こちらは今から320年前、江戸時代元禄七年、1694年に再建された建物です。それより20年前の延宝元年に大雨で流されて荒廃していた國分寺を、時の福山城主水野勝種公が大檀那になって再建されました。

①なぜ水野勝種公は國分寺を再建されたのでしょうか。

それは、この備後には國分寺が昔からあって、一国に一つ、備後福山の国の象徴としてあったからなんです。

②そもそも國分寺が、いつ頃からあったかと言えば、今から1270年ほど前からです。その初めにできる奈良時代の國分寺はどんなお寺だったのでしょうか。

当時の建物は、参道の入り口の道が古代の山陽道に面していて、その入口に南大門があり、周りには高さが2.5メートルもある築地塀が約200メートル四方に巡らされていました。入って左に東西24メートル南北16メートルほどの金堂があり、丈六仏と言いまして、立ち上がると一丈六尺、4メートル80センチもの大きなお釈迦様の座像が祀られていました。その右には高さが5,60メートルもある七重塔があり、中には聖武天皇勅願の「紫紙金字金光明最勝王経10巻」が祀られていました。この國分寺にあった経典は、今国宝となり奈良国立博物館に収蔵されています。その奥には金堂と同じ大きさの講堂があり、その他、お坊さんたちが二十人もおりましたから住まいとなる僧坊、食事をする食堂、鐘撞き堂、経典を納めていた経蔵等があって、今のこの境内規模の20倍はあったと言われています。

③ではその初めにできる國分寺は誰が造ったか、ということですが、聖武天皇が741年「国分僧寺尼寺建立の詔」を発せられてできていくのですが、なぜ天皇は國分寺を造ろうとされたのでしょうか。

741年の百年くらい前に何があったか、社会科の授業で習っていますね。大化の改新と習いましたか。それは今では乙巳の変といって、今で言えば総理大臣の地位にあった蘇我入鹿を中大兄皇子と中臣鎌足が惨殺する。政権を転覆させるクーデターがあった。まだ、中大兄皇子が天智天皇になって朝鮮に出兵をしたり、また、天智天皇が死ぬと後継者争いで壬申の乱が起きる。それで、天武天皇の時代にそれではいけないというので中国の政治の仕組みである律令制度を採用して準備されて、諸国の境界も定められていきます。それが683年です。その頃このあたりは大きな吉備の国があり、律令制度上大きすぎるというので備前・備中・備後・美作と四つの国に分けられ、全国でつごう68の国が出来ていきます。

そして、飛鳥から奈良に都が移るのが710年、その頃いろいろと都の政治にも乱れがありました。正しい政治をしていた人が冤罪で暗殺されたり、その後政権を取った人が天然痘という疫病が流行り次々に死んでいくという恐ろしい時代となります。さらに天変地異があって作物も実らない。そこで、聖武天皇は、仏教の力で、この時代を正していこうとされたのです。諸国に國分寺を造り、都には東大寺を造り大仏を造って、理想とする仏様の世界をこの世に造ることによって、国が安泰となり、諸国が平安となり、そこに暮らす人々も幸せになると信じられたのでした。

④では、なぜこの御領の地に備後の國分寺を造ったのでしょうか。

それは、この地に弥生時代から大きな集落があり、例えば九州の吉野ヶ里遺跡というのは聞いたことがあると思いますが、ここは発掘調査が行われ御領遺蹟と言われる沢山の大きな集落の遺跡、また沢山の古墳が見つかっていて、それに匹敵するほどの大きな古代の都市があったところなのだそうです。ですから、人が沢山居て社会生活の中心だった、だから奈良時代になりここに國分寺が造られたのです。

⑤ところで、皆さん、なぜお寺だったんだろうと思いませんか。神社ではいけなかったのかと。

そう、仏教でなくてはならなかったのです。なぜかというと。既に日本にあった宗教である神道は我が国の神さまを祀ることですが、仏教はインドから中国朝鮮を経て入ってきますが、それは、当時の世界では最先端の先進文化、思想、、芸術、科学技術を伴うものであったからです。そもそも仏教が日本にもたらされるのは、今から1500年ほど前、西暦の538年に仏教が伝来します。当時は蘇我氏物部氏の時代で、いろいろ諍いがありましたが、その後聖徳太子が、仏教は四方の極宗(よものおおむね)であると言って、今で言うグローバルスタンダード、世界基準ということで、積極的に仏教を取り入れていきます。

