今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

荒木又衛門「鍵屋の辻の決闘」

2009-11-07 | 人物
鍵屋の辻の決闘は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)荒木又右衛門が数馬の弟の敵(仇)である河合又五郎伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件であり、「伊賀越の仇討ち」ともいう。
日本三大仇討(敵)ちと言えば、「曽我物語」(曾我兄弟の富士の夜襲」)、「忠臣蔵」(赤穂浪士の討ち入り)そして、「伊賀の水月」(伊賀越の仇討ち)である。「水月」とは、兵法における陣立てのひとつで、水に映る月のように双方が対峙している様から。 関連して、「伊賀の水月」は、「荒木又右衛門」とも題される“36人斬り”の名場面で有名な講談である。
「時しも嘉永11年(1634年)11月7日、伊賀の上野は金伝寺(きんでんじ)門前、鍵屋の辻において、柳生流剣士、荒木又衛門源義村---、河合又五郎をはじめ、付き人36人をむこうに回す、三十六番斬り----」。講談師の張り扇からたたき出される鍵屋の辻で颯爽と36人を斬って落とした剣豪荒木又衛門の敵討ちは、講談に、歌舞伎に、時代劇映画にと日本人の国民感情に訴えるものとして脈々と受け継がれてきた。
冒頭掲載の画像は、香蝶楼国貞(初代国定)筆による「伊賀ノ上野仇討ノ図」(国立国会図書館蔵)、である。中央二刀流で戦っているのが荒木又衛門である。又右衛門は伊賀藤堂家の家臣服部平左衛門の二男で幼名丑之助。伊賀(現在の三重県伊賀市)の荒木村で生まれ育った。剣術は柳生十兵衛に学んだ柳生新陰流の達人だったそうだ。
しかし、この又右衛門の「36人斬り」などは、実際と虚像にはかなりの差がある。第1に、日本三大仇(敵)討ちなどと言われているが、実際には、仇討ちではなく、上位打ちの形をとった決闘に過ぎなかった。講談などでは、渡辺数馬が姉婿荒木又右衛門の助太刀を得て、父親、渡辺靭負(ゆきえ)の仇(あだ)を報いたことになっているが、事実は、数馬の弟源太夫が討たれたのが事の起こり。江戸時代、仇討ちとは元々、子が親の仇を、家来が主君の仇を討つ等をさし、このような「兄が弟」の又、「親が子」の仇を討つというようなことは通常許されていなかった。
数馬の弟源太夫は、時の備前岡山藩藩主・池田忠雄(ただかつ)の寵童(ちょうどう)であった。寵童とは、主君などが寵愛(特別にかわいがている)童(わらべ)のことであり、つまりは、男色の対象として側においていた少年のことである。日本では、男色は、平安時代より僧侶や公家の間で営まれ、特に中世に入り女を排除していた武家や寺院では一般的なものであったことが知られており、中でも、少年愛は仏教僧侶と寺院に仕える稚児や、織田信長とその小姓森蘭丸の関係は良く知られているが、名高い戦国武将のなかで男色の嗜好がなかったのは百姓出の豊臣秀吉位でであったとまでいわれているようであり、池田忠雄も例外ではなかった。池田公の寵童・源太夫を殺されて怒った忠雄の上意(主君の命令)を受けて、河合又五郎を斬ったのが真相であり、鍛冶屋の辻の決闘は上位打ちの形をとった決闘であり敵討ちなどではなかったのだ。それに、又右衛門の「36人斬り」も脚色による誇張であり、荒木方は又衛門を筆頭に4人。河合又五郎方は士分、小者ともで、合せて11人であったと藤堂家の公文書「累世記事」にも残っているという。
そもそも、ことの起りは、何故に渡辺数馬宅を、傍輩の又五郎が訪れ、忠雄公の寵愛一方ならぬ美少年源太夫(数馬の弟)と会い、又五郎が源太夫を斬ったかの子細は不明だが、これに激怒する忠雄公を尻目に江戸に逃れ、当時大名とは犬猿の仲であった旗本である安藤家某に保護を求めて匿(かくま)われた。こうして、17歳と19歳の少年の刃傷事件が旗本と大名の争いへと大きく発展したものである。鍵屋の辻の決闘に至る事件は、寛永7年(1630年)から11年にかけての事件であるが、まだ、大阪夏の陣から数えて15年くらいしか経っていない時期である、まだまだ世情不安な中で、旗本と大名の確執が政治問題化していた。そんな中、徳川家康の娘督姫の子である池田忠雄公と旗本が対決するとなると、それだけでも国内は騒然となる。
