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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

春夫忌

2005-05-06 | 人物
今日(5月6日)は「春夫忌」
詩人・小説家・評論家の佐藤春夫の1964(昭和39)年の忌日。
佐藤春夫は、1892(明治25)年、和歌山県新宮町(現新宮市)に、医師であり文芸にも造詣の深い佐藤豊太郎の長男として生まれる。慶應義塾大学予科文学部中退。雑誌「三田文学」「スバル」などに詩歌を発表、1918(大正7)年、谷崎潤一郎の推挙により文壇に登場し、以降、『田園の憂鬱』『お絹とその兄弟』などの作品を次々に発表してたちまち新進流行作家となり、芥川龍之介と並んで時代を担う2大作家と目されるようになった。1960(昭和35)年に文化勲章受賞。1964(昭和39)年 5月 6日、自宅でラジオ録音中、心筋梗塞のため72歳で逝去。その著作は多様多彩で、詩歌(創作・翻訳)、小説、紀行文、戯曲、評伝、自伝、研究、随筆、評論、童話、民話取材のもの、外国児童文学翻訳・翻案などあらゆるジャンルにわたっているそうだが、正直、私は、余り、読んでいない。
佐藤春夫について、よく知っていることは、友人の小説家谷崎潤一郎の妻・千代に恋慕し、のちに譲りうけたなどということがあったこと。
佐藤春夫の友人である谷崎潤一郎の妻、千代(子)は温和な家庭的な人で、当時のあるべき女性像としては非の打ちどころのない人であったようで一女も生まれていたが、その当時、悪魔主義、芸術主義をもって目されていた谷崎はそこが不満だったらしい。そして、同居していた妻千代の妹せい子(性格は正反対とか)に惹かれて、彼女を映画女優に仕立て自ら映画製作に熱中するようになる。「アマチュア倶楽部」「雛祭りの夜」などにせい子を出演させた。佐藤春夫が東京小石川にあった谷崎潤一郎の家を訪ねるようになった頃(大正6年)、夫婦仲は完全に冷え込んでいた。佐藤はそのような千代に同情を寄せ、しだいに同情は恋心へと変わっていった。又、千代も春夫に惹かれるようになる。そして、一度は、谷崎が妻千代を佐藤に譲るという協約をしたものの土壇場になり、谷崎が翻意し、このことで佐藤と谷崎とは絶交した。これが1921(大正10)年の「小田原事件」であり、この後、二人はお互いに作品で激しく応酬しあったが佐藤の「秋刀魚の歌」」(詩集『我が一九二ニ年』所収)の詩は特に有名。
あはれ
秋風よ
情あらば伝えてよ
― 男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
思いにふける と。
・・・(中簡略)・・
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
・・・(略)・・・
これは、長い詩の冒頭部分であるが、二人が交際を絶ち、佐藤が神経症となって、郷里に引き込んでしまったとき書き綴ったものだという。佐藤の夫人への心境が伝わってくる。
しかし、ご互いに深く認め合う文学の友であった二人は1926年(大正15)年快く和解し、谷崎も「知人の愛」「蓼喰う蟲」以降昭和の名作を続々出すようになり、「蓼食う蟲」ではこの間の事情がよく描かれている。
1923(大正12)年、箱根で関東大震災に遭い、一旦神戸の芦屋へ逃れ、10,11月京都へ移住。翌年、兵庫県本山村北畑(現在の神戸市東灘区本山北町)へ転居、関西定住が始まるが、その後、谷崎は1927(昭和2)年に根津家へ嫁いでいた松子夫人と出逢い心を惹かれるようになる。又、佐藤も妻と離婚したのを機に、再び谷崎は佐藤に千代を譲ろうと考え佐藤も、そして、千代夫人もこれを受け入れ、前代未聞の三名連名の挨拶状を友人知己に送り、これが公表され、世間を驚愕させた(昭和5年8月)。これが文学史上有名な「夫人譲渡事件」である。
この1930(昭和5)年当時は、エロ・グロ・ナンセンスの時代であった。関東大震災後日本に流れ込んできた西洋モダニズムは自由を謳歌する開放感があったが、かたちを変えて氾濫したエログロナンセンスからは、明るさは消え、もはや馬鹿騒ぎだけものとなった背景には不景気と軍国主義の台頭と太平洋戦争へと向かっての暗い時代に押しつぶされる直前のやけくその空騒ぎであったかもしれないという。性風俗、猟奇物雑誌も1927(昭和2)年頃から増え、1930(昭和5)年頃からピークに達し、発禁処分の雑誌、出版物も多かった時代である。
谷崎潤一郎は常に「芸術かエロスか」との波紋を呼びつづけた巨匠であり、官能的な作品群で時代時代の文壇に大きな反響を捲き起こし続けた作家であるがその代表作の一つ「痴人の愛」は、谷崎が1924 (大正13 )年、神戸へ住むようになって発行したものであるが、これは、女優葉山三千子(妻千代子の妹せい子)をモデルに書いたものであり、主人公ナオミの奔放な生き方を描いている。
しかし、「細君譲渡」などと言うもの、今の時代であれば、男の非常識な行為そのものといった感であるが、当時は、むしろ、二人の作家よりも「譲渡」を受け入れた千代への避難が強かったと言う。今なら、侮辱罪で訴えられるだろうね。
(画像は佐藤春夫 『秋刀魚の歌』 の歌碑。JR紀伊勝浦の駅前にあり)
参考:
新宮市立佐藤春夫記念館
http://www.rifnet.or.jp/~haruokan/index.html
谷崎潤一郎記念館
http://www.ashiya-web.or.jp/tanizaki/
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  
1930/08/18   谷崎潤一郎、佐藤春夫に妻を譲る(p43)
http://www.c20.jp/text/ys_20sei.html
詩人 佐藤春夫“ 佐藤春夫の恋 ”
http://www.shigin.com/sato_haru/haruo.htm
谷崎潤一郎:蓼喰う虫 ・痴人の愛など
http://www.m-net.ne.jp/~h-ochi/Critique/Tanizaki/Tanizaki_Frame.html
谷崎潤一郎と映画(大正活映について)
http://www.shokoku.ac.jp/~nakazawa/tanizaki.html

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1 コメント

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 (けぃみ)
2005-05-08 16:45:56
佐藤春夫さんの著書はあまり存じませんが

卒論で芥川龍之介を取り上げましたときに

この方の『わが龍之介像』を読んだことが

ございますわ

龍之介を合わせ鏡に例え

『彼を通じて私を語り私を通じて彼を語る・・・』こうございましこと覚えておりますわ

溜息と祈りの中に愛を表現なされた多くの作品がございますのね  今拝見しますとどのような感想を持ちますのかしら^^
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