たとえば、このような瓦の載った大きな建物を造る建築技術ですね。また仏像などの彫刻、仏具などの金属加工、経典書写のための紙や筆や墨の製法、経典による文字の知識、仏画などの絵画の技法、僧衣の生地や縫製など服飾関係の製法、法要に奏でる鐘や鉢、音楽舞踊などあらゆるものを仏教とともに取り入れることができました。私たちはお寺、仏教というと、古くさいもの、誰かが死んだりしたときに必要なくらいに思っていますが、1500年前に、仏教が日本に入ってきて、やっと日本の国は中国や朝鮮に肩を並べる先進国に発展していくことが出来たのです。仏教は世界水準の文化であり、お寺は最先端の文化の象徴でした。そこで、奈良の都には、東大寺を作り、諸国に國分寺を造る。それぞれの国の中心にその権威を示すものとして國分寺が造られていったのです。

長くなりましたが、この辺にしたいと思います。何か質問はありますか。

國分寺お参り下さってどうもありがとうございました。また近くに来たときにはお訪ね下さい。

(5/2 本日実際にお話しさせていただいた内容は以上のとおりです。)


今日は皆さん、福山の街から、ようこそこの神辺までお越しになり、そしてこちらの國分寺にお参り下さいました。10分ほどの短い時間ですが、國分寺について少しお話しします。

このお寺は今から1270年ほど前に出来るのですが、そもそも仏教が日本にもたらされるのはそれより200年前、今から1500年ほど前のことです。西暦の538年に仏教が伝来します。当時は蘇我氏物部氏の時代で、いろいろ議論がありましたが、聖徳太子が積極的に仏教を取り入れていきます。なぜ仏教を取り入れたかと言いますと、既に日本にあった宗教である神道は我が国の神さまを祀ることですが、仏教はインドから中国朝鮮を経て入ってきました。中国も朝鮮もみな仏教を積極的に導入していました。

それは、当時の世界では最先端の先進文化、思想、科学技術を伴うものであり、今で言うグローバルスタンダード、そのものだったのです。私たちはお寺、仏教というと、古くさいもの、誰かが死んだりしたときに必要なくらいに思っていますが、1500年前に、仏教が日本に入ってきて、やっと日本の国は中国や朝鮮に肩を並べる先進国に発展していくことが出来たのです。

たとえば、このような瓦の載った大きな建物、建築技術ですね。また仏像などの彫刻、仏具などの金属加工、経典書写による紙や筆や墨の製法、経典による文字の知識、僧衣の服飾、法要に奏でる鐘や鉢、音楽舞踊などあらゆるものを仏教とともに取り入れることで、日本の国は一気に文化的に発展することが出来ました。さらに沢山の経典が書写研究され、様々な願いを祈願することも出来る、願っても無いものだったと言えます。

聖徳太子の時代の後、政治的には、皆さん習った大化の改新それが645年、今では乙巳の変と言いますね、それから壬申の乱が672年というように、政治的社会的にかなりの混乱した時代が続きます。そこで、それではいけないというので天武天皇の時代に律令制度が整備されていき、諸国の境界も定められていきます。それが683年です。その頃このあたりは大きな吉備の国があり、大きすぎるというので備前・備中・備後・美作と四つの国に分けられます。

そして、飛鳥から奈良に都が移るのが708年、その頃いろいろと都の政治にも乱れがあり、疫病が流行ったりしまして、偉い人も亡くなった、そこで時の天皇、聖武天皇が741年「国分僧寺尼寺建立の詔」を発せられ、国ごとに國分寺を造って、大きなお釈迦様を祀り、大きなお堂や七重塔を作って、金光明最勝王経という護国経典を読誦させて国家の安泰と作物がよく実りますように、人々が幸せであるようにと願ったのでした。

國分寺は、国を分ける寺と書くわけですが、ここは備後の國分寺ですね、隣には備中の國分寺、また西には安芸の國分寺があり、一つの国に一つの國分寺が造られ、全国に六十八ほどの國分寺がありました。國分寺が造られた頃の政治の仕組み、律令制度は、天皇を中心とする中央政府が万民に土地を公平に分け与え、その収穫の3%ほどを税とし他に労役兵役を課すという制度で、きちんとその制度が行き渡るように地方の各国にも役所、国府が置かれました。そして、先ほど申した通り仏教は世界水準の文化であり、お寺は最先端の文化の象徴でした。そこで、奈良の都には、東大寺を作り、各国には國分寺を造る。それぞれの国の中心にその権威を示すものとして國分寺が造られていったのです。

