今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

あじさい忌・石原裕次郎忌日

2009-07-17 | 人物
1987(昭和62)年の今日7月17日、俳優・歌手・石原プロモーション(現代表:渡瀬 道彦。以下参考の※1:石原裕次郎 [ishihara-pro.co.jp]参照)創始者でもあった石原裕次郎が亡くなった。日本記念日協会の記載によると、”裕次郎の命日を「あじさい忌」と呼ぶのは、生前彼の好きだった季節の花のため”だったという。 この記載の意味がよくわからないので調べてみると、以下参考の「※2:中国新聞 天風録」の記載によると、裕次郎が亡くなった日の祭壇には、”生前にこよなく愛したアジサイが飾られた。以来、7月17日の命日は「あじさい忌」と言われるとあり、”裕次郎さんは「雨男」で、命日の行事はいつも雨で、いつしか「裕次郎雨」と呼ばれるようになった”ともいう。そういえば、アジサイ(紫陽花)は、雨の多い梅雨の時期にぴったりの花。しかも、彼は、1934(昭和9)年12月28日、兵庫県神戸市須磨区にて石原家の次男として生まれている。アジサイ(紫陽花)は彼が生まれた神戸市の市花でもある。神戸では、今、街のあちこちに紫陽花の花が咲いている。
彼の父親は、海運会社・山下汽船(現:商船三井山下亀三郎 が創業した会社で、戦前は海運業界のトップの一角を占めていた)に勤めていたといい、幼少期を神戸で過ごし、父親の転勤で、神戸から、北海道小樽、それから神奈川県逗子市と港町に育つっている。又、彼の実兄には、東京都知事石原慎太郎がいる。
その後、中学・高校の頃バスケットに夢中になっていたようだが左足膝に大怪我をしたため選手生活を断念。17歳の頃、父親の突然の死のショックなどもあり、酒と女、そして喧嘩と麻雀三昧といった放蕩の日々を送っていたようだということは聞いたことがあるが、それ以外、突然彗星のように映画界に現れるまでの若い頃のことは良く知らない。
1956(昭和31)年1月、ペニスで障子を突き破るというショッキングな小説『太陽の季節』で、一橋大学在学中の兄・慎太郎が第34回芥川賞を受賞。作品の背徳性、反倫理性、そこに描かれているボクシング、ヨット、マイカー、女刈りにうつつをぬかす若ものの無軌道ぶりは当時の読者を困惑させるものであったが、それが、又、慎太郎の狙いだったのだろう。文学としての埒外の話題性に煽られて、本の売れ行きを伸ばし、抜け目の無い映画資本がこの新しい風俗現象を生んだ小説を見のがさず、本出版の2ヵ月後には同名で映画化され5月、日活系で公開された。ストーリーは原作に、ほぼ忠実に作成された。慶応大学在学中の裕次郎は、日活の映画プロデューサーである水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦で、主演の長門宏之南田陽子らに交じって大学のボクシング部員というほんの端役で出演した。兄慎太郎もサッカー選手として特別出演している。作品の評価は芳しくなかったが裕次郎の新鮮な魅力・スター性は注目された。又、慎太郎の短い髪型が「慎太郎刈り」と呼ばれて流行、こうしたファッシファッションを取り入れた若者を含め当時の享楽的な若者を、非難を込めて映画のタイトルから「太陽族」と呼ぶようになったが、裕次郎自身が、当時の「太陽族」のような行動をしていたようであり、この小説のストーリーも裕次郎が、ある仲間の噂話として慎太郎に聞かせた話が題材になっていたのだという。又、裕次郎の端役としての役どころは彼の以後のイメージを決定付けた。
続いて、同年、兄慎太郎が『太陽の季節』姉妹篇として作品を書き始めた段階から日活より「映画化したい」と申し出があったという『狂った果実』は、慎太郎が弟・裕次郎の主演を条件に承諾したとい言い、慎太郎自身が脚本も手がけるという熱の入れようで、同名で映画化された。裕次郎は慶大を中退して本格的に俳優を目指し、日活に入社しこの映画で主役として北原三枝(石原裕次郎の未亡人)と初共演。映画は、裕次郎の歌と共に大ヒットし、裕次郎ブームを巻き起こした。すらりとした長い足と容姿、ワルがかってはいてもなんとなく育ちの良さも感じさせるニュータイプの2枚目、そして歌も歌える俳優の登場であった。
「太陽の季節」などの映画が、若者に指示された背景には、1956(昭和31)年版の『経済白書』(副題は「日本経済の成長と近代化」)に、「もはや、戦後ではない」という有名な文句が登場したように、戦後、復興・復興と頑張って、当時多くの人々は、ともかく戦前の良き時代、昭和10年頃への復帰を目標にしてきたが、日本経済の発展は、この時代にはその目標をはるかに越え、次の目標が見えなくなりかけており、豊富になった物資の供給を前に、ただ目の前にあった「消費への夢」を限りなくふくらませていた。さらに、民主主義と平和教育のもと、彼ら若者に共通していたのは既成の概念や価値観に対する反発であった。そして、銀幕のスターにも、旧態然とした日本的文化とは異なるスタイリッシュなニュー・カルチャーを欲していた。裕次郎のイメージは、このような思想にアメリカから輸入されたアクションをミックスしてつくられたといえるだろう。そして、「太陽族」映画に描かれたライフスタイルは、やがて、日本人の普通の生活そのものとなってゆく。
