備忘録として

タイトルのまま

空の理論

2012-11-11 10:55:32 | 仏教

前回書いたように、般若心経の空の部分を中村元はサンスクリット原典から以下のように訳している。

  • 色性是空 空性是色 (中村訳 物質的現象には実体がない、実体がないからこそ、物質的現象でありうる。)(注:この語は玄奘の般若心経にはない)
  • 色不異空 空不異色 (中村訳 しかし、実体がないといっても物質的現象から離れていない。すなわち、物質的現象は、実体がないことから離れて物質的現象ではありえない。)
  • 色即是空 空即是色 (中村訳 このように、物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。) 

般若心経を写経し訳を読んだのはいいのだけれど、否定に次ぐ否定で論理的にも感覚的にもさっぱり理解できない。空の思想を理論化したのは2~3世紀のナーガールジュナ(龍樹)で、それを何とか理解したいと思い手持ちの本やネットを探した。山折哲雄の空や三枝充悳の「仏教入門」から龍樹の空の解説、ネットでは石飛道子、チベット老僧の空の縁起、果ては知恵袋まで動員した。その中では、「中村元 生誕100年」で中村元が自著「龍樹」で行った空の解釈を奥住毅という人が解説しているのが一番わかりやすかった。(1)空は縁起および無自性と同義である。(2)縁起はつねに理由、空は帰結、無自性(実体がないこと)は空に対しては理由、縁起に対しては帰結という関係がある。という。

  1. 縁起=無自性(実体がないこと)=空
  2. 縁起⇒無自性(実体がないこと)⇒空

あらゆる現象には因果関係がある。悪いことをすれば悪い結果になる。(縁起) しかし、考えてみれば、あらゆる現象は絶えず変化していて(諸行無常)、悪いと思った自分でさえ、次の瞬間には別の考えに変わっている可能性が高い。このように自己にとらわれない考えに達した(無我=我執を捨てる)なら、そこではすべての現象に実体がないことに気づく(無自性)。これが(空)である。このように縁起から考えていくと空にたどり着ける。と自分なりに理解したようなしないような気になったところで、同じ本に”中村元著「龍樹」の中の一節を読んで、”空とはこういうことだったのか”と理解できた”と池田晶子が書いた文章が目に飛び込んできた。

「束縛と解脱とがある」と思うときは束縛であり、「束縛もなく、解脱もない」と思うときに解脱がある。譬えていうならば、われわれが夜眠れないときに、「眠ろう」「眠ろう」と努めると、なかなか眠れない。眠れなくてもよいのだ、と覚悟を決めると、あっさり眠れるようなものである。

と、中村元が書いてるらしい。なるほど、そういうことなのか。仏教の空や我執を去れとはこういうことなんだと、わかった気がする。さらに解脱の先にはニルヴァーナ(涅槃)があるはずだが、空の理論では”ニルヴァーナはない”のである。中村はさらに続けて、

「ニルヴァーナが無い」というのはたんなる形式論理をもって解釈することのできない境地である。結局各人の体験を通して理解するよりほかに仕方がないのであろう。

と言う。ブッダが弟子たちに向かって言った最後のことば ”さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさいと。” は、自分の死も無常の一部であり、嘆き悲しむことなく時間を惜しみ修行を続けなさいという意味だと思っていた。実はそれだけでなく、”無常も空もニルヴァーナも、すべては修行の中で各人理解するしかないのだぞ。”と、ブッダは最後に弟子たちを諭したのだということに中村元のことばで気づかされた。

 教科書だけではブッダの教えの真髄はわからないんだぞ。という中村元の遺言なんだと思う。

おまけに、「中村元 生誕100年」で鶴見和子が、南方曼荼羅の名付け親は、中村元だという思い出を語っていた。鶴見和子は、南方熊楠の描いたいたずら書きのような図形をなぜ中村元が「南方曼荼羅」と咄嗟に命名したのか、詳しく聞かなかったことを悔い、”教え乞いておけばよかりしこの人を おきてきくべき人なきことを”という短歌で彼女の寄稿を結んでいる。


最新の画像もっと見る