ここ備後の國分寺は、参道の入り口の道が古代の山陽道に面していて、その入口に南大門、入って左に東西24メートル南北16メートルほどの金堂があり、丈六仏と言いまして、立ち上がると一丈六尺、4メートル80センチもの大きなお釈迦様の座像が祀られていました。その右には高さが5,60メートルもある七重塔があり、中には聖武天皇勅願の「紫紙金字金光明最勝王経10巻」が祀られていました。この國分寺にあった経典は、今国宝となり奈良国立博物館に収蔵されています。その奥には金堂と同じ大きさの講堂があり、その他、お坊さんたちが二十人もおりましたから住まいとなる僧坊、食事をする食堂、鐘撞き堂、経典を納めていた経堂等があって、周りは高さが二メートルもある築地塀が約200メートル四方に巡らされていました。今のこの境内規模の20倍はあったと言われています。

ではなぜこの場所、御領というところに國分寺を造ったのか。それは、この地に弥生時代から大きな集落があり、例えば九州の吉野ヶ里遺跡というのは聞いたことがあると思いますが、ここは発掘調査が行われ御領遺蹟と言われる大きな集落の遺跡、また沢山の古墳が見つかっていて、それに匹敵するほどの大きな古代の都市があったところなのだそうです。ですから、人が沢山居て社会生活の中心だった、だから奈良時代になりここに國分寺が造られたのです。

ところで、お寺には仏様が祀られています。今の本堂、この伽藍は今から320年ほど前に福山城主水野勝種公が大檀那になり再建されたものですが、仏様はお薬師さま、薬師如来が祀られています。仏様とは何でしょうか。亡くなった人ではありませんよ、木の彫り物でもない。仏様はインドから来たわけですが、インドではブッダと言います。ブッダは目覚めた者という意味です。この世の中の真実、ありのままの姿、この世界の成り立ち、法則について本当に解った人のことです。

皆さんは、怒ったり、喧嘩したり、イライラしたり、悩んだりということがあると思いますが、それは本当のことが解らないからです。ブッダは、そんなことは一切無い、いつも幸せな気持ちでゆったりと落ち着いて、とっても楽に生きている人のことです。人間としての理想とする人格を備えた人。だから本堂に祀って、一生懸命私たちもそうなれるように努力する、そうした場所がお寺ですね。ですから、國分寺というのはその国の人たちがみんなそうした理想的な生き方が出来るように、幸せに暮らせるようにと願って作られたお寺だったのです。

皆さんの家にもお寺がありますね。仏壇です。仏壇は皆さんの家の仏様、ブッダを祀った場所です。皆さんも理想の人になれるように頑張って生きて欲しいし、何かあったら、仏壇の前に行って手を合わせて静かにしてると気持ちがスッと安らぎます。やってみて下さい。

長くなりましたが、この辺にしたいと思います。國分寺お参り下さってどうもありがとうございました。また近くに来たときにはお訪ね下さい。



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四国遍路行記39

2016年02月10日 19時12分01秒 | 四国遍路行記
八栗寺手前の土手下にあった遍路宿にお世話になり、ゆっくりと骨休めをして、翌朝も七時には八栗寺に向けて歩き出す。

少し行くと前方に五剣山が姿を現し、その裾野にケーブルカーの八栗登山口駅が見えてきた。駅の左手の道を行く。徐々に勾配が急になるが、三十分ほどで八栗寺山門にたどり着いた。五剣山の岩肌を背景に青々とした銅板屋根の本堂に真っ直ぐに進む。

第八十五番八栗寺は、天長六年(八二九)、弘法大師開基のお寺である。山号は、五つの峰が剣のように聳えていたからとも、この地で求聞持法を修していて五柄の剣が降ってきたからとも言われるが、寺号は、大師が唐に留学している間に八つの焼き栗の芽が出て繁茂したから八栗寺というらしい。

