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保坂俊司先生著『インド宗教興亡史』に学ぶ

2022年07月20日 13時16分20秒 | 仏教書探訪
保坂俊司先生著『インド宗教興亡史』に学ぶ



中央大学国際情報学部教授で、比較宗教学、比較文明論、インド思想を専門分野とされる保坂俊司先生の新刊、ちくま新書『インド宗教興亡史』を拝読させていただいた。保坂先生の著作については、これまでにも何度か紹介させていただいてきた。前回は『梵天勧請思想と神仏習合に学ぶ』と題して紹介させていただいた。

梵天勧請として語り継がれるエピソードについて、それは、ブッダの覚りが仏教となるためには他者からの働きかけが不可欠であったことを示すのと同時に、それは他宗教と対立するのではなく融和融合共生を計ろうとする仏教の根本的な姿勢を表しているとされた。仏教は他者を自らの定着や発展に役立てるという神仏習合思想ともいえるこの根本構造をもつがゆえに、インドにおいては、イスラム教徒の侵攻に際しても融和共生を模索し歩み寄ったことが、結果的にイスラム教に改宗し飲み込まれてしまったのであると推論された。

そしてこの、異なる他者を受け入れ自己犠牲を厭わずに平和裏に共生関係を持とうとする仏教の特質は、現代の様々な宗教間の確執によって抗争する国際間の諸問題を解決し、世界を平和に導く原動力になるのではないかと提唱された。

そして、今回は、今まさに既存の世界構造が崩れようとしている国際情勢にあって、つまり近代以降日本が模倣するモデルとしてきた欧米の優位が大きく揺らぐ現実に、日本人は何をなすべきか。そのヒントとして、インドがあるといわれる。近い将来その存在が一層重要となるはずであるインドの、その文明について理解を深めることは、混迷する世界情勢を乗り切るために重要であるというのである。

ところで、インドについて考えるとき、まず一貫して最重要な要素として宗教の存在があり、様々な民族の交錯する坩堝の中で、それらが相互に影響し合い、総括的にインド文明と呼べる共通性を形成したのだという。

インド宗教を概観すると、まず先住民ダーサの宗教があり、そこに中央アジアから来てインドを支配した異民族アーリア人のヴェーダの宗教が入り、それらが融合してバラモン教となる。そして、その時代にダーサの宗教的伝統に強く影響された仏教やジャイナ教が新たに起こり、それらとバラモン教が並立する時代にイスラム勢力の侵攻があった。その後、インド仏教がバラモン教に併呑されてイスラム教と対抗すべく今日のヒンドゥー教になったと説明される。

第一章「ヒンドゥー・ナショナリズム」では、現在のインド亜大陸における各宗教の人口比からヒンドゥー教徒とイスラム教徒がともに、広大な国土を奪われたという思いをいだいていると分析される。そして現代にもその両者の抗争は継続している。

第二章「ヴェーダの宗教、バラモン教、ヒンドゥー教」では、ヴェーダの宗教からヒンドゥー教に至るインド土着の宗教の変遷が語られる。そして、その底流にある、被征服民が長い間培ってきたダーサの宗教を起源とする「出家と修行」という宗教形態こそが、インド亜大陸に普遍的な宗教の伝統ではないかと指摘される。仏教やジャイナ教ばかりか、シク教、外来宗教であるキリスト教、イスラム教、ゾロアスター教にもその伝統の影響がみられるという。

第三章「バラモン教とインド仏教」では、インドにおける仏教は、ヴェーダの権威を認めず、ブッダ自らの体験に基づく宗教的確信を自らの言葉で説き続けた、理性重視の開放型の宗教であったと分析される。その後仏教を支える民衆がバラモン文化の構成者なるが故にアートマンに準ずる存在原理を認める部派が生まれ、それに対抗するブッダの精神への原点回帰運動として大乗仏教があり、それはインドに定着した異民族の受け皿として機能する諸文明の要素を融合したハイブリッド仏教であったと定義される。

そしてグプタ朝の復古主義に抗えずバラモン教との共生へ転じた仏教は、さらにイスラム勢力のインド侵攻にも強く影響され密教化するにいたる。そして、バラモン教と融和共存関係を構築した仏教教団はバラモン教に併呑され、反バラモン教的集団はイスラム教に改宗し溶解していった敗北の歴史とみなされるという厳しい見方をされている。

仏教教団はヒンドゥー教の中に融解してしまったが、その後もブッダの教えは確実に伝わり、二十世紀の中葉、インド共和国憲法の草案作成者で、被差別階級出身の偉人アンベードカル博士(1891-1956)が、その独自性に共感し仏教に改宗、新たな仏教の再興運動を起こし、再び仏教はインド社会に開花した。それのみならず、ブッダの平等と平和の教えは、インド民衆の共感を得て大きなうねりとなっているという。

第四章「シク教の理想と挫折」では、十五世紀末に大乗仏教が栄えた西北インドに、ヒンドゥー教とイスラム教の融和を目指して生まれた小さな世界宗教であるシク教について解説される。開祖ナーナク(1469-1539)は、この世にヒンドゥー教もイスラム教も区別なく、「唯一の神の教えのみであり、それは真理を御名とし、真理こそ神である、真理以外に神はない」と語り、神の意志の実現として、日常生活において、利己的自我を制御して他者への奉仕を推奨したという。

そして、神はすべてに遍在するとして、常に神を意識して教団内にて倫理的な日常生活を実践することこそ救いであるとした。そして神の意志によって生まれた人間の平等を説き、宗教や出生における差別、性別やカーストなど一切の差別を否定するなど、大乗仏教にも通底する教えを説いたという。しかしその後、ムガル帝国の皇位継承争いに巻き込まれ軍事教団化して多くの悲劇を生むことになるのだが。

第五章「ジャイナ教、ゾロアスター教、キリスト教」では、独自の宗教の形態を維持して伝統を遵守してきた三つの小さな宗教について解説される。筆者にはそれら、小さな宗教なるが故の生き残り方に、これからの日本の国際社会での生き方がぼんやりと目に浮かぶ思いがして誠に興味深く読ませてもらった。

禁欲と死をも厭わない苦行を基本とする出家者とそれを支える在家信徒の伝統を守り通したジャイナ教。ゾロアスター教(インドではパールシーと呼ばれる)も独自性を維持したが、出家修行は重視せず、世俗の社会的役割を誠実に果たすことに救いを求める宗教理念により近代化を率先して受け入れ、インドの西洋文明化に貢献した。一方キリスト教は、南インド・ケララ州に多く居住し、コショウ貿易で莫大な利益をもたらすことでイスラム王朝時代にあっても弾圧されずに済んだという。

第六章「イスラム時代のインド」では、世界一律の普遍宗教を建前とするイスラム教のインドならではの多様性を明らかにしている。イスラム教は政教一元であり、多くのイスラム化した地域は短期間にイスラム絶対優位の環境を形成できたが、インド亜大陸にあっては、いまだに少数派であり、その状況に合わせたイスラム思想が発展したのだという。

八世紀初頭から始まるムスリムのインド侵攻には当初から二つの流れがあり、インドの巨万の富を略奪することを目的に攻撃して領域拡大に成功した侵略者としてのムスリムと、それと別にイスラム神秘主義を実践するスーフィーによる地道な布教者としてのイスラムの、この両者によりイスラム拡大がなされた。スーフィーはイスラムの基本を維持しつつ、多神教徒と共生する可能性を見出したという。インドのスーフィーの多くが、かつて仏教が盛んだった中央アジア出身者とその子息であったこともまことに興味深い。またアショーカ王と並び称されるムガル帝国第三代アクバル帝(在位1556-1605)は、自らもスーフィーの行者としての宗教体験をもち、宥和政策を積極的に実行。それから百年もの間、スーフィー的寛容精神によるイスラム・ヒンドゥー融合文化が大いに隆盛したという。

第七章「仏教盛衰の比較文明学的考察」では、比較宗教学、比較文明学の視点からインド仏教の衰亡について語られる。一切衆生の平等を説く仏教は、教えの上では、一般民衆さえも覚りを求めれば得られるとし、社会的には、バラモン教の階級差別により疎外された下層の人々や女性、外地から侵入し定着した異民族などを受け入れ成長したが、それによりバラモン教と社会的競合関係が生じて仏教盛衰の要因にもなったとされる。

インド・イスラムの最古の史料『チャチュ・ナーマ』(インド亜大陸へのイスラム教初伝の地でインダス川下流部のシンドの七~八世紀の事績を記述する歴史書・原典ペルシア語)からの内容を要約されて、六世紀にグプタ朝を衰退させ激しく仏教徒からの略奪を繰り返したフン族の支族エフタルが七世紀にはパキスタン中部一帯を支配する間に仏教に帰依して穏やかな民族に変わっていったこと、また七世紀頃西インドでは密教的な呪術によって藩王の護持僧となった仏教僧がいたこと、現在のパキスタン・ハイデラバード近郊の仏教寺院でイスラムに集団改宗した事例などが詳述されている。

また、宗教が国家社会の中心に位置付けられていれば当然のことながら政治にかかわらないはずはないのに、近代以降日本における仏教理解において仏教と国家の関係を論じることをはばかる風潮があるのは、明治政府の神道重視と廃仏毀釈の偏った宗教観、敗戦後の政教分離の弊害であると指摘されている。

以上、読み進めるほどに知的興奮を掻き立てられた。比較宗教学、比較文明学からの視点によって論述される内容に、多くの新たな知識を得ることができた。冒頭に述べた、他宗教と対立するのではなく融和共生を計ろうとする仏教の思想は、大乗仏教が世界宗教として成長を遂げた西北インドや中央アジアに縁をもつシク教、イスラム教神秘主義者たちの中に、今も生きているように思えた。

さて、本書の序章冒頭に説かれるように、眼を現今の国際情勢に転じると、この分断された国際社会を、私たち日本人はどう乗り切っていけばよいのか。インドはヨーロッパほどの国土の中に、はるかに多くの民族と宗教とを抱える、いわば国際社会の先駆者ともいえよう。三千年にも及ぶインド宗教の興亡の歴史は、これからの人類がいかにあるべきかを教えてくれている。そこから将来の日本の生き残り方も見えてくる。なぜ衰亡していくのか、繁栄するにはいかにあるべきか、是非本書に学んでほしい。



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松長有慶先生著『空海』を読んで

2022年07月15日 11時13分20秒 | 仏教書探訪
【六大新報令和四年七月五日号掲載】
 松長有慶先生著『空海』を読んで



松長有慶先生の最新刊・岩波新書『空海』を拝読させていただいた。岩波新書として、三十一年前に発刊された『密教』、八年前の『高野山』に続く三部作の三作目である。

読み始めてしばらくすると、さてこの本は何の本を読んでいるのかと不思議な感覚をおぼえた。それは、「あとがき」にもあるように、本書は弘法大師空海の生涯について歴史的に叙述されたものではなく、その生涯にわたる特徴的な思想を十の主題に分け、大師の全体像を著書、詩文、書簡類も合わせて総合的に把握せんと試みられた著作だからであろうか。

