熊澤良尊の将棋駒三昧

生涯2冊目の本「駒と歩む」。ペンクラブ大賞受賞。
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将棋馬日記とその意義(最終稿)

2009-07-16 20:55:51 | 文章
7月16日(木)、晴れ。

再校正しました。差し替えます。
多分、これが最終原稿となります。
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         『将棊馬日記』と、その意義について
                                     [H21.7.19 熊澤良尊・記]

 『将棊馬日記』は、安土桃山時代の貴族・水無瀬兼成(1514~1602年)の将棋駒づくりの記録である。製作した駒の数は735組。兼成が没して間も無く、その記録を一冊にまとめ直した。それが水無瀬神宮に400年間遺されていた。
見つかったのは水無瀬駒調査で訪問した昭和53年冬。社殿奥から水無瀬忠寿宮司が持ってこられたのが60ページほどの綴り。大きさは手札サイズほど。表紙には『将棊馬日記』とあった。「馬」は「駒」のことである。

 虫食いで引っついた薄い和紙を1枚ずつ丁寧に剥がしながら目を通すと「一面、誰々。一面、誰々」と、譲り渡し先とおぼしき名前が、繰り返し書き連ねてある。駒は「一面二面」と数えたようである。

 書き出しは天正18(1590)年。兼成は数え歳で77歳。能筆家の兼成と言えども、この年齢でにわかに駒を作り始めたとは考えにくい。もともと駒づくりの素地と環境があった。そのことは後述する。

 天正18年「中将棊」の冒頭に「一面、上」とある。
 古来、水無瀬家による駒書きは「勅命によって始まった」との伝承があった。それを裏付ける記述であり、「上」は天皇を意味する。予期せぬ重要史料の出現に心が震える思いがした。後で調べると「上」は後陽成天皇だと分かった。

 書き終わりは慶長7(1602)年。89歳。長寿である。7月に亡くなったが、それまでに51組が製せられており、死の直前まで元気だったことが分かる。
 すぐさま全頁を写真に記録して、専門誌『将棋讃歌・木世(えい)』に水無瀬駒特集を提案して発表させていただいた。その後、何度も水無瀬神宮を訪れているが『駒日記』と再会するのはそれ以来である。

 総数735組の内訳は、現将棋と同じ「小将棋(駒数40枚)駒」が618組。当時、貴族に好まれた「中将棋(駒数92枚)駒」が106組。そのほか「大将棋(駒数130枚)」や「摩訶大々将棋(駒数192枚)」など4種類の古将棋駒が11組。年次別の平均製作数は56組。
 最多は慶長4(1599)年の120組。3日間で1組を製した勘定になる。前年には豊臣秀吉が身罷った。その2年後は関ケ原で天下分け目の戦いがあった。日本史上最大の動乱期にもかかわらず、貴族や武士階級などでは将棋が盛んに遊ばれて、京都に近い水無瀬家では将棋駒が営々と作り続けられていたわけである。

 注目すべきは関が原の戦いがあった前後の数年間に、徳川家康が合計53組もの水無瀬駒を購入していること。周りの武将や配下の主だった者に付け届けの品として贈ったらしい。家康は味なことをするものだ。その結果を見れば、水無瀬駒が天下を制したと言えなくもない。

この時代、庶民は手近にある雑木に墨書して自給自足で駒を作ることが多かった。大方の出土駒は、そのような粗雑なものである。
 対して兼成は、最適材とされる黄楊(つげ)を使って端正な5角形の駒形にして漆で文字を書いた。文字は漆書き。戯れの手慰みではなく業として駒を作った。その姿形は端正であり、この時代の能筆家の筆跡には古筆としての気品が漂う。今見ても超一流品である。小生が水無瀬駒を「現代将棋駒のルーツ」と呼ぶ所以である。

注目すべきは譲り渡し先の豪華さ。天皇、公家衆、名だたる武将、文化人、僧侶、豪商たち。しかも繰り返し手にしたリピーターも多い。後陽成天皇はその一人である。
 兼成にとって豊臣家は特別な存在だった。文禄元(1592)年には「当関白(豊臣秀次)殿、大象戯三百五十四枚、大々象戯百九十二枚」と、特別な古将棋駒を2組を贈り、翌年は「太将棊・大々将棊・摩訶大々将棊・大将棊(2組)・中将棊(2組)」計7組を追贈。これは自身が書き残した巻物『象戯図』の内容と一致する記述であり、最晩年には幼い秀頼にも特別な駒2組を贈っている。