この時、岡山藩主は池田忠雄は、河合又五郎を呼び戻して処罰しようとしたが、かくまった安藤家・某がこれに抵抗したため忠雄公は公儀に訴えた。安藤家・某が直参旗本である以上、こうするよりなかったのだが、旗本グループが安藤のバックにつき、事は外様大名と直参旗本の抗争に発展する勢いとなった。これを何とかしようと老中松平伊豆守が動き出したが、寛永9年(1632年)この事件の解決を見ないまま忠雄公が急死した。一説では、ことを丸く治めようとした老中・伊豆守の差し金で毒殺されたとも云われているらしいが確証はない。それ程にまで当時は幕府は旗本と大名の対立に手を焼いていたのだ。事態の収拾に手を焼いていた幕府も忠雄公の急死を機会にようやくこの事件の終止符を打とうと、先ず、岡山藩の池田家を因幡(鳥取)に国替え、安藤に加担した旗本側の首謀者は百か日の寺入り謹慎処分、河合又五郎を江戸追放処分とした。要するに、喧嘩両成敗であり、表面的には事件は一段落したのだ。
しかし、その後、弟源太夫を殺された兄数馬が主君の遺志を継ぎ江戸追放となった又五郎を討とうと考え出し、大和郡山藩・松平家の剣術指南を勤めていた姉婿の荒木又右衛門に助太刀を求め、荒木はその助太刀を決意した。そして、荒木と同じ大和郡山藩家中の伯父河合尽左衛門にかくまわれていた又五郎を探知したことから、この日を堺に、何事もなければ地方の一剣士として終わっていたかもしれない又衛門が天下の名剣士に生まれ変わっっていく。
「いよいよ待ちに待ったる時節到来、川合又五郎の一門が鍵屋の辻に差し掛かったとみるや、タ・・・・・・・・・タと、飛鳥の如く飛びだした又衛門、いきなり先頭の河合甚左衛門を一刀のもとに切り捨てた。・・・・おなじみの荒木又衛門、三十六番斬り。」・・・の一席。
本当は、藤堂家公文書「累世記事」にもあるとおり、河合又五郎方11人を、“2代目一竜斎貞山が、附人を36人にして、これが当って以来、すっかり、この方が一般的になってしまった(2代目一竜斎貞山ではなく錦城斎典山との節もある。以下参考の※:錦城斎典山- Yahoo!百科事典参照)。この桜井半兵衛の如き、23歳で、立派な武士だが、本当に紹介されていないのは、遺憾である。この時、荒木が斬ったのは、河合甚左衛門と、この桜井半兵衛との2人だけである。”と小説家直木 三十五は、『寛永武道鑑(かんえいぶどうかがみ)』(以下参考の※:「青空文庫:作家別作品リスト:No.216作家名: 直木 三十五」参照)の中で付記している。このように、講談のなかでは桜井半兵衛は登場しない。しかし、河合側の主力は、又衛門と同じ大和郡山藩の上席剣術師範甚左衛門と、尼崎藩槍術師範であった桜井半兵衛の2人だけである。この『寛永武道鑑』では、桜井半兵衛が又五郎の助太刀をした理由について、“河合又五郎の妹の婿故、助太刀に出なくてはならぬ。何故なら、縁も無い旗本が、あれだけ援助しているのに縁につながる者が、出ぬ筈は無い”から、“然し――又五郎が殺したのは、数馬の弟の源太夫では無いか? 弟の仇を討つ――そういう法は無い筈だ。もし荒木と、数馬とが、その法を無視して、又五郎を討つなら濫(みだ)りに、私闘を行った罪として、処分されなくてはならぬし、この明白な事を知りながら、助太刀に出たわしも、処分されなくてはならぬ。そうした場合、主君に対して、何うして、申訳が立つか?“・・・と思いながらも、藩の槍術指南役として、又衛門と同じく二百石を頂いている半兵衛としては、世間からも腕前は又衛門と同格と言われており、将軍家御前試合に加わった荒木又衛門と”同じ二百石であり乍(なが)ら、将軍家の前へ出られるのと、出られぬのと、どんな違いがあるか? それを天下に示したい”・・とそれが、納得行かずに、どうしても腕を競べてみたかったからだと書いている。しかし、鍵屋の辻では、不覚にも、又衛門の奇襲攻撃をうけ槍持ちが襲われ、得意の槍を手にとることが出来ずに戦い結果として、半兵衛は深手を負い戦いの後に死去した。『寛永武道鑑』では、この桜井半兵衛のことを書いたものだ。その中で、将軍家御前試合の「荒木又衛門の対手は、宮本武蔵の忰八五郎だというが・・・」とあるので、これは、寛永御前試合のことだろう。Wikipediaでは、この試合、荒木又衛門【柳生新陰流】対宮本伊織(宮本八五郎)【新免二刀流】とは”あいうち勝負なしに終わった”とあるが、森銑三(もり せんぞう)「宮本武蔵言行録」(1940年)に、三代将軍徳川家光の寛永11年(1634年)9月22日から吹上御覧所で上覧仕合があり、そのとき又衛門と宮本伊織が引き分けたと記されているようだが、この頃には、荒木又右衛門は、奈良あたりで又五郎を追い回していた頃であり、江戸での試合に出場できるはずもなく、又、この天覧試合そのものが眉唾物と言われており、2人が試合をしたはずがないとも言われている(以下参考の※「[武蔵伝記集]武公伝09」参照)。
