今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

蘆花忌(小説家・冨蘆花の忌日)

2009-09-18 | 人物
今日・9月18日は、明治、大正期の小説家・徳冨蘆花の1927(昭和2)年の忌日。
徳冨蘆花(本名:徳富健次郎)は、1968(明治元)年、熊本県水俣の惣庄屋(そう goo辞書【惣】参照)兼代官をつとめる名家に生まれる。父の一敬は漢学者。兄に、評論家で民友社を興し、平民主義(以下参考の※:平民主義参照)を主張する月刊誌『国民之友』や『國民新聞』などを創刊したジャーナリストの徳富蘇峰(本名:猪一郎)がおり、兄弟で明治の文壇で活躍した。
同志社英学校に学びキリスト教の影響を受け、クリスチャンとして、伝道に携ったりもした。同志社時代に同志社の創立者である新島襄の義理の姪との恋愛をとがめられて、1889(明治22)年20歳のときに上京。兄蘇峰の民友社に入り記者となり、翻訳なども手掛けた。1894(明治27)年、原田藍と結婚。彼女は東京高等師範を卒業した才女で、徳富愛子という筆名で活躍していたようだ。蘆花は青年時代より秀才の兄に対する劣等感が強かったが、その兄蘇峰は、当時の代表的なジャーナリストとしての地位を築いていく。しかも、結婚した妻にも引け目を感じていた。蘆花の号となっている蘆(アシ)もススキのような花穂をつけるが、そんな花には誰も関心を寄せもしないし振り向きもしない。蘆花は兄の蘇峰が雄大な阿蘇山からそのペンネームをとっているのに対して、随筆小品集『自然と人生』の中で、「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ(以下参考の※:枕草子・六五 草の花は)。然もその見所なきを余は却って愛するなり」として、自身を見所もないと評価して「蘆花」を名乗ったそうで、姓も本来の姓であり兄の蘇峰も名乗っている「徳富」の字をわざと使わず「徳冨」(「富」ではなく「冨」)の表記にこだわっており、当時の蘆花の心は相当に屈折していたのだろう。
そんな、彼に30歳の時、転機が訪れる。転地で逗子に滞在中、大山 巌元帥の娘、信子の境涯を聞いた話しをもとに1898(明治31)年に書いた『不如帰』の大ヒットで一躍人気作家の地位を確立。つづく随筆集『自然と人生』も好評で生活も安定するようになった。自伝的長編小説の『おもひでの記』(単行本は『思い出の記』、も若い人々の間で評判を呼んだようだ(これら『自然と人生』『思い出の記』の2冊の本を私は読んでいないが、今青空文庫で校正中らしいので、そのうち読めるだろう)。
日清戦争後の三国干渉に衝撃を受け、平民主義から強硬な国権論・国家膨脹主義に転じ、次第に国家主義的傾向を強める兄の蘇峰とは不仲となり、民友社を退職後、1902(明治35)に書いた『黒潮』のなかで政界を批判したことがもとで、兄蘇峰とは絶縁状態となった。平民主義から国家主義よりに転向した兄に対抗して、蘆花は、社会主義に接近。彼は、トルストイに傾倒し、日露戦争後の1906(明治39)年にトルストイ訪問の旅に出、帰国した翌年、「美的百姓」と称して東京の郊外・千歳村粕谷(現在の世田谷区)へ転居し半農生活をしている。その生活ぶりを書き始め、それをまとめたのが『みみずのたはこと』である。
ここは、蘆花の死後、夫人より東京市に寄贈され、現在は蘆花恒春園(面積約7万平方メートル)として開放されている。
1927(昭和2)年、心臓発作で倒れ、伊香保温泉へ静養に行き、そこで、死の直前になって、蘇峰と再会、和解し、後事を託して亡くなった時、『不如帰』はなんと190版を目前にしていたという(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
ところで、この小説『不如帰』(ほととぎす)は、1898(明治31)年から1899(明治32)にかけて兄・蘇峰が創刊した日刊新聞国民新聞に掲載されたものが、1900(明治33)年に単行本っとして出版されるやベストセラーとなったものであるが、国民新聞に掲載された『不如帰』には「ほととぎす」と読みが示してあったが、後に著者は、本作品を「ふじょき」と呼び、「第百版不如歸」の巻頭にも、そうルビが付してある。そして『不如帰』をわざわざ『小説不如帰』としているのは、実話を元にしながらも、あくまでフィクションであることを強調する意図から付けられたもののようだ。
「第百版不如歸の巻首に」には、「もうそのころは知る人は知っていたが自分にはまだ初耳の「浪子」の話である。「浪さん」が肺結核で離縁された事、「武男君」は悲しんだ事、片岡中将が怒って女(むすめ)を引き取った事、病女のために静養室を建てた事、一生の名残に「浪さん」を連れて京阪の遊(ゆう)をした事、川島家からよこした葬式の生花(しょうか)を突っ返した事、単にこれだけが話のなかの事実であった。」とある。
