今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

宝塚歌劇団出身の女優・淡島 千景を偲んで

2013-02-24 | 人物
宝塚歌劇団出身の女優・淡島 千景(あわしま ちかげ)が87年の人生を終えたのは昨・2012年(平成24年)2月16日のことであった。実に幅広い役柄を演じた名女優だった。
本当は、一周忌にあたる今年2月16日に、このブログを書たかったのだが、どうしてもこの日に間に合わなかったので、彼女の誕生の日である今日書くことにした次第。
淡島 千景、本名:中川 慶子(なかがわ けいこ)は、1924(大正13)年2月24日生まれ、東京府(現代の東京都)大田区の出身である。
東京都武蔵野市吉祥寺にある成蹊高等女学校(現・成蹊中学校)卒業後、1939(昭和14)年に、宝塚音楽舞踊学校 (現:宝塚音楽学校の前身)に入学(15歳)。
ちょっと、ここで、※1:「宝塚音楽学校」HPを元に、淡島が入学するまでの同校歴史を辿ってみよう。
わが地元である兵庫県宝塚市にある宝塚歌劇団団員養成所である宝塚音楽学校は、1913 (大正2)年に第1期、2期生として12歳から19歳の少女20人が採用され、7月に「宝塚唱歌隊」として創立し、今年・2013(平成25)年7月に創立100周年を迎える。
「宝塚唱歌隊」は創立の年の12月には宝塚少女歌劇養成会と改称。翌1914(大正8)年に宝塚少女歌劇団として宝塚新温泉(※2参照)で初演している。
初の演目は、歌劇『ドンブラコ』、喜歌劇『浮れ達磨』(※3参照)、ダンス『胡蝶の舞』(Wikipediaも参照)は、かわいらしい14、5歳の少女がオーケストラに合わせて独唱や合唱をしながら踊るという珍しさで、予想外に歓迎されたという(※2の第3章 少女歌劇と宝塚新温泉また、Wikipedia のドンブラコ』も参照)。
1918 (大正7) 年に、私立「宝塚音楽歌劇学校」(文部省認可)となり、1919(大正8)年養成会を解散し、宝塚音楽歌劇学校生徒と卒業生で宝塚少女歌劇団を組織(音楽学校と歌劇団は一体)。
1923 (大正12)1月、宝塚新温泉、宝塚音楽歌劇学校新校舎焼失。同年4月入学年齢変更、13歳~19歳とする。
1935(昭和10)年3月宝塚音楽歌劇学校新校舎落成(宝塚市宮ノ下)。1939 (昭和14)年12月宝塚少女歌劇団と学校を分離し、宝塚音楽舞踊学校と改称。
淡島はこの改称された宝塚音楽舞踊学校の第1期生徒ということになるようだ。
そして1941(昭和16)年に宝塚歌劇団に入団し、宝塚歌劇団28期生に属する。この期には彼女同様後に女優となる久慈あさみ南悠子それに、元雪組組長で後俳優の睦千賀らが入団している。
淡島千景の芸名は百人一首源兼昌の「淡路島 かよふ千鳥の なく声に いく夜ね覚めぬ 須磨の関守」(「金葉和歌集」冬288)から採ったもの。
初舞台公演演目は『大やまとの歌』だという。

上掲の画像は、1941年月組 寶塚少女歌劇 歌劇「正行出陣」舞踊「小夜ふく春風」「大やまとの歌」05月宝塚大劇場パンフレット(※4:イマヨシ書店:すみれの本棚【宝塚関係書籍】のビンテージコーナー・脚本集に掲載のものを借用)。
「大やまとの歌(佐保川の歌)」 作詞:坪井正直 作曲:長谷川良夫 歌手若竹 操作詞:坪井正直、作曲長谷川良夫による「大やまとの歌(佐保川砧【きぬた】)を若竹 操(宝塚歌劇団21期生 1932(昭和7)年入学~1942(昭和17)年に退団)歌唱のもの(昭和16年7月 コロムビア発売SP盤)が聞ける。少々ノイズが入っているが貴重なものなので以下に記しておく。

