いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

暖泉1、「蔚県800城」の一つ

2012年04月06日 19時46分40秒 | 河北・蔚県と暖泉
本日から蔚県の旅の続き、暖泉でございます。
暖泉鎮は、蔚県から車で10kmほどの距離、やはり河北省と山西省の境にあります。






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蔚県は前述のとおり、万里の長城の内側の防衛ライン「内長城」の系列に入る。
最前線の「外長城」が破られることも多く、そのためにこの辺りはモンゴル鉄騎兵の一番最初に蹂躙される場所でもあった。

というわけで、人の住むところは、どんなに小さな村でもすべて「城」形態になっており、蔚県の領域内だけで「800城」といわれる。
90年代には、その中で300城がまだ残っていたといい、暖泉はその中のひとつである。



地図で見てわかるとおり、蔚県は、モンゴルが北京へ突破する二つの関所=居庸関と紫荊関のうち、紫荊関へ通じる道中にある。
暖泉は、紫荊関に通じる山脈の山の入り口にある。

ここが破られれば、モンゴル鉄騎兵は、そのまま紫荊関に一気にかけあがっていき、南から北京を衝くことができるのである。


逆に平和な時代、ここは山越えの前に旅の準備を整えなおすところ、もしくはハードな山越えをした後、最初に休憩するための集落だった。

戦争状態の時は軍事的な要衝、平和な時代は流通の要衝だったわけである。

ネットで調べていると、かの「土木の変」のお騒がせ宦官・王振が、蔚県の中でも
暖泉の出身であり、彼が皇帝に自慢したがった、かの豪邸は暖泉にあった、という記載が出てきた。


あまり詳しく載っていないので、よくわからぬ。

確認保留ということにしておくとしても、ほほお、王振の豪邸があったかもしれないのか、と想像するのは、楽しい。



暖泉は「鎮中三堡」といわれ、北官堡、西古堡、中小堡がある・・・という。
しかし私が判別できるのは、北官堡と西古堡だけ。

まだあまり観光整備も進んでいないため、パンフレットもないし、ネットにもあまり情報なし。
やっと以下のような地図を探し当て、自分のめぐってきた場所がわかった。。。


   

「暖泉」の地名は、暖かい泉が湧いていたことからついた名前である。
一年中16度以上に水温が保たれ、水沿いにはしだれ柳が生い茂るので、「塞北の水郷」ともいうらしい。

木が育たない、見渡す限りの草原が続くモンゴル草原の南端としては、
風に揺れるしだれ柳は、目にまぶしかっただろうと想像できる。

暖泉の本格的な建設が始まったのは、元代のようである。
王敏書院(またの名を暖泉書院)も元は、元代の尚書・王敏が立てたものだといわれる。

書院を建てるというのは、それなりに文化的な素養の発達するほどの教養ある住人と
富がなければできないものである。

元代、すでに暖泉はそういう高い文化的素養をもち、裕福な人々の暮らす場所だったことがわかる。

元代といえば、モンゴルのユーラシア大陸征服により、「大物流時代」の幕開けとなった時代。
それまでこの場所は、中華文明の最北端として、思いっきり「辺鄙」な場所だった。

中原で生産される物資をここから北を持っていこうとすると、異民族地帯に入るため、
国交の有無、治安の保証、関税のコスパフォなどのさまざまな障害が横たわり、大量に出て行かない。

ところが元代は、思いっきり「中継点」の位置となった。
北へも西へも行き放題。


暖泉から東に行けば、蔚県へ、西にいけば山西の広霊へ、南にいくと霊丘へ、北へゆくと大同へ抜ける古商道。

書院の創建はそういう経済の活発化と関係があったのではなかろうか。

王敏は講堂を建てる時、「暖泉」の前に建てた。
つまりは、湧き水が泉になっている「逢源池」の前である。
今回の旅では、立ち寄らなかったので、ネットからの写真を借用する。




泉から流れ出た水は、鎮のあちこちに引かれている。
主に3本の流れに分けられ、一本は東に流れて北官堡へ、
もう一本は西に地下渠を通って100mほどで地上に出して池となっている。
池を西龍口というが、今でも人々がここで炊事、洗濯に利用としている。
こちらも借用写真です。



暖泉は今、観光地整備を進めるため、上下水道のインフラ整備をしている最中である。
ということは、ごく近い最近まで、上水道さえもあまり整備されていなかったということである。

その当時、この西龍口から水を汲み、契約した客のところに送り届ける「水屋」もいたという。





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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ねぇ (nene777ne@yahoo.co.jp)
2012-05-06 20:57:35
はじめまして!ハロッo( ̄▽ ̄o)(o ̄▽ ̄)oハロー 初めてコメント残していきます、おもしろい内容だったのでコメント残していきますねー私もブログ書いてるのでよければ相互リンクしませんか?私のブログでもあなたのブログの紹介したいです、私のブログもよかったら見に来てくださいね!コメント残していってくれれば連絡もとれるので待ってますねーそいじゃо+◇+о◇о+◇アドレス残していくのでメールしてね!そいじゃо+◇+о◇о+◇
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ねえ さんへ (yichintang)
2012-05-06 21:09:49
ブログにお尋ねいただき、ありがとうございますー。
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へぇ、、、興味が生じます (~弥勒~)
2012-05-07 18:30:11
「こう天上帝」ですが、手持ちの本「図説 中国の神々」学研 によれば次のように書いてます。
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玉皇上帝: 玉皇大帝、天公 とも呼ばれる。神学的には三清(元始天尊・霊宝天尊・道徳天尊)より下位だが、民衆信仰の立場からすると、事実上の最高神といえるほどに篤い信仰を集めている神格で、あらゆる神・仙人を統御し、さらにすべての人間の行為を算定して運命を決定すると信じられている。特に国家祭忌の対象とされ、朝廷が祀ってきた『こう天上帝』うあ黄帝と同一視された宋代以降に、神威が著しく増大したらしい。旧暦1月9日には各地の廟で盛大に生誕際が行われる。
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さらにNETの中には「玉皇大帝」の説明として
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道教における事実上の最高神で、天界の支配者でありその下の地上・地底に住むあらゆるものの支配者でもある。現在も庶民から篤く崇拝されており、民間信仰や、東南アジアなどの華僑の間では最高神として扱われる。
儒教では昊天上帝(正式には「昊天金闕無上至尊自然妙有彌羅至真玉皇上帝」)とも呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%9A%87%E5%A4%A7%E5%B8%9D
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とあります。

かっての軍事施設が現代では道教や仏教の寺院でなく民俗信仰の寺院になっているのですね。
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そうそう。 (~弥勒~)
2012-05-07 18:40:51
壁画は民俗信仰の神様の絵かもしれませんね。

冕冠(べんかん・すだれがかかっている冠)を付けているのが天帝で、三清を補佐する「四御・しぎょ」、その一人が「こう天上帝」ですから残りの三人かもしれません。

実に興味があります。
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弥勒さんへ (yichintang)
2012-05-07 19:46:14
なるほどー。
いろいろと詳しい解説、ありがとうございましたー。
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