「浪さん」:小説上のヒロインの「麗妙 波子」は 元帥男爵大山巖陸軍大將の長女「大山信子」である。
日露戰爭に滿洲軍總司令官として日本の勝利に多大な貢献をした大山 巖は1876(明治9年)35歳で後の伯爵吉井友實の長女沢と結婚し、翌年 長女信子を得たが、沢は當時不治の病と言われた肺結核で亡くなり、信子が17歳で三島家に嫁いだ1893(明治26)年には、父巖は、津田梅子らと岩倉使節団に同行して渡米した新政府留学女学生の1人で米國で教育を受けた山川捨松(会津藩士山川重固の娘)を後妻として迎へていた(1883=明治16年)。
又、「武男君」:海軍少尉男爵川島武男は、農商務省技師子爵三島彌太郎であり後の第8代日本銀行總裁である。
当時の上流階級を舞台にした小説であり、主人公の浪子は当時不治の病だった結核のために家系の断絶を恐れる姑によって無理やり幸せな結婚生活を引き裂かれた挙げ句、実家に戻ると今度は、非情冷徹な継母によって離れに押し込まれ、寂しくはかない生涯を終える。
主人公の浪子が、「もう女には生まれてこない」と絶叫するもっとも有名なシーンは以下の通り(青空文庫「不如帰 小説」下九のニより引用)。
“日は暮れぬ。去年の夏に新たに建てられし離家の八畳には、燭台の光ほのかにさして、大いなる寝台一つ据えられたり。その雪白なるシーツの上に、目を閉じて、浪子は横たわりぬ。二年に近き病に、やせ果てし躯(み)はさらにやせて、肉という肉は落ち、骨という骨は露(あら)われ、蒼白(あおじろ)き面(おもて)のいとど透きとおりて、ただ黒髪のみ昔ながらにつやつやと照れるを、長く組みて枕上(まくら)にたらしたり。枕もとには白衣の看護婦が氷に和せし赤酒を時々筆に含まして浪子の唇を湿(うるお)しつ。こなたには今一人の看護婦とともに、目くぼみ頬落ちたる幾がうつむきて足をさすりぬ。室内しんしんとして、ただたちまち急にたちまちかすかになり行く浪子の呼吸の聞こゆるのみ。
たちまち長き息つきて、浪子は目を開き、かすかなる声を漏らしつ。
 「伯母さまは――?」
 「来ましたよ」
 言いつつしずかに入り来たりし加藤子爵夫人は、看護婦がすすむる椅子をさらに臥床(とこ)近く引き寄せつ。
 「少しはねむれましたか。――何? そうかい。では――」
 看護婦と幾を顧みつつ
 「少しの間(ま)あっちへ」
 三人(みたり)を出しやりて、伯母はなお近く椅子を寄せ、浪子の額にかかるおくれ毛をなで上げて、しげしげとその顔をながめぬ。浪子も伯母の顔をながめぬ。
 ややありて浪子は太息(といき)とともに、わなわなとふるう手をさしのべて、枕の下より一通の封ぜし書(もの)を取り出(いだ)し
 「これを――届けて――わたしがなくなったあとで」
 ほろほろとこぼす涙をぬぐいやりつつ、加藤子爵夫人は、さらに眼鏡(めがね)の下よりはふり落つる涙をぬぐいて、その書をしかとふところにおさめ、
 「届けるよ、きっとわたしが武男さんに手渡すよ」
 「それから――この指環(ゆびわ)は」
 左手(ゆんで)を伯母の膝(ひざ)にのせつ。その第四指に燦然(さんぜん)と照るは一昨年(おととし)の春、新婚の時武男が贈りしなり。去年去られし時、かの家に属するものをばことごとく送りしも、ひとりこれのみ愛(お)しみて手離すに忍びざりき。
 「これは――持(も)って――行きますよ」
 新たにわき来る涙をおさえて、加藤夫人はただうなずきたり。浪子は目を閉じぬ。ややありてまた開きつ。
 「どうしていらッしゃる――でしょう?」
 「武男さんはもう台湾(あちら)に着いて、きっといろいろこっちを思いやっていなさるでしょう。近くにさえいなされば、どうともして、ね、――そうおとうさまもおっしゃっておいでだけれども――浪さん、あんたの心尽くしはきっとわたしが――手紙も確かに届けるから」
 ほのかなる笑(えみ)は浪子の唇(くちびる)に上りしが、たちまち色なき頬のあたり紅(くれない)をさし来たり、胸は波うち、燃ゆばかり熱き涙はらはらと苦しき息をつき、
 「ああつらい! つらい! もう――もう婦人(おんな)なんぞに――生まれはしませんよ。――あああ!」
 眉(まゆ)をあつめ胸をおさえて、浪子は身をもだえつ。急に医を呼びつつ赤酒を含ませんとする加藤夫人の手にすがりて半ば起き上がり、生命(いのち)を縮むるせきとともに、肺を絞って一盞(さん)の紅血を吐きつ。※々(こんこん)として臥床(とこ)の上に倒れぬ。・・・・・。“
結核は明治前期の資本主義経済発展とともに増え続けた。国家規模で対策が本格化するのは1913(大正2)年に日本結核予防協会が発足してからである。