「大やまとの歌(佐保川の砧) 若竹 操 – YouTube

1941(昭和16)年から1950(昭和25)年までの太平洋戦争を挟んで戦後の占領期に宝塚歌劇団に在籍し、在団中は月組で久慈あさみ、南悠子と同期トリオを結成。2人の男役から愛される美貌の娘役として活躍。
1946(昭和21)年の戦後の月組第1回公演「ローズ・マリー」で主演し、娘役トップになり、1947(昭和22)年 ~ 1950(昭和25)年退団まで、月組公演主演は主に淡島が演じたという。
1953(昭和28)年から『少女クラブ』に連載された手塚治虫の少女漫画の代表作の一つで、日本最古のストーリー少女漫画として知られる『リボンの騎士』は、天使・チンクの勘違いによって、男の心と女の心を持つサファイア王女(王子)をヒロイン(ヒーロー)にした作品であるが、このサファイア王女は、淡島が宝塚時代に数回演じた男役をモデルにした、と大ファンだった手塚本人が生前語っていたという。

以下参考に記載の※4:「イマヨシ書店:すみれの本棚(宝塚関係書籍)」の公演パンフ>”戦後から1970までのパンフ”に掲載されている1947年月組 【脚本集】の表紙の人物(上掲のもの)は淡島ではないだろうか?上掲の画像がそれ。

淡島は、1950(昭和25)年に宝塚退団後映画界に転向し、松竹の専属俳優となる。デビュー作の獅子文六原作、渋谷実監督の風刺コメディー「てんやわんや」で社長秘書を軽妙洒脱に演じ、それまでに見られないコメディエンヌぶりを発揮し、第1回ブルー・リボン賞演技賞を受賞している。


上掲の青弓社出版の『淡島千景 女優というプリズム 』表紙の人物が、1950年松竹映画「てんやわんや」出演の淡島千景である。
今風にいえばOL役の淡島千景はセパレーツの水着姿で登場。1950(昭和25)年当時としては、実に大胆であり、何よりもまぶしく健康的であった。
それまでの耐え忍ぶ日本女性のイメージとはまるで違う。明るく自己主張し、好きな男性に好きという、戦後の新しい女性としての登場であった。宝塚ではレビューで鍛えられていたので水着姿も抵抗はなかったといっていたという。
この翌年にも獅子文六原作、渋谷実監督による「自由学校」に出演。「自由学校」とは戦後の自由化された家庭・社会のことを指す。佐分利信演じる南村五百助と高峰三枝子演じる駒子の夫婦は、五百助が辞職して家出したことを切っ掛けに、それぞれ別の道を歩み、様々な人々と交流・交際していくことになる。淡島はおしとやかとは正反対の行動的なアプレ(戦後派)だが、笑顔の可愛い愛すべき現代娘(藤村ユリ)を演じた。この映画に使われた「とんでもハップン」は流行語となり子供も真似した。
この映画化にあたっては渋谷実監督の松竹吉村公三郎監督の大映とが競作。しかも同じ週に封切られると言う異例の作品となった。また、この作品が5月初めの連休に公開され、2作品とも興行成績がよかったため、今日いわれるところの「ゴールデンウィーク」という用語が生まれた。大映ではアプレのユリ役を京マチ子が演じている(この映画の開設は※5を参照されるとよい)。

上掲の画像が映画化された自由学校のシーン写真左が吉村公三郎監督の大映作品。主人公の五百助役を一般から公募、雑誌編集者の小野文春を起用。駒子は小暮美千代、ユリーに起用京マチ子。写真右は、渋谷実監督の松竹版は五百助役に佐分利信、駒子は高峰美枝子、ユリーに淡島千景を起用した。画像は、朝日クロニクル週刊20世紀1951年号より借用。
淡島の凄いのは、現代娘に役を固定させなかったことであった。
木下惠介監督の作品で「カルメン故郷に帰る」(日本初総天然色映画)の続編「カルメン純情す」(1952年。モノクロ、※7参照)ではカルメンの恋する男のフィアンセで男癖が悪い女として描かれている(千鳥)を演じ、1953(昭和28)年の「君の名は」では、岸恵子演じるヒロイン真知子の面倒を見る気風の良い姉御肌の娘(佐渡島・ひさご家の娘で真知子の友人綾)を好演。綾の協力で、真知子は春樹を探し求めることができるが・・・。綾も何となく春樹に惹かれているのだったが、・・・。ラストシーン、淡島千景がひとり数寄屋橋でもの想う。そして「忘却とは忘れ去ることなり」と自分の心にいいきかせるように吐くのは印象的。・・・重要な役割だ。
「君の名は」は織井茂子の主題歌が大ヒットしたことで有名だが、この映画「君の名は・第三部」挿入歌「綾の歌」(作詞:菊田 一夫 作曲:古関 裕而)を淡島が歌っている。宝塚出身の映画スターが輝いていた時代。彼女も負けじと映画で歌を歌っていたのである。

