記事紹介 「旧統一教会と断絶なら朝鮮総連とも関係断て」

2023-05-26 18:25:40 | 日記
1959年に始まった北朝鮮帰還事業で、多くの日本人妻が家族と共に北朝鮮に渡りました。「地上の楽園」というのは虚言で、実態は日本より遥かに貧しくかつ抑圧的な国でした。
記事をご紹介します。三浦小太郎氏の「旧統一教会と断絶なら朝鮮総連とも関係断て」という記事です。この帰還事業のいきさつや背景そして現在の与野党に対する意見苦言も述べられており、理解を深める上で参考になると思いましたので紹介させて頂きます。
尚、冒頭に紹介されている「北朝鮮に自由を!人権映画祭」には小職も参加視聴させて頂きました。あらためて衝撃を受け、認識を新たにさせられました。今後も上映が続けられることを願っております。
ありがとうございました。

旧統一教会と断絶なら朝鮮総連とも関係断て 三浦小太郎
(月刊正論オンライン 月刊「正論」3月号 より)

https://www.sankei.com/article/20230417-WD3YNOPBOVALRJYWR4RT63FIZI/?outputType=theme_monthly-seiron

二〇二二年十二月十日、十一日の二日間にわたって、神戸市の「神戸ファッション美術館オルビスホール」にて「北朝鮮に自由を!人権映画祭」と題したイベントが開催され、十一日に「第一六八次北送船」(一九七三年)「一目娘に会わせて下さい」(一九七六年)の二つのドキュメント映像が上映された。この二つの映像について、人権映画祭実行委員会は、当日配布されたパンフレットでこう解説している。
「『第一六八次北送船』は、旧統一教会系の政治団体、国際勝共連合の制作によるものです。また、当時の日本人妻救援運動にも同団体が関係していました。私たちはそれを踏まえた上で、同時上映の『海を渡る友情』が、帰還事業を肯定的に描いてはいても歴史的に価値のある作品であることと同様、貴重な歴史的記録としてこの映画祭で上映することを決定しました」
旧統一教会がこれだけ社会的に問題になっている時期に、この映像を上映することに対しては異論もあろう。しかし、私は実行委員会のメンバーとして断言するが、この映像は、一九七〇年代に制作された貴重な歴史的資料として、今こそ上映すべきものである。
「第一六八次北送船」は一九七三年六月十五日に、新潟から在日朝鮮人の人々と日本人配偶者ら二百四十八人を乗せて北朝鮮に向かう直前の帰国船を撮影したものである。
一九五九年に始まった北朝鮮帰還事業は、六三年ごろを境に、帰国者が減少の一途をたどった。先に帰国した人たちが検閲をかいくぐって様々な手段で「朝鮮総連の宣伝は嘘だ、北朝鮮には来るな」という手紙を日本に送ったからだ。日本政府は帰国者数の減少を理由に、六七年八月の段階で帰国申請を締め切り、以後は通常の一般外国人の出国同様の扱いにすることを閣議決定した。
この閣議決定が貫かれていれば、少なくとも五千人近くの在日朝鮮人が北朝鮮に渡らずに済んだはずだが、七〇年、モスクワでの日朝赤十字会議で、帰還事業の再開が決定する。七一年五月十四日に第一六二次船が新潟を出港。七二年には、金日成生誕六十周年を記念し、総連系青年団体から選ばれた六十名、朝鮮大学校学生約二百名が、事実上「指名帰国」で北朝鮮に渡った。第一六八次帰国船はその翌年に出航している。
帰還事業の開始当初は、帰国者たちは、新潟市民や全国から集まった人々の歓呼に見送られて北朝鮮に旅立っていった。しかし、この映像に映し出された帰国者たちは、朝鮮総連の統制下、新潟でも隔離された宿舎に閉じ込められ、事務的に北朝鮮に送られていく。同時にその過程で、様々な物資が北朝鮮にノーチェックで運ばれ、工作員が日本と北朝鮮を行き来していた可能性を、新潟港でおそらく望遠レンズによって撮影された映像は的確に告発している。
さらに、映像はナレーションなどを通じて、朝鮮総連がここ日本で北朝鮮の指令により様々な工作活動を行っており、東京の朝鮮大学校はその中心拠点であること、この帰国船は「現代の奴隷船」であることが説明される。
さらに重要なのは、朝鮮総連は日本における重要な活動として「民族教育」を挙げているが、その内容は民族文化の教育ではなく、反日・反米意識を叩き込み、北朝鮮政府への協力者、工作員を育てることであったことが指摘されていることだ。そしてその中心組織が、美濃部亮吉(東京都知事)が六八年に各種学校として認可した東京都の朝鮮大学校である。元々この学校が、トランジスタ工場を建設すると偽って土地買収された経緯も解説されている。建設業者にはろくな工事費も支払われず、要求した会社には「三十六年の植民地支配を思えば、日本人の生爪をはがしても足りない」などというヘイトスピーチが浴びせられたという話は、私はこの映像で初めて知った。七〇年代の日本の報道機関や知識人で、これほど正面から帰還事業の問題点や総連の工作活動を指摘する声は恐らくなかったはずだ。
「一目娘に会わせて下さい」は、帰還事業によって朝鮮人の夫と共に北朝鮮に渡った日本人妻への救援運動の記録である。運動のリーダーだった池田文子が、全国の家族を回って、北朝鮮からの妻たちの手紙を集めている姿が映し出される。日本人妻たちが、金銭や物資を送ってほしいと訴える手紙には、北朝鮮での苦しい生活の実態が赤裸々に語られている。
多くの日本人妻たちは、言葉も分からない北朝鮮に行くことに抵抗を感じたはずだ。だが、夫が子供を連れて北朝鮮に行く以上、母親が一人日本に残る決断はできなかったのだろう。しかし、海を渡った北朝鮮は、日本より遥かに貧しくかつ抑圧的な国であり、日本が経済発展していくのに反し、日本人妻たちの生活は貧しくなるばかりだった。「子供がいなければ、もうとっくに自分は(先立った)夫のもとに行っているだろう」「鳥になっても飛んで日本に行きたいです」などの日本人妻たちの言葉は涙なくして聞けない。
池田文子はこの二作の制作の中心となり、のちに日本人妻問題を正面から取り上げた劇映画『絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして』(一九八五年)の登場人物のモデルでもある。池田は確かに旧統一教会の信者で現在も信仰を抱いている。当時日本人妻救援運動も、これらの映画制作も、国際勝共連合が協力していた。しかし、朝鮮総連や朝鮮大学校の問題点、日本人妻の悲劇を、七〇年代の時点で訴えていたこれらの映像の意義は、正当に評価されるべきだろう。以前にこの雑誌でも紹介した李英和の言葉を再び紹介しておく。
「日本人妻の問題が、もっぱら右翼の独壇場になったのは、ぼくたちの怠慢だったと思います。進歩的とか左翼とか言われている人たちの怠慢です。そのことを認識しないで、日本人妻帰国運動は、反共主義に基づくものだと言うのは責任逃れも甚だしい」
また、総連活動家だったが後に金日成体制を厳しく批判した現代史家、林誠広はこう語っている。
「自分たち(在日朝鮮人、三浦注)が建国の意識に燃えるのはいい。だが、その巻き添えを食わせて、日本人妻たちは今も親兄弟にさえ顔を合わせることができないという事実、人道的行為が非人道的に終わってしまったこと、そのことだけでも報告する義務がある」(いずれも『朝鮮総聯の研究』別冊宝島二二一)
そして、これらのドキュメント映像の価値を知るためには、七〇年代当時、北朝鮮がある著名な作家によってどう論じられていたかを再検討する必要がある。