戦国時代には長宗我部元親の兵火により焼失するものの、文禄年間には復興し、現本堂は寛永十九年(一六四二)に藩主松平頼重が大師作の聖観音を祀り再建した。

朝勤行の気持ちを込めて、ゆっくりと理趣経をお唱えした。大師堂をお参りした後、家康の孫娘東福門院より賜ったという大師作歓喜天を祀る聖天堂に参拝する。早い時間なのに既に結構な人が参詣している。関西方面からも商売人たちの信仰を集める聖天さんには沢山の大根が祀られていた。

ケーブルの山上駅の方へまわり、東から南に向けて山を下る。土産物屋の前を通り進むと、歴代の墓が並ぶ。その中に高野山の管長をなされた中井龍瑞猊下の供養塔が目にとまり手を合わせた。五輪塔の側面から背後に足跡が記されている。阿字観という真言宗の瞑想法を多くの僧俗に宣布なされたことなどが目にとまった。体の小さな優しげなお方であったと地元の人からお話を聞いた。

山道を下り、親水公園から讃岐牟礼駅の前を通り、志度湾沿いの道を歩く。行く手に大きな五重塔が姿を現し、大きな草鞋が志度寺の仁王門を飾っていた。

第八十六番志度寺は、藤原不比等が開基したお寺だという。不比等の妹は唐の高宗皇帝に請われて妃になり、不比等が亡き父鎌足供養のために興福寺建立にあたり、唐に伝わる三種の宝珠を兄に送った。ところが、その船が志度の浦で難破して一つの宝珠を竜神に取られてしまう。宝珠を探すために志度を訪れた不比等は、土地の海女と情を通じて男児をもうけ、その子を跡継ぎにするとの約束を取り付け海女は海に潜り、その命と引き替えに宝珠を取り戻したという。

不比等は宝珠を興福寺に納め、この地に海女の墓を建てて堂宇を作り、「死度の道場」と名づけた。後にその男児は房前と名を改め、行基とともにこの地に来て、母の冥福を祈り大伽藍を造営したのだという。

国の重要文化財の本堂に上がり、理趣経一巻お唱えする。善通寺派のため、善通寺の遍照殿での朝のお勤めの時に顔を合わせた僧がおられ挨拶して外に出る。かなり広い境内ではあるが、木々が茂り苔むした五輪塔が所狭しと建ち並ぶ。潮風が漂う境内をゆっくり散策したいところではあったが、先を急いだ。

仁王門を出て、ひたすら南に向けて歩く。途中建設中の高速道路の高架の下を通り、平坦ながら車の多い道を一時間半ほどで第八十七番長尾寺に到着。仁王門をくぐり、広い境内を見渡す。今までのお寺と何か雰囲気が違うと思ったら、ここは江戸時代前期に天台宗に改宗されているのだという。

天平十年(七三八)行基がこの地を巡錫中に、道ばたの楊柳で聖観音像を刻み小堂を建て、後に弘法大師が入唐にあたり、この本尊に祈願して護摩供を修した。そして帰朝した大師は唐での大願成就を感謝して、大日経の一字一石供養塔を建立したといわれている。

その後度重なる兵火に遭い伽藍は壊滅しては再建を繰り返し、現本堂は藩主松平頼重によって再建された。頼重は、この長尾寺の本尊を「当国七観音随一」と讃え、秘仏として祀られている。

堂々とした唐破風の庇のついた本堂前で、急ぎ足で経を唱え、塔のように九輪がのった宝形造りの屋根の大師堂に参る。

ガランとした境内に大きな古木が枝を張っている。その下にあったベンチに腰掛けて、通り沿いのお店で買ったおにぎりをほおばる。まだお昼を過ぎたばかり、結願所大窪寺まで行けそうだ。



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お釈迦様のご真骨はいずこに

2016年02月07日 18時52分53秒 | 仏教小話
ある先生に勧められ、インドに居た頃、お釈迦様のご真骨を間近に拝む機縁を得たことをここに書き残しておきたいと思います。

あれは、比丘になった翌年のことなので1994年の二月頃、確かサールナートから日本に帰るためにコルカタに戻った頃のことであったと記憶しています。日本に帰りサールナートの無料学校のための寄付を集めるために、折角通い始めたサンスクリット大学を休学する手続きを済ませてタゴール大学のあるシャンチニケタンを経由して、コルカタに向かったのでした。コルカタのボウバザールの一角にあるベンガル仏教会の本部僧院に帰り着き、総長ダルマパル大長老に慌ただしくサールナートでの現地報告などを済ませ、日本に帰る準備をしたり、コルカタの僧たちにいろいろと教えを受けたりして日を過ごしていました。