淡島千景 綾の歌(追悼投稿)- YouTube

そして、樋口一葉原作、今井正監督の「にごりえ」(1953年)では明治時代の薄幸の酌婦と役柄を広げていることである。
また、小津安二郎監督による「紀子三部作」(「晩春」「麦秋」「東京物語」)の2作目『麦秋』(1951年)では、紀子(原 節子)の女学校時代の級友で築地の料亭の娘(田村アヤ)を淡島が演じ、まるっきりの深窓のお嬢さんでなく料亭の娘という感じをよく出しており、「早春」(1956年)では平凡なサラリーマン池部 良演じる杉山とは結婚後8年経って、倦怠期に入っている妻昌子を演じているなど日本を代表する監督の名作に立て続けに出演し好演、松竹の看板女優として活躍した。

その後、東宝に招かれ、織田作之助の同名小説を映画化した他社出演第1作「夫婦善哉」(1955年)では、ぐうたらなダメ男柳吉(森繁久彌)に「頼りにしてまっせ」と頼られるしっかり者の姉さん女房役を演じた。
この大阪を舞台にした森繁との名コンビで、彼女は2度目の(第6回)ブルーリボン賞主演女優賞を受賞。戦後日本映画界の全盛期を支えたトップスターの仲間入りを果たした。
しかし、それにしても、淡島が宝塚退団後映画界に転向し、「てんやわんや」で水着姿でデビューした女優は気のいい現代娘から4年経つといつの間にか悲しみを知った着物のよく似合う落ち着いた大人の女性へと変身していたのだから驚かされる。

上掲の画像は、映画「夫婦善哉」(1955年東宝)で森繁と共演の淡島。2012年2月17日朝日新聞掲載のもの借用。
この後、1956(昭和31)年にフリーとなり、以降、各社の映画に出演。
村松梢風が二代目・尾上菊之助の人生を描いた同名小説を、依田義賢が脚色し島耕二が監督した「残菊物語>」(1956年大映カラー総天然色)では、演劇の世界を背景に、一芸をきわめようとする男・二代目尾上菊之助(長谷川一夫)の辛苦と、その為に自らを犠牲とする献身的な女・お徳(淡島)を主題として、清純な愛情の悲劇を描いたものだが、徳の貞女良妻ぶりに心をうたれ泣かされた人が多いのでは・・・・。

上掲のものは、映画パンフレット『残菊物語』 (1956年大映)である。Wikipediaより。
また、古巣松竹で五所平之助監督「黄色いからす」(1957年)では、小学生のいる気のいい母親役を主演し、第15回米国ゴールデングローブ賞 外国語映画賞受賞作品となっている。
この後、特に1960年代の東宝の屋台骨を支えた大ヒットシリーズ喜劇『駅前シリーズ』、成瀬巳喜男監督による女性映画の決定版「妻として女として」(1961年)、橋本忍のオリジナル脚本を堀川弘通監督が映画化したミステリー・サスペンス「白と黒」(1963 年)など東宝の映画に出演し、東宝の看板女優として活躍する。
1963(昭和38)年にはNHK大河ドラマ第一作舟橋 聖一原作の桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の生涯を描いた同名の小説をドラマ化した「花の生涯」では、かって同名の映画(「花の生涯 彦根篇 江戸篇」1953年松竹大曾根辰夫監督、主演:松本幸四郎=初代白鸚 )でも評判となった三味線師匠村山たか女役を演じて好評を得た(花の生涯映画のことは、※9参照)。
日本映画の斜陽期にあって、いち早くテレビに進出し多数出演。そして1980年代からは商業演劇の場へと活動の場を広げ、生涯現役の大スターとして息長く活躍を続けてきた。