1958(昭和33)年正月映画として、前年12月から公開された大ヒット作「嵐を呼ぶ男」(現作・監督井上梅次)は、どこも大入りを記録。日活は総配給収入2億5000万円をあげて話題となった。彼はこの他歌の面でもテイチクレコードと専属契約を結び3月に出した第1作「俺は待ってるぜ」のヒットに続き、この映画の主題歌「嵐を呼ぶ男」でも発売後15日間で8万5000枚を売るという記録を作り押しも推されもせぬ大スターとなった。
戦時下の映画産業統合で製作部門は大映(大日本映画製作株式会社)に吸収され、映画製作から一旦撤退、興行部門だけが残っていた日活は、1954(昭和29)年に制作を開始したが、水の江瀧子プロデューサ-は、低予算娯楽映画をヒットさせたが、その経営難の日活を救ったのが新人の石原裕次郎であり、裕次郎は1957(昭和32)年だけで、「勝利者」、「今日のいのち」、「幕末太陽傳」、 「海の野郎ども」、「鷲と鷹」、「俺は待ってるぜ」など6本の映画に出演している。
日本映画界は敗戦の混乱からよみがえると、年々、右肩上がりの好調を続け、1955(昭和30)年に興行成績では頂点に達したが、儲かっていたのは、チャンバラ映画の東映(東映株式会社)と石原裕次郎のアクションものの日活だった。それでも、「嵐を呼ぶ男」がヒットした1958(昭和33)年には、日本映画界の全国映画館有料入場者数が11億2745万人を記録したという。これは国民1人が老人や生まれたばかりの赤ちゃんも含めて年に12,3回映画館で映画を見ていたという途方もない数字だったという。(朝日クロニクル「週刊20世紀」映画の100年)史上最高の映画人口を記録したという。この年を境に、日本映画界は徐々に下降線を描き始めた。私も、映画大好き、それもチャンバラ物やアクションものが好きだったので、この当時は年に映画を何本見ただろう・・・。覚えていないが本当に多くの映画を見たが兎に角この当時は入場料も安かったよ。
裕次郎、当時25歳は、人気が絶頂を迎えた1960(昭和35)年、「狂った果実」以降映画で共演していた女優の北原三枝と結婚。彼はデビューする前から彼女のファンであったという。挙式は東京の日活国際会館で12月2日に挙げられた。披露宴には力道山江利チエミら友人多数が出席、同会館前の歩道はファンで大混雑し、交通整理をする警官が出たほど。
1963(昭和38)年には五社協定を振り払って、株式会社石原プロモーションを設立し、独立第1弾として、海洋冒険家堀江謙一をモデルとした『太平洋ひとりぼっち』が公開されたが、興行面では失敗に終わった。1964(昭和39)年には、三船プロとの合作で黒四ダム完成にいたるまでを実録風に描く男達の人間ドラマ『黒部の太陽』の制作を発表するが、彼らと専属契約を結ぶ日活と東宝が、他社への出演を制限する「五社協定」をたてに制作中止の圧力をかけてきたが、2人の説得、努力により実現するが、実現までには長い時間と資金を要した。又、撮影にあたっては実際に出水事故も起こり、裕次郎ら10数名のスタッフが負傷するなど大掛かりな撮影となったが、結果的には、日活が配給、東宝が劇場を提供して1968(昭和43)年2月17日に公開。制作費の倍にあたる8億円の配給収入を計上たという。このほか、裕次郎は、海外作品「素晴らしきヒコーキ野郎」(1965年アメリカ映画)へ出演するなど幅広い活動を行っている。1969(昭和44)年、35歳のとき、日活との契約が白紙となり、事実上フリーとなる。1971(昭和46)年3月、胸部疾患で倒れ11月まで長期休養するが翌1972(昭和47)年6月、復帰第1作「影狩り」を制作・出演する。これは、さいとう・たかをの劇画を映画化したものであり、このような娯楽時代劇大好き人間の私は待ちかねたように劇場へ見に行った。又、7月日本テレビ系「太陽にほえろ!」でテレビドラマ本格出演をする。最後の映画主演作品は、1973(昭和48)年の「反逆の報酬」である。その後の作品で忘れられないのが、1979(昭和54)年から始まったテレビ映画シリーズ「西部警察」(テレビ朝日系で放映)であった。今までの日本のテレビドラマの常識をはるかに超えたド派手な爆破シーンやカースタントが評判を呼んだが、このようなスケールの大きなポリスアクションドラマ(刑事ドラマ)は石原プロモーションだから制作できたので、今後、これほどのドラマが制作されるのは何時のことだろうか・・・。
趣味としては、学生時代から続けていたヨットレースを続け、映画の撮影やヨット活動のために度々訪れていたハワイが一番好きな場所であり、静養のためにハワイに別荘を所有していた。現在、正月をハワイで過ごす芸能人が多いが、そのハシリとなった人物である。
しかし、1981(昭和56)年、解離性大動脈瘤(以下参考の※3:解離性大動脈瘤参照)の手術で入院。ほぼ絶望といわれた病床から、奇跡の生還をし、翌1982(昭和57)年には、ハワイのヨットレース「クリッパー・カップ」に出場などしていたが、その後肝臓ガンと発覚し、1986年「太陽にほえろ」の主演を降後、最終回にゲスト出演したのが最後のテレビ出演となった。ファンは「不死身のタフガイ」の復活を信じていたが、1987(昭和62)年の今日・7月17日に入院先の慶應義塾大学病院にて肝細胞癌で死去した。享年52歳であった。
7月19日に関係者による密葬が行われ、8月11日ファンの祐ちゃんコールにつつまれて青山葬儀所で石原プロモーションとテイチクレコードによる合同葬が行われた。その後は、湘南の海が好きだった裕次郎の遺骨を散骨したいとの実兄慎太郎の願いから、海洋葬として海に散骨された。
今年・2009(平成21)年7月5日、国立競技場で23回忌法要が営まれ、その模様はテレビで中継されていたのを見た。
前回の13回忌は裕次郎の菩提寺である総持寺で行ったが、20万人のファンが集まり大混乱した。主催者の石原プロは、一般向けの法要は今回の23回忌が最後になるということで、型破りの形でファンに偲んでもらおうと企画したという。そこで、国立競技場内に菩提寺の本堂を再現し、ご本尊 や仏具まで搬入、僧侶の数120人という念の入れようで、入場料は無料で、20億円の費用をかけたのだとか。
亡くなって20年以上も経っているのに、未だに、こんなに熱狂的なファンが多くいることに驚いたが、同時に、本来の宗教行事としての法要が、このように大掛かりなイベントになっていることに多少の違和感を感じた。本当に、このような大掛かりなイベント化した法要を故人は望んでいるのだろうかな~。
(画像は:1956年日活映画のポスター「狂った果実」。Wikipediaより)
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あじさい忌・石原裕次郎忌日:参考

2009-07-17 | 人物
参考:
石原裕次郎記念館
http://www.yujiro-kinenkan.com/
※1:石原裕次郎 [ishihara-pro.co.jp]
http://www.ishihara-pro.co.jp/index_02.php
※2:中国新聞 天風録
http://www.chugoku-np.co.jp/Tenpu/Te200606270140.html
※3:解離性大動脈瘤
http://www.tokushukai.or.jp/user/heart/kekkan_02_1.html
太陽の季節 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E5%AD%A3%E7%AF%80
太陽の季節 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24841/index.html
石原裕次郎 (イシハラユウジロウ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/89136/index.html
石原裕次郎 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1146561/index.html
テイチクエンタテインメント - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%81%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88
素晴らしきヒコーキ野郎 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD4818/
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
山下亀三郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E4%BA%80%E4%B8%89%E9%83%8E
力道山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1    
江利チエミ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%88%A9%E3%83%81%E3%82%A8%E3%83%9F
總持寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%BD%E6%8C%81%E5%AF%BA
華麗なる日活映画の世界
http://miwako-f.hp.infoseek.co.jp/nikkatsu/nikkatsu-index.htm   
石原裕次郎23回忌:TAKEおじさんの旅行ブログ
http://4travel.jp/traveler/stakeshima/album/10352677/