あるいは一般読者にも理解できるように、それぞれのテーマの説き始めが古代インド、ないしインド文化についてであったり、サンスクリット語の語彙や釈尊からはじまるからであろうか。それぞれに先生の幅広い見識が示され、仏教や密教の基本的な考え方から、大師の著作の本質的な意味に至るまで多岐にわたりわかりやすく解説しつつ論を展開されている。

十章に及ぶ主題は、まさに、十方から大師に光を当て新たなる大師像を多面的に現代に浮き上がらせているようだ。そしてそれは、「あとがき」にもあるように 間違いなく近代科学文明の危機を突破する糸口としての思想的役割があるはずであると思われた。

第一章は「果てしない宇宙と有限世界」と題して、大師の思想と生涯の活動の基底に瑜伽(=禅定・瞑想)が存在すると説く。若き日の大師が室戸の崎で真言を念誦して瞑想に励んでいたとき、明けの明星の鋭い光を全身に浴びた異次元体験から説き始められ、日常の現実世界から宇宙的規模で広がる無限の世界に入る唯一の手段は瞑想を措いてないとされる。それは、仏教でいう禅定のことであり、一般読者にも理解できるように三学、止観、四念処、マインドフルネス、そしてインド密教にまで話が膨らみつつわかりやすく解説される。私たちもその瑜伽を人生の根底に置くことが必要だと諭されているように思われた。

第二章は「自然観」と題して、大師は現実世界そのものである大自然の中に仏の教えを聞き取ることを教えていると説く。インド密教の伝統である瑜伽を山林において実践せんとする大師は、平安初期の律令体制下に新来の密教を定着させるため都において活動される一方、山林に入り瑜伽観法に耽ることを常に模索されていた。そして弘仁の末頃からは、俗事を避け深山に籠り、修禅に専念することを求められたという。それを『性霊集』の詩文や『高野雑筆集』の書簡を紹介しつつ丁寧に読み解いていかれる。

第三章は「対立と融合」と題して、その自然と人間、カオスとコスモス、聖と俗というような対立する概念も、本来融合し一体であるとする考え方について説く。仏と人について大師が解明した即身成仏思想について『即身義』の二頌八句を解説され、大師は、対立する存在ももともと大宇宙の一つの真理の両面に他ならず、仏も人も、物と心ももともと一つなのだと主張したという。現代の環境問題について考えるとき、生きとし生ける者の成仏を願い、一切のものは仏の三摩耶形と捉える大師に学び、植物や小動物、山や土の苦痛を感じとれる感性をもてと先生は諭されている。

第四章は「自と他」と題して、自と他の密教的な関係性について説く。日常生活を成立させるために欠かせない自他の関係について、代表的な五つの関係性を挙げて説明され、同化や排除ではなく、個体Aと個体BがBの個性を保持しつつAがBを包摂して一体化する密教的なあり方を解説される。大師が『三教指帰』に示すように、儒・道・仏の三教は最終的に一致すると捉えるその関係性も、また『十住心論』において、第九住心までの各段階も第十住心の秘密荘厳心から見ればすべて密教に外ならないとする関係も、ともに包摂的な関係と捉える。相手の宗教的信条、価値観、社会観が異なっても、異質な面を見て排除するのではなく、こちらからは欠点と見えるものの中に逆にかけがえのない長所を見つける目を育てることが大切であると諭される。

第五章は「読み替え」と題して、大師の著作について、いたるところに施された文字と文章と思想の読み替えについて述べられる。それらについて古くから、文書の写し間違え、語学能力への疑念などがあったというが、一見不合理な記述の中に、独特の見解や密教眼からなされた真実の読み取り、解釈が含まれているとされる。これも瑜伽観法の体験から来る自らの見解への確信によるものと言えまいか。

第六章は「仏陀の説法」と題して、釈尊による初転法輪から説きはじめられ、大師の仏身論について説く。顕教の三身説から、その中の法身を四種に開いた密教の四身説などについて丁寧に解説される。そして、大師は法身のうち自性身と自受用身は時空を超えて説法し続けているとされ、私たちはいつでもどこでもそれを受け取れるという。しかしそれはそう簡単なことではない。無限の宇宙からの「声なき声」を受け取るためには、宇宙から発信されるものを受信できるよう瑜伽の行を積む必要がある。大師はこうした五感でしか捉えきれない感覚文化を巧みに把握する装置を全身に備えていたに違いなく、そうして隠されている永遠の真実なるものを日本に移植し定着させようとしたのだと説かれる。

第七章は「教育理念」と題して、綜芸種智院の開創から筆を起こされ、大師の思想の核心について述べられる。二〇一〇年、先生が全日仏会長時代に「世界経済フォーラム」年次総会に招請され、その時に準備された講演要旨の日本語版が全文掲載されている。その内容が現代社会に対する大師の教育論になっていたとされるが、そこには現代社会の危機に対し有効と思われる提言が三つあげられている。①生きとし生けるものが相互に関連し、もとより一体として存在していること。②地球上に存在する各々の文化は影響を与えつつ独自の価値を持っていること。この二つは、グローバル化によって価値観が単一化されつつある今の世界にあっては正に不可欠の視点であると思われた。また③現代社会に生きていること自体が地球環境の破壊に関与しているという意識から社会のために何が出来るのか、環境保存のためにどのように寄与できるかを考える事態が到来していると指摘されている。

第八章は「国家と民衆」と題して、大師の国家との関わりについて説く。ともすると大師は歴代天皇に親近し国家に奉仕した封建的な人であったと評価されるが、『性霊集』の上表文などを引いて、あくまで天皇とは私的文化交流に過ぎず政治関係の話はなかったとされる。また四恩説について解説され、本来大師の考えられる四恩は中国や日本で古くから認識されていた生きとし生けるもの全体を漠然と指すものだという。そして、大師はよりスケールの大きな宇宙的な規模での目に見えぬ恩恵を享受して生かされていると考えられていたであろうとされ、それに対する密教的恩返しは無限に継続する利他行によってつぐなうことではないかと説かれる。

第九章は「生死観」と題して、人の生死について、大師はどのようなお考えをお持ちであったかを『性霊集補闕抄』から噠嚫文や願文を参照して説く。病や死をもたらすのは、その人の過去の業によって引き起こす鬼神の仕業とされながらも、古来仏教の説く無常を覚ることによって死を越える、あるいは真言密教の教義を深く説き訴え成仏を祈られたのだという。 

第十章は「入定信仰」と題して、入定とは何かその意味について、それから入定留身説の宗教的伝承の意味について説かれる。そして、今なお高野山の奥の院に生きて御身を留め人々の救済に尽力されているとされるのはなぜか。それは、その根底にある非合理な表現によってしか真実の意味を伝えることの出来ない宗教的表現なのだと論じ、その主な理由に二つあるとされる。その内容に、これこそ正に大師の大師たる所以と納得した次第であるが、それは実際に読んでお確かめ願いたい。

以上、一章一章、まことに濃く深い内容が凝縮している。まさに六十数年に亘る先生の丹精を込めた研究の結晶とも言えようか。来年には、弘法大師御生誕千二百五十年の記念すべき年を迎える。この機にあたり、改めて大師の思想と足跡について現代的な意義を学び直す格好のテキストとなるに違いない。是非手にとってじっくりと味わいつつお読み下さることをお勧めしたい。


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松長有慶先生著 『訳注 弁顕密二教論』を読んで

2022年02月20日 17時20分38秒 | 仏教書探訪
【六大新報令和四年二月五日号掲載】
松長有慶先生著
『訳注 弁顕密二教論(べんけんみつにきようろん)』を読んで




松長有慶先生の新刊、訳注シリーズの最終巻となる『弁顕密二教論(以下『二教論』と略す)』(春秋社刊)を拝読させていただいた。表紙の帯に、『なぜ密教はすぐれているのか。法身説法(ほつしんせつぽう)を高らかに宣言した代表作!』とある。あとがきには、唐より自ら請来(しようらい)したすばらしい教えを一刻も早く日本宗教界に着実に伝えたいという大師の使命感に燃えた切実な思い、異常な熱気が漂う著作であるという。

『密教辞典』(法蔵館)には「真言宗の判教のうち横の判教を説く(竪の判教は十住心論)。専ら顕教(けんぎよう)と密教との区別を明瞭にした立宗宣言の書である。六経三論を典拠に挙げて縦横に論陣を張る。」とある。確かに一読してみると、多くが引用文献の叙述で埋められており、これまで読ませていただいた三部書に比べるとかなり難解に思われた。

しかし、これまでのシリーズ同様に冒頭「『二教論』の全体像」が説かれ、『二教論』とは何かを簡潔に知ることが出来る。『二教論』の主眼は、一つに法身説法の可否、二つ目に果分(かぶん)の説不、つまり覚りの境地を説きうるか否か。そして三つ目にきわめて簡略ながら即身成仏についてとある。本編も、これまで通り【要旨】に解説を添えられ、わかりやすい【現代表現】により難なく読んでいける。そして、【読み下し文】と丁寧な【用語釈】が続く。

本編は上下巻に分かれ、上巻は弘仁のごく初期に、下巻はやや遅れて撰述されたであろうという。

早速本編上巻を読み始めると、序論にて仏身を法身、応身(おうじん)、化身(けしん)の三身に分け、顕教と密教の違いについて説かれる。つまり、応身と化身の教えが顕教であり、法身仏の中でも自らの身から流出した眷属(けんぞく)に対し自らお覚りになった境地を説く自受用法身(じじゆゆうほつしん)の教えが密教であるとする。

本論では、まず問答があり、経典を読む人の見識素養によって内容の理解が違い、経の内容も聞き手によって異なるとして、顕教は相手に応じて説く仮の教えに過ぎないのに対し、密教は真実に言及した究極の教えである、と論を進めていく。

そして、先生が大師の教学に重要な地位を占めるとされる、大乗起信論(だいじようきしんろん)の注釈書『釈摩訶衍論(しやくまかえんろん)』による五重の問答が示される。これは本覚を具えた者がそれぞれ到達する覚りを五段階に説き、その五段階目を密教に配当し、それらの深浅を語るものではあるが、大師はこの五重の問答には甚だ深い意味があり、よくよく吟味し尽くし最終的な真理に到達すべきであると諭されている。何度も精読すべき箇所と言えよう。

次に、四家大乗と言われる華厳・天台・三論・法相(ほつそう)の各宗の教えにおいて、覚りの世界を表現することはできないとする経典論書の箇所を取り上げて、各宗ごとの果分不可説(かぶんふかせつ)を説明していかれる。それにより大師が各宗の覚りの本質をどう捉えていたか知ることができる。