私のコレクションの中には淡島の舞台のチラシもいろいろあるのだが、その中の一つが上掲のものである。これは東京宝塚劇場公演の「細雪」である。1987 (昭和63)年1月の公演のものと思われる(チラシの整理が悪く年度があやふやだが、1月2日(木)からとなっているのでそうだと思う。数ある中からこのチラシを選んだのには理由がある。それは、以下に書いてある説明など読んで頂けば察しがつくだろう。
近代日本文学を代表する文豪の一人でもある谷崎純一郎関東大震災の後、震災を避けて関西に移転してきたとき、数カ月単位でわが地元兵庫県の神戸京都、神戸と点々と住居をかえるが、1929(昭和4)年に当時の武庫郡住吉村反高林1876-203に建てられた和風木造建築で、1936(昭和11)年11月から1943(昭和18)年11月まで兵庫県神戸市東灘区に建つ現在歴史的建造物となっている倚松庵(いしょうあん)に居住した。1990年(平成2年)に、倚松庵は同じ東灘区内の現在地(東灘区住吉東町1-6-50)に移築されている。

上掲の画像が倚松庵である。 Wikipediaより。

関西の地をこよなく愛した彼の代表作の多くは、京都や阪神間の生活の中から生み出された。
彼の代表昨『細雪』は第二次世界大戦中の1943(昭和18)年に倚松庵に住んでいるときに一部を発表。当局の干渉で中断後、『婦人公論』に連載され昭和21年から23年にかけて出版された。倚松庵は彼の代表作にちなんで「『細雪』の家」とも呼ばれている。庵号は夫人の名前松子に因んでのもの。
小説『細雪』は何度も映画化、舞台化された。昭和の初期大阪・船場、そして芦屋を舞台に描く文豪・谷崎純一郎の最大長編小説の傑作!それがこの舞台にもなっている「細雪」である。
当舞台で公演のものは、菊田一夫作・演出で劇化されたものを1984(昭和59)年に大劇場向きに改定されたものである。
蒔岡家は、徳川時代から続く船場の木綿問屋。かっては、豪商として大阪・船場で鳴らしたこの家も大正末期から没落の一途を辿っていたが、桜の季節には、京都嵐山平安神宮紅枝垂を楽しみ、紅葉盛りには箕面公園で楽しむというブルジョア的な余裕が残っていた。
生家の没落にもめげず、移りゆく古都の四季の中、その美しさを競う4人の姉妹。銀行員の辰夫を婿養子に迎えて本家を継ぐ長女・鶴子を淡島が演じる。次女・幸子を八千草薫が、三女・由紀子を多岐川裕美が、四女・妙子を熊谷直美が演じている。船場言葉を奏でる四人姉妹たち・・・。喜び、哀しみ、支え合うそれぞれの愛・・・人生の詩・・・。時を超えて日本人の心に生き続ける永遠の名作である。
この「細雪」が公演された東京宝塚劇場は、1934(昭和9)年に、宝塚歌劇の東京での拠点となる劇場として誕生した。
この東京宝塚劇場で宝塚歌劇は、年6ヶ月から7ヶ月公演した。他の月は、当時の名優たちの共演、競演の場となり、戦前は芸術座春秋座新国劇東宝劇団など、戦後は東宝歌舞伎や東宝ミュージカルに始まり、様々なジャンルの作品が上演されている。
日本の商業演劇の中枢として活躍した東京宝塚劇場であったが、この「細雪」の舞台公演・1997年1月の1年後の1998(平成10)年1月から老朽化による建て替えのため、64年間の幕を閉じた。そして、2年後の2001(平成113)年1月1日、21世紀の幕開けと共に現在の新東京宝塚劇場がリニューアルオープンした。旧劇場との大きな違いは、宝塚歌劇の通年公演を目的とした宝塚歌劇専用の劇場として生まれ変わったことである。
この淡島ら4名による「細雪」は1998(平成10)年4月に、大阪・梅田の劇場飛天(現:梅田芸術劇場)でも公演されており、そのチラシも持っている。そのチラシはチケット販売に力を入れているのであろう、通常サイズ(B5版)の倍のB4版のものであり、私のスキャナーではコピーが撮れないので、ここでは東京宝塚劇場のものを使った。この劇場飛天のときの四姉妹のうち1名、次女役は八千草薫に代わって池内淳子が演じている。