ロベルト・コッホ結核菌を発見した1882(明治15)年の結核死亡者は1万3808人だった。年々増え日本結核予防協会発足の1913(大正2)年は死者11万753人となっていたという(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
結核は若き天才が倒れる病気でもあり、樋口一葉は1896(明治29)年に24歳で、石川啄木は1912(明治45)年26歳で、1902(明治35)年に35歳で亡くなった正岡子規 は結核を病み、喀血後、血を吐くまで鳴きつづけるというホトトギスに自らをなぞらえて子規(漢語でホトトギスの意)という号をもっぱら用いた。
そんな、結核の残酷さを信子を通じて浮き彫りにし、結核に、「悲劇の病」というイメージを与えるに決定的であったのが、『不如帰』であり、美貌のヒロイン浪子が武男を慕いながらも、家の体面や運命によって愛を引き裂かれ、哀れにその生涯を終える物語は、映画や新派劇などで繰返し上演された。
ところがこの小説に描かれた継母が捨松の実像と信じた読者の中には彼女に嫌悪感を抱く者が多く、誹謗中傷の言葉を連ねた匿名の投書を受け取ることすらあった。そのため、捨松は晩年までそうした風評に悩んでいたという。
実際には、信子の発病後、離縁を一方的に申し入れてきたのは夫の三島彌太郎とその母であり、悩む捨松を見るに見かねた津田梅子は三島家に乗り込んで姑に猛抗議しているという。捨松は看護婦の資格を活かし親身になって信子の看護をし、信子のためにわざわざ離れ(隔離病棟)を建てさせたのも、結核が当時は伝染病(今では結核菌により引き起こされる感染症)と捉えられていた時代、伝染病持ちである信子に気兼ねせずに自宅で落ち着いて療養に専念できるようにとの思いやりからだったようであり、捨松は巌の連れ子たちから慕われ、家庭は円満だったという。
「第百版不如歸の巻首に」の最後に、「・・で、不如帰のまずいのは自分が不才のいたすところ」・・とあるのは、そのような誤解を招いたことに対してであろうが、蘆花からこの件に関して公に謝罪があったのは、『不如帰』出版から実に19年を経た1919(大正8)年、捨松が急逝する直前のことだった。雑誌『婦人世界』で盧花は「『不如歸』の小說は姑と繼母を惡者にしなければ、人の淚をそゝることが出來ぬから誇張して書いてある」と認めた上で、捨松に対しては「お氣の毒にたえない」と遅きに失した詫びを入れている。
(画像は、『不如帰』初版本。Wikipediaより)
参考:
徳富蘆花 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%86%E8%8A%B1
徳富蘆花
http://www18.ocn.ne.jp/~bell103/dooptokutomiroka.html
作家別作品リスト:徳冨 蘆花
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person280.html
作家事典:ほら貝目次
http://www.horagai.com/www/who/index.html
ふるさと寺子屋塾<No.136>
http://cyber.pref.kumamoto.jp/renmei/magazine_terakoya/Number_136.htmll
私立PDD図書館
http://pddlib.v.wol.ne.jp/biography/tokuta.htm
清少納言 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%B0%91%E7%B4%8D%E8%A8%80
文化としての結核、その歴史
http://www.tanken.com/kekkaku.html
結核予防会ホームページ
http://www.jatahq.org/
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?id=oai%3Akindai.ndl.go.jp%3A41011257-00000&cc=09_01_04&keyword=&and_or=AND
※:平民主義
http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q214L200.HTM
※:枕草子
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/koten/makurano.htm

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。