小田実『私と朝鮮』
七〇年代に何度か訪朝し、北朝鮮経済が発展しているという礼賛記事を書いたのは早大教授、西川潤である。西川は北朝鮮を「この国はすでに立派な工業国であり、しかも外国に依拠せず工業化を遂行すると共に、工農の同時発展と社会的格差の縮小と民衆生活の向上を図る極めてユニークな発展路線を歩んでいる」(『世界』一九七六年二月号「北朝鮮の経済発展」)と讃えた。
西川は専門の経済学において「従属理論」を提唱していた。この理論は単純化すれば、自由貿易は先進国による発展途上国、貧困国からの搾取しかもたらさない、富裕な国は発展途上国から原料を収奪し、作られた製品は先進国同士で取引されるため、先進国と途上国の経済的優位・劣位の関係は永遠に変わらないという。西川はこの理論から、先進国との自由貿易を選択した韓国よりも、国を閉鎖し、途上国や東側諸国としか交流しない北朝鮮の方が「発展するはずだ」と信じ込んだのだ。要するに現実より自分のイデオロギーを優先したのだ。なお、西川は教え子の松島泰勝の唱えた「琉球自治共和国連邦独立宣言」にも晩年、賛同人として名を連ねている。
西川よりも遥かに影響を与え、かつ罪深い言論を行ったのが小田実であった。小田は韓国の抵抗詩人として著名だった金芝河や、日本で拉致された金大中に対しての支援運動を七〇年代初めから展開していた。それ自体は言論や政治活動の自由を守る運動と理解してもいいだろう。しかし小田は、北朝鮮の朝鮮対外文化連絡協会の招待を受けて、七六年十月二十二日に中国・北京経由で北朝鮮に入国、三週間滞在、金日成と会見後、七七年、筑摩書房より発行した『私と朝鮮』の中で、当時の韓国よりはるかに言論の自由もなければ政治活動の自由もない独裁国をなぜか高く評価したのである。
本書でしばしば引用されるのは、小田が北朝鮮を「税金のない国」と讃えたことである。これは単に直接税が廃止されたということだろう。無償労働が事実上強制動員によって行われ、食料は配給制度、平壌以外ではろくに物資もなく貧困が進行している北朝鮮で「搾取」が行われていないはずもない。だが、これについては、経済学者でもない小田を今更批判しようとは思わない。
私が許しがたいのは、まず、帰国者についてのプロパガンダ、少なくとも一方的な発言を信じ込んでいることである。
「私の在日朝鮮人の年若い友人に頼まれて、私は『北朝鮮』に行ったとき、ウォンサン(元山)で友人の姉に会った。彼女の場合も17歳の時、ただひとりで身寄りのまったくない見知らぬ土地へおもむくというかたちでの帰国だった」(『私と朝鮮』)
この帰国者は、元山でやはり同じ帰国者と結婚していた。その夫は、小田にこう語ったのである。自分の兄は韓国と東京にいた。しかし、韓国の兄が生活に困り、東京の兄が手紙とお金を送った。韓国の警察がそのお金を横取りしようと、兄を「秘密活動の資金を東京からもらった」という容疑で逮捕した。そして、北朝鮮にいる自分からたまたま送られた手紙を兄は持っており、それが証拠とされて、拷問の末、兄は殺されてしまった。
この話を小田は、名前は秘した上で『私と朝鮮』で紹介し、さらに、随行した北朝鮮の案内人が、涙をこらえながら祖国分断の悲劇を語ったと述べている。私は現段階で、この「帰国者」の発言の真偽を確かめるすべはない(個人的には信じがたい)。しかし北朝鮮がまずこの帰国者を「南北分断の悲劇」と「韓国政府の残忍さ」のプロパガンダとして小田に会わせたことは絶対の確信をもって断言する。そして不思議なのは、これほどの大事件ならこの人物の名前を出して韓国の非を訴えればいいと思うのだが、本名はおろか仮名すらない(なぜか『私と朝鮮』には金日成以外朝鮮人の固有名詞は全く出てこない)。