当劇場の前身は1956(昭和31)年、大阪に開場した「梅田コマスタジアム」である。大阪では梅田花月中座、そして近鉄劇場もなくなり、35年間劇場として西日本一の観客を集めてきた大坂・キタの「梅田コマ劇場」も亡くなってしまうのかと心配していたが、阪急不動産茶屋町ビルに移り、コマ劇場の1.5倍の広さ、東京帝国劇場の9mを越える11mの高さをもつ日本一の舞台となり、名称も「劇場飛天」と改め、大衆演劇から脱皮し、大阪の演劇のルネッサンス(復興)を目指し、こけら落としも森繁久弥らによる「孤愁の岸」(杉本 苑子の同名の直木賞受賞作品の劇化。※10、※11「私の読書感想」の中の杉本苑子「孤愁の岸」参照)の豪華な演目で、華々しく幕開け、その後も、この淡島ら四姉妹による「細雪」などの他芸術性高い演目が公演されてきたのだが、その分料金も高くなり観客数が激減。バブル崩壊や阪神・淡路大震災の直撃もあったが、目的は達成されず挫折。
1992(平成4)年に、名称も元の「梅田コマ劇場」に戻し、入場料もかってのレベルまで、引き下げ、観客の呼び戻しを図ったものの、これも、上手く行かず経営が悪化し、2005(平成17)年4月1日より新たに、「梅田芸術劇場」としてリニューアルされた。後は、クラシック、オペラ、コンサート等、多彩な公演の招聘を図っていくということだったが今はどうなっていることやら・・・。
これは、東京・新宿歌舞伎町のシンボル的存在として親しまれた「新宿コマ劇場」も同様で、再開発のために2008(平成20)年12月31日をもって閉館している。
かっては演芸で栄えた大阪から次々と劇場が消え、今では大阪ではあまり上品とは言えない吉本興業によるドタバタの新喜劇やタレントのみが幅を利かせている。
「細雪」の舞台でかわす四姉妹は船場言葉を使用しているが、かって、そう、私が大阪本町船場)に本社のある商社で仕事をしていた昭和30年代ごろまでは、仕事で使う言葉は、船場言葉が普通であった。
私などは神戸出身なので摂津弁を使っていたが播州弁の影響を受けちょっと汚い言葉も使っていたのでそれを笑われて、すぐに船場言葉を使うように改めたものだ。
俗に大阪弁と言われるものには、今のようなテレビが普及した時代には、テレビなどによく登場する吉本のタレントなどが使っているあまり品の良くない言葉などがそうだと思っている人が多いかもしれないが、「細雪」の舞台を見られた人などは、その違いに驚かされただろう。
かっては今の吉本のタレントの多くが使っているような河内弁などは品がないと笑われたものだ。同じ大阪の芸人でも大阪を代表する喜劇役者藤山寛美などが活躍していた時代の松竹新喜劇で使われていた言葉は、北摂地域の摂津弁か船場言葉といわれるものであった。なにか、芸が廃れると言葉まで悪くなってしまう。芸のともなわないダジャレだけを売り物にするには、汚い言葉での早口があっているのかもしれないが・・・。私など神戸の人間であるが長く大阪で仕事をしてきたものには、昔の言葉が懐かしい。
芸人と言えば、私が持っている、「細雪」のチラシに、1994年3月東京の帝国劇場での公演のものがある。このときの四姉妹も長女淡島、三女・多岐川、四女熊谷は同じなのだが、次女は新玉美千代が演じている。
この新玉は、2001(平成13)年3月17日に亡くなっているが、飛天で次女を演じた池内順子も2010(平成22)年9月26日に亡くなっている。
そして、去年は、芸人だけでも、淡島千景ほか淡島の宝塚時代の先輩、春日野八千代、俳優では、山田五十鈴津島恵子森光子地井武男大滝秀治馬淵晴子小沢昭一三崎千恵子二谷英明桜井せんり安岡力也、それに、歌舞伎俳優の中村雀右衛門中村勘三郎など私達には懐かしい大物俳優が数多く亡くなった。
それに今年は、先日歌舞伎界の十二代目 市川 團十郎まで亡くなってしまった。
今の時代は、俳優と言われる人達でも、舞台などでしっかりと基礎を身につけた人達が少ない。これだけ次々と本当の意味での芸人達が多くなくなってしまうと、これからの芸能界はどんな舞台をやってゆけるのだろう。
もう、映画でもテレビでも本物の時代劇を演じれる人がいなくなってしまったが、これからは、私達とは縁のないテンポの速い踊りや歌を取り入れたミュージカルのようなものが中心になるのだろうね~。さみしいものだ。
淡島千景のことを書きながら、いつもの調子で、いろいろ脱線してしまったが、最後に、戦後の映画界を背負った女優・淡島千景を以下の歌など聞きながら、偲ぶことにしよう。
以下は松竹映画「お景ちゃんと鞍馬先生」(1952年)の主題歌。作詞:サトウ・ハチロー、 作曲:万城目正「お景ちゃん」(昭和27年販売)。お景ちゃんとはは彼女の宝塚時代からの愛称だ。曲とともに当時の画像が多く紹介されており、彼女のファンには懐かしいだろう。