そんなある日、昼食を済ませ自室で午睡を取っていると事務所に一本の電話が掛かってきました。すると僧院全体が慌ただしく賑やかになったと思ったら、ドアが叩かれ、あなたも来なさいというので総長室に行くと、僧院内の僧侶がすべて召集されていました。「いまインド博物館から電話があり、明日からブッダのシャリーラ(遺骨sarira)が特別展示されるに先立ち、我らビックサンガ(比丘僧伽Bhikkhu sangha)に法楽をあげて欲しいとのことなので、すぐにインド博物館に行くから、皆同行するように」とのことでした。

お寺のアンバッサダー(インド国産車)とマイクロバスに分乗して、コルカタのチョーロンギー通りに面したインド博物館の裏手に車は到着し、閉館日で誰も参観者のいない廊下を職員に案内されて、正面入口から入ってすぐのメインブースの前にやってきました。そして、その中に、お釈迦様の真骨が展示されていました。1メートル四方のガラスの中に白い綿が置かれ、その上に2、3センチほどの白いお骨がいくつも置かれていました。所々茶色く変色しており、日本で舎利と言われている小豆ほどの大きさの透明な仏舎利とはまったく異なり、まさに人骨の破片そのものでした。7、8人いた比丘衆はみな合掌し、しばし呆然とその舎利を見つめていました。

そして、その前にひざまずき三礼してから床に座り、ダルマパル総長の発声で、一同、「ナモー・タッサ・バガヴァトー・アラハトー・サンマーサンブッダッサー(阿羅漢であり正しく覚れるものであるかの世尊・お釈迦様を私は礼拝致します)」と三返お唱えし、

続いて、<仏の十徳>イティピーソー・バガヴァー・アラハン・サンマーサンブッドー・ヴィッジャーチャラナ・サンパンノー・スガトー・ローカビドゥー・アヌッタロー・プリサダンマサーラティ・サッターデーヴァマヌッサーナン・ブッドー・バガヴァー・ティ(かの世尊・お釈迦様は、供養されるに値する阿羅漢であり、正しく自ら覚れるものであり、智慧と行いに優れたものであり、覚りの世界によく行けるものであり、すべての世界をよく知れるものであり、この上無きものであり、よく制御せるものであり、神々や人間の師であり、真理を自ら覚った仏であり、聖なる方である)

<法の六徳>スヴァッカートー・バガヴァターダンモー・サンディティコー・アカーリコー・エーヒパッスィコー・オーパナーイコー・パッチャッタン・ヴェーディタッボー・ヴィンニューヒー・ティ(かの教えは、お釈迦様によってよく説かれたものであり、自分で見るべきものであり、時間を経ずして果を与えるものであり、自ら確かめつつ進むものであり、自ら心に獲得すべきものであり、賢者によって各々知られるべきものである。)

<僧の九徳>スパティパンノー・バガヴァトー・サーヴァカサンゴー・ウジュパティパンノー・バガヴァトー・サーヴァカサンゴー・ニャーヤパティパンノー・バガヴァトー・サーバカサンゴー・サーミーチパティパンノー・バガヴァトー・サーバカサンゴー・ヤディダン・チャッターリ・プリサユガーニ・アッタプリサプッガラー・エーサバガヴァトー・サーヴァカサンゴー・アーフネイヨー・パーフネイヨー・ダッキネイヨー・アンジャリカラニーヨー・アヌッタラン・プンニャケッタン・ローカッサー・ティ(お釈迦様の弟子の僧団は、よく法にしたがって修行するものであり、真っ直ぐに修行するものであり、悟りのために修行するものであり、人々の尊敬にふさわしく修行するものであって、この四双八輩といわれる弟子たちは、遠いところから持って来て供えるに値するものであり、方々から来た客のために用意したものを受けるに値するものであり、供えたものを受けるに値するものであり、合掌を受けるに値するものであり、世の無上の福田である)・・・・」とお唱えしました。