同じ七〇年代、帰国者の多くが、それこそ日本のスパイ容疑で逮捕され、収容所に送り込まれていた。日本の親族たちは彼らの命を救うために、要求されるままに北朝鮮に送金をするしかなかった。北朝鮮政府は、最も残酷な人質政策によって、日本の親族から財産を強奪していたのだ。当時小田がそのことに気づかなかったのは致し方ないが、帰国者家族が勇気ある証言をはじめ、北朝鮮政治犯収容所の体験者の手記が日本で紹介された九〇年代には、小田もかつての発言が一方的だったことに気づいたはずだ。しかし、小田は一切そのことについて謝罪も訂正もしたことはない。
また、小田は金日成の「主体思想」に対し驚くべき過大評価を行っている。小田は、主体思想は各民族、各国の主体性を重んじ、他国への侵略や支配を認めない思想である。だから、北朝鮮は韓国に対しても強制的に共産主義を押し付けるはずがないと、驚くべき論理を展開する。南侵の意思など全く今の北朝鮮にはないなどと小田は言うが、北朝鮮からの南侵トンネルは七〇年代に三本、九〇年に一本が発見されている。同時に小田は出会った人民軍兵士が韓国の「自主的平和統一」を熱く語る姿に「未来に光を投げかけること」だと「激しい感動」を覚えている。韓国や日本の米軍基地に反対し、自衛隊に批判的だった小田が、なぜ北朝鮮人民軍には共感してしまうのか。小田はまた北朝鮮が中東、特にシリアやPFLP(パレスチナ解放人民戦線)に武器援助をしていることを評価し、自分がシリアで「朝鮮人」と間違えられたと無邪気に語るが、これは当時から北朝鮮が中東に深く関与していた証拠である。
さらに異様なのは次のような言葉だ。
「『北朝鮮』を私たちの日本よりいちだん進んだ――それこそ日本を飛び越えて進んだ社会としてとらえてみることは必要なことだと思う」(同)
小田はこう述べた後、確かに北朝鮮は主体思想というイデオロギーに支配されているかもしれないが、日本においても、テレビをつければ女性歌手の歌謡番組やゴシップばかりであり、若者の将来の夢は良い会社に勤めることだ、これもまたイデオロギーではないかと述べ、全体主義体制と自由主義体制の相対化を図ろうとする。
さらには小田がよく使う「市民」や「人々」を徹底的に馬鹿にするのだ。
「(北朝鮮は、三浦注)働き者の一家の気がした。金日成さんがアボジ(お父さん)で(中略)子供がたいていの家に二、三人―みんなが懸命に働いてここまで来た、そんな感じだ」
「どこでも夫婦共かせぎで(団地で三食ヒルネつきでテレビばかり見ている『主婦』という存在は、あそこ〈北朝鮮、三浦注〉では想像を絶した火星人のごとき生物だろう。あるいは親がかりで遊んで暮らす『お嬢さん』というやくたいもないもの、これも火星人の変種だろう)それにふさわしく社会も作られていて、例えば、子供はみんな託児所に預けることができる」
さらに小田は、北朝鮮では医療も教育もタダだが、それは人々が「働いていて成り立つ」国であり「働くということが自分の生活を支えるばかりでなく、社会に役立つ」ことを国民皆が信じているのだと評価した。
この小田の思考こそ、全体主義支配、民衆をイデオロギーで支配する論理なのだ。主人や子供のために家庭を切り盛りし、ひと時の時間をテレビドラマで楽しんでいる主婦、青春のひと時を両親に守られて快活に過ごしている平凡な若者、それは小田にとって、使命感を持って国家建設に働き、南北朝鮮の統一を目指す(ように小田に見えた)北朝鮮民衆より劣った存在なのだ。同じように多くの独裁者たちは、政治意識を持たぬ庶民を、権力のイデオロギーを信奉する活動家たちに残酷に統制させ、それを受け入れないものは堕落した階級として収容所で「教育」あるいは抹殺していった。小田はこの『私と朝鮮』において、はっきりと全体主義権力の側に身を置いたのである。そして、小田の目に日本人妻の悲劇が生涯を終えるまで全く映らなかったのは、日本人妻たちは、権力ともイデオロギーとも、活動家の身勝手な思い入れの「民衆像」とも無縁な世界で生きていたからである。どんな理不尽な運命の中でも、我が子を守り、故郷を懐かしみ、ただ家族と共に生きていけることだけを望みながら、そのささやかな願いすらかなわず、貧困と抑圧に苦しんでいた日本人妻と帰国者たちにとうとう出会うことのなかった「平和運動家」「市民運動家」とは何だったのだろうか。