たとえば華厳宗については、法蔵の『華厳五教章』を引用し、華厳の法界縁起の世界は因と縁が互いに関わり合い、あらゆる事象が永遠に自在に休みなく活動しているとするが、その世界は真理の世界(果分)と現実世界に分かれ、真理の世界について究竟果分(くきようかぶん)の国土海とか十仏の自体融義(じたいゆうぎ)などというが通常の言語文字では表現できない、つまり果分不可説であるとする。

天台宗についても、天台智顗(ちぎ)の『摩訶止観』を引用し、天台の教えの肝要は空・仮・中の三種の真理であり、一念の中にその三諦を悉く観じ取ることを極めつきの妙境とみなしているが、仏と仏との間だけが分かり合える境地で、どのような言葉でもってしても表現を超えているとしており、果分不可説であり、真言の立場からは入門の初期段階に過ぎないという。

それに対し、密教の果分可説について、先生は有力な典拠として下巻にある『分別聖位経(ふんべつしよういきよう)』をあげておられる。その部分を要約すると、「法身大日如来の自受用法身仏は、その心髄から無量の菩薩衆を流出し、これらの諸仏諸菩薩は他者に説くのではなく、自受法楽のためだけに、自ら覚った境地を説く」とあることから、自受用法身として覚りの境地を説く果分可説であるとせられる。

そして、上巻の最後に、即身成仏について述べられる。『菩提心論』の中に、顕教と密教の深浅、成仏の遅速、勝劣がすべて説かれているとして、真言の教えの中だけに秘密真言独自の瑜伽の体験内容が明らかにされていると述べる。

下巻は、まず、密教の勝れていることを『六波羅蜜経』と『楞伽経(りようがきよう)』を引用し論述していく。『六波羅蜜経』からは、三蔵に般若蔵、陀羅尼蔵を加えた五蔵について説く第一巻を引用され、五蔵を乳・酪・生蘇・熟蘇・醍醐の五種の味に譬え、陀羅尼門(密教)こそが微妙第一とされる醍醐の味に該当し、諸病を除き人々を心身安楽ならしむものとして経典類の中で最高であるとする。

そして、『分別聖位経』、『瑜祗経(ゆぎきよう)』、『五秘密経』、『大日経』、『大智度論』などを典拠とされ法身説法とは何かを論じていく。その中には様々な示唆に富む文言が綴られ多くの傍線を引くことになった。

それらの引用文中に、不読段が三ヶ所ある。それは中世の事相家によって自己の流派の伝承を尊重し秘伝を重んじる影響と説明されるが、先生は本来日本に初めて請来した密教を朝野に広く認識されるために撰述された本書の中に、読まれては困る箇所がいくつもあるのは矛盾するとされて、すべてを他と同様に解説されている。

筆者には、その不読段部分に、日々の実践において参考になる内容が多く含まれるように思われた。そうした内容を、わかりやすい【現代表現】によって読めるのも誠に得がたいことである。例えば『五秘密儀軌(ごひみつぎき)』に「阿闍梨は普賢の覚りの境地に住して弟子の心中に金剛薩埵を引き入れると、弟子は阿闍梨の不思議な力によって密教の核心を身につけ、弟子の自我に執着する生まれつき持つ種子(しゆじ)を根本的に変えてしまう(要約)」と記されている。灌頂の儀礼にあたってとはあるが、日頃から心掛けていたい内容に思えた。

また、『瑜祗経』の説く法身説法において、その引用文中に「(法身とは)五智の光明は常に過現未の三世に及び、暫くの間も休むことなく衆生教化に努める平等の智身である。・・・智とは心の働きで、身とは心の本体。平等とはそれらが宇宙全体に遍満することである」、また『大智度論』には「仏に二種の身がある。一つは法性の身、二つには現実の父母より生まれた身である。初めの法性、すなわち真理そのものを身とする仏は、常に光明を放ち常に説法されている。衆生の心が清らかな時には仏が見え、心が清らかでない時には仏が見えない(抄録)」という記述がある。お釈迦様は覚りえた真理である縁起の法は自らの出世にかかわらず永遠に存するといわれたが、つまりは三世に及ぶ真理そのものである法身の説法からすべての教えは転じられているということであろうか。そして、今この瞬間にも時空に遍満する法身の、その光と声を感じとるためにも心清らかにありたいものである。

大師の教学が私たちの日常の信仰や教化、また自らの人生に意味あるものとしてどう捉えられているか。寺院を支え、檀信徒を導く上で、それはどういう働きとなっているか。そこに意味を見出せぬなら何の価値もないものとなる。どう大師教学をいかに今の時代に活かせるかが私たちの仕事であろう。

この『二教論』が、現実に私たちの力となるには何をどのように読み取るべきか。急激に変化する時代への対応、社会的問題への取り組み、地方の再生・活性化、災害や環境問題などについて考えるにあたり、どの宗派寺院も宗派色より協調、融和、共同を重視する傾向にあると言えようか。そうした時代だからこそ、密教としての真言宗はその独特なる発想が求められているのではないか。思想の原点にある違いを改めて学び直すことはそういう観点からも意味あることに思われた。

今年九十四歳になられる松長先生が、高野山大学の密教文化研究所において大学の先生方と祖典研究会を開いて、七年間も講読を続けてこられたという。その五冊目の成果が本書である。是非御一読をお勧めしたい。


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松長有慶先生著 『訳注 吽字義釈』(春秋社刊)を読んで

2021年09月11日 08時10分38秒 | 仏教書探訪
(六大新報令和3年7月15日号掲載)
松長有慶先生著 『訳注 吽字義釈』(春秋社刊)を読んで

松長有慶先生の新刊、訳注シリーズ第五巻『訳注 吽字義釈(以下『吽字義』と略す)』(春秋社刊)を拝読させていただいた。

実は昨年からこの時期に本書が発刊されることを承っていたので予習にといくつかの解説書を手にしたのではあったが、どれも難解で理解するに至らなかったのである。しかし本書を拝受し、その概説に続き本論特に【現代表現】を中心に読み進めてみると、私のような初学者にもとても分かりやすく、一日で最後まで読み通すことができた。

表紙の帯には、「文字と真理の密接な関係性を解き明かす、空海思想の代表作!」とある。早速頁をめくると、まず「『吽字義』の全体像」が説かれ、『吽字義』とは何かを簡潔明瞭に知ることが出来る。

『吽字義』は、言うまでもなく『即身成仏義』(以下『即身義』)『声字実相義』(以下『声字義』)とともに三部書の一つとされてはいるけれども、大師の多くの著作の中で、題名の最後に「論」ではなく「義」とするのは三部書に限られ、そこには何らかの意図があるはずであるという。

ところが近年の解説書には、『吽字義』に序文がないなどの理由から、『声字義』を補足するものであるとか、また三部書全体を即身成仏の書ととらえ、五大と識大の六大について述べる『即身義』のうちの、五大については『声字義』において、識大については『吽字義』において、それぞれの意義を明らかにしているとする説もあるという。

しかし先生は、三部書はそれぞれが別個の著作目的があるとされ、日常の言葉や文字がそのまま真実なる実在、宇宙の根源的な存在と直接的に繋がっているとする密教独自の言語観について論じるにあたり、特に「声」の問題について取り上げたのが『声字義』であり、視覚的な特色を持つ「文字」を主題に撰述されたのが『吽字義』なのであると解説される。

その文字とはなにか。そもそも大師は密教経典に綴られた文字や言葉では了解し得ぬものを感じ、唐に渡られ恵果阿闍梨に出遭い灌頂壇に上られて両部曼荼羅を拝した。そして、密藏の要点は曼荼羅の中に象徴的に表現されると考えられた。しかしその後、密教の核心を身体的に会得した結果、文字や言葉の中に込められた真実に気づかれ、文字それも悉曇文字の中に大自然の道理が凝縮されて存在していることに目覚められたのであると推察されている。

では、なぜ多くの悉曇文字の中から吽字が取り上げられたのか。サンスクリット文字は阿字に始まり吽字に終わる、その最後の文字だからではあるが、常用経典である『般若理趣経』の総主である金剛薩埵の種子が吽字だからであるとされる。人間の欲望の積極的展開と利他行を主題に金剛薩埵の瑜伽の境地を説く『般若理趣経』の、その利他行と瑜伽を一体化して説く独自の考えを説くものとして、この『吽字義』は大師の著作の中でも特別の意味あるものであるという。

そのことは、本論の最後に、金胎両部の大経は三句の法門に集約されるとしてその一体化を説き、大小乗それに顕密の一切の教説も三句を超えることはないと説くことで、それらが最終的に利他行に帰すことを解き明かしていることからも、『吽字義』の実践的主体性を問題とする姿勢を読み取ることができるとするのである。

撰述の年代については、これまで確定的な見解がないとのことではあるが、『吽字義』本文中に十住心に関連する箇所があり、その内容から未だ十住心思想の形成段階にあり、また本文の最終箇所において金胎両部不二の立場を明確にされた記述のあることから、弘仁末頃の撰述と推定されている。

そして本編に入ると、現代語訳にあたる【現代表現】は現代人の私たちが容易に理解できるよう簡潔な解説を補足した文章となっている。所々【読み下し文】や【原漢文】、【用語釈】などを参照しながら読み進めていける。【用語釈】においては参考文献の略記号に該当する頁数が記され、解釈の異なる重要箇所では多いところで十三もの文献を比較検討されているところもある。

『吽字義』は序文がなく、本文が「一つの吽字を相義二つに分かつ。」という一文から始まる。表面的な意味である字相と文字が含み持つ本来の意味である字義に分け、吽(hūṃ)字は賀(訶ha)字、阿(a)字、汙(ū)字、麽(ma)字の四字の意味を含め持っているとして、字相としてこれら四字のそれぞれの表面的な意味を説き、それから『大日経』『大日経疏』等を典拠に、字義として四字の本来の意味が説かれていく。

次に、それら四字一体の字相字義など吽字の総合釈が説かれる。

吽字を四種の仏身(阿字は法身・訶字は報身・汙字は応身・麽字は化身)にあてはめると現実存在のあらゆるものが含まれ、そればかりか吽字を四字に分けると各々の字が、それぞれすべての、真如、教え、行、その成果を包摂しており、吽字には理・教・行・果が悉く含まれると説く。

そして、両部の大経である『大日経』『金剛頂経』の教えは、ともに「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする」という三句に集約されると説かれるが、これは金胎両部の一体化を意図するものであるという。さらに諸経論に説かれる真理のすべてもこの三句の法門に収まるとされ、この三句をまとめると吽字一字になり、さらに、その他すべての悉曇文字に含まれた教えも同様であると結論している。最後に吽字解釈の総括として六種の利他行について述べられる。