そして、読誦後再度丁重に三礼し、名残惜しく思いつつも博物館を後にしたのでした。その後、私は慌ただしく日本に帰り、今でも毎年本尊開帳法会などに出仕させていただいている東京都新宿区西早稲田の放生寺に居候させていただき、寄付勧簿活動を続けていました。日本財団からの協力金を獲得するなど予想外の進展を見て、いざインドへ戻ろうかと考えていた矢先に、インドでコレラが蔓延し、とても帰る状勢ではないとのことから早稲田のお寺で年越しすることになりました。そして、忘れもしない1月17日阪神淡路大震災が起こり、何度か現地に赴きボランティア活動に邁進、お釈迦様の真骨を拝ませてもらったこと、その時の感激もすっかり忘れ、その年の5月にコルカタの僧院に雨安居に戻っても、時折思い出してはその時の感動を話す程度のことで特段お釈迦様の真骨に関する調べをすることもなく過ごしておりました。

そして、今年の一月、先生がインドを再訪されるにあたり、インドの思い出話をしている中でお話したところ、それは本当に真骨と言えますかと先生に問われました。そこで、それは、19世紀末に、イギリスのペッペという考古学者が、インドネパール国境付近の村で、当時の文字でブッダの遺骨であると書いた舎利容器の中から発見し、それまで西洋世界ではお釈迦様を実在の人物とするのを疑問視する向きがあったのに、それによって実在した聖者であったことが証明されたこと。その真骨はタイに寄贈され、そこからスリランカ、ミャンマー、そして日本にも贈され名古屋の日泰寺に納められていることなどを話しました。そして、寺内にある書物の中から当時掘り出された舎利容器の写真なども見ていただきました。

この度、この一文を書くにあたり、改めて國分寺の書棚の中にあるペッペ発見の舎利に関する記述を当たり、またインターネットでも調べを進めてみました。

そこで、まずはじめに、日本にその真骨が納められたとされる名古屋にある覚王山日泰寺の公式ホームページから参照してみることに致します。日泰寺略記には、『「釈尊」の実在が立証される。19世紀東洋史上の一大発見 1898年(明治31年)1月、ネパールの南境に近い英領インドのピプラーワーというところで、イギリスの駐在官ウイリアム・ペッペが古墳の発掘作業中ひとつの人骨を納めた蝋石の壺を発見した。その壺には西暦紀元前3世紀頃の古代文字が側面に刻みこまれており、それを解読したところ「この世尊なる佛陀の舎利瓶は釈迦族が兄弟姉妹妻子とともに信の心をもって安置したてまつるものである。」と記されてあった。

これは原始佛典に、「釈尊」が死去した後、遺体を火葬に付し、遺骨を八つに分けてお祀りし、その中釈迦族の人々もその一部を得てカピラヴァツに安置したとある記載が事実であったことを証明するものである。当時19世紀の西欧の学者の間では、佛教の教祖である「釈尊」なる人物はこの地上に実在したものではあるまいという見方が一般的であって、一部の学者にいたっては釈尊信仰を太陽神話の一形式であるとの見方をしていたほどである。そうした状況がこの発掘によって一変し、「釈尊」の実在が立証され、まことに19世紀東洋史上の一大発見となった。

その後インド政庁はこの舎利瓶と若干の副葬品の呈出をうけ、舎利瓶その他はカルカッタの博物館に納めたのであるが、釈尊の御遺骨についてはこれを佛教国であるタイ国(当時シャム)の王室に寄贈したのである。時のタイ国々王チュラロンコン陛下は大いに喜ばれ佛骨を現在もあるワットサケットに安置しお祀りしたのであるが、その一部を同じく佛教国であるセイロン、ビルマに分与せられた。この時日本のタイ国弁理公使稲垣満次郎はバンコクに於いてこれを見聞し、羨望にたえず、日本の佛教徒に対してもその一部を頒与せられんことをタイ国々王に懇願し、その結果「タイ国々王より日本国民への贈物」として下賜するとの勅諚が得られたのである。