淡島千景 お景ちゃん(追悼投稿)-YouTube

以下は、寶塚レヴュー『再び君が胸に』(花組、1948年7月1日 ~7月30日、宝塚大劇場) 主題歌『アデューの歌』。堀正旗作詞・ハンガリー民謡・酒井協編曲によるもの。

追悼 淡島千景 宝塚時代のお景ちゃんの歌声 Part 1 「アデューの歌」-YouTube

以下は、寶塚レヴュー「リオで結婚」(月組,1949年9月1日~9月29日、宝塚大劇場)の主題歌集から『ロザリーの歌・いつも三人』。天城月江・淡島千景 久慈あさみ南悠子 。歌詞・セリフ入り。

追悼 淡島千景 久慈あさみ ロザリーの歌・いつもの三人 -YouTube

(冒頭の画像は平成8年度文化庁芸術祭参加作品。三越劇場10月公演『江戸コメディー花色の家』画像は、淡島千景と菅井きん。コレクションのちらしより。)
参考:
※1:宝塚音楽学校
http://www.tms.ac.jp/
※2:宝塚温泉
http://www.h-wakamizu.com/takarazuka/story/page01.html
※3:福田信子 浮れ達磨 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=HN7vYiQChw4
※4:イマヨシ書店:すみれの本棚(宝塚関係書籍)
http://kobe-kosho.com/list_takara/
※5:自由学校 (1951): お楽しみはココからだ~ 映画をもっと楽しむ方法
http://otanocinema.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/1951-2e98.html
※6:善魔 : 作品情報 - 映画.com
http://eiga.com/movie/37546/
※7:カルメン純情す(1952)|日本映画ブログ
http://ameblo.jp/runupgo/entry-11093330866.html
※8:幻映画館(91)「早春」
http://blog.livedoor.jp/michikusa05/archives/51634753.html
※9:日本映画の感想文花の生涯
http://home.f05.itscom.net/kota2/jmov/2007_01/070133.html
※10:私の読書感想: 歴史小説・日本文化論と史実近世篇14
http://blog.zaq.ne.jp/mura339/category/22/
※11:私の読書感想: 歴史小説・日本文化論と史実近世篇15
http://blog.zaq.ne.jp/mura339/category/23/
谷崎潤一郎の神戸を歩く
http://www.tokyo-kurenaidan.com/tanizaki-kobe1.htm
淡島千景 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/c90594/index.html
宝塚歌劇
http://kageki.hankyu.co.jp/html/index.html
宝塚DVD特集
http://takarazukakagekidan.blog.fc2.com/blog-date-201106-86.html
Category:宝塚歌劇団
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%AE%9D%E5%A1%9A%E6%AD%8C%E5%8A%87%E5%9B%A3
淡島千景 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A1%E5%B3%B6%E5%8D%83%E6%99%AF

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