先に記したように、先生は『吽字義』を利他行と瑜伽を一体化して説くものであるとされるが、私どもにとっての瑜伽とは日々の修法に他ならない。修法において特に該当するのは道場観、字輪観であろうか。 

先生は、ご著書『祈りかたちとこころ』(平成26年春秋社刊)の「付録・阿字観の基礎知識7文字に含まれるそれぞれの深い意味」の中で、「インド人は仮名や漢字やアルファベットを使う人々とは違って、文字を見ただけで、その文字に含まれている深い意味を直感的に把握することができます。言語に対する感性の違いといっていいでしょう。このような言語に対する特別な感性を持ち合わせない、サンスクリット語圏外の人は、字輪観の中で、一々の文字に言葉による説明を付け加えながら観想する必要が生まれます。」(一六八頁)と記しておられる。

インド人のような文字に対する特別の感性を持ち合わせていない私どもに対し、大師は懇切にその深秘を『吽字義』において教示して下さったということであろう。そして、宇宙の根源的な真理と直接的に繋がるものとして言葉や文字をとらえ、感応道交するために、いかに工夫を凝らし観想していくかということが問われているように思われる。

『吽字義』は、悉曇文字が私たちの想像を遙かに超える奥深い意味あるものであることを教えつつ、それを心中に観ずるとき、そこにはすでに真実実相の世界が開けてあることを直感せよと迫っているようにも思えた。

大師の深淵なる思想を、現代に生きる私たちにもわかるように学ぶ機会を与えて下さいましたことに感謝申し上げます。皆様には御一読下さることをお勧めいたします。

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(5/20追記あり) 花山信勝著『巣鴨の生と死-ある教誨師の記録』を読んで

2021年05月17日 13時33分15秒 | 仏教書探訪

花山信勝著『巣鴨の生と死-ある教誨師の記録』を読んで

1995年7月発行の中公文庫・花山信勝著『巣鴨の生と死-ある教誨師の記録』を再読した。阪神淡路大震災の年に発行されているので、おそらくボランティアで、何度も神戸と東京を往復し、その後インド・コルカタの僧院で雨安居を過ごしてから帰国した頃購入した本であったろうと思われる。どういう思いでそのころ読んだのかは思い出せないが、この度再読したのは、昨年夏頃から毎週楽しみに視聴しているYOUTUBEの音楽報道番組『HEAVENESE STYLEヘブニーズスタイル2021.2.21号』にて東條由布子さんを紹介されていたことにある。

その番組を拝聴しながら、先の戦争開戦時の東条英機総理が戦争犯罪人という汚名を一身に背負わされたのは、報道機関並びに日本人一人一人の責任転嫁に外ならないと思われた。翼賛体制に置かれたとはいえ報道機関も戦争に加担し国民を扇動した責任を、あたかもすべて一人の軍人総理の責任にしてしまいたかったのである。当然そこには当時の宗教者仏教者も含まれる。昨日まで軍国主義一色だった国民が手のひらを返したように一人の人に責任を押しつけて平和を叫び、おのれの不明を無きものにしたかった。

日本を勝ち目のない戦争に向かわせ、アジアの国々を侵略した極悪非道の張本人に戦後仕立て上げられ、その汚名に一切の弁解もすることなく、すべての思いを胸に秘め亡くなった祖父を思い、東條由布子さんは昭和から平成の時代になって、それまで閉ざしていた口を開き、勇気をもって祖父の実像と真実の歴史を語りだされたという。その後、文春文庫・東條由布子著『祖父東條英機「一切語るなかれ」』を拝読した。小さなころに触れた真面目で律儀で家族思いの祖父の面影、そして戦後東條の名を伏せて近隣に知られぬように何度も住まいを変えたこと、兄弟姉妹は小学校に編入しても「東條憎し」ですべての先生が担任を拒否して入るクラスがなかったという悲惨な体験話など、今ではあり得ないような非情な時代のことごとが綴られていた。

その本を読み終えようとしたころ、本棚のどこかにあった本書『巣鴨の生と死』のことを思い出した。探し当て、毎日少しずつ四百ページの本を二か月ほどを要して読んでみた。著者の花山信勝師は、浄土真宗の学僧で、昭和21年から34年まで東大教授、日本仏教史を専攻し聖徳太子の著作研究が専門である。

巣鴨拘置所での仕事

話は、昭和21年2月28日巣鴨拘置所で初めて法話した日の出来事から始まっている。二階のチャプレンスオフィス隣の広間に特設の仏壇を置き、六十名ほどの独房に収容された人たち、それから別に雑居坊に入っている人たちに向け、それぞれ一時間ほど読経と法話をされた。それから週に二日、四回の法話と週に四人から十数人の絞首刑者や精神異常者の個人面談をしたという。が、聞く方からすれば月一回の法話と面談は三、四か月に一回しか日が回ってこない勘定になる。そこで、その間は浄土真宗関係が多いが仏教書を差し入れて読んでもらっていたのだという。それらの書籍を列記すると、仏教要典、正信偈講讃、観音経講義、白道に生きて、仏教の精髄、歎異鈔講話、真実の救い、信仰について、生活基調の宗教、霊魂不滅論、他力真宗、苦悩を超えて、などなど。

そうして、A級戦犯の刑が確定し執行されるまでの3年間に亘り、師の教誡は続けられた。回数を重ねる毎にしだいに、緊張し真剣に法話を聞こうという気持ちに進む人が多く、ともに念仏を唱えたり、深々と頭を下げて合掌して退室する人が多数現れたという。師が見送った人たちは、戦争犯罪などの死刑囚としてランクされたBC級二六人が絞首刑、一人が銃殺刑。平和に対する罪としてのA級絞首刑が七名である。

BC級戦犯の絞首刑に当たっては、刑執行の前日には本人の独房に入り一時間程度の面談をし、家族への伝言や爪や髪、お守りなどを預かる。その後教誡事務所で過ごしたあと、執行時間前にもう一度独房に入り、紙と鉛筆をわたし書きたいことを書かせ、それから一階に下りて三四分歩いて刑場に入る。執行にあたり、刑場の仏間で線香ロウソクをつけ、父母そして自分の分として三本の線香を供えさせ、読経し、君が代などをともに歌い、仏前に供えたコップの水を飲ませ、アメリカ製のビスケットを食べさせる。

刑場に見送ると、しばらくしてガタンという音がして、それから半時間ほど後には、霊柩室に一尺五寸ほどの棺が運ばれてくる。蓋をとると、頭から足先まで丁寧に真っ白な木綿で包まれており、その前で師は阿弥陀経を読み葬式に換えることを常とされた。しかしその後遺骨がどのように処理されたのか、どこに埋葬したのかは米国軍規で知らされることはなかったという。師は各々の受刑者に「光寿無量院釈◯◯」という戒名を授け、遺族に送った。

信仰に目覚める戦犯たち

BC級被告の中には、『往生要集』の和訳を三回読みかえす信仰家もあった。この方は父親に向けた手紙の中に、「・・・この死刑ということが自分の人格をさらに一段と向上させてくれたと思っています。億劫にも得がたい如来の御縁をうけることができたのはまったくこの不運がきずなとなったわけです。人間は身は亡びても魂は残ります。如来のお力を恵まれて自分は一だんと、心が豊かに進歩させてもらい、とても喜んでおります。・・・人間は死を前にひかえるときに何の不平がありましょう。何の悲しんでおられましょうか。お蔭で生かされる喜びに御恩報謝の道を気強くほがらかにお念仏をとなえ立ち上がるべきであります。仏の本願はおのれの本願となって下されて御恩返しの道が践まれます。人を助けたい心も起こります。この道こそはわが家をさらに円満に栄さす道であります。不運を転じてわが家の仕合わせに向かう縁になったことを喜びこの力こそ恵まるるお慈悲の力です。(本書106~107頁)・・・」と書いて、自らの宗教的目覚めを説き、残していく遺族には悲しみを信仰にふり向けて生きよと励ました。

また別の人は日記の中に、「・・・もし今度の事件に遭遇しなければ、自己を知り、人間性に目覚めることは出きなかったと思う。人間としての理性と自覚に目覚めることの出来たことは生涯における一大収穫であったと思っている(同158頁)」と書いて、かえって死刑宣告により深刻なる人生に対する気づきを得られたという感謝の気持ちを綴った。銃殺刑を受けた元大佐は、刑が執行される射撃場に連行される車の中で高いびきを搔き、直立不動の姿で平然と銃弾を受けた。その剛毅な元大佐の死を多くの米軍将校もたたえたといわれる。

この元大佐の遺書は、この後A級被告各氏に師が読んで聞かせるほどの名文であった。「謹んで書す。昭和23年10月22日夜1時、余は銃殺刑という罪名の許にこの人生を終わるのである。余のためには誠に意義深き日である。思い返せば五十五年の人生、お世話ばかりになり通して、何の感謝の意を表することもできなかった。この度の弥陀の浄土への芽出度い往生、これまた仏恩に感謝せねばならない。仏恩に感謝これのみぞ、余の最後まで務めねばならないところである。父母妻子兄弟姉妹には、格別になげかれることと存ずる。然し決してかなしまないでもらいたい。余の今日あるは宿業の致すところである。人生の因縁事と思う。浄土に参りし後は、必ず還相の廻向により、再びこの世に出で来たり、衆生済度の大業にたずさわるであろう。(同173頁)・・・多くの部下は新しい日本建設の礎石として死んだのだ。余もその仲間入りをするのだ。(同178頁)・・・何事も忍べよ。仏さまはこの忍ぶということを経にもよく云ってある。忍ぶというのは徳の第一だといってある。人生は忍ぶということだとも云える。…上に立てば立つほど忍ばねばならない。(同180頁)」と書き、辞世の一節には、「心は常に天外に遊ぶ 無限の栄光眼前にそばたつ 一心正念して唯これのみを信ず 天上天下我を害するものなし 我は歌わん真理の曲我はすすまん真理の道(同183頁)」とあり、まこと気高き最期であったことをものがたっている。

A級戦犯にむけて

この銃殺刑が執行された日、花山師は戦争指導者A級25名の被告たちへ、これが最後と思い法話をなしている。要約すると、「人間必ず一度は死なねばならない。毎日刻々生死を繰り返している。これまでに絞首刑台に上った四十代、五十代の人たちはいずれも固い信仰によって死をおそれるよりもむしろこれをよろこび、立派な大往生であった。戦争により領土は半減百数十万の生命を失い全国の都市は爆撃を受け想像をこえる災禍をこうむったが、それによってえたものは、死刑囚たちが信仰を深め尊い遺書を残してくれたことこそ大きな収穫であった。明治以来八十年間の歴史の失敗は今日これらの人たちの精神力によって未来数千年への人類の希望への基盤をつくってくれた。そこに人間の限りある一生を容易にすてて永遠の人生に生きる道がある。(同212~214頁)」と説いたという。