日本とシャム(暹羅)の友好を象徴する日暹寺(現在の覺王山日泰寺)の誕生 稲垣公使の通牒が外相青木周藏によせられ、直ちに日本佛教各宗管長に対して、受け入れ態勢の要請がなされ、当時の佛教13宗56派の管長は協議を開いてタイ国々王の聖意を拝受することを決定、明治33年6月に奉迎の使節団を結成し、正使に大谷光演(東本願寺法主)、副使に日置黙仙(曹洞宗、後に永平寺貫首)の他、藤島了穏(浄土真宗)、前田誠節(臨済宗)等がタイに渡り、6月15日バンコク王宮に於いてチュラロンコン国王より親しく御真骨を拝受し、又使節団が帰国後、佛骨奉安の寺院を超宗派で建立するとお約束を申しあげたところ、完成時の御本尊にとタイ国国宝の一千年を経た釈尊金銅佛一躯を下賜された。

奉迎使節団は御真骨を奉持して帰国後、京都妙法院に仮安置し、佛教各宗の代表が集って新たに御真骨をお祀りする寺院の建立計画を協議したが、候補地をめぐって意見が分れ、これの調整に甚だ難渋した結果、名古屋官民一致の誘致運動が最後に効を奏し、ようやく名古屋に新寺院を建立するとの結論を得た。ここに於いて名古屋市民あげての協力によって現在の地に10万坪の敷地を用意し、明治37年、釈尊を表す「覺王」を山号とし、日本とシャム(暹羅)の友好を象徴する日暹寺(現在の覺王山日泰寺)の寺号をもって誕生したのである。』とあります。

こうありますから、私があの日コルカタのインド博物館で拝んだ仏舎利、お釈迦様の真骨も、イギリス人ウイリアム・ペッペがピプラーワーで発見した遺骨に違いないと思っていました。しかし、たまたま数年前に手に入れていた、立正大学名誉教授中村瑞隆師の著書『釈迦の故城を探る-推定カピラ城跡の発掘(雄山閣出版)』(54頁)によれば、まず、1896年にお釈迦様の生誕を記念するアショカ王の建てた大石柱がネパール領のルミンディで発見され、それによって、そこが仏伝にいうルンビニ園であることが確定したのだといいます。そして、翌年イギリスのインド史の権威者ビンセント・スミスはピプラハワの遺跡を調査しているうちに巨大なストゥーパ(杉本卓洲「ブッダと仏塔の物語」によれば高さ6.8メートル直径35メートル)や僧院跡などを発見し、そのスミスの示唆を受けて考古学者ウイリアム・ペッペは1898年ストゥーパを縦横三メートル角に発掘したところ頂上から三メートルの所に石鹸石の壊れた壺を発見し、それよりさらに二・八メートル下で砂岩製の大石棺を発掘したのでした。

その中には、四個の石鹸石の壺と水晶の鉢、金板や銀板、ビーズなどの副葬品が入っており、中でも古い文字が刻された舎利壺(高さ15センチ直径10センチ)には、日泰寺のホームページに記されているように、「これこそがブッダの舎利壺である」と翻訳した学者があり、注目を集めたと記されています。オーストリアの東洋学者ビュラー、イギリスの仏教学者リス・デビッツ、ドイツのインド学者ビシェルらなど。しかしこのように「ブッダの舎利」と訳した人ばかりではなく、イギリスの東洋学者フリートなどは、「これは小さい妹たち、子供たち、妻たちといっしょのよき名声を持つものの兄弟たちの、すなわち、仏世尊の親族の舎利の容器である」と翻訳したとあり、「釈尊の親族の舎利」と訳すべきだとする東洋学者もあったということです。(同著55頁)

前訳が正しいとすれば、日泰寺のホームページにあるようにお釈迦様の死後舎利が八分されその一つはカピラバッツに安置されたとするので、ピプラハワこそがカピラバッツであるということになります。が、実はお釈迦様の重要な聖地の中で、お釈迦様が出家するまで生活されていたとされるカピラバッツのみ、その位置が未だに確定されていません。当時のことを知る手がかりとしての歴史書はインドには存在しません。インドには歴史を書き残す慣習がないからで、そのため、中国からインド世界を旅した二人の僧侶の旅行記こそが唯一の手がかりとなっています。それは、七世紀中期に中国からシルクロードを通って経典を求めてインドへ旅したかの高名な玄奘三蔵の『大唐西域記』と、それに先立つ五世紀初頭に主に律蔵を求めて旅行した法顕の西域旅行記『法顕伝』なのですが、残念ながら、このカピラバッツの位置に関する記録に相違があるのです。そのため、ピプラハワの西北19キロに位置する、もう一つの想定地であるティラウラコットと、新旧二つのカピラバッツがあったとする説まで唱える学者がある程なのです。ティラウラコットはネパール領になるのですが、その後ネパールの鎖国政策のため、半世紀以上もの期間この論争は沙汰止みとなっていました。