 公家衆には「近衛殿」「勧修寺殿」「伯殿」「式部卿」などと尊称で記し、対して武将には「松(松平)与吉」や「落(落合)春八」「片主(片桐主膳)」などと粗略な記述が目立つ。戦国大名と言えども「輝元(毛利)」「幽斎(細川)」「家康息(徳川家忠か)」などと呼び捨て。「家康(徳川)」も同様である。
 ところが慶長年間になって、高位に昇った武将には「内府」や「毛利殿」「芸州宰相」などと変化している。位の上下に敏感な記述で面白い。 
 
そのほか、秀吉の姻戚「久林」。「八幡滝本坊」の松花堂昭乗。「宗利」「宗由」などの数奇者たち。「金森法印」「松泉坊」「常徳寺」などの僧侶。「京都・宗慶」とあるのは、後に将棋名人となる大橋宗桂であろうか。「堺薬屋」は堺の大店の主人。名前を書くほどでもない一見者は「某」と省略しているものの、水無瀬駒は、江戸時代の『長春随筆』で「免許なきもの弄すべからず」とあるように、一般庶民が持つことすら憚られた比類なき超高級品であった。

 「馬屋春介」「馬削忍斎」の記述もある。「馬屋」は「駒屋」。後者は駒を削った下職である。駒の木地を成型しながら出来上がった水無瀬駒を中次ぎして稼いでいたらしい。水無瀬家での駒づくりが、いわば家業として続けられたのは、配下で働くこの人たちの存在があったと言わねばなるまい。
 
 駒づくりの様子がうかがえる記述がある。文禄2(1593)年の「七面、千二百八二枚を二月朔日(ついたち)より書き始めて六日に書き了える」がそれ。
 昼が短いこの季節に、1日当たり平均で212枚を書き上げたことが分かる。明るい時間を仮に6時間とすれば、1時間当たりで40枚。駒表裏1枚を1分半で書かねばならない。高齢にも関わらず、すごい早さ。集中力と、培った習練の技である。

400年前に製された水無瀬駒は、水無瀬神宮蔵『八十二才』の小将棋駒以外に、10組程度が現存すると思われる。もっとあるのかもしれない。
 『馬日記』には「白檀」「桑」「象牙」「沈」「楠」などと注記されているものが48組ある。注記のない687組は「黄楊」製。現に小生が現認した8組の大半は黄楊製であった。
 駒尻に製作年齢が記してあるものとないものとがある。その年齢を手掛かりにするにしても、何十組もある『馬日記』の中で、この駒だと特定するのは不可能と思われた。
 ところが昨年、福井県で見つかった『八十五才』の水無瀬駒は、たった5組しか作られなかった象牙製であった。それが幸いして、慶長3(1598)年にある記述「一面、象牙 道休(室町15代将軍・足利義昭、後に出家して昌山道休)」と、ぴたり一致した。400年前に作られた駒が、出自記録で特定出来たのは特筆すべきこと。これによって駒と『馬日記』双方の信憑性と信頼性が格段に高まった。その意義は重い。

実は、兼成は三條西家から水無瀬家に入った人である。血がつながった祖父は能筆と博識で知られた三條西実隆である。実隆は日記『実隆公記』の中で「親しい公卿に頼まれて、しばしば駒の文字を書いた」と述べている。兼成は21歳まで、祖父と同じ時代を生きた。駒づくりの素地と環境を受け継いだとする根拠である。

今年、大阪府島本町によって文化財第1号として『水無瀬駒関連の品々』が顕彰された。やや遅きに失した感がないでもないが、水無瀬駒研究者として嬉しいことである。
 更に、現在の将棋タイトル戦において使われる高級品の盛り上げ駒の多くは、兼成の優雅な筆跡・水無瀬駒を真似たものであることを付記しておく。                 以上



  


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