そして、ついに11月4日から25名の戦争指導者に向けて判決の朗読が始まり、12日七名の絞首刑、その他終身刑懲役刑が確定した。その日から絞首刑となった七名と12月23日に執行されるまでのひと月余り師は各氏と面談を繰り返す。その面談記録は、七人それぞれの経歴を記し、その人物像にも触れながら、克明に何を語り合ったかを記している。若い頃から坐禅に勤しんできたが自分のようなものには念仏にしか救われる道がないと改心された人、家族がキリスト教の信仰があり拘置所にドイツ人の牧師を差し向けて洗礼をさせようとしたが断って仏教で最期を迎えた人、伊豆山に南京上海で亡くなった日中両国戦死者の遺骨を祀り観音像を建立し供養を続ける人、親鸞聖人が語られたとする歎異鈔の第九章を毎日味わい信仰を深められた人など、みなそれぞれに宗教心に目覚め安心(あんじん)を得られたことを記している。

東條英機元総理についてのみ本人の言葉として記されているものを抄録してみよう。「…第二次世界大戦が終わってわずか三年であるが、依然として全世界は波瀾に包まれておる。ことに極東の波瀾を思い、わが日本の将来について懸念なきを得ず。しかし三千年来培われた日本精神は一朝には失われないことを信ずる。窮極的には、日本国民の努力と国際的同情によって立派に立ち直って行くものと固く信じて逝きたい。(同304頁)・・・(自決後すぐに手当てされて生き長らえたことについて、それによって)一つには宗教に入り得たということ、二つには人生を深く味わったということ、三つには裁判においてある点を言いえたということは感謝しています。(同315頁)・・・(大無量寿経の)四十八願を読むと一々誠に有難い。今の政治家の如きはこれを読んで政治の更生を計らねばならぬ。人生の根本問題が説いてあるのですからね。国連とか、その他世界平和とかは人間の欲望をなくした時に初めて達成できることで、そこに社会の平和が成るのだ。(同322頁)…」などと話され、花山師との面談を何よりも楽しみとしていた様子が綴られている。

そしてこれはいささか今の時代となってはやや違和感すら覚えるが、多くの人たちにみな教養として身につけられた時代なのであろう、いずれの人も和歌を詠まれており、荒木元大将などはこの間に七百首も詠まれたといわれている。東條元総理は処刑前日にも花山師に「散る花も落つる木の実も心なきさそふはただに嵐のみかは 今ははや心にかかる雲もなし心豊かに西へぞと急ぐ 日も月も蛍の光さながらに行く手に弥陀の光かがやく」(同380頁)と三句の歌を残された。

かくして七名の絞首刑は、前日それぞれ二度の面談の後、12月23日午前零時前に、二組に分かれ、仏間でのお勤めの前に奉書に署名をし、コップ一杯のブドー酒を飲まれ、水を飲みかわした。それから三誓偈を読んでお勤めとし、万歳三唱を一同で唱え、刑場に向かわれた。七つの棺の前では、正信偈と念仏廻向を唱えたと記録している。

歴史を振り返って

こうして、花山師の導きもあって、当時軍国主義の悪のシンボルのように云われた極刑に処された人たち誰もが、悲しみも動揺もなく平常心のままに召されていった。懺悔するなどという心を遙かに超えて、巣鴨拘置所に収容されていたこの間に、深く人の世、人生の真実、いのちのありように立ち向かわれて、深く悟ることあり、そして人の世の穏やかなることを願い、信仰、宗教に生きることを人のあるべき姿と確信して、安らかに立派に死んで逝かれたことは誠に感銘深いことに思われる。戦犯と云われる方々がこうした最期を遂げたことを知る貴重な機会をもてたことは誠にありがたいことであり、今を生きる私たちにも当然生きる力となり、価値ある生き方を求められている思いがいたし、時を無駄にしないよう督励されているようにも思えた。

さらにこの後、私は講談社によって1983年に製作された実写版DVD『東京裁判』を手に入れて視聴した。当時の映像をもとに時代背景にも触れ理解しやすいように編集されており、裁判冒頭からこの軍事裁判自体が当時の国際法上罪を問えるものかとの指摘や残虐行為を犯罪とするなら米国による原爆投下についても同罪とすべきであると米国人弁護士が指摘していた事実を知りえたことなど誠に参考になった。また本書に登場する戦犯の方々の実際の姿も拝見し、その姿の美しさ、当時の日本軍人、文官の凛とした威厳にわが身を正される思いがした。自ら弁明する機会であった個人反証の答弁においても、東條被告は自存自衛の戦いであり植民地の解放と独立のためになされた戦争であったことを堂々と主張され、されど敗戦の責任は自分にあり責任を受け入れることを供述された。大東亜戦争という日本で使われていた名称が否定され、太平洋戦争といわされ、軍国主義国家日本による侵略戦争というレッテルを貼ることによって、戦争の実像が隠されてきたのではなかったか。一つのYOUTUBEの番組を拝聴し、尽きぬ好奇心から触手を伸ばすうちに様々なことを学ぶ機会を得た。当時を振り返り真実の歴史、戦犯として死刑となった人たちの生きざま、その心境を知ることは、それにより戦後の繁栄をえて今を生きる私たちにとって実に肝要、不可欠なことと思われる。

歴史の真相を知ることはそう簡単なことではない。歴史を作ろうとする人たちがいる。彼らがどのような世界を目指していたのか。大きくとらえれば、その後世界がどう変わり誰が経済的な利益を得たのか、世界の覇権構造がどう変化したのかを知ればおおよその姿は知ることができよう。誠に唐突だが、昨年四月当時の安倍総理がいみじくも、この感染拡大は第三次世界大戦と認識している、と述べた言葉は何を意味していたのであろうか。その後の一年、報道のありさまを見るにつけ、かつての統制された様相にとても良く似ていることに気づかされる。敗戦するのは誰か、その責任を押し付けられるのは誰になるのか、皆目見当もつかないが、人々が無知のままに扇動されることだけはあってはならない。異常な報道管制の中にあることを認識し、同じ轍を踏まぬよう、よほど気を付けて今の時代を注視して生きる必要があるだろう。おのれの不明を誰かの汚名にしないためにも。

追記 いま中公新書・小林弘忠著『巣鴨プリズン 教誨師花山信勝と死刑戦犯の記録』を読み進めている。花山師本人の筆記に比べ、かなり時代背景や心中深く想像しての論説に当時の教誨師の置かれた状況が厳しいものであったことがうかがい知れる。花山師の後二代目の教誨師になる田嶋隆純師との比較も収容者たちとの向き合い方の違いが際立ったものがあり、学者としてまた宗旨の教義への証明としても説き方や対応が違い、そのために冷ややかな見方をされていたことも知ることになった。しかし戦後間もなくの難しい時代にまた見習うべきものもない状態でおのれの信ずる教誨を一人続けられ、その間収容者家族が上京した際に自宅を宿泊所に使わせていたことや教誨をやめてからも講演して歩き巣鴨の実態を世間に知らせ、本書の印税を遺族に人知れず送金されたりと生涯にわたりかかわり続けられた事実に変わりはない。師本人が死の間際に、「巣鴨プリズンは、人の真の生き方を学ぶことができた。私の人生は幸せだった」と述懐されたのは、そうした世間の様々な見方や自らの孤独感さえ乗り越えたうえでの納得ではなかったか。本書の書評欄には今も心無い言舌が残るが、他の人と比較されるものではなく、花山師のその活動の記録はそのままに評価されるべきであり、受け入れたいと私は考えている。

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松長有慶先生著 『訳注 声字実相義』(春秋社刊)を読んで

2020年08月23日 18時34分04秒 | 仏教書探訪
【六大新報七月二十五日号掲載】

松長有慶先生著 『訳注 声字実相義』(春秋社刊)を読んで



松長有慶先生の新刊、訳注シリーズ第4巻『訳注 声字実相義』(春秋社刊)を拝読させていただいた。

『声字実相義』(以下『声字義』と略す)は、『密教辞典』(法蔵館刊佐和隆研編)に、真言教学の重要聖典、即身義、吽字義とともに三部書の一つとある。従って、専修学院時代に多少の知識は得ているはずなのだが、はたしてどのような内容であったか記憶に乏しい。もとより一から学ばせていただく気持ちで本書を開いた。

そこには、凡例に続いて参考文献として、真言宗全書、智山全書、豊山全書などより、鎌倉時代から江戸時代までの学僧による十四の注釈書が掲げられ、さらには英語ドイツ語の文献を含む、近代の三十二の解説書、研究書まで一覧にある。それらは本文に【略記号】で文献を表示し該当する頁数まで記して、原漢文の読みから用語の解釈まで比較検討されており、現時点における『声字義』に関する最高レベルの研究成果をすべて注ぎ込まんとされる先生のこだわりや気迫が感じられる。

まず本編はじめに「『声字義』の全体像」が説かれる。古来インドや中国、また日本において、声や言葉がいかなる意味あるものとして受け取られてきたかを説いていかれる。そして20世紀前半にヨーロッパに起こった構造主義の哲学の根幹である言語論において、この『声字義』も実は20世紀後半には多くの研究者たちの研究対象であったことが紹介されている。

また中国思想における言語論争で注目される「名」は、『声字義』にも用いられるが、伝統的注釈者の多くが「すぐれた」という意味に受け取ってきたという。しかし、正しくは「名」とは、名づけるということ。ものを分けて明らかにしていく、ものの違いによってそれぞれを特定する、そのためにさまざまな名前や言葉が発生していくわけだが、そうして原初の世界において真実の根源から発せられるものを、私たちの現実世界において表現するために用いられた言葉を「名」というのであるという。そうした根源的な存在とかかわる言葉を、本書においては「コトバ」とカタカナ書きにして区別して先生は使われている。

そして、『声字義』の主題について触れられ、それは、私たちの眼耳鼻舌身意の感覚器官・六根に入る六境・色声香味触法、すなわち普段の生活の中で目にする物、耳にする声や音、香りや匂い、口に感じる味、身体に触れる感触、考えたり思うあらゆるもの、それは本来覚りの障害になり六塵ともいわれるものだが、その中にこそ如来が説法される声や言葉が潜んでおり、それは世俗の存在のままに絶対の真実(実相)なのだと説かれる。つまりそれこそ法身大日如来の説法なのであり、心して聞くべきものであるということであろう。

著作年代については、『声字義』中に「『即身義』の中に釈するが如し」という語が二度記述されていることから『声字義』は『即身義』以後の作品とされてきたが、先生はこれを後世の挿入とせられる。そして、『声字義』後半部分に法相や華厳教学への配慮からか自説の主張が抑えられており、また『金剛頂経』からの引用が少なく、両部経典を自在に駆使して自らの主張を巧みに説く準備が熟していなかった時代、つまり真言教学がまだ十分に社会に認知されていなかった弘仁の一桁代後半の作であろうと推定されている。