1950年、ネパールは民主国家となり鎖国を解き、1967年からネパール政府と立正大学でティラウラコットの共同発掘が始まり、インド政府も1971年からピプラハワの発掘を再開。1972年インド政府考古局発掘監督スリバスタブ氏が発表した研究雑誌には、大ストゥーパの中心部、ペッペが発見した石棺より下に煉瓦製の小室が二つ発見され、それぞれに径七センチ、径九センチの石鹸石の壺があり、中には黒く焦げた遺骨が入っていたとされ、明らかにペッペ発見の壺よりも年代的には古いものであると知ることができるということでした。ザ・タイムズ・オブ・インディア紙の報道には、さらに、このストゥーパ東の僧院跡からは31個のシール(粘土の丸い印)が発見され、そこにはカピラバストという文字が読み取れたとのことでした。そして、それにより長年論争してきたカピラバッツの位置はこのピプラハワに間違いなく、さらに、ペッペの発見した舎利壺は複製品であり、この度その下の小室から発見した壺こそが本物であるとインド側は主張したのでした。(同著60頁)

しかし、同著111頁には、ピプラハワの遺蹟は塔と僧院からなり、伽藍遺蹟であるのに対し、ティラウラコットはこれまでの発掘によれば城塞遺蹟であることが明らかになっていることからも、距離的には19キロと離れてはいるものの、カピラバッツとは、カピラ城という構造物の名ではなく、カピラ城を中心とする都邑として解釈すれば、各々の役割を持った地として把握されるのではないか、つまり、カピラ城のあった場所としてはティラウラコットが該当し、その後舎利が埋葬される仏舎利塔の出来る僧院群としてピプラハワがあるとするのです。

カピラバッツとはどこにあったのか、という副題まで含めて考察してきましたが、この問題を複雑にしている背景にお釈迦様の生存中にコーサラ国ヴィドゥーダバ王によって釈迦族が亡ぼされ多くの人がその地で亡くなっていることと無関係ではないと思われます。法顕の残した旅行記(平凡社東洋文庫『法顕伝・宋雲行紀』)にも、「城中に王民なく荒れ果てている、・・・カピラバストゥ国は非常に荒れ果てていて人民きわめて少なく、道路には白象や獅子が現れて恐ろしい、みだりに行くべきでない」とあります。だからこそ、舎利壺が近代になって手つかずのまま発掘することが出来たともいえるのですが。なお、お釈迦様の死後舎利は八分されて各々持ち帰った部族が仏舎利塔を建立して祀った訳ですが、それからおよそ百年後にインドを統一するアショカ王によってこれら八か所の仏塔に祀った舎利のうち七か所の舎利は掘り起こされ、それらを八万四千に分けて全国に仏塔を建立して祀ったといわれています。ラーマガーマのコーリヤ族の祀る仏塔はナーガが護るためアショカ王も手を出せなかったといわれています。お釈迦様の生誕の地であったればこそ、その後改めて舎利を納め後代に増高して大きな塔になって残されていったのでしょう。多くの釈迦族の人々が悲惨な死を遂げ廃墟と化した地でもあったがために、法顕の記すようにカピラバッツの仏塔はひっそりと近代の発掘を待つまで保存されたと考えられます。

はたして私があの日拝んだお釈迦様の真骨と思ったものは、本当にお釈迦様のご遺骨だったのか、やはり複製品だったのか。はたまたお釈迦様の親族の遺骨だったのか。現在インド博物館にコレクションされているブッダの遺骨について、いつ誰がどこから掘り出した遺骨なのか、実はインド博物館に問い合わせしているところであります。ところで、1972年のインド政府考古局の発表があっても、日泰寺はじめ、他の仏教国は、いまだにペッペが掘り当てた舎利壺から発見された遺骨を真骨とする姿勢に変わりはないようです。それを不思議にすら感じるのは私だけなのでしょうか。・・・。


現在のティラウラコット、ピプラハワを旅した人の映像記録がありましたので貼り付けておきます。
http://isekineko.jp/budda-kapilavastu.html


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