それに、又右衛門が15歳のころ柳生宗矩やその子柳生十兵衛の門人となったという説も、宗矩は江戸在住であり、又右衛門は物心付いたころからは備前や播州で過ごしている。さらに、又右衛門は十兵衛より8歳年長であり、10歳に満たない子供の門人になるとは考えられないが、武術は優れていたのだろう。寛永年間は、まだ戦国時代の名残りが残っているとはいえ、幕府の体制はがっちり固まっており、武道で名を売ることなど通じない時代になっており、伊賀越え敵討ちは彼にとっても名前を売るチャンスであったのだろう。本来上位討ちを果たした渡辺一馬の方が有名にならなければいけないのだろうが、助太刀をした荒木又衛門の方が有名になったのには、本人の魅力だけでなく、この仇討ち事件そのものが、政治の中で起こった事件であり、物語をストレートに扱うことはできなかったため、浄瑠璃や歌舞伎で扱われるのも事件後100年以上経ってからであり、仇討物語に仕立て上げたのもタブーを避けるためであったろうし、36人斬りの武勇伝を広めたのも講談師の張り扇が生み出したことにはちがいない。
首尾よく鍛冶屋の辻で本懐を遂げた又衛門はその後4年ほど藤堂家に留め置かれた後、寛永15年(1638年)鳥取池田藩に引き取られるが、鳥取到着後2週間でこの世から忽然と姿を消している。41歳の若さで急死したというが、その死因も明確ではなく死亡日までまちまちであり、又衛門の死には謎が多いようだ。
(画像は、錦絵「伊賀ノ上野仇討ノ図」荒木又右衛門の鍵屋の辻の仇討ち、著者名:香蝶楼国貞【初代国定】筆、国立国会図書館蔵。)

参考:
※:深谷克己ホームページ
http://www.f.waseda.jp/fky0/
※:三重県伊賀市街図
http://urano.org/kankou/igaueno/index.html
※:青空文庫:作家別作品リスト:No.216作家名: 直木 三十五
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person216.html#sakuhin_list_1
※:錦城斎典山- Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%8C%A6%E5%9F%8E%E6%96%8E%E5%85%B8%E5%B1%B1/
※:[武蔵伝記集]武公伝09
http://www.geocities.jp/themusasi2de/bukou/b209.html
荒木又右衛門 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E5%8F%88%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
剣聖 暁の三十六番斬り(1957) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD27508/index.html
貴重書画像データーベース(※「伊賀ノ上野仇討ノ図]で検索。錦絵 請求記号: 本別9-28 )
http://rarebook.ndl.go.jp/pre/servlet/pre_com_menu.jsp
歌川国貞 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%9B%BD%E8%B2%9E
少年愛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%84%9B
直木 三十五-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%9C%A8%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%94
水月 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%9C%88
伊賀の水月
http://www.raizofan.net/link4/movie3/suigetsu.htm
わがスクリーン遍歴78「伊賀の水月」
http://www.nwn.jp/screen/waga1/text1/78.html
森銑三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%8A%91%E4%B8%89


最新の画像もっと見る