そして、本編に入るのだが、各段ごとに、はじめに【要旨】が説かれ、次に【現代表現】としてやさしい言葉で現代語訳が示される。【読み下し文】と【原漢文】が続き、難解な用語は【用語釈】として、注釈書に斟酌した丁寧な解説が附されている。【要旨】と【現代表現】をまずは読んで、【読み下し文】や【用語釈】、【補注】を参照すれば、難解な大師の著作をいとも容易に読むことができる。

『声字義』前半では、声字実相という新しい思想を立ち上げる論拠として大日経の偈頌を説き、また内容を説くに当たり四句一頌を自作して自ら解釈して、その中の声・文字などの言葉が実相に他ならないことを述べる。後半ではやはり四句一頌を自作し、六境の代表として色・物質について生物も非生物も、いろ・かたち・うごきの三種の性質を具えていて、いのちを持ち、かつ文字として、そこにこそ諸仏が存在していることをあきらかにしていく。

ところで、中国天台智顗の著作『摩訶止観』に関する注釈書が出典とされる言葉に「草木国土悉皆成仏」がある。以前この言葉について法話するに当たり、筆者は仏とは法を説く者であり、それをたよりに人は試行錯誤しながら何ごとかを覚っていく。しかし、自然が発する音も姿も、時にこの世の法則、真理を垣間見させてくれる。そうして人に示唆し、教え、励ましを与えることがある。されば、それは仏の説法にあたるのであろう、自然そのものも法を説くものとして仏と言い得るのではないかと考え、そのように話してきた。が、これはまさに『声字義』の説く、すべての存在は声字なり、実相なりという教えそのものであったとも言えようか。かつて学んだ教えが朧気ながら筆者の頭に残っていて、意識もせずに紡ぎ出した解釈だったのかもしれない。

毎朝本堂に向かうとき、中の間に掛かる書軸を拝む。そこには「閑林に独座す草堂の暁 三宝の声を一鳥に聞く 一鳥声有り 人 心有り 声心雲水俱に了了たり」(性霊集補欠抄巻十)とある。先生は、本書巻頭「『声字義』の全体像」において、この詩を紹介し八行の現代詩に訳されて、『声字義』に込められた真言密教独自の哲学思想を凝縮するものとして示されている。これまで、十分にその深遠なる意味を知らずに拝してきたが、本書に学んでからは、池に落ちる水の音、鳥のさえずり、風に吹かれて起こる木々のざわめき、それらが一つに融け合う永遠なる瞬間にあることを心に留めつつ入堂している。そして、唱える読経も実相を具えた声字に他ならないと、心新たに日々勤めたいと思う。三部書の一つをここに学ぶ貴重な機会をいただきましたことに感謝申し上げます。

奥深い真言の教えの真髄を祖典に学ぶため、また日々の勤行の質を高める心構えを学ぶ一冊としても、是非、御一読をお勧めしたい。


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『構築された仏教思想 空海』(2019年12月15日佼成出版社刊)を読んで

2020年01月12日 16時18分14秒 | 仏教書探訪
『構築された仏教思想 空海』(2019年12月15日佼成出版社刊)を読んで



大正大学名誉教授の平井宥慶先生による空海論である。これまでにも時あるごとに、その生涯や思想については読んできたつもりなので、総復習のつもりで気楽に読み始めてみたのではあるが、一ページ目から、平井先生の豊富な学識を思い知らされる硬質な文面に出会うことになった。

わが国で国家レベルで仏教の受容が始まるのは聖徳太子の時代とあり、近時この太子の存在自体に疑義がもたれ、歴史学でもてはやされたことについて、現存資料どうしの錯誤によって極言したものであり、それは歴史学の横暴であると切り捨てられる。そして、もし太子的存在がなければ以後の日本社会の歴史はよほど変わったものになっていただろうとされる。さらには壬申の乱を経て倭国は日本国になったとあり、空海の生年についても、同時代的資料はないと断言されるなど、確かな確証を追求しつつ歴史と対峙されてきた先生であることがこれらの書き方だけで、よく解る。

そして、鎌倉時代の法然上人こそ八万四千の教えの中から浄土教を選択(せんじゃく)した、選択のもとのように思われているが、日本仏教における選択は平安時代の空海こそが大本であるといわれる。空海は都で儒学を学んでいたのに仏教を選択し、仏教の中でも密教を選択してその教えをこの日本で花開かせた人なのである。それまでの日本思想界にあって思想の選択をするなどということはなく、選択するということは空海の思索人生のすべてを通じて終生の必須事であったとも言われている。だからこそ『十住心論』などという、すべての教えを自らの思想体系の中に包摂する思想体系を築けたのだともいえようか。

そして、空海入唐の事情についても、単にたまたま延暦23(804)年の遣唐船に乗船したのではなく、24歳からの知られざる不明の七年間に、入唐の目的を確実にかなえるために、かの地の情報を新羅や渤海の知人を頼り収集していたのではないかとされる。その目的とは最高の祖師から密教の奥義を授かり灌頂を受けることであると断言されている。特に伝法灌頂を受けるというのは三ヶ月程度の準備でできるものではなく、現在の様な伝授の作法本がある時代でもないので、両部の曼荼羅は青龍寺にあるものを使用するにしても、自ら伝授の次第を大日経や金剛頂経、儀軌などを参考に作成し、作法に要する仏具から、支具のすべてを用意しなければならなかったであろう。

とすると、かなりの準備時間と修練が必要になる。作法ごと、主尊ごとの真言と印と観想を修養するのにどれだけの時間が必要であろうか。今高野山で伝法灌頂を受けるには少なくとも百日間の修行を要する。恵果阿闍梨を驚かしむるほどに、既に真言や印相を習得されていた空海はそれだけの準備をして、さらには空海が伝法灌頂を受法した翌年には入滅される恵果阿闍梨の寿命幾ばくも無いことを知って、この時期に急ぎ駆けつけていくほどに唐の仏教事情についても情報収集していたというのである。

空海は、唐にて20年の修学を命ぜられて入唐したのに、わずか足かけ三年、実質的には1年半ほどで帰朝することになったとされているが、その20年というのは空海の認めた『御請来目録』にあるのみで、公の資料にはないのだという。さらに帰朝後三年間九州の地に留め置かれたのも、観世音寺にと思われているが、そうした伝は観世音寺にはなく、留め置かれたのも国禁を犯したためではなくて、桓武天皇が崩御し、次の平城天皇即位するものの「伊予親王の変」が起こったりと当時の政局に争乱が重なってのことに過ぎないとされている。

奈良仏教と争う天台の最澄師とは違い奈良勢力ともよい関係にあった空海は、東大寺の第14世別当つまり住職となっている。今日もある真言院を創り、灌頂道場も勅許を得て建立している。また入滅二三前年からの行跡が大変詳しく記されているのには大変勉強になった。その頃からすべて死期を察して準備していく確かな足取りが目に浮かぶ様である。

天長9(832)年には「高野山万灯会願文」にて有名な「虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば我が願いも尽きなん」という名句を残し、高雄山寺や東寺、高野山を弟子らに託し、承和元(834)年には宮中真言院の正月御修法を上奏し、東寺に三綱(上座・寺主・都維那)を設置、翌2年には宮中で後七日御修法が実施され、真言宗に年分度者が三人認められ、金剛峯寺が定額寺として認められて、官寺と同格となっている。そして、3月15日弟子らに遺言(御遺告)がなされて、21日に禅定に入るが如くに入滅している。これを後には「入定」という、とある。

ここまでが「波瀾万丈の生涯」第一章である。第二章は、仏教の起こりからどのように密教が構築されていったのかをあきらかにする「真言密教の確立」、第三章には「曼荼羅世界の魅力」と題して、主に空海の独特なる精神世界の見取り図・十住心論について解りやすく説いていく。さらには、第四章「日本文化への道」では、空海の弘法大師としての文化的な広がり、その御像の様々なバリエーションについて述べ、空海の著作についてのコメント、また近代からの文化人の空海評や近年における空海を題材とする小説についてのコメントも辛みが効いて読んでいて面白い。

以上、179ページの小さな著作ではあるが、その内容は誠に重厚である。ひとつ一つの内容に先生の持つ確たる主張が隠されていて読んでいて誠に勉強になった。冒頭に書いたように総復習のつもりが新たな発見の連続で、なおかつ空海密教に関する確かな知識をこの一冊で習得できる。是非御一読をお勧めしたい。

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『アジア的融和共生思想の可能性』第一章「梵天勧請思想と神仏習合」に学ぶ

2020年01月11日 16時32分29秒 | 仏教書探訪
『アジア的融和共生思想の可能性』第一章「梵天勧請思想と神仏習合」に学ぶ



昨年12月20日刊行の中央大学政策文化総合研究所研究叢書の一冊である。編著者の中央大学国際情報学部教授の保坂俊司先生は、これまでにも世界レベルの論文をいくつも世に問うてこられた。インドのヒンドゥー教とイスラム教が融合したシク教と大乗仏教との相似に関する研究、大乗仏教興起発展に関する西域から来たる異民族多民族統治のイデオロギーとしての思想展開論、インド世界から仏教がなぜ亡んだかということについてイスラム資料を渉猟されて仏教徒が非暴力を貫くが故に改宗していったとの推論、またイスラム教の宗派の中にあってインドに伝わるスーフィーという神秘主義者たちの思想による穏健なイスラム教徒の存在に注目すべきであるとする論文など、枚挙に遑ない。

そしてこの度は、本書第一章「梵天勧請思想と神仏習合」において、これまで保坂先生ご自身が、インドにおいて仏教が衰滅したのはなぜかと探求されてイスラム教側の資料である『チャチュ・ナーマ』に着目されて到達された推論には実は完全にはご納得が得られていなかった部分があり、その後も思索され続けたことにより、仏教の根幹ともいえる他宗教にない最も独特なる思想を見つけられ、それこそが仏教を広く世界宗教に押し上げたのであり、かつ、逆に衰滅にいたらせることになったのだと結論される。

その仏教の根本たる独特なる教えとは、そもそもの仏教の発端ともいえる「梵天勧請」にあるのではないかと言うのである。梵天勧請とは、ご存知の通り、お釈迦様成道後に、この悟りは深淵にして欲望燃えさかる世間の者たちには理解し得ないであろうから説くまいとされたお釈迦様の前に、インド世界の最高神である梵天が舞い降りて、このままでは世間は滅びてしまう、この世の中には欲薄く心清き者もあり、その者たちに教え諭すならばきっと最高の悟りを得られる者もあろうから法を説いてくれるようにと説得を受ける。そして、ならばもう一度この世の中を見てみようと天眼通によって世間の者たちを眺めてみるに、確かに心清き者たちの存在があることを知り、お釈迦様は法を説くことを決心したというエピソードである。