自民党政治家の責務
現在、自由民主党は、旧統一教会と今後交流を持つことを一切否定している。そして以前の旧統一教会や、国際勝共連合との関係も過去のこととして総括を避けているかに見える。
しかし、六〇年代から八〇年代半ばごろまで、ここ日本では、韓国は軍事独裁政権として批判されたが、北朝鮮の独裁体制はほとんど話題にならなかった。朝鮮大学校が「革新」の美濃部(東京都知事)によって認可され、朝鮮総連の工作活動も、また北朝鮮の拉致犯罪も行われていた。このような状況下、自民党や保守派政治家が「反共産主義」という共通点から国際勝共連合と関係を持ったことについて、少なくとも戦後の言論空間の歪みを踏まえて説明することも政治家の責任ではないか。
旧統一教会の信仰にある韓国民族主義の歪みとそこから来る反日思想によって正当化された献金システムなどに対する認識が不十分だった点は認めるべきだろう。特に、旧統一教会の教祖、文鮮明が冷戦の終わりと共に金日成と握手し、明らかに反共主義を捨てた時点で、自民党も保守派も教団との関係を考え直すべきだった。しかし、それを言うのならば、現在も朝鮮総連は、これまで在日商工人たちの財産を詐欺紛いのやり方で搾取して北朝鮮に送金し、金一族の世襲独裁を崇拝し、国民がどんな被害にあっても、餓死しても独裁体制に従属している。日本国内においても工作活動や拉致に協力してきたことも事実だ。そうであるならば、旧統一教会と同様、朝鮮総連との関係も、自民党のみならず、与野党は完全に断つべきであろう。旧統一教会に関係する団体との会合に出席し、彼らのメディアの取材に応じることも禁ずるなら、総連の関連団体やメディアも拒否すべきだし、何よりも朝鮮総連に対し「解散請求」を検討すべきだろう。そうでないならば、かつて韓国に民主化を要求し、北朝鮮の問題は沈黙した戦後左派リベラルのダブルスタンダードを、もう一度私たちは繰り返すことになる。(敬称略)
(月刊「正論」3月号より)


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日本の安全を守る会