住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

華蔵寺に参って

2009年03月11日 09時25分31秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
一昨日3月9日、『朝日新聞愛読者企画、日本の古寺巡りシリーズ第六回、出雲国をゆく、鍔淵寺と華蔵寺』にて両寺を参詣した。鍔淵寺は深遠な厳かな雰囲気を漂わせる霊地に相応しい重々しさを感じさせてくれた。華蔵寺は松江城築城の際その鬼門として再建された伽藍を今にとどめる枕木山山頂の禅刹だ。鍔淵寺では残念ながらどなたともお会いすることがなかったが、華蔵寺は親しくご住職が出迎えて下さった。

本堂に上がり、心経一巻。かつて三島・龍沢寺の蝋八接心で唱えられた、あの独特の朗々とした力の籠もる禅宗の心経だった。その後御法話をいただいた。なんと現在一人でこの由緒ある大寺を守っているのだという。それも妻帯せずに。専門僧堂のお師家さんでも妻帯している人が多いと聞く。さらに檀家は20軒。どうしたらこれだけの伽藍を守っていけるであろうか。

現在住職されて四年半。本堂の雨漏りもあり、本堂や開山堂の修繕を発願された。そのため今年から、午前中は松江市内に托鉢に出ているのだという。寺務所の脇の柱には太めのビニール紐で編んだ草鞋が置かれていた。おそらくそれを履いて托鉢されているのであろう。私も知り合いの臨済宗の僧から教えられ編んだことがあり、それで四国を歩いたことを思い出させた。

しかし市内へ托鉢しても、どこの乞食坊主が来たかという顔をされ、なかなか効果が上がらないのだとも。ご修行は京都の建仁寺でなされ、こちらに来る前は大徳寺におられたとか。建仁寺は臨済宗を開いた栄西禅師が創建された最も歴史ある禅宗寺院であり、大徳寺は、大燈国師の創建で、応仁の乱後の伽藍をあの一休禅師が復興したことでも知られる。

一休禅師は、あるときひどく寒い時分に寺で焚き物が無くなると、仏像を燃せと言ったといわれるが、このとき華蔵寺の和尚も、こんな仏像が無くてもいいのが禅宗なのだと本尊の釈迦如来立像を指さして言われて、生きている私たち自身が仏であって大切にされるべき者だと。

あるとき京都の檀家さんの盆参りで小さな子供が「仏像はただの木なのに何がありがたいの?」と言ったところ、師匠は「そうだその通りだ、でも、そこにご先祖様みんながいて下さっているのだから大切にしなくてはいけないのだ」と答えたという。大人は社会の暗黙の決まり事の中に生きがちだけれども、そうした素直な物の見方が出来なくてはいけない。

今世の中は様々な凶悪事件に例を取るまでもなく若い人たちの心が荒廃している。核家族化、若い人は都会に出るなど、祖父から子に孫にという次世代に伝えていくことが難しい時代。できるだけ、仏壇のお供え、お墓のお参りなどによって、そうした大切さを伝えいくことで、心を病んだ若い人たちに無謀な方向に突き進む前に心を引き止める防波堤としなくてはいけない。

禅宗は言葉の前に形を示す教えでもある。石段、参道はきれいに掃除されていた。堂内の床も光り輝くほどに磨かれていた。冷たくてもしっかり水で絞った雑巾で自らの心を磨く如く心を込めて、決してやらされている何でこんなことしなくてはいけないのかなどと思うことなく行う。行いがそのまま人を作っていく、そこに生きることがそのまま修行となり、落ち着いた心が得られる。

禅宗は不立文字と言いながら沢山の語録が残されているが、『無門関』に「仏道とはいかに」と問われて、「仏道とは平常心是道」と答えるくだりが出てくる。仏道はどこまでいってもこれに尽きる。常に平常心。こうあらねばならない。今出雲では神仏霊場会が出来て、1200年もの歴史ある神社寺院がともにその歴史ある信仰の心をあらたに伝えようとしている。

ここに参って、その昔からある木々、自然の中に呼吸し、その当時の人々の心に心身ともに通じ思いを馳せて、今の私たちの心にその歴史ある伝統ある日本人の心を思い起こして欲しいと願っている。より多くの人に参詣いただき、心あらたに何事かを感じ取ってもらい、またこの寺の復興になればありがたい。

こんなご法話を頂戴した。揮毫も立派である。いい字をお書きになる和尚だ。私同様身体の大きな方でもない、年も私とそう変わらない。しかし、こんな厳しいお寺でたった一人檀務と修行の日々を送る、想像を絶するものがある。今の時代に誠に有難い方とお見受けした。色紙や短冊を頒布して何とか糊口を凌ぎ、托鉢して伽藍の復興を願う。精進料理のもてなしも出来るとか。福山からは泊まりがけで坐禅に来るグループもあるという。

お別れして2日となるが、未だにこの和尚の顔が思い出される。また是非ともお会いしたい方であり、出来るなら一緒に坐禅をさせて欲しいと思う。何とかいいようにお寺の復興がかなえられることを願い念じていたい。是非多くの人に枕木山華蔵寺をお訪ねして欲しい。

690-1111 島根県松江市枕木町205 臨済宗南禅寺派 龍翔山華蔵寺 TEL0852-34-1241

尚、今回もツアーの企画から実施まで倉敷ツアーズの金森氏、添乗には安川氏にたいへんお世話になった。この場をかりて御礼申し上げます。

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最高の尊格になれると教える仏教の教え

2009年03月05日 19時00分52秒 | 仏教に関する様々なお話
昨年は、確か私たちは仏教徒なんですが、皆さんそういう意識がありますか、とお尋ねして、仏教徒とは何か、皆さんの家の仏壇とはどんなものかなどという話しをしたように記憶しています。憶えておいでですか。で、この一年間、今年のこの法要あとの法話にどんな話をしようかと一年間かけて思案に思案を重ねて参りました。

それで、6年前にも仏教とは何かなどという話しをしましたが、仏教というのは学べば学ぶほど、そのすばらしさを感じずにはいられないものです。その第一とは何かというと、他の宗教と言われるものと絶対的に異なることがあるということに最近気づきました。

それは、何かというと、他の宗教では、絶対に神様でも何でも、その宗教が絶対的に上位にある尊格と同じになれるとは説いていないですね。ですが、仏教は、お釈迦様は自分と同じ境地を悟ればみんな阿羅漢ですよ、阿羅漢になれば私と何も変わりませんと言われています。そして、惜しみなくその教えをすべて隠すことなく教えられています。

もちろんその境地は、お釈迦様の教えを自ら忠実に歩んだ人だけが到達できるいわゆる最高の悟りですから、そんなに誰でもなれる訳ではない。ですが、お釈迦様の時代には結構沢山の人たちが阿羅漢になっている。私たちと同じこの世に生を受けた人が他の宗教で言えば神の位に到達できるということになりますが、そんなことを教えてくれる宗教はありません。みんな崇めなさい、信仰しなさいとしか教えてくれない。そこが仏教の一番凄いところではないかと思うのです。

もちろん今の時代にもそういう高みに向けて森の中で修行に励んでおられる人たち、修行者たちは大勢います。ですが、私たちは、そこまで出来ませんけれども、何回も生まれ変わりしながら徳を積んでそこに至ることが出来ようじゃないかというのが仏教の教えであって、その教えを生きる人々が仏教徒ということになります。

難しい話しをしてもきりがありませんから、じゃ悟りとは何かと言えば、最高の幸せということになります。皆さんだれでも幸せになりたい。ならば最高のものを最終目標にして、目の前の日々をどう生きていくかということを教えるのが仏教です。

なんだ仏教というのは供養の為じゃないのか、今日の法会も、法事もみんな供養の為じゃないかと言われるかもしれませんが、供養になるためには、お唱えするお経に功徳がなくてはいけない訳ですね。その功徳とは、そのお経を聞き、行じる事で、多くの人が幸せになる幸福に導かれる、だから功徳がある。功徳のあるお経を唱えるから、亡くなった人に回向できるということになる訳なのです。

それでは幸せになるために仏教では何を教えているのかと言えば、それは私たちの一番身近な勤行次第にすべて書いてあるのです。勤行ですから、まずは日々勤め励むことが必要だということですね。私たちどうしても怠ける習性があります。ですが、すべてのことが因果の世の中です。

良いことをすれば報われる、悪いことしていればダメになるというのが世の中ですから、勤め励む。精進という言葉も仏教語です。なんとか怠けたくても頑張っていこう、そこに必ず結果がついてくるはずだ、それには人種も肌の色も生まれも男も女もない、全くの平等な世界なんだということです。

で、次第に入りますと、まず礼拝ということがあります。何を礼拝するかと言えば、仏さまです。仏教を説いて下さった方ですね。礼拝というのは、敬う気持ちを表すことです。この敬う気持ちというのがあって、初めて私たちは何事かを学ぶことが出来る。学校の先生にも敬う気持ちを持たないから、今の子供たちは何も学ぶことが出来ないとも言うことができます。大切なことだと思います。

礼拝文を唱えるとき、自然と頭が垂れるというのが本来でしょう。自分の読んでいるものが自分自身の行となっているかどうかが分かります。勤行次第は自分自身のために読むのです。亡くなった人のためではない。自分の行いとして善行であるから、功徳となり、供養にもなる。自分の行いは自分にかえってくるというのが仏教の教えです。

それから、懺悔。これは、日頃の生活を反省するわけですけど、普通私たちの何かするときの判断の基準は、因果道理というよりも、それを無視して損か得か、好き嫌いで決めていることが多いわけです。それが、つまり貪瞋痴。三毒とも言いますが、私たちの心も身体も社会生活も破壊する毒だというわけです。そういう日頃の心をまずは反省する。

その上で三帰三境。仏法僧の三宝に帰依する。皆さんにとって仏法僧とは何でしょうか。仏は、仏さま、私たちの究極の目標である悟りを得られた人ですから、私たちの人生の理想とでも言うべきものです。法とは、その理想を実現するための道筋、マニュアル、僧とは、教えを伝え行じる出家の集団を言うのですが、私たちも仏教の流れの中にあるとすると、共に教え励む人たちということになります。

これらに帰依するというのは、仏教徒の条件でもあり、このことによって、私たちの生きる方針が明確になったと言うことでもあるのです。おかしなものに洗脳されず、理路整然と客観的に物事を見ていく、その因果の法則を見つつ生きるということです。

それから十善戒。戒律と言うよりも、善行為を勧めるものです。一つ一つの意味は申しませんが、そこに私たちの人生にとって大切なものがすべて表現されていると考えて、吟味してくださるとよいと思います。いのち、もの、社会、信頼、品格、慈悲、理性などでしょうか。

そして、発菩提心。これは、真言を唱えて、菩提つまり悟りを求めますと仏さまに宣言するものです。私は悟りを求めます。それを人生の目的にしますと仏さまに向かって宣誓するという意味合いがあるものですから、とても意味が強い。あまり皆さんそんなことを考えずに気楽に唱えていることでしょうが。

だから次に三昧耶戒。われは仏と一体なりと来るわけです。決して、到達できないものとしてではなく、つまり他の宗教のようにただ崇めるものとして崇拝するだけの存在ではない仏というものを自分の中できちんと意識して生活するということです。

それから般若心経を読み、十三仏の真言を唱えます。心経は、智慧の完成を説く経典ではありますが、それは舎利弗尊者に対して説いたものです。阿羅漢として最高の悟りを得られたお釈迦様の代わりに説法されたほどの方に対してのものですから、いろいろ不都合があります。

空を体得するために、五蘊、十二支十八界、十二因縁、四聖諦、などをことごとく否定していきます。しかしそれらはとても本当は大切な仏教の教えの根幹です。ですから、阿羅漢ではない私たちはそのことを学ぶ必要があるのですが、その話をし出すと終わらなくなりますから、大切な仏教の教えを記憶にとどめるためにも意味あるお経とだけ申しておきましょう。

それから十三仏の真言、光明真言など諸真言を唱えますが、これらは、インドの言葉そのままをお唱えして、それらの仏の徳に随喜して功徳を得る。祈願して回向もしますが、それはあくまでも、唱える人自らにとってプラスになることがたくさんあるからであって、それは意識するしないにかかわらずある。仏道を読むままに受け入れ学び行ずることになるのです。

仏教は平等や慈悲、寛容の教えです。だれでもが頑張れば幸せになれる、生きとし生けるものすべてがよくあるようにと考える教えです。こう申しますとこの厳しい経済社会では役に立たないと言う人もいます。

哲学思弁ではなく、食うか食われるか利潤を優先して他を圧倒するべき力学を説く宗教の方が今の時代に適しているかの如く言われてきました。それによって物質的な繁栄をもたらし豊かな生活を享受している私たちではありますが、しかし、だからこそ、今環境問題が叫ばれ、金融危機で世界的な大不況に陥っているのではないでしょうか。

仏教の説く経済はエスキモーの狩猟生活のようなものなのかもしれません。多く蓄えることなく自然界の生き物を大切に育みながら必要なものだけを頂戴する経済です。なるべく自然にかなう搾取よりは共生、競争よりは共存、瀟洒よりは清楚を求める。

何のおもしろみもないものなのかもしれませんが、それが本当は未来永劫私たちの生きる世界を大切に優先して半永久的に繁栄可能な社会なのではないかと思います。生まれ変わり生まれ変わりして私たちが悟りに到達するまでこの人間社会がずっと存続するためには未来永劫繁栄可能な仏教経済こそが必要なのだと言えそうです。

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