私自身は、この教えは、お釈迦様に対してインドの当時の宗教世界の最高神自らが教えを乞う、つまりは神々の立場よりもお釈迦様の悟りは上位にあり、その存在はより崇高なものであることを示す教えとして受け取ってきた。しかし、先生は、その教えはそれだけにとどまらず、他者からの働きかけが不可欠であるという仏教の性格、特に他宗教との融和融合共生を示すものであり、これこそが他の宗教にない、最も仏教的なる、独特なるものなのだとその意味を説いていかれる。

かつて『インド仏教はなぜ亡んだのか』(2003年北樹出版刊)において推論された、当時の仏教徒らが不殺生非暴力の教えを大切にするが故にイスラム教徒に改宗していって、それがためにインドにおいて仏教が亡んだのであれば、同様にジャイナ教という非暴力を説く教えも亡んでいなければならないが、未だに少数ながらジャイナ教は今日迄存在し続けている。その矛盾を解く鍵として、この梵天勧請があるのではないかと着目されたのであった。

先生は、この話はお釈迦様自らが早い段階から弟子たちに説いたのではないかと推量されている。パーリ経典中の「サンユッタ・ニカーヤ」、漢訳経典の「増一阿含」に収録されている『梵天の勧請』に経典としてまとめられていくのは、もちろんお釈迦様没後のことではあるが、お釈迦様自らこうしたエピソードを語り伝えてきていたのであり、それは他宗との共存協和共生のために必要不可欠なものであった。そして、これこそが仏教の伝統ともいえる、他を受け入れ自らを変容してでも融和して一体となって繁栄する相利共栄の思想になったといわれるのである。

当時バラモン教が主流だったインド世界にあって、仏教勢力が世間の中で一定の位置を得て、托鉢し、また昼食に招待されつつ社会の中に留まるためには、こうした教えに基づく融和共生の立場はとても大切なものであったのだと思われる。初期経典を読んでみれば当時のバラモンらがこぞってお釈迦様に疑問をぶつけ、討論しては論破され、教え諭されて信者になったり弟子となり出家をしている。

大乗仏教も、先生の他の著書(『国家と宗教』2006年光文社新書)にて学ばせていただいたことではあるが、西域からやってきた異民族による王朝の多民族を統治するイデオロギーとして、誰をも分け隔てなく受け入れる原理として自らを絶対視しない互いに他を尊重する教えとして空を説いた。そして、西域の文化を取り入れ誰もが菩薩であるとの平等思想を説き、民衆のために聖典の読誦や仏像ストゥーパを信仰し礼拝することを行とする現実的な教えを説いていくことで繁栄した。

そして、イスラム教徒のインド侵攻に際しても、もちろん当時のヒンドゥー教徒からの圧力に対抗する意味合いもあってのことではあるが、イスラム教徒との融和共生を模索するが故に、改宗と見られる様な立場となりながらも不殺生非暴力の教えを守ることになる。しかし、そこには仏教徒としての矜持として、仏教の教えをその中で活かし誇示する行動も記録されているという。八、九世紀の中央アジアでの事例として、改宗したかつての仏教徒一族がブッダ伝をアラビア語に訳したり、メッカのカーバ神殿の儀礼に仏教的な儀礼を導入したらしいといわれていると記される。

そしてこの梵天勧請という思想構造は、私たち日本人にとっての「神仏習合」に他ならないのだと解りやすく説いていかれる。梵天勧請とは、仏教側に他宗教が教えを乞い、それによって相手を救済していくという構造にある。百済からもたらされた仏教が蘇我氏によって進んで取り入れられはしていたが、用明天皇によって帰依を受けることによって初めて公認された宗教となったのであり、神道の最高なる主宰者としての天皇が帰依することによって法が説かれ、神社に仏が祀られ、寺院に神が祀られてともに発展繁栄していく。この神仏習合の形態は正に梵天勧請と同じ構造と言えるのだという。これは比較宗教学を専門とされつつも日本仏教文化に精通された保坂先生の慧眼による一学説となるものであると言えよう。

そして、日本において江戸時代まで国教の立場にあった仏教が今日の様な位置に貶められた切っ掛けとなった明治の神道国教化に基づく仏教排斥も、正にインド仏教が亡んだように、自分の中に他の宗教と融和し共生するが故にその内包した他者によって内部から破壊されると大変もろく衰亡に繋がる一事例に他ならないと説明されている。

最後に、先生は、こうした仏教の特質は、今日の宗教間の確執によって抗争する国際情勢にあって、「異なる他者を受け入れ、自己犠牲を厭わず、平和裏に共生関係を持とうとする仏教の教えは再評価する意義があるのではないか」といわれる。これは正に仏教の他にない最も大切なアピールポイントであって、だからこそ今世界的に仏教の瞑想が普及し得たとも言えようか。先生も近年欧米でもてはやされる「マインドフルネス」と喧伝される仏教瞑想が普及することで仏教の平和思想への共感が急速に高まっているといわれていると指摘される。単にビジネスに活用するスキルとしての瞑想ではなく、根本の仏教思想にまで彼らの関心が及び、これからの世界を平和に導く原動力となることを先生共々に願いたい。今回こうした最先端の仏教論文を読ませていただき、仏教の仏教たるゆえんを新たに知ることができましたことに感謝申し上げます。

最後にはなるが、皆様には、是非この中央大学の研究叢書『アジア的融和共生思想の可能性』を直接手に取り、先生方の論文からさらに多くのことを学んで欲しいと思う。


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松長有慶先生著 『訳注 即身成仏義』を読んで

2019年07月23日 13時44分53秒 | 仏教書探訪
【六大新報七月十五日号掲載】

松長有慶先生著 『訳注 即身成仏義』を読んで

 松長先生の最近刊となる『訳注 即身成仏義』(春秋社刊)を拝読させていただいた。そもそも筆者が初めて『即身成仏義』(以下『即身義』と略す)を読んだのは、栂尾祥雲先生の『現代語の十巻章と解説』(高野山出版社刊)においてであり、専修学院に学んでいた頃であるから三十年も前のことである。誠に申し訳ないことではあるが、それ以来まともに『即身義』と対峙することもなかったのである。が、この度改めて松長先生の解りやすく、されど伝統的な解釈に忠実に懇切丁寧に説かれた本書を読んで、新たに様々なことを学ばせていただいた。

 まず巻頭の「『即身義』の全体像」において、『即身義』は当時の天台の学匠や南都の碩学、知識人に、即身成仏という画期的な教えの根拠を示すものとある。それは単に成仏する時間の問題だけでなしに、人と仏、物と心というような二元的な存在の本来的同一、さらに山川星辰など非情も仏に他ならないことが説かれるとされる。

 『即身義』の著作年代については、即身成仏という表現は弘仁の初期に書かれた『辯顕密二教論』中に、密教の四カ条の特色の一つとして登場するが、まだ即身成仏思想の構想は熟しておらず、その後の大師の著作などから思想形成の過程が語られ、弘仁六年以降遅くとも、高野山に金剛峯寺が建立され、東寺を下賜される弘仁の末頃までに『即身義』は出来上がっていたと推定せられる。

 そして、即身成仏、特に即身という語を説くための三種のキーワードについて解説されており、六大については、現実世界を構成する要素ではなく、五大としての物質的なものと識大としての精神的なものとの総合体であり、物と心は元々同体として存在するとされる。

 四曼については、特に法曼荼羅とは行者が金剛微細智の境地に入り体験する音や響き、声、光、根源的なコトバを表すものであり、羯磨曼荼羅は活動智を表現するため本来は五仏以外女尊形で描かれるべきものであることが紹介される。

 三密加持については、加持とは行者と仏との入我我入であり、三密加持とは身口意の三密それぞれが一体化した状態であり、仏・衆生・自然これら三者の三密も一体化し、融合していることをいうのであるという。

 そして本編に入るが、各段ごとに、はじめに【要旨】が説かれ、次に【現代表現】としてやさしい言葉で現代語訳が示され、【読み下し文】と【原漢文】が続き、難解な用語は【用語釈】として、平安時代から戦後にいたる三十四もの注釈書や著作の解釈に斟酌した丁寧な解説が附されている。【要旨】と【現代表現】をまずは読んで、【読み下し文】や【用語釈】を参照すれば、難解な大師の著作が不思議なほど容易に了解できる。

 大師は、二頌八句を創作し即身成仏という四字を讃嘆し説明していかれるが、先の頌において、六大とは、物と心を総合し一体化しており、それはあらゆる存在の本源たる大日如来に外ならないのであり、そこから仏も衆生も万物自然をも生み出し、互いに融合し結びついているという。四曼は、その真理のありかたを四つの形で象徴的に表現したものである。

そして三密加持はその働きを身と語と心と捉え、仏と衆生の三密は本来ともに入り混じり互いに支え合っているので、仏と人との三密の関係をよく心得て三密瑜伽の行法を修すれば速やかに大悉地を得ることが出来るとするのである。さらにこの六大四曼三密は相互に一体化しておりそれを無碍という言葉でまとめられる。そして後の頌においては、人、動植物、環境社会が本体、形相、作用において仏に他ならないことを成仏という語で説明されていく。

 この度、本書を読んで、『即身義』に不読段があることを知った。灌頂を受けていない者には説かない決まりがあるという。その段は、即身成仏を確信して、尚私たちはいかに生きるべきかを教えてくれているように思える。それは、理趣経系統の儀軌である『五秘密軌』を引用したくだりであり、受者が阿闍梨から三摩耶戒を授かり、金剛薩埵の五秘密瑜伽の教えを早朝・正午・夕方・夜半に日常生活の振る舞いの中で絶えず思念し実践すれば現世で初地を得るとあって、

続いて「五秘密の修法を修することによって、覚りとか生死に染まらず、執着せず、果てしなく輪廻を繰り返す生涯の中に身を置きながら、広く衆生の利益と安楽に努め、自身を百億の身に分けて、輪廻に苦しめられている生き物たちの中に入りこんで、彼らを導き、最終的には金剛薩埵の位に到達させる。」(P140)とある。正に『理趣経』百字偈に説く勝れた智慧ある菩薩としての生き方そのものであり、『高野山萬燈會願文』にある大師の誓願にも適うものであろう。なぜなら、その誓願をかなえるべく実働すべきは私たちなのであろうから。

 釈尊はその生涯において、弟子たちの多くを阿羅漢果という最高の悟りをさとらせた。がそれが故に、解脱して死後再生せず、死とともに慈悲行を諦めざるを得なかった。解脱することが目的ではなく、何度も輪廻しつつ菩薩行に挺身することこそが大乗菩薩としての理想であることをここに示してくれていると言えよう。

 『即身義』によって大師は、現代に生きる僧侶である私たちに何を訴えかけておられるのか。大師の思いを私たちの心にそのまま繋げて下さるのが本書である。本書は、今年九十歳になられる松長先生が真言僧侶関係者に向けて宗祖大師の著作を現代に生きかえらせようと渾身の力を振るって、そこに先生の持つすべてを注ぎ込まんとなされた労作である。多くを学ぶことが出来よう。是非御一読願いたい。


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義浄三蔵とインド伝統医学

2019年05月05日 19時46分27秒 | 仏教書探訪
國分寺の建立に際してその依拠とされた『金光明最勝王経』を訳出した唐の三蔵法師・義浄という勝れた求法僧がいる。義浄は、貞観九年(635)に生まれ、七歳で寺に入り、十四歳の時沙弥となり二十一歳で具足戒を受け正式な僧となっている。幼少時には孔孟や老荘の学を習い、僧となってからは律学を習得、さらに倶舎、唯識を学んでいる。

そして三十歳の時、『大般若経六百巻』の訳者でもある玄奘三蔵が歿しているが、おそらくその前から玄奘の行跡に憧憬を寄せていたのであろう。三十六歳にして同志と共に入竺計画を立案している。檀越を募り、その翌年にペルシャ商船に乗り込んで、今のインドネシア・スマトラ島のシュリーヴィジャヤ(現在のパレンバン)に到着。そこで半年余り過ごす間に梵語文法を学んだとされている。

そうして南方航路を通り、インドのベンガル湾に面した町に上陸し、そこで一年を過ごす間に梵語を学び、その後仏跡地を巡拝してからナーランダー僧院で十年間にわたり研鑽を積む。そして、梵本三蔵というから経律論五十万余頌を携え帰国の途に就いた。ただし、この間に中国国内では中宗が廃されて則天武后が実権を握るなど騒然としていたからだろうか、往路で半年過ごしたシュリーヴィジャヤで七年間を過ごす。この間に『南海寄帰内法伝』や『求法高僧伝』などを著述のほか雑経十巻の翻訳をしたとされている。

そして六十歳の時帰国し、洛陽の都に入る際には時の皇帝則天武后の出迎えを受けたという。帰国後は官僧として諸経の他、多くの律部論部諸本の翻訳に従事する。七十九歳で歿するまで、生涯で訳出した三蔵は、五十六部二百三十巻。『華厳経(共訳)』、『金光明最勝王経』、『薬師瑠璃光七仏本願功徳経』、『仏頂尊勝陀羅尼経』などの経典、『有部毘奈耶薬事、僧事、出家事、安居事』などの律本や『因明正理門論』、『成唯識宝生論』などの論書に及ぶ、誠に貴重なものを多く含んでいる。

ここではナーランダー寺にて実際に見聞した衣食住薬にわたる僧院生活の実態を詳細に報告した義浄の著作『南海寄帰内法伝』から、インドの伝統医学について触れた第二十七章二十八章を紹介してみたい。

第二十七章は、先体病源と題してインド医学の総論を述べている。

インドの学問は五明論という、音韻・技術・医学・哲学・論理の五種類の学科があり、医学はその一つであり、大事な分野であることが先ず述べられる。医学で大切な事は、五官を総動員して音や色など身体の変調、徴候について観察する事が肝要であり、その後に八つの治療法・八医術を適用すべきであるという。

八医術とは、①外科的手術②頭部の病気の治療③首から下の病気の治療(内科)④鬼神もののけ由来の病学(精神病学)⑤諸々の毒物学⑥小児の医療(小児科)⑦不老長生法⑧強健法とある。そもそも身体を構成する四大、地・水・火・風が調い、穏やかなら百病が生じないのであって、病気に至る原因は、多食と疲労によるのであるとしている。

朝起きて、身体軽やかなら、朝食を普段通り食せばよいが、体調が普段と異なるならその不調の起こす病の源を見て、休息をとり、その後体調が軽やかになったのなら、それは昨晩からの食物を消化したからなので、時至れば少なく食事をすべきであるという。胃腸に残存した食べ物が未だ解消せぬままに食事をする事がわざわいとなると考えるのである。

そもそもお釈迦様は一日一食、昼前に食べる事にしていたのに、ときに朝も食事を許されたのではあるが、朝の身体・四大の均衡、身体の軽い重いを考えて、体調よろしくても少しの食を摂るのがよいのだという。普通三食摂ることが習慣になっている現代人は、あきらかに食べ過ぎているということであろう。朝も晩も控えめにするのがよいというであろうか。かつてインドにいた頃は夕食を摂らず二食にしていた時期があるが、そのころの方が大変体調がよかったと思える。

ところで、毒を食らってしまった場合についての記述がある。それによって死ぬか生きるかは、ここに述べる健康管理や心がけとはまた別に、その人の過去世の宿業によるのだとの見解を述べている。しかし今こうしてあるのだから、是非ともこの健康管理法を軽んじるべきではないという。

次に第二十八章には、進薬方法と題して、インド医学の原理が述べられ、その後インドの絶食療法について詳しく述べている。

万物を形づくる構成要素である四大とは、地(形を維持するもの、骨、筋肉、皮膚など)・水(液体のもの、血液、消化液、唾液など)・火(温かいもの、体温、消化、思考など)・風(動くもの、心臓の拍動、肺の伸縮、胃腸の動きなど)の四要素である。その四大の調和と不調和は命あるものに必ずあるのであって、立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至の八節に四大がこもごも競い動じて常態というものはないという。


四大の不調とは、まず地大が増大して身体を沈重させ、水大が集まり貯まって涙や唾が沢山出る、火大が盛大となり頭や胸に熱をもつ、風大が活発となり気息がつまる。こうして朝自らその徴候を見いだしたならば、絶食すべきであるとあり、一日二日、ないし四五日絶食して、体調が治れば絶食を終了したらよい。もしも腹の中に未消化の食物があり不快であれば、熱湯ないし冷水、生姜湯を飲み指で喉の中をえぐり吐いて腹中物を吐き出し尽くすべきであるともある。

様々な症状に対処する療法も述べてあるが、より抜本的な治療法は絶食であるとされ、腫れ物、発熱、手足の痛み、流行病、切り傷や捻挫、感冒、下痢、頭痛、心疾患、眼痛、歯痛の類いまで、断食すべきとある。絶食療法のほかには、三等丸がよく多くの病を癒すとある。三等丸とは、訶梨勒(かりろく)(haritakīインドなどに産するシクンシ科の高木。高さ30メートルに達し、葉は長楕円形。枝先に白い花が群がって咲く。果実を風邪・便通・咳止めなどの薬にし、材は器具用にする)の果実の皮と乾燥させた生姜と砂糖を等分にして砕き融かして丸状の薬としたもの。または訶梨勒の実を毎日一つ食べその汁を飲めたら終身無病ともある。

絶食療法によって病が癒えたならば、しばらく休息し、米飯を食べ、熱い大豆のスープを飲むべきであるが、香辛料として、寒気がある場合は、山椒、生姜、胡椒を入れ、風邪や喘息の場合には、胡葱(あさつき)、荊芥(ねずみぐさ)を入れる。義浄自身も中国を離れて二十年、もっぱらこの絶食療法により身体を治療してきたのだと言われる。絶食の日数は、西インドでは半月ないしひと月、中インドでは七日、南海では二三日をを最大としてその風土にあわせて行うのがよいとある。これらの章には中国医学への批判記事も散見されるが、病気に際してかえって多くを食べさせたりする悪弊が横行していることを諫めている。

インド伝統医学についての記述は以上であり、簡単に言えば、私たちの身体は食べ物によっているのであるから、その食物、食べ方によって、または疲労によって四大不調となり体調を壊し病になるということなのである。では何を食べるかということを第九章受斎軌則に学んでみよう。この章では、斎会に参加した際の作法を中心に述べているが、補足的に供養される食事のあらましを記述している。

それによれば、①飯②麦豆飯③むぎこがし④肉⑤餅(インドパンの類いも含む)とある。七世紀のインドではどのような調理法がなされていたものか想像もできないが、北では麦の製品(チャパティのようなインドパンであろうか)が多く、西方ではむぎこがし、ガンジス河中流域のマガダ国では麦の製品が少なく米が多く、南方東方も同様とある。酥油(ギー)や乳酪(ヨーグルト)、ミルク、バター、チーズはどこにでも豊富であるという。また一般の人々でも生臭(肉食)を好む者は少ないとあるが、それは今日でも同様である。うるち米が多く、粟は少なく、黍はない、甘瓜はあり、蔗、芋は豊富とある。またインドでは生野菜は食さず、腹痛の患いなく胃腸は和み、こわばることもないという。

さて、今日の私たちに、これらの七世紀のインドの僧院生活がどれだけ役に立つのかとも思えようが、私たちの身体はもともと一つの細胞が分裂を繰り返し、誕生後は口から取り入れる食物によって成長したものであろう。その内容が、そしてその量が適切であったのか、心身の用い方、疲労はいかがであっただろうかということのみが問われる事なのではないか。

義浄三蔵がここに記してくれているように、多食が病気の根本原因とするのであるが、それも現代にあっては本来口に入れるべくもない、加工食品、動物性脂肪、添加物、人工甘味料、トランス脂肪酸など食の安全を脅かすようなものの山を毎日のように平らげている私たちである。病気にならない方がおかしいのかも知れない。

実は、今年に入りご不幸が重なる。定年後も働いて、七十代となり、やっとゆっくりしようかという様な方々ばかりである。それもみんな悪性腫瘍、いわゆるガンを体内に増殖させての痛ましい亡くなり方である。なんの力にもなれず、残念なことに思えて仕方ない。みな外科の世話になり、さらに化学療法の末に他界されている。化学療法は以前から疑問視されている事は周知のことであり、諸外国で1990年代以降ガンによる死者が減少しているのは化学療法を止めたからであるとも言われる。日本ではガンによる死者は年々増大傾向にあり、高価な薬剤ばかりが生産され消費される現実。

ガン患者は揃って低体温であると聞いた事がある。それは人体六十兆もの細胞が元気を失っていることを意味するという。高体温の動物の肉を食らい、体内のリンパを流れる体液はドロドロとなり、生気のない加工された食材ばかり食べていたのでは細胞も活性しない。逆にガンの好物である甘いもの、ブドウ糖ばかりを体内に摂り入れているのだから治るものも治らない。勿論ここで絶食を勧めるのでは勿論ないが、いかにあるべきかはこの義浄三蔵が教えてくれているように思える。食べるものが大事である。自然のもの、玄米や新鮮なビタミンミネラル豊富な食材を適切に摂り、体温を上げ、さらには食べないこと、つまり体内に不要な薬物を取り入れないという選択肢も必要なのかも知れない。

とにかく天寿を全うして欲しい、ただそれだけを願っている。

(参照・法蔵館刊『義浄撰・南海寄帰内法伝』宮林昭彦・加